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Put yourself in someone’s shoes.

『親を亡くした子供を孤児という。
伴侶を亡くした夫を寡夫、妻を寡婦という。
しかし、子供を亡くした親を呼ぶ言葉はない。
その痛みを言葉で表すことはできないからだ。』
という、
やや格言めいた言葉があります。
私が知ったのは、アメリカ同時多発テロの際の、
当時のニューヨーク市長による追悼演説でしたが、
それ以前から人口に膾炙してきた言葉なのかどうかは不明ながら、
いい言葉だなと思ったものです。

冒頭の言葉。
子供を亡くした親を指す言葉が用意されていないということは、
それはずいぶんとイレギュラーな事態なのかも知れないと思うのです。
そうであるなら、それを経験したことのない者が理解・共感することは不可能で、
「うん、うん、分かるよ」ということにはならないのだろうと思うのです。

少し前、熊本にある『赤ちゃんポスト』についての議論を目にしました。
ポストが15年の実績を持つことを指した好意的な意見と、
受け皿を作ったことで不用意に妊娠するバカモノが増えたのではないかという疑念、
その両者との相剋です。

私は、まぁ、ポストが熊本ではなく新宿あたりに設置されていたら、
果たしてどうなっていたのだろうと考えたりもしますが、
それでも、若い女性が百貨店のトイレで自力で出産し、
そのまま赤ん坊を捨てて去るようなことが起こるくらいなら、
赤ちゃんポストは有意義だと思っています。

こういう、ポストを利用する方はどういう気持ちなのでしょうか。
私は、それを経験したことがないので、
理解・共感することはできません
が、
きっと、私たちには分からない、特別な感覚があることでしょう。

しかし、共感が難しいことを承知で、そこを少し考えてみます。
もちろん、2歳児を自宅に残して泊まりでテーマパークに出かけ、
残された2歳児は脱水で亡くなったとか、
そういうのは論外というか、言語道断です。
そういう者に引き合いに、「それ見たことか」と批判することは簡単です。

しかし、多くの、ポストの利用者というのは、
死ぬかもしれない環境に放置しているのではなく、
ポストの裏に控えている善意に頼っているのであり、
祈るような気持ちなのではないかしら、とも思うのです。

つまり、自らの快楽のために子供が邪魔になって……
というポスト利用者も、いることはいるでしょうが、
多くは、致し方ない事情があって、断腸の思いで、
「いい人に拾われて幸せになってね」と、
祈るような気持ちで利用しているのだと思うのです。

私は、基本的にいかなる理由があろうとも、
中絶はよくないという価値観を持っています。


私は、実家が天国にあって、
そこから、社会勉強のためにこの世に派遣されている…と考えています。
生まれる前には、自分で両親を選び、
人生の途上で起こることも大まかに自分で設定して、
その計画書に神様から承認印をもらって、
それで生まれてきていると思っているのです。
つまり、異論はあるかもしれませんが、
自分の環境や障害の有無など、
ほとんどは自分で決めてきている
と思っています。

そうやって生まれる準備を進めてきた私たちにとって、
中絶されて生まれることができないなんて、
これは大変な事態です。
「こういう人生で、こういうことを学ぼう」と決めていたのに、
生まれることができなければ台無しです。

というわけで、私は、基本的に中絶はよくないと思っていて、
仮に、なんらかの理由で自力で育てることが困難であったとしても、
そういう人のために赤ちゃんポストが用意され、
その後の里親制度も整備されているのだから、
そういうのを利用してでも、子供が人生を全うできるよう、
問題点ばかりを見るのではなく、
肯定的に見てほしい
と思うのです。

40年前、マザー・テレサが来日した際に、
「日本は美しい国だが、中絶が多く、心の貧しい国だ」と言ったそうです。
反論のしようもありません。
少しずつ豊かになりたいものですね。

[SE;KICHI]
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どこが?

