心の平静
自分の心に湧き上がってくる感情は制御できないと思っている人がいます。
いや、そう言うとちょっと言い回しとして固いのですが、
たとえば、「汚いものでも見るような目で見られると、こちらも腹が立つよね」とか、
私は、そういう文脈の“こちら”も、制御不能なものとして認識されていると思うのです。
特に、「係り結び」というわけでもないのですが、
“こちら”に呼応するように置かれている“~ね”という終助詞が、
「みんなもそうだよね」という「同意」を演出しており、
みんなもそうなら、これは悪いことではないという心理になり、
「汚いものでも見るような目で見られると、こちらも腹が立つ」という文に、
コンセンサスを与えていると思うのです。
結果、「そういうふうにされると、こちらが腹を立てることは仕方がない」となり、
“こちら”は、その立腹を制御できないという意味になります。
私は、そのようなことはないと考えています。
いや、実際には、自分の心を制御することは難しいことで、
不退転の決意と、弛まぬ精進が伴うことではありますが、
カッとなって人を刺したりする輩が続出する昨今、
自分の感情のコントロールに挑戦する価値はあると思うのです。
そういう場面はいくらでもあると思うのです。
仕事や学校行事等でみんながひとつの目的に邁進するなか、
ひとりだけ怠けている人がいると、“こちら”の士気が下がるとか、
面倒な会議にみんなが渋々参加しているときに、
自由人みたいな人が欠席していると、“こちら”がバカバカしくなってくるとか、
そういうことです。
それは、結局のところ、“こちら”の心の動きでしかありません。
士気が下がるのも、バカバカしくなってくるのも、
相手によって与えられたことではなく、“こちら”の心の動きでしかないのです。
そうであるならば、その心の動きを止めることができるのは、
“こちら”である自分以外の誰でもありません。
かつて、僧侶になろうと修行したことがあると書いたことがあったと思いますが、
その修行のなかで相当なウエイトを占めていたのが、
『心の平静』でした。
湖があるとします。
そこに、小石を投げ込むと、水面に波が立ち、同心円状の波紋が現れますが、
波紋は拡散とともに低くなって、何事もなかったように静かな湖面に戻ります。
私は、『心の平静』と聞くと、そういうイメージです。
いうまでもなく、投げ込まれる小石が、人生における諸々の出来事で、
湖面の波立ちが、自分自身の心の波立ちを指しています。
人生、投げ込まれる小石をなくすことはおそらく不可能だと私は思います。
しかし、小石が投げ込まれた後の湖面の波立ちを、
できるだけ抑えることや、できるだけ早く元の湖面に戻すこと
つまり、何が起こっても心の波立ちを小さく抑えること、
心が動いても、できるだけ早く平静心を取り戻すことが、
私は大切だと思うのです。
仏教的なアプローチ以外で『心の平静』といえば、
著名なのはセネカの『De Tranquillitate Animi』ですよね。
ユリウス=クラウディウス朝時代のストア派哲学者ですが、
「苦しむ理由が自分にあることを知るべし」とか、
「名誉や贅沢を抑え、自分自身のうちに富を求めよ」とか、
「無いものねだりをするな」とか、
2,000年の人物の言葉とは思えないほど、普遍性を失っていません。
極めつけは、「人びとの悪徳を嘆くのではなく、むしろ笑ってやれ」で、
不快な人物を不快に思わないようにせよという、
2,000年後の現代にこそ必要なことなのではないかと思うのです。
“こちら”の心の平静を阻害しているのは、他者の言動かもしれません。
しかし、
そのことで心を動揺させて損するのは“こちら”です。
相手は、わざとではなく、いつもの振る舞いをしているだけですから、
相手に食ってかかって行動を改めるよう迫っても、意味がありません。
そうであるならば、“こちら”が心を平静にする方法を開発するしかありません。
よく言うでしょう。
相手を変えるよりも、自分を変えることのほうがたやすく、そして効果的である、と。
相手を変えようとしても難しいし、環境を変えても似た状況は再来するでしょう。
みんながひとつの目的に邁進するなか、
ひとりだけ怠けている人がいると、“こちら”の士気が下がることは、
ある程度、致し方ないことではあると思うのですが、
相手を変えようとすることも難しいし、環境を変えても似た状況が起こるとすれば、
どんな環境でも、どんな状況でもへっちゃらな、
全天候型のマインドを持っておくことこそが、
自身の心の平静のために必要なことなのではないかと思うのです。
少なくとも、私は、他人との約束に対してはそれほど誠実ではありませんが、
自分自身との約束に対しては必ず誠実であろうと心に決めています。
それが、私の『心の平静』です。
[SE;KICHI]
