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春高バレー予選

先日富山県予選の決勝が行われました。
男子は富山第一高校と高岡第一高校の予想通りの組み合わせとなりました。

今回は両校に私が関わる中学校の卒業生がレギュラーとして出ており、
楽しみにしていました。
特に富山第一高校のほうはキャプテンになっており、
中学の頃は大人しく感情を表に出すタイプではなかったので、
どう変わったのかも楽しみでした。

残念ながら会場に入る事は出来ないので、
録画放送を見る事しかできませんでしたが、
プレーでチームメイトを鼓舞するいいキャプテンになっていました。
結果は高岡第一高校が3-0のストレートで勝ちましたが、
卒業生を見る立場とすれば良い試合でした。
高岡第一高校に行った卒業生は、
春高バレーに出場しプレーする事が高校バレーの目標にしていましたので、
全国大会では頑張ってほしいと思います。

予選が終わり、
競技委員長をしていました母校の監督をしている後輩から電話がありました。
そちらにも卒業生が行っており、準決勝で高岡第一に負けてしまったのですが、
これは愚痴を聞いてくれ!の電話だなと…  一緒に飲む事になりました。

実際はそれほど愚痴る事も無く戦力的に劣る中、
頑張ってくれたって話だったので良かったのですが、
話の流れで気になる事が。

今の中学3年生でヤングバレー(部活とは別のクラブチーム)にも所属していた子が、
何人も県外の有名校に進学するらしいと。
今までもあったのですが顕著になってきた感じがします。
競技人口の減少で部員確保が大変なのも後押ししているようです。
前にも書きましたが私の関わる中学校も、
新入学生数の減少で部員確保が大変になっています。
ジュニア育成も含め人の確保に頭を悩ませるのは、
色々なところで出ていると感じました。

サッカーワールドカップも行われています。
代表には頑張ってもらいたいですが、
サッカー人気だけが上がっていくのは困るし悩ましい感じです。
富山のバレーボールも盛り上げていきたいと思う時間でした。

[WAKA]
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視坐を高めるということ。

さて、お腹がすいたから何を食べようかという場面で、
何を選びますかという話。
定食屋に入りますか、お寿司もいいなぁ、
それともハンバーガー屋さんに寄りますか、
はたまたコンビニで弁当などを買いますか…など、
選択肢はかなりありますよね。

では、それを選ぶ理由は何でしょうか。
美味しい……というか、
まぁ、自分の味覚に合っているということでしょうか。
安いとか、ボリュームがあるとかいう理由もありそうです。

分かりやすくないですか。
味が好きだから食べたいとか、
安いから食べたいとか、
値段の割にボリュームあるから食べたいとか、
分かりやすいですよね。

では、仮に、ハンバーガー店に寄ることにしたとしましょう。
○クドナルドにするか○スバーガーにするのか、
そして、また同じ設問です。
つまり、なぜ、そのお店を選んだのか。
味が好きだからか、安いからか、ボリュームあるからか、
いずれにせよ、往々にして分かりやすい理由でお店を選ぶものです。

しかし、私は思うのです。
そんな、美味い、安いのような、すぐに想像がつくポイントではなく、
別の視点から想像力を働かせてみたらどうだろうか、と。

○クドナルドは、ファーストフードと言われるだけあって、
安くて早いのが持ち味でしょう。
アメリカ発祥で、日本に入って50年以上ですから、
メニュー展開と味に安定感があると言えるかもしれません。
一方の○スバーガーは、ご飯できんぴらごぼうを挟んだような、
なんか変わったバーガーを展開していますが、
それは、岩手県出身の創業者の方が、
日本人に合うハンバーガーを提供したいという志から始まったものです。

伝わっていますでしょうか。

表層的には美味いかどうか、安いかどうか、早いかどうかに目が行きがちですが、
それよりも深層的なのが、
どういう想いと意図で提供されているか、という点でしょう。
この、深層の思いのようなこと、
つまり、前述の日本人の口に合うハンバーガー…のようなことは、
私たちにとって、気持ちを向けて調べないと分からないことです。

美味い、安い、早いというような、見たら分かるようなことだけでなく、
その奥にある、志のようなものにも目を向ける。
私たちには、そういう審美眼も求められているのではないでしょうか。