富山県西部に位置する高岡市は、県庁所在地の富山県とは文化が違います。
お隣石川県金沢市に近いとか、地理的要因以外にも歴史的な背景も古いので、
その由縁は検索すれば腐るほど出てきます。
高岡ご出身である弊社のOkeiさんも、
初めてお話しした時は、県内なのに言葉の方言やイントネーションが違ったので、
驚きました。
狭い県とは思っていましたが、意外にも違うものですね。

家庭の料理も、また何故か中華料理店が多いなど、
食文化もところどころ違ったりしています。
そんな高岡にも、マイナーですが変わったグルメがありました。

これです。
あら美味しそう~!と、思って頂ければ撮影した私もありがたいのですが、
よく見てみてください。
ただの天ぷらうどんではないのです。

今庄のチャンポン

よくよく見ると、これ、うどんとそばが半々ずつ入った、
ハーフうどん+ハーフそば。
変わってるな~と思いますが、その名前がまた変わっていまして・・・。

これ、「チャンポン」といいます。
高岡駅の近くにある『今庄』という立ち食いそば屋さんで頂けます。

正直、私も初めて見た時は、あの『長崎ちゃんぽん』を連想しましたので、
どこが?といった感じでした。
また、滋賀県のチェーン店、
でご当地グルメの『近江ちゃんぽん』というラーメンもあります。
どちらも共通するのはラーメンですよね、がっつり食べれます。

長崎ちゃんぽん近江ちゃんぽん

そう、チャンポンというと、“野菜がたっぷり入ったラーメン”というイメージでしたので、
長年この県で生きてきましたが、何かしっくりこない感覚ではありました。
しかし、この店がNHKの『サラメシ』で紹介されていたのをたまたま見ていたので、
せっかく近くに来たから寄ってみようと思い、店に入りました。
私、そばは苦手ですが、
駅にある立ち食いそば屋の“天ぷらうどん”が好きですので、
多少我慢してでもいけるかと思って頼みました。
正直、想像通りの”普通“に美味しい出汁の効いた味でした。
強いてリピートするほどでもない。
しかし、富山市にはこんな変わったものは無いので、
珍しいものとして記憶に残りました。

お品書き・今庄

しばらく経ったある時、金沢市の帰りに、
県境の小矢部市にある石動駅近くに、私はいました。
なぜか立ち食いそばが食べたくなり、調べたらあったものですから、寄ってみることに。
店の名前は『麺類食堂』・・・どシンプルでいいですね。笑

お品書き・石動

それはさておき、入ってみると、ここにも変な名前が!
ん?「源平ミックスぅ??」…。
メニューには“うどん・そば”とも。
まさか!とひらめきつつ、あえてこれを注文し、
カウンターのおばちゃんに聞いてみることに。
「あ~、これはね、うどんとそばが半々ずつ入っているものだよ。
ほら、小矢部は倶利伽羅峠の戦いの有った場所だしね!」と。
なるほどやっぱり!と思いました。
以前高岡で食べたものと同じか。
ここら県西部では馴染んでいる食文化かもしれない。
(倶利伽羅峠の戦いは中学の歴史の授業で勉強されているはずですので割愛ですが、紅白、東西、陰陽みたいに、うどんとそばも源平として表現しているのでした)
フッ、一緒だろうに…でも「チャンポン」ではないのだな。
そう考えているうちに、出てきました。

麺屋食堂のチャンポン

おお!見紛うこと無き「チャンポン」!!笑
しかしデカい!
1杯分のハーフではなく、“それぞれ1玉”がフルサイズで入っているので、
単純に2玉の大盛です(笑)
半々ずつ入っているって、どこが!?
源平と名付けただけに、合戦の如き力と力のぶつかり合いでしょうか。
丼ぶりの中で、今再び倶利伽羅峠の戦が起きていました。
無論、私も胃袋との戦いでした。

味はというと…、うん、想像通りの“普通の安定したおいしさ”でした。

ちなみにですが、“ちゃんぽん”という言葉は上記の『長崎ちゃんぽん』など、
「麺類を肉野菜で炒めた料理」という意味が有りますが、
それ以外にも、
「かわりばんこ、また2種類以上のものを併用する」という意味があるそうです。
おそらく、この高岡の「チャンポン」などは、
後者から名づけられたのではないかと推察します。
うどんとそばが“ちゃんぽん”しながら同時に楽しめる、
欲張りなグルメだったわけです。

新潟県のバスセンターのカレーほど飛びぬけて高名ではありませんが、
ここにも変わり種はありました。
初めて見られた方も「どこが!?」となりそうですが。

[K.K]

