どこへいざなおうというのか。
突然ですが、芥川龍之介といえば、何でしょうか。
私は、芥川龍之介といえば『蜘蛛の糸』のような気がするのですが、
国語の教科書で見かけた覚えがあるのは『羅生門』だったような。
私は、とにかく、『羅生門』の描写は気味が悪く、
『蜘蛛の糸』だったらよかったのにと思った記憶があります。
気になったので調べてみたところ、
『蜘蛛の糸』が国語の教科書に採用されていたのは戦前までで、
戦後は彼のデビュー作である『羅生門』が収録されているのだそうです。
『蜘蛛の糸』といえば、自分だけが助かろうとしたカンダタが地獄に落ちる話ですよね。
他方の『羅生門』は、下人が、自分が生きるために老婆を襲う話です。
つまり、自分だけが助かろうとするエゴイズムを否定しているのが『蜘蛛の糸』であり、
他者を踏み台にしてでも生き延びようとする、
強烈なエゴイズムを容認しているのが『羅生門』です。
日本文学で言えば、森鴎外の場合も、
戦前は『山椒大夫』が数多く教科書採用されていたようですが、
戦後は圧倒的に『舞姫』が掲載されているようです。
『山椒大夫』は言うまでもなく、
安寿が自分の命と引き換えに弟の厨子王を逃し、
母親との再会を果たさせた涙ぐましい話ですが、
一方の『舞姫』は、ドイツ留学した主人公が、
ドイツ人の娘を孕ませたうえに捨て、発狂させるという、
ちょっと、とんでもない話です。
しかし、そもそも、強奪を必要悪とする考え方や、
外国の娘を妊娠させて捨てるような話を、
教材として子どもに読ませる感覚が分かりません。
戦前、教育の基本とされてきた教育勅語では、
大義に基づいて勇気を奮い、
一心を捧げて皇室国家のために尽くせ…と言ってきました。
それが、戦後に制定された教育基本法では、
「個人の価値の尊重」が教育の目標として掲げられました。
そういえば、先々月、国立青少年教育振興機構から発表された調査によると、
全国の高校生で、
「仕事よりも、趣味や自由な時間を大切にしたい」という問いに対して、
「とてもそう思う」とか「まあそう思う」と答えた人の割合は、
2012年から2022年の10年間で、
58%から85%に1.5倍ほどに上がっているそうです。
ちなみに、「とてもそう思う」に限れば、
そう答えた人の割合は2倍以上になったとのこと。
「個人の価値の尊重」といえば聞こえはいいですが、
インターネットの普及やAI の発展に伴い、
自分の殻に閉じこもって暮らしたいということなのかもしれません。
実際、誰とも口を利かずに一日を終えることも可能な社会になりましたしね。
個人の尊重が大切だということに異論はありません。
しかし、個人の尊重は、個人の自由や個性を認めるものではあるけれど、
「わがままのすすめ」ではないし、
山中に隠遁する仙人や天狗を目指す道でもないはずです。
人間、多くの人の役に立つために自我を抑えることが大事
だと思うんです。
学校は、社会の善悪なども含め、そういうことを教える場でもあると思いますが、
そこで扱われる教材が、
自分を維持するためなら強奪すら致し方ないとか、
外国の娘を妊娠させて捨てることもやむなしというような、
自我を押し通すようなメッセージを含んでいることに、
果たして、どのような意図があるのでしょうか。
多くの人のために生きる使命感を持った人を育てるという大義をかなぐり捨て、
生き馬の目を抜くこの社会で、多くの人を出し抜いて自分の居場所を守れ!と、
そういうことを教えたいのでしょうか。
それも大切なことではあるのかもしれませんが、
こと、学校という、人格の形成に深く影響しそうな場では、
常に、取り上げる題材は吟味すべきだと思うのです。
いや、だって、「舞姫」なんて、何のために読ませるんでしょうか。
赴任先での都合のいい女の騙し方でも学ばせる気なのでしょうか。
これを読ませて、
青少年をどこに連れて行こうというのでしょうか。
[SE;KICHI]
