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今、考えるべきこと①

大学って何でも学ぼうとすれば、どれだけでも学べる良い環境かと思います。
勉学そのものが自由ですし、仕事のように拘束されない。
それこそ一日中勉強してもバイトに明け暮れても、
レポート締め切りと試験の後の単位の取得をこなしていけば、もう自由でしょう。
現役の学生生活を経ていませんので、あまり適当なことは言えないのですが、
一応学生でもありますので、
時間の使い方は別にして、やることは変わらないと思います。
私は様々な授業が受けれる総合大学にいますので、
好きな歴史関連は履修科目として多く占めています。
それでもそれだけでは卒業はできません。

総合大学としての強みでもある様々な分野の科目、
特にその大学が大切にしているカラーのような授業が、選択必修で用意されています。

昨年の秋、選択必修で選び受けた科目で「平和学」という学問があります。
この学問は、一般に紛争などの争いの背景や経済、
地政学などから回避する方法や平和維持などを科学的に研究する分野のことです。
正式には、アカデミックな世界では学問の分野では通っておらず、
平和研究に近いイメージでしょう。
その目的は、紛争及び戦争を回避防止すること。
学問的で客観的な視点で捉えず、”争いの否定有りき”で有るため、
先述のように学問ではないとの批判や、
人間の動物的な本能から、根絶することは不可避なため、
研究そのものが無駄ということまで言われてきたそうです。
いかにも意見が偏りそうで、
しかし一つだけではない科目といったイメージでしょうか。
私が好きな歴史のように、一つの答えだけ覚えれば良いといったものではないので、
考え論じることがメインです。
(他にも哲学、人間学、異文化コミュニケーション等といった授業もそうです。かと言って、数学は大変苦手ですが。笑)

我が大学では「平和学入門」「平和学」の2科目が取れることになっており、
私は両方共受けてみることにしました。
(※様々な角度から平和について研究が進められている為、ここではかなり限定的な私の意見を書いていきます。)

そもそもですが、皆さん、
平和とはどのような状態を考えますでしょうか?
国と国の間で交易や交流が行われており、戦争なんかになっておらず、
お偉いさん同士が仲良く手を繋いでカメラの前で笑っている、
テレビの奥の光景といったところでしょうか。
私もこの授業を受けるまでは、そんなレベルでしか考えたことがありませんでした。
平和学では国連のことが取り上げられるのですが、その中でも重要なワードとして、
「消極的平和」「積極的平和」という言葉があります。
「消極的平和」とは、単に戦争が無い状態を意味するもので、
先述の私のイメージに近い状態です。
「積極的平和」とは、戦争が無い状態に加え、
個人間レベルにおける肉体的暴力、精神的暴力、性的暴力などの”直接的暴力”と、
戦争の原因となる”構造的暴力”が無い状態であることを意味します。

”構造的暴力”の概念は広く、
経営者と労働者の関係や貧困、飢餓、抑圧、差別といったものが、
間接的や潜在的にふりかかってくるものであるとされ、
極端なことを言えば、暴力の主体者がいないような状態ですので、
不平等かつ貧困に苦しむ国々に住む人たちが、
裕福な国に住む人々らに自国の資源を、
貿易によって吸い上げられているような状況でしょうか。
戦争するための軍隊を持つことそれ自体が暴力ですが、
例えば徴兵制そのものが強制力のある”構造的暴力“であり、
警察官の特権であるそれも、人が人を死刑に処する法律そのものも、
”構造的暴力”といえるのでしょう。
(もちろんいじめや各ハラスメント等もこれらに属すものです。)
(一方で、軍や警察といった暴力装置が無くても、全く大丈夫かと言われると、それはおそらく否と言えます。現に必要暴力として日本にも警察、自衛隊が存在しているのも事実です。秩序を守る為に必要な、矛盾があるということです。)


この理論はノルウェーのガルトゥング博士が唱えた理論で、
現在は、平和学の当初の研究対象であった戦争や紛争のみならず、
貧困飢餓、開発、ジェンダー、コミュニティ、
はてはLGBTなどにまでその対象を広げてきました。
実際、1960年代のインドからの国連に対する報告では、
「戦争が無くても平和ではない」というものでした。
差別や弾圧、極度の貧困など、
一国の中でも人間全体の発展の可能性を奪う構造的な暴力の形ができていました。
今も北半球と南半球に代表される地球規模での、
”構造的暴力”で溢れていると言えます。
現在の「平和学」とは、こういったあらゆる暴力を多角的に捉え研究し、
その解決を図っていくのが課題であり目的なのです。