呆然とした、あの日。

明らかに自分が悪いのですが、文句を言いたいことがあります。

よく、田舎のターミナル駅に送迎用の駐車場があるでしょう。
たいがい駐車料金の上限は設定されていませんが、
最初の20分か30分くらいが無料になっているので、
送迎用としてはちょうどいい駐車場です。

先日、駅に行く用事があって、その駐車場を利用しました。
その用事は10分もあれば済むようなもので、
20分の無料駐車の時間内に、充分に済ませられます。
というより、私は、予定と予定の間に、10分で済むと思って立ち寄ったので、
無料駐車時間を超えて40分も50分もかかっていては、
次の予定にかかってしまい、ご迷惑をおかけしてしまいます。

案の定、その予定は8分ほどで終わりました。
余裕だなと思って駐車場に戻ったその時、呆然としました。

駐車券が、ない。

いや、私には、身につけていないものを置き忘れるという、
地味に恐ろしい習性があり、
ポーチにでも入れて首から下げたりしていない限り、
手に持っているものも含め、よく紛失するのです。
新幹線の窓枠に置いた自分のスマホを、降りた新幹線の外から何度見送ったことか。
そういう私なので、ちゃんと身につけるように気をつけていたのに、
たかだか10分のことだからと油断したのか、
駐車券が見あたらないのです。

すべてのポケットをまさぐってみましたが、見つかりません。
次に、クルマを降りてから立ち寄った場所を何度か往復して、
落ちていないか探してみましたが、目に入りません。

この時点で、駐車場にクルマを停めてから30分ほどが経過。
無料駐車の時間枠はすでに超えており、
100円だか200円だかの駐車料金がかかり始めていますが、
すでにそれどころではなく、次の予定にも遅れそうな勢いです。

仕方ありません。
精算機についている直通の受話器でコールセンターに電話します。
これがナビダイヤルで、まぁ、繋がらず、
延々と音楽を聴きながら待つこと10分。
やっとオペレーターのお姉さんが出たので、駐車券紛失を伝えました。
そして告げられる驚愕のセリフ。

「申し訳ありません。
そちらの駐車場は、駐車券を紛失された場合、
出庫の際に一律30,000円頂戴することになっております」

さ、30,000円?

先ほど、駐車場に戻ったその時、呆然としましたと書きましたが、あれは嘘です。
本当に呆然としたのは、この金額を聞いた時でしたね。
だって、実は、私は、電話でこの金額を聞くまで、
「ありゃりゃ、次から気をつけてくださいよ」と、
迷惑料的なものが上乗せされても、せいぜい3,000円も払えば許してくれると思っていました。
それが、30,000円とは、呆然とするのも当然です。
そして、私は、前にもやりましたが、
現金をそんなに多く持ち歩かないうえ、キャッシュカードも持ち歩かない主義です。
クレジットカードはありましたが、この駐車場は1,000円札以下の現金以外は非対応だそうで、
つまり、助けを呼ばないと出庫できない、と。
次の予定は完全に飛び、途方に暮れるとはこのことです。

結局、電話を切った私は、落ち穂拾いの人のように腰を曲げ、
さっきより真剣に、目を皿のようにして通った場所を探しまくって、
どうにかこうにか、ウルトラCを使って出庫したのでした。
出庫後、ホッとした勢いで、湧いてきたのは、
自分が悪いのは棚に上げ、30,000円ってどういうことだ!という気持ち。

だってここ、8時から23時は20分100円、夜間は60分100円なんです。
つまり、24時間停めても5,400円。
30,000円って、5日以上停めっぱなしの料金です。
ほ、法外じゃないですか?

もちろん、いつ入庫したから分からないから遡るという考え方自体は理解します。
そのうえで、紛失の罰金が安すぎると、
長時間駐車の人も紛失と申告して安く出ちゃうかもしれないという、
性悪説に基づいた懸念も理解できなくはありません。
でも。
こんなに監視カメラがバンバン設置されてる世の中で、
入庫時刻の証明ができないなんて、詭弁でしょ。
いま来たクルマか、長時間駐車のクルマか、
見分けつかんなんてこと、ないでしょうよ。