いや、そう言うとちょっと言い回しとして固いのですが、
たとえば、「汚いものでも見るような目で見られると、こちらも腹が立つよね」とか、
私は、そういう文脈の“こちら”も、制御不能なものとして認識されていると思うのです。
特に、「係り結び」というわけでもないのですが、
“こちら”に呼応するように置かれている“~ね”という終助詞が、
「みんなもそうだよね」という「同意」を演出しており、
みんなもそうなら、これは悪いことではないという心理になり、
「汚いものでも見るような目で見られると、こちらも腹が立つ」という文に、
コンセンサスを与えていると思うのです。
結果、「そういうふうにされると、こちらが腹を立てることは仕方がない」となり、
“こちら”は、その立腹を制御できないという意味になります。
私は、そのようなことはないと考えています。
いや、実際には、自分の心を制御することは難しいことで、
不退転の決意と、弛まぬ精進が伴うことではありますが、
カッとなって人を刺したりする輩が続出する昨今、
自分の感情のコントロールに挑戦する価値はあると思うのです。
そういう場面はいくらでもあると思うのです。
仕事や学校行事等でみんながひとつの目的に邁進するなか、
ひとりだけ怠けている人がいると、“こちら”の士気が下がるとか、
面倒な会議にみんなが渋々参加しているときに、
自由人みたいな人が欠席していると、“こちら”がバカバカしくなってくるとか、
そういうことです。
それは、結局のところ、“こちら”の心の動きでしかありません。
士気が下がるのも、バカバカしくなってくるのも、
相手によって与えられたことではなく、“こちら”の心の動きでしかないのです。
そうであるならば、その心の動きを止めることができるのは、
“こちら”である自分以外の誰でもありません。
かつて、僧侶になろうと修行したことがあると書いたことがあったと思いますが、
その修行のなかで相当なウエイトを占めていたのが、
『心の平静』でした。
湖があるとします。
そこに、小石を投げ込むと、水面に波が立ち、同心円状の波紋が現れますが、
波紋は拡散とともに低くなって、何事もなかったように静かな湖面に戻ります。
私は、『心の平静』と聞くと、そういうイメージです。
いうまでもなく、投げ込まれる小石が、人生における諸々の出来事で、
湖面の波立ちが、自分自身の心の波立ちを指しています。
人生、投げ込まれる小石をなくすことはおそらく不可能だと私は思います。
しかし、小石が投げ込まれた後の湖面の波立ちを、
できるだけ抑えることや、できるだけ早く元の湖面に戻すこと
つまり、何が起こっても心の波立ちを小さく抑えること、
心が動いても、できるだけ早く平静心を取り戻すことが、
私は大切だと思うのです。
仏教的なアプローチ以外で『心の平静』といえば、
著名なのはセネカの『De Tranquillitate Animi』ですよね。
ユリウス=クラウディウス朝時代のストア派哲学者ですが、
「苦しむ理由が自分にあることを知るべし」とか、
「名誉や贅沢を抑え、自分自身のうちに富を求めよ」とか、
「無いものねだりをするな」とか、
2,000年の人物の言葉とは思えないほど、普遍性を失っていません。
極めつけは、「人びとの悪徳を嘆くのではなく、むしろ笑ってやれ」で、
不快な人物を不快に思わないようにせよという、
2,000年後の現代にこそ必要なことなのではないかと思うのです。
“こちら”の心の平静を阻害しているのは、他者の言動かもしれません。
しかし、
そのことで心を動揺させて損するのは“こちら”です。
相手は、わざとではなく、いつもの振る舞いをしているだけですから、
相手に食ってかかって行動を改めるよう迫っても、意味がありません。
そうであるならば、“こちら”が心を平静にする方法を開発するしかありません。
よく言うでしょう。
相手を変えるよりも、自分を変えることのほうがたやすく、そして効果的である、と。
相手を変えようとしても難しいし、環境を変えても似た状況は再来するでしょう。
みんながひとつの目的に邁進するなか、
ひとりだけ怠けている人がいると、“こちら”の士気が下がることは、
ある程度、致し方ないことではあると思うのですが、
相手を変えようとすることも難しいし、環境を変えても似た状況が起こるとすれば、
どんな環境でも、どんな状況でもへっちゃらな、
全天候型のマインドを持っておくことこそが、
自身の心の平静のために必要なことなのではないかと思うのです。
少なくとも、私は、他人との約束に対してはそれほど誠実ではありませんが、
自分自身との約束に対しては必ず誠実であろうと心に決めています。
それが、私の『心の平静』です。
[SE;KICHI]
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