国際連合旗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E3%81%AE%E6%97%97

1つ、考えてみます。
今、日本は周辺国との関係性が非常に冷め切っていると言われているほど、
決して平和な状態とは言えない状態です。
隣国は1つだけではありませんが、領土問題や核ミサイルなど、
日本は平和なようでいて、実際は「平和学」的に見ても、
十分考察に足り得る危険な問題を抱えた状態であることは間違いないでしょう。

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ。」とは、
4世紀後半のローマの軍事評論家ヴェケティウスの、
『軍制論』に由来する、格言とされています。
これは好戦論ではなく、簡単に言えば、
平和の為に戦争の準備をしておけば、戦争の回避をすることができるという、
現代の解釈で言う抑止論でしょう。
(抑止論では核兵器について展開できますが、それは次回にしたいと思います。)

しかし、自らの安全のために、戦争回避のために、自衛の備えを行うことによって、
逆に自らの安全を損ねてしまう場合があります。
国際政治の世界でも度々問題になる、「安全保障のジレンマ」と言われるもので、
分かりやすい例で言えば、冷戦時代の米ソの関係でしょう。
ここでは核については深掘りしませんが、
明確にぶつかってもいないのに、互いに抑止のために開発競争を繰り返した結果、
相互不信と不安が生まれ、やがてそれは膨れ上がりました。
そして相手国のみならず、
自国、ひいては人類全体を破滅に追いやるだけに十分な量の、
兵器を生み出してしまったのです。
これは悪循環の例であり、
まさにヴェゲティウスの格言通りの行動は、平和を損ねてしまう場合があるのです。

現に日本の周辺だけでも、北朝鮮の核問題、中国の南シナ海における軍事行動など、
彼らが言う自国防衛のためが、他国に脅威を与え、
様々な軍事的緊張を引き起こしています。
かくいう日本の防衛予算も、
2020年度予算案は5兆3千億円超と例年過去最高となってきています。
まさに「安全保障のジレンマ」を引き起こしていると言えるのではないでしょうか。

こういったものに対して「平和学」をはじめとする分野から、
平和のための準備を重要としていることから、
それを達成するための”手段”も様々検討されてきました。
具体的には、先進国が主導の国連の存在やPKO等各種支援の動きです。

第二次大戦後の国連誕生において、国際憲章が制定され、
人権が国家主権より大切に扱われるようになり、
各国国家間の戦争が減り、新興国家が独立する一方、
民族間や宗教思想の対立である国内紛争または国際化した紛争が多くなりました。

国連は平和創造や平和維持の為に、平和とは真逆のように思える国連軍を組織し、
激しい人権侵害や危機にある国家において、
主権国家が自国民を守れないまたは守らない場合に、
強制的に武力を用いて介入していきました。
人道的介入といわれる、軍事介入です。
(有名な例で言えば、コソボ紛争におけるセルビア空爆などです。)

それは、1993年にもアフリカのソマリアでも行われました。
そのソマリア内戦(モガディシュの戦闘)の実話をモデルにした、
「ブラック・ホークダウン」という映画を先日鑑賞する機会がありました。

『ブラックホーク・ダウン』
https://movies.yahoo.co.jp/movie/236636/

映画は戦闘シーンが多く、その他のことは詳しくは触れられていませんでしたが、
国連安保理のPKO活動によって国連軍(米兵、英兵等)が派遣され、
平和建設と破綻国家となった政府再建のため、
敵対する敵将幹部らの拘束を迅速に遂行する作戦となっていました。
ですが、当初予想はしていなかった、激しい応戦を伴った被害の大きい戦闘となって、
結果的に全軍を撤退するきっかけとなりました。