そして何より、こんな、上限のない駐車場に5日も停めるはずはないのだから、
金額の設定に悪意を感じるんですよ。
確かに、駐車券を紛失した私が全面的に悪いのですが、
ただ、駐車券をなくすミスをしただけの善良なお客様に、
「アンタ、5日前から停まってた車と見分けつかんから、
証明できないなら5日分払えよ」って、
どんなスタンスで働いてるんだ!と思うんです。
お客様のために働いているとは到底思えないんです。

事実、その一件があってから、いろいろな駐車場を注意深く見ていますが、
「紛失したら、規定額をお支払いいただきます」とは書かれていますが、
その金額が書かれていることはありません。
30,000円を書かないなんて、意図して隠していると疑いたくもなります。

いや、まぁ、駐車券を紛失した私が何と言おうが、説得力はないのですが、
お客様第一を標榜するなら、
ミスったお客様にも親身でありたい
と、
自身に対する戒めとしたのでした。

ウルトラC:目を皿のようにして探していると、財布とかスマホとか、結構いろいろなものが落ちていました。他人のそんなものを拾っている場合ではなかったのですが、財布なんて見つけてしまったら無視するわけにはいきません。落ちていた財布やらスマホを案内所に届け、一方で自分は駐車券がなくて困っていると言ったところ、案内所にはたくさんの駐車券が届いていて、、、という話。

[SE;KICHI]

人のことをなんだと思っているんだ!

人から物をいただいておきながら言うことではないとは百も承知です。
でも、どう考えてもこれは私に対して失礼なのではないかと思い、
この場をお借りします。

先日、ある方からお菓子をいただきました。
お知り合いの方が海外に行かれたとかで、そのお土産の御裾分けらしいです。
2種類いただき、1種類はどうやら不思議な味?触感?らしい飴みたいなもの2個と、
もう1種類は口の中の水分がなくなるらしいパイナップル味のお菓子2個でした。

実はこのお菓子をいただく前に、面倒なことがあったのです。
その面倒なことは、私にとっては面白くない事柄でした。
でも、それをなかったことにしたいということを話されました。

私がどれだけ不満に思ったところでどうにかなるものでもないし、
そうと決まったのなら別にとやかく言うつもりはありません(心の中では納得はできなくても)
ですが、お菓子をもらったタイミングは、
なかったことにしてほしいという話をされる直前で、
そうなると私の想像の中では、
このお菓子をあげるからこれで許してね
の意味合いのものだったのではなかろうかと思っています。
要するに物で釣ろうしている??と。
本当のところはどうか分かりませんが。

さて、そもそも私は物でいい気分になるような人間ではありません。
当然、いただいたらありがたいですし、感謝もしますが、
物をいただいたからといって納得できないことを納得できるタイプではないのです。
感情的な人間であることには間違いないのですが、
それはそれ、これはこれと思っています。
なので、お菓子をいただいた後に話を聞き、
心の中では腑に落ちないながらも分かりましたと答えました。
なかったことには、なっていません。

さあ、ここからが本題です。
いただいたお菓子に罪はありませんから、ありがたくいたただくことにしました。
海外のお菓子だし、物珍しさからまじまじとパッケージをみていると、
ん??? 
EXP2023.06.07と記載があります。
もらったその日は2023.06.14。

そうです。
すでに1週間過ぎています。

え、、、製造年月日じゃないよね?
賞味か消費期限だよね? 
裏返してみてみると有効日期と書かれれています。
やはりそれまでに食べるってことよね???

これってどういうことですか。

普通、人にあげる時は賞味期限、確認しますよね? 
期限が近かったらそのことを伝えるくらい、気にしますよね?? 
それが、1週間前に切れてる・・・。
どう思われます?

私の中では「物で釣ろうとしているのかも」と疑心暗鬼になっているのに、
さらに、そのいただいた物はおいしかったよとか口添えするものでもなく、
それどころか変わった・・・とか水分が取られる・・・とか言われた、
1週間も前に期限が来ているもの。
これはどう考えても私に対して失礼じゃないですか?

