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恒性皇子の痕跡

先日、弊社の K.K さんと、彼の運転で出かけたのですが、
途中で寄り道するように連れていかれたのが、恒性皇子御墓

恒性皇子御墓遠景

この恒性皇子御墓は、富山県内で唯一の宮内庁治定陵墓なので、
富山県民なら、聞いたことくらいはあるだろう(←本当か。)と思っているのですが、
仕事中に同僚の運転で連れてこられるとは・・・・・・。

K.K さんは、墓にしろ城にしろ、それを造営した人の心情に興味があるみたいで、
たとえば、恒性皇子御墓の場合であれば、被葬者である恒性皇子というよりは、
遺された人々がどんな気持ちで墓を作ったのか、
そういう、人々の心情のほうに思いを馳せるのだと言います。
私はといえば、遺された人々の心情にも少しは関心はあるのですが、
基本的に、以前紹介したとおり被葬者に感情移入するタイプなので、、
恒性皇子御墓の場合、私は700年近くここで眠る恒性皇子になりきって、
周囲の情景の変化に栄枯盛衰というか、
諸行無常を感じるのです。

恒性皇子は、第96代後醍醐天皇の皇子です。
当時は北条氏が権勢をふるっていた時代で、
父の後醍醐天皇は、天皇という立場ではありましたが、
何から何まで北条氏の支配を受けなければいけない状況でした。
天皇家の皇位継承すら思うようにできないことに憤った彼は、
政治を朝廷に取り戻そうと考えた末、幕府に反旗を翻したのです。(元弘の変)
しかし、圧倒的な武力を持つ幕府軍に勝てるはずもなく、
あっさり捕らえられた後醍醐天皇は隠岐の島に流されました。
そのころ、息子である恒性皇子は、僧として修行をしていたようで、
この騒ぎにはいっこうに関係はなかったようなのですが、
連座というか、“父が憎けりゃ子も憎い”ということで、還俗させられ、
越中国射水郡二塚(現在の富山県高岡市二塚)に流されました。

この親子、そのままおとなしくしていれば何事も起こらなかったものを、
なんと、隠岐の島に流された後醍醐天皇は、1年後に脱出し、
鳥取県の船上山で倒幕の兵を挙げます。
これを追討するために幕府から派遣されたのが、みなさんご存知の足利尊氏ですが、
この足利尊氏は、どういうわけか寝返って後醍醐天皇に味方し、
幕府側の拠点である六波羅探題を攻め始めます。
それに危機感を抱いた執権・北条高時は、
北陸にいる恒性皇子が挙兵して足利尊氏に合流しないように、
越中守護・名越時有に恒性皇子の殺害を命じます。
こうして、恒性皇子は28年の生涯を閉じたわけです。

いや、その時代にはありがちなことではあるのですが、
なんとなく、つまらない人生のような気がします。


さて、越中国射水郡二塚に流刑になった恒性皇子は、
悪皇子宮という屋敷を立ててもらって、そこに幽閉されました。
皇子の死後、村人らが皇子を偲び、
悪皇子宮のあった場所に神社を建てたということで、
それが、現在も気多社として残っています。
ちなみに、“悪皇子”ってなんというネーミングか…と思うかもしれませんが、
“悪皇子”というのは「悪い皇子」という意味ではなく、
当時の言葉で「特別な力を持った皇子」という意味です。
このネーミングや、死後に神社を建立してもらえたことを考え併せると、
この恒性皇子、中央から流刑でやってきた罪人でありながら、
流刑地の地元では、尊敬され、慕われていたのではないかと想像できます。

気多社 悪皇子宮(気多社)

幽閉とはいうものの、別に牢屋に閉じ込められているわけではないので、
恒性皇子は称名寺というお寺で写経などの静かな日を送っていたそうです。
することがないとはいえ、
還俗させられたのに、なお、写経に励んでいたということですから、
本心は、やはり仏の道に進みたいという意志があったのでしょう。
この称名寺は、現在、称名山浄誓寺として残っており、
山門前に、恒性皇子と同時に殺害された侍従3人(日野直道、勧修寺家重、近江宗康)を慰霊する、
「扈従三朝臣慰霊碑(こしょうさんあそんいれいひ)」というのが建っています。
もちろん、これも恒性皇子が建てたものではなく、
地域住民の手によるものでしょうから、
やはり、慕われていたことが伺われます。

三朝臣慰霊碑

他には、「皇子三昧(みこざんまい)」という碑が、
恒性皇子御墓の2キロちょっと南にあります。
古く、“三昧”という言葉には火葬場という意味がありますが、
この場所は、さきほどの悪王子宮(気多社)からも離れていて、
集落のはずれ、田園に囲まれた川に近いところで、
一般家庭の墓が15基ほど並んでいる墓地の一角です。
おそらく、ここがこの地域の火葬場所だったのでしょうが、
一国の皇子である人物が庶民のように火葬されたということに、
衝撃を禁じえません。
火葬されるほうも火葬するほうも、どんな気持ちだったのでしょうか。
ただ、火葬した場所とは別に陵墓が用意された点からは、
被葬者への一定の敬意が感じられます。

皇子三昧

ちなみに、さきほど、恒性皇子と同時に殺害された3人の侍従について触れましたが、
死後、その首を晒された、恒性皇子御墓の近くの太刀城跡にも、
「三ケ首」という碑が建てられています。

三ケ首

どうでしょうか。
被葬者に感情移入するタイプといいながら、
K.K さんばりに、本人死後に遺されたものばかり紹介してしまいましたが、
考えてみたら、本人の生前の人望が、そのような建造物につながるわけで、
被葬者の人柄と、祀る側の心情は不離一体なのかもしれません。

さて、、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇の挙兵・倒幕は成功します。
恒性皇子が殺害された一週間後に鎌倉幕府は滅亡し、
殺害した越中守護・名越氏の一族も滅びました。
そして、死んだ恒性皇子の弟にあたる護良親王が、新たに征夷大将軍となりました。
歴史に if はないのですが、
恒性皇子があと一週間生きていたら・・・。
征夷大将軍にはならなかったとしても、流刑になったこの地で、
村人に慕われ、愛されながら一生を過ごせたいのはないかと思い、
私は切ない、寂しい気持ちになるのです。

恒性皇子御墓

[SE;KICHI]
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