私は、芥川龍之介といえば『蜘蛛の糸』のような気がするのですが、
国語の教科書で見かけた覚えがあるのは『羅生門』だったような。
私は、とにかく、『羅生門』の描写は気味が悪く、
『蜘蛛の糸』だったらよかったのにと思った記憶があります。
気になったので調べてみたところ、
『蜘蛛の糸』が国語の教科書に採用されていたのは戦前までで、
戦後は彼のデビュー作である『羅生門』が収録されているのだそうです。
『蜘蛛の糸』といえば、自分だけが助かろうとしたカンダタが地獄に落ちる話ですよね。
他方の『羅生門』は、下人が、自分が生きるために老婆を襲う話です。
つまり、自分だけが助かろうとするエゴイズムを否定しているのが『蜘蛛の糸』であり、
他者を踏み台にしてでも生き延びようとする、
強烈なエゴイズムを容認しているのが『羅生門』です。
日本文学で言えば、森鴎外の場合も、
戦前は『山椒大夫』が数多く教科書採用されていたようですが、
戦後は圧倒的に『舞姫』が掲載されているようです。
『山椒大夫』は言うまでもなく、
安寿が自分の命と引き換えに弟の厨子王を逃し、
母親との再会を果たさせた涙ぐましい話ですが、
一方の『舞姫』は、ドイツ留学した主人公が、
ドイツ人の娘を孕ませたうえに捨て、発狂させるという、
ちょっと、とんでもない話です。
しかし、そもそも、強奪を必要悪とする考え方や、
外国の娘を妊娠させて捨てるような話を、
教材として子どもに読ませる感覚が分かりません。
戦前、教育の基本とされてきた教育勅語では、
大義に基づいて勇気を奮い、
一心を捧げて皇室国家のために尽くせ…と言ってきました。
それが、戦後に制定された教育基本法では、
「個人の価値の尊重」が教育の目標として掲げられました。
そういえば、先々月、国立青少年教育振興機構から発表された調査によると、
全国の高校生で、
「仕事よりも、趣味や自由な時間を大切にしたい」という問いに対して、
「とてもそう思う」とか「まあそう思う」と答えた人の割合は、
2012年から2022年の10年間で、
58%から85%に1.5倍ほどに上がっているそうです。
ちなみに、「とてもそう思う」に限れば、
そう答えた人の割合は2倍以上になったとのこと。
「個人の価値の尊重」といえば聞こえはいいですが、
インターネットの普及やAI の発展に伴い、
自分の殻に閉じこもって暮らしたいということなのかもしれません。
実際、誰とも口を利かずに一日を終えることも可能な社会になりましたしね。
個人の尊重が大切だということに異論はありません。
しかし、個人の尊重は、個人の自由や個性を認めるものではあるけれど、
「わがままのすすめ」ではないし、
山中に隠遁する仙人や天狗を目指す道でもないはずです。
人間、多くの人の役に立つために自我を抑えることが大事
だと思うんです。
学校は、社会の善悪なども含め、そういうことを教える場でもあると思いますが、
そこで扱われる教材が、
自分を維持するためなら強奪すら致し方ないとか、
外国の娘を妊娠させて捨てることもやむなしというような、
自我を押し通すようなメッセージを含んでいることに、
果たして、どのような意図があるのでしょうか。
多くの人のために生きる使命感を持った人を育てるという大義をかなぐり捨て、
生き馬の目を抜くこの社会で、多くの人を出し抜いて自分の居場所を守れ!と、
そういうことを教えたいのでしょうか。
それも大切なことではあるのかもしれませんが、
こと、学校という、人格の形成に深く影響しそうな場では、
常に、取り上げる題材は吟味すべきだと思うのです。
いや、だって、「舞姫」なんて、何のために読ませるんでしょうか。
赴任先での都合のいい女の騙し方でも学ばせる気なのでしょうか。
これを読ませて、
青少年をどこに連れて行こうというのでしょうか。
[SE;KICHI]
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