いろいろ想像してしまいました。
海外のお土産品はなんとなく長期間の賞味期限のイメージがあるので、
実はずいぶん前にもらっていて特に美味しくもないために残っていたもので、
別に私なんかに気を遣う必要もないし、
「なんだっていいから何かあげれば機嫌が直るだろう、
そうだ、知り合いから結構前にもらって、
残っていたものがあるから、ちょうどいい、それでも渡そう」

っていう経緯ではなかろうか、と。

本当のところは分かりません。
私の想像にすぎません。
もしかしたら海外のものは珍しいだろうからと、
本当に良かれと思ってくださったのかもしれません。
でも、期限が切れたものを「食べられ」と渡されたのは事実です。
賞味期限も気にしてもらえない立場なんだなあと、
私の心もパッサパサになりました。

割と図太いほうなので、捨てるのももったいないと、
怖いもの見たさでパイナップル味のお菓子を一つ食べてみました。
うん、普通のお味。
残り、どうしようかと思案中です。

[okei]

繁殖学の小松教授

性的少数者への理解増進を図る法案が国会に提出されましたが、
LGBTの当事者団体とか女性団体からは、
反対の声が上がっています。
特に女性団体の場合、女性であると自認した男性が、
女性トイレ、女性浴室などに介入してくる点など、
切実な問題が起きると思われるからです。
ジェンダーレストイレも設置されたりはしましたが、
結局は女性からは不満が渦巻きました。

それよりも、私が危うく思うのは、
この法案が成立することにより、
学校教育はどうなるのかという点です。
性差を否定するような教育は、
たとえば、全員を「○○さん」と呼ぶとか、
名簿を男女混合にするとか、
受験の願書の性別記入欄の廃止とか、
そういうことは、すでにじわじわ行われていて、
このところは、
保健体育で第二次性徴について教えないよう、
保護者から要望があったりもするそうです。
この法案が成立すれば、このような動きがさらに加速されることでしょう。

「性の多様性を尊重した教育の推進」という、
社会教育団体から出ているリーフレットを見たのですが、
[性]には、心の性・体の性・好きになる性・表現する性があり、
「違う性別の相手を好きになる人もいれば、
同じ性別の相手を好きになる人、
性別は関係ないという人もいます。
異性愛も同性愛も、人を好きになるという点では同じです。
なかには恋愛感情を持たない人もいます。
どれも大切な気持ちです」
と書かれていました。

私は思うのです。
こんなにたくさんの例を挙げて、どれも尊重しましょうって、
そんなことが子供たちに分かるのでしょうか。
本当の意味での恋愛感情を抱いたことすらなさそうな、
10歳~12歳の子供に、「異性愛も同性愛も…」って、
そんなの、理解できるのでしょうか。

私は学生の頃、小松教授という人に、このように教わりました。

人間を含め、動物はメス(女)がオス(男)を選ぶのが標準です、と。
それは、1回の繁殖にかかるエネルギーのほとんどをメスが負担するからです。
メスは、一度妊娠したら、出産、授乳、子育てと、
しなければならぬことが目白押しになるので、
人間の場合、繁殖のチャンスは年単位になります。
だから、同じ繁殖をするならできるだけ質の良い相手とということになり、
相手選びは、生物学的に慎重になるものです。
一方、男は、一回射精したら、次は精子が回復したら繁殖のチャンスとなり、
物理的には数分後くらいから可能なわけですから、
繁殖のチャンスはすぐに巡ってくるのだから、
慎重に相手を選ぶ必要はないし、
血を残すを考えたら、むしろ慎重さは害です。

小松教授は、男女の違いとは、
このように、繁殖の原則が違うことだ
と言い、
そのために男女は各々が独自の性質を持っているのだ、
とおっしゃっていました。

彼女はすでに退官されているようですが、
私は、このLGBTの議論に触れるとき、
彼女を思い出すのです。
性差をなくす教育とは、
動物としての大原則に真っ向から逆らうことだなと、
怒る彼女が瞼に浮かぶ気がするのでした。

[SE;KICHI]

先生

世の中にはその職業に就けば自動的に先生と呼ばれるお仕事があります。
例えば、医者や弁護士、政治家や作家、芸術家などがありますが、
学校の教師もそうですよね。

この間大学の新卒者の就職先の話をしていてふと思ったのですが、
学校の教師も就職先の一つだなと。
3月まで大学生だった人が、
翌月の4月から突然先生と呼ばれるわけです。
先生としては全く未経験であっても、
教える子供や親にとっては新人、ベテランに関わらずに先生ですから、
本人がどう思っていようがみんなから先生と呼ばれるようになります。

