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飛鳥の執念⑯ ~大津と大伯(前編)

リクエストがありましたので大津と大伯について書いてみたいと思います。

大津皇子は、大海人皇子(のちの天武天皇)を父とし、
大田皇女を母として663年に誕生しました。
この大田皇女は天智天皇の娘で、鵜野皇女(のちの持統天皇)の実の姉にあたります。
つまり、大津は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の孫でもあったわけで、
血筋の良さは天武帝の皇子達の中でもかなり上位でした。
なおかつ、当時の文書に、
容姿端麗、筋骨隆々、学問優秀、性格寛大と伝わっていますし、
和歌についてはかなりハイセンスだったので、
大津はかなりイケてる青年だったのでしょう。

しかし、母・大田は大津が4歳の時に亡くなってしまいます。
幼い彼と、2歳年上の姉・大伯皇女を引き取って育てた継母が、
母の妹である鵜野皇女(のちの持統天皇)です。
この鵜野は、母・大田とは父も母も同一でしたが、
同じ大海人皇子に嫁いでいたというところが大津にとって悲劇の始まり。

鵜野には、すでに、大津より1年年上の息子・草壁皇子がおり、
草壁は母・鵜野から溺愛されていました。
大津と草壁は、両者は、天武帝の子で天智帝の孫というスペックはまるで互角でしたが、
鵜野は、実子である草壁だけを可愛がり、
姉の子である大津には冷たくあたる、
小公女セーラのような環境でした。


天武帝崩御直後の混乱期、大津は亡くなります。
鵜野が、皇太子である我が子・草壁の地位を大津に脅かされることを怖れ、
大津に無実の罪を被せ死を命じたという定説です。

生前の天武帝の願いはただ一つでした。
自身の次の治世について、
長子・草壁が天皇に即位し、彼を頂点として、高市や大津らの諸皇子が補佐するという、
いわば中央集権体制の構築でした。
それがため、わざわざ吉野の地で『吉野盟約』を交わしたのです。
そして、これは私の予想なのですが、
高市や大津は、そのことはそれほどイヤではなく、
それが自らの役目だと腑に落としていたと思うのです。

大津が21歳になった時、天武帝は大津に国政への参画を許可します。
先述の通り、草壁を頂点とし、大津らがそれを補佐する体制こそ、
天武帝が望んだ形でしたから、むしろ草壁のために、
才気煥発な大津を育てようという意図での参画許可だったことでしょう。
この時点で草壁に嫡男が生まれていて、
嫡系相承が確定していたこともあったでしょうが、
天武帝には、大津が草壁を脅かすのではないかという発想は薄かったようです。

しかし、皮肉なことに夫の判断による大津参政が、
鵜野皇后の不安を掻き立てることになったのは間違いないでしょう。

686年9月、父・天武帝が崩御。
そのわずか3週間後、大津の謀反が発覚します。
即座に逮捕された大津は、鵜野から「死」を命じられます。 
享年24歳。

大津が死を命じられた時、涙を流して詠んだというのが、
「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
です。
磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限り、
私は雲の彼方に去っていくのだろうか…という、
悲哀に満ちた歌です。
涙を流したのは、志なかばにこの世を去らねばならないという無念さゆえでしょうが、
甘ったれな私は、その志とは、謀反に失敗したことではなく、
父・天武帝の遺志に応えることができなかったことだったのではないかと、
彼の人生を不憫に感じるのです。

大津皇子。
言ってみれば、
鵜野皇女の「オンナの嫉妬」に狂わされた人生でした。

次回は姉の大伯皇女のほうを見てみましょう。

[SE;KICHI]
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