ソマリアは、まさに人道的に治安も衛生的にも悲惨な状況のなかにある中で、
国連による軍事的介入を受けたんです。
当然彼らの反発は強くなりますし、
登場するソマリア人の人物や民兵らの台詞も心に突き刺さるものがありました。
関係の無い一般市民も多く被害にあっており、
アメリカ視点とはいえ、平和的な手段を選ぶ、
平和構築を行うことの重要性を考えさせられるものでした。
国連の決議と失敗とはいえ、これからも起きてしまうだろう事態の教訓として、
より平和的に思考と行動に反映するべきではないでしょうか。

1994年のルワンダ内戦では、逆に不介入を行ったために、
多くの人が虐殺されてしまう悲劇が起きています。
失敗を重ねて、現在は伝統的PKOに回帰する方針が示されています。
このように、国連だけにおいても、平和における様々なジレンマを抱えているのです。

私の住む北陸地方でも、かつて北朝鮮による拉致被害者が多くいたことからなのか、
かの国に対して、目には目を歯には歯をの理屈で、
早く指導者を殺して報復してしまえばいいなどと漏らす人もいます。
ですが、
憎しみに対する報復は、結局憎しみを生んできたのも現実です。
安易に軍事や暴力で片づけてしまえると考えることを、
平和的思考に転換していく為には、
「平和学」の視点からも、平和的に話し合うことからであると思います。
仲の良くない隣の住人とのトラブルも、対話中心で模索していく。
幼い頃の子供の喧嘩でさえ、よく考えて話し合えていれば、
お互い傷つけずに解決することもあったのかもしれません。
案外、そのヒントは近くにある気がします。
普段からコミュニケーションを取ること等、
近しい人から、平和構築について学ぶ何かがあると思うのです。

話しは大きく変わりますが、先日、あの森喜朗さんが辞任しましたね。
SE;KICHI さんも取り上げておられましたが、
問題の発言、女性蔑視だ、切り取った部分しか報道していないとか、
もうめちゃくちゃ報道されていましたよね。
(安倍晋三さん、森喜朗さん、今度は誰なんでしょうか?笑)
すみません、脱線しました。

女性蔑視そのものはダメとして、男女が全く同じことはできないと思います。
男しかできないこと、女しかできないこと、あるはずです。
更に言えば、男性は力強いイメージ、
女性は優しく包み込むイメージがあったりするものですが、
全員がそうではない。
肉体的構造を抜いてみても、一人一人違ったりするのですから、
個人レベルではよりややこしいです。
でも、それぞれ得意不得意があって、
ずっと昔からそういったものをお互いに補いながら、
人間は生きてきたのも事実だと思います。
そこに”構造的暴力”があると言われれば、おそらく間違いないかもしれませんが。
(個人論ですが、男性は奮い立たせる力があり、女性は男性にはない優しい癒す力がある。幼いころからそう思っていたりします。)
男性が狩りに出て、女性が家で家族を守り食事を作る、
縄文時代の関係性は極端ですが、
きっと持ってる能力が違ったのだから、
こうなったのだろうと思っています。


昔、役職をお持ちの年上のお客様と話すのに、気を遣って上手く話せないと、
SE;KICHI さんに相談したことがあります。
その時のSE;KICHI さんのアドバイスが未だ忘れられないのですが、
「天皇も、総理も、女優も、社長も、皆、役目があるんだよ。
それぞれが必要な役割があって存在しているように、
あなた自身にも役割がある。
そのお客さんも役割があってそこにいるんだから、
変に気を遣う必要は無い。
偉いか偉くないじゃない。
一人の人間であり、おじさんなんだから。」
と言われたのを覚えています。

これは私の中で今も心している指針の一つですが、
どこか、「平和学」の視点で考えれる点だと思います。

森さんが意図して発言したかどうかは別として、
女性蔑視の発言そのものは「平和学」から見ても、
”構造的暴力”の片鱗が出ているような気がする・・・。

あらゆる暴力をなくしていく学問として、
こういった問題からも、「平和学」の研究ができると考えます。

[K.K]
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No title

???
会社に行きながら大学にも通ってるってことですか? 立派ですね。
お話の内容は難しすぎて自分には分からないですが、平和学って実用的なのですか?
自分は、抑止力としての武装のほうが、平和憲法なんかよりよほど有益だと感じています。
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kkseishin

Author:kkseishin
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