そう考えるとすごい職業ですよね。

当事者はどんな気分なのでしょうか。
落ち着かない人もいれば、
急に偉くなった気分になる人もいるのでしょうか。
一般的に先生と呼ばれるには、
それまでに専門的な知識や技術を習得しないといけませんよね、
先生とは呼ばれませんが、専門的な職業の警察官や消防士でも、
警察学校や消防学校で厳しい訓練を受けて通った者だけが,
ようやくそれぞれの職業に就けますからね。

学校の先生となると、人を教え育てるのですから相当なものだと思いますが、
実際の経験としては、
学生の頃に受ける2週間から4週間の教育実習だけです。
それでいきなり教育者としてクラスの担任になると、
授業だけではなく部活動を受け持ったりするわけですから大変ですよね。

受け持ちのクラスが小学校1年生だとすると、
子育てのようなものですよね。
大学を卒業したばかりの若者が、
物心がつくまえの子供を一人で数十人も面倒を見ないといけません。
子供にしてみれば初めての体験の連続ですから、
先生の予想通りになるわけがありません。
親も初めての子供だとすると色々と心配で何かと先生に相談したり、
意見を求められることもあるでしょう。
全員の人間形成に関わる話ですから、
いい加減な態度や言動はできません。

中学校3年生の受け持ちだとすると、ほとんどの生徒が受験生です。
それぞれの受験校を決めるのに、
一人で数十人の生徒や親からの、
志望校の相談やアドバイスを全員にしなければいけません。
生徒のその後の人生が左右されると思えば適当なことは言えませんよね。

考えただけでも怖いですよね。

そんな大変な学校の教師を就職先に選ぶ若者たちはすごいですね。
せめて教育実習だけでいきなりぶっつけ本番ではなく、
採用された後にある程度の期間教師のノウハウを学び、
訓練、実践できる場を設けてあげれないものでしょうか。
そのほうが、本人も、教育を受ける子供も、
その親も今よりは少しは安心できるのではないでしょうか。

教育は国の根幹をなすもので、
日本の将来がかかっているわけですから、
もう少し大事にしてもらいたいと思います。

教職員の過酷な労働ばかりが取りざたされていますが、
そこを改善するだけではなく、
入り口でもっと手厚い対応を取って欲しいものです。

なんといっても教育者ですからね。

[M M]

鉄の失敗談⑤

いや、鉄の失敗談というか、私が失敗した話ではないのですが、
時折、自分を心底どんくさいなぁと思うことがあります。

ずいぶん前のこと、徳島の美馬市というところへ行く用がありました。
以前の展示会で仲良くなった方の会社で、
工場を見て改善の提案をして欲しいとおっしゃるため、
お役に立てるならとお伺いすることにしました。

美馬市というと、四国のちょうど中心くらい。
岡山からだと特急で90分くらいですかね。
なので、富山から新大阪まで出て、そこから新幹線で岡山に行き、
瀬戸大橋を通って四国入りすればいいなと算段して、
約束の13時には着けるよう、切符を手配したのです。
まぁ、新神戸や三宮から、バスで淡路島を通って徳島入りする経路もありますけどね。
ただ、それだと徳島市経由でやや遠いのと、
高速舞子というバス乗り場が、階段などの縦の移動が多く、
足の悪い私には少し厳しいということで、
検討はしたものの、今回は瀬戸大橋経由の全区間鉄道としました。

新大阪から新幹線に乗ります。
ぼんやり車両入口上方の電光掲示板を眺めていたところ、
とんでもないことが書かれています。

本日、強風が予想されるため、
瀬戸大橋を通るマリンライナーならびに特急は運休するかも、と。
慌てて公式サイトで調べると、
私が乗ろうとしている特急「南風」は、朝から9号まで運休が決まっているとのこと。
9号ってのは12時過ぎに岡山を発つ便なので、つまり午前中はダメってことで、
私が持っている10時過ぎに岡山を発つ5号の切符も当然、パァです。

このとき乗っていた新幹線はもうすぐ新神戸に着くところで、
サッと降りて、バスに振り替えれば、
おそらく、だいたい予定通りの時刻に現地入りできたところ。
しかし、どんくさい私はそれが決断できず、
行けばなんとかなるかもと岡山に向かい、
岡山駅のコンコースで、先方に2時間程度遅れると連絡を入れました。

そこに飛び込んできたのは、「南風」は13号まで運休が決まりましたという放送。
13号というと15時過ぎ。
15時過ぎまでは、まだ5時間もあります。
そしてなにより、15時過ぎに岡山を発っても、
岡山から90分の美馬市に着くのは17時前、
もはや先方の会社を訪問していい時刻ではなくなります。

どんくさい私も、さすがにそこで覚醒し、
岡山からバスなどの代替手段で四国入りできないかを調べ、
それが無理だと分かるや否や、神戸まで戻ることを決断、
来た新幹線に飛び乗って新神戸まで戻りつつ列車内で高速バスを手配し、
新神戸から、強風で千鳥足になった高速バスで徳島入りしたのでした。
まぁ、それでも2時間ほどは遅れてしまったのですが、
15時には先方に着けましたので、
15時に岡山を出るよりはずいぶんマシでした。

あとから調べたら、その日の岡山駅は、ジリジリと運休が広がり、
結局、15時どころか、夜に至るまで、丸一日、
瀬戸大橋を渡れた列車はなかったようで、
あのまま岡山駅で待っていたら大変なことになるところでした。

しかし、返す返すも、
なぜ、切符の手配時にバスを除外してしまうのか、
それは足が悪いから仕方ないとしても、
なぜ、最初に新神戸に差し掛かった際に飛び降りてバスに振り替えなかったのか。
意味のないことながら、
あのときすぐに降りていたらどうだったのか検索してみたら、
なんと、遅延なしで先方に着いていたと分かり、
返す返すも、自分のどんくささを呪った出来事でした。

ちなみに、岡山駅のみどりの窓口で、新神戸に戻る切符を買おうとして、
いちおう、富山からの乗車券と岡山から先の運休した特急の特急券を見せたら、
それらの切符に「事故・払戻要す」というスタンプを押され、
「切符は買わなくていいから、そのまま新神戸まで戻ってください」と言われ、
戻った新神戸駅で、富山→新神戸以外の切符を払い戻すことができました。
5,000円ちょっと払い戻され、そのお金で3,400円の高速バス代を出せたので、
損はしていないし、良い経験だったと思うことにします(←遅れて迷惑かけたくせに)

[SE;KICHI]

断捨離 その2

前回のブログで、GW中に断捨離をすると言っていました。
前回書いたように実際に結構要らない物があり、少しスッキリした感じがします。

そして、先日知人に言われたことがあります。
物持ちがいいねと言われました。
思い入れがあるものは昔のものでも取っておいてあったりするものです。

先日、長い間使っていた革のブレスレットが切れました。
おそらく10年以上使っていたブレスレットです。
付けるベルト穴の箇所が毎回変わらないので、疲労していた感じです。
付けるとしても、夏につけていたりしたので、
長年持っていても付ける頻度は少なかったかもしれません。
とりあえず、そのブレスレットには長年お疲れ様でしたと言いたいです。

とりあえず、物を片付けるだけではなく、お掃除もしなくちゃいけませんね。

[SYUN]

なんでも認めろということか。

私の友人のアブードは、イスラム教者なので、全知全能の神を信仰しています。

彼曰く、イスラム教徒の男性は、4人まで妻を娶ることができると、
イスラム法に定められているそうですが、
そのイスラム法によれば、求婚は男性から女性の父親に対して行うものであって、
女性本人がその婚姻に同意しているかどうかは関係がないのだそうです。
また、婚姻には最低年齢の規定はないので、
たとえば女児が生まれた直後に、
この女児が父親によって誰かと結婚させられることもよくあることだし、
逆に、離婚は、夫が妻に宣言すれば成立するもので、
妻の同意は必要がないのだそうです。
ちょっと、令和感覚では男尊女卑的な感じがしますが、
とにかく、イスラムではそうなっているという話です。

ところで。
自由主義の国では、
多様性を認め合う社会を目指すのが正しいことだとされています。
日本でも、あらゆる政党やマスコミが、そうあるべきだと主張しています。
もちろん、私も、別に、異論はありませんし、
岸田首相も、多様性の尊重が大切であるという主旨の発言をされています。

しかし、ふと思うのですが、
では、その、認め合うべき多様性というのは、
どのようなものなのでしょうか。


よく聞くのは『性の多様性』です。
性というのは、男性と女性だけではなく、多様なのだということですね。
つまり、性というのは、
自分の性をどのように認識するかという「性自認」にしても、
どの性を好きになるかという「性的指向」にしても、
いずれも多様であって、無数に存在するものなのだ、
だから、それを認め合いましょうねということでしょう。
そういうわけで、LGBTなどの支援団体は、
同性婚の実現や差別の禁止などを法制化せよと訴えているわけです。

ここに巧妙なすり替えを感じるのは私だけでしょうか。

一般論として、多様性を認めることは良いことだと私も思います。
しかし、それは、法律で定めるようなことなのかと言えば、
私には、ちょっとよく分からないのです。
だって、多様性には、性だけでなく、
人種とか民族とか、宗教や年齢、障害の有無など、
多様性すら多様ですから。
そのすべての嗜好を法で守れというのは無茶というものです。

冒頭のアブードの話、皆さんどう思われますでしょうか。
多様性を認め合う社会を目指す日本としては、
もし、在日イスラム教徒が、
「一夫多妻はイスラム教徒の権利だ!」とか、
「イスラム教徒の父親には、娘に婚姻を強要する権利がある!」とか、
「イスラム教では、夫が妻に一方的に離婚を言い渡す権利がある!」とか、
そんなことを訴え出したら、
日本として、それを尊重して、法律を改定してでも認めてあげなくてはなりません。
しかし、そのことが正しいのかどうか。
でも、それを求めてあげないと、
「法制化されないなんて差別だ」とか「信教の自由に反するから憲法違反だ!」とか、
本人たちはともかく、支援団体が騒ぎ出すことでしょう。

一夫多妻は、イスラム法では認められていても、日本では禁止されています。
では、イスラム教徒にだけそれを認めればいいかといえば、
日本国憲法の法の下の平等に反するのでダメでしょう。
そもそも、男性だけに重婚を認めること自体、
法の下の平等に反するわけで、
そうすると、すべての日本国民に、一夫多妻も一妻多夫も認めるのが、
「多様性を認める」ことになるのでしょう。
また、父親が娘に婚姻を強要することも、
日本国憲法では、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するとされているので、
それに抵触してしまうけれど、
それでも、それを権利として認めることが「多様性を認める」ことなのでしょうか。

私が思うに、あらゆる人の権利の尊重とは、すこぶる難しいと思うのです。
というのも、ある人の権利の尊重は、
別の誰かの権利を侵害していたりすることは往々にしてあるもの。
だって、何を権利だと主張するかは、それこそ認識自体が多様なのだから、
どれほど多くの法律を制定したところで、
すべての人に「尊重される」という感覚を与えることなど、
不可能なのだろうと思うのです。

冒頭のアブード曰く、
たとえば性にしても、イスラム法は男女の二者択一で規定されていて、
つまり、性の多様性なんて認めてはいないし、
そもそも異性間交友は婚姻のみを合法としているし、
特に同性愛行為は死罪と定められているそうです。
私たちは、死罪とは厳しいなと思いますが、
彼らにとってイスラム法は神の法なので妥協の余地などないのだそう。
そして、それがイスラムであり、
彼らは、それを多様性として認めてほしいというのです。


私は思うのです。
この社会は矛盾に満ち満ちており、
それを解消しようと、手当たり次第に法律を整備することは、
言ってみれば単なる対処療法で、
病気の治療に例えれば、やみくもな治療なのだから、
むしろ全身状態を悪化させるのではないだろうかと。

清規と陋規。
清規(明文化された法律)ばかり増やしても、
事象がそもそも矛盾しているのだから、解決にならないでしょう。
それよりも、陋規(明文化されていない不文律)
差別をしないとか、そういうのは、法律に書かれていなくても、全員で意識していく、
いわば、社会通念というもの。

もともと日本はかなり多様性を包含した国家でした。
それは野蛮だったということもできますが、鷹揚だったということでしょう。
一夫多妻にしても、日本は100年ほど前までは一夫多妻だったわけだし。
多様性を認めろ!という法律を作るより、
多様性を認めるという社会通念が壊れたことをこそ恥じ、
かつての鷹揚な土壌を取り戻すことのほうが大切なのではないかと思うのです。

[SE;KICHI]
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