「形而」という言葉があるでしょう。
目に見える「形而下」と目に見えない「形而上」です。

これは、そう難しい話ではなくて、
たとえば食事の話で言うなら、
見たらわかる、美味い、安い、早いの次には、
シチュエーションというか、たとえば、独りなのか誰かと一緒なのか、
その誰かって誰なのか、家族なのか同僚なのか、
それとも意中の異性なのか、というような、
やや深い事情のようなものもあると思うし、
加えて、それが地元なのか旅先なのか、
時間はどれくらいあるのかなども、
重要になってくるかもしれません。
これを突き詰めていくと、その地域の特色あるものを食べたいとか、
どうせなら健康に良いものを口にしたいとかいう視点になるし、
その次には、自分や家族の幸福のための摂食という観点になり、
つまり、腹を満たすだけの貪るような食ではなく、
命をいただくという、感謝を伴う食事となることでしょう。

ここまで来れば、
「日本人として」などという視坐になってくるのかもしれません。
視坐が深まれば、抽象度の高いことへの共感度が高まるでしょう。
これ、大事だと思うのです。

日々の仕事に置き換えて考えると、
品揃えや価格競争や、円安への対応、人手不足への対処など、
目につきやすい、浅いことに手当するのは容易なことでしょう。
そこから一歩進めれば、市場の調査とか、経営環境の改善とか、CSの向上とか、
少し頭を使うことも出てくるでしょう。
さらに上位概念としては、バリュープロポジションの検討や、
ESの向上も必要になってくるでしょうが、
そろそろ、ちょっと考えたくらいでは分からないものになってきます。

その先です。
幸福とは何かとか、
何のために働くのかとか、
最終的に、子供たちのために何を遺すかという、
崇高な大義が残ります。
これに視坐を合わせることが、
働くにあたっては大事なのではないでしょうか。

私たちは、すぐに目先の収入とか労働条件とかに目を奪われてしまいますが、
VUCAの時代、収入や条件がどんどん成長する社会ではありません。
抽象度の高いことに共感できるように、
視坐を磨いておきたいものです。


はぁ、茶碗蒸し食べたい。

[SE;KICHI]

自然界の洗礼

秋晴れの中、紅葉を見に出かけてきました。
春のお花見も同様ですが、
休みに天候に恵まれないとあっという間に見損ねてしまいます。
今回は友人達と休みを合わせて決めた日程だったので天気は運任せ。
日々変わる予報に心配しつつでしたが、
運よく好天に恵まれ青空の中、紅葉狩りができました。

今回向かった先は山の中で、進んでいくと細い道が続き、
すれ違いや野生動物の飛び出しなど注意しながら運転してくれる友人の分まで、
カーブを曲るごとに広がる絶景を愉しませてもらいました。

この地を選んだのはもう一つ目的がありました。
紅葉した山々に囲まれ、唯一営業しているヒュッテのレストランです。
朝早めに出かけたっぷり紅葉を愛でた私たちは、
開店前からランチに向かいました。

それほど寒くもなく本当に気持ちの良い気候だったのでテラス席を予約。
太陽の日差しと川のせせらぎをバックミュージックに、
ちょっとお高めのランチを食べながら景色と共に優雅な時間を過ごす予定でした。
そう、テラスに足を踏み入れるまでは。
案内されテラスへ出てみると広がる景色にわあ~と喜んだのもつかの間、
目の前をブーンと飛び交うものが・・・。
出迎えてくれたのは、てんとう虫に蜂に蛾やカメムシでした。

テーブルに着いている間、向かってくる虫をよけ、
料理の中に不時着しないようガードし、常に緊張しながらの食事となりました。
テラス席で食事をしている他のテーブルでも同じような光景が繰り広げられ、
食べ終わるやいなや会計に向かっていました。
そのお陰?で回転率はものすごく良かったです!(笑)

そんなこともあり、予定より早めにその場を後にし、
帰り道にたまたま見つけた公園に立ち寄ることにしました。
かなり広い公園で綺麗に色づいた木々や花など写真を撮ったり、
落ち葉の中を歩き回りながら散策していましたが、
何気なく先を歩いていた友人に目線を向けるとなんだか違和感を覚えました。
近づいて見てみると、
バカがびっしりついていたのです!!
(くっつき虫とかひっつき虫ともいうようですけど ※ 東北方面ではくっつき虫をバカと呼ぶようです。)
ロング丈のカーディガンやズボンには数種類の植物がびっしり。
とっさに自分の足元を確認しましたが、
幸いくっつきにくい素材の服に靴だったようで被害は少なくすみました。
悲惨だけど一番笑えた被害者は、フェルト生地の靴を履いていた友人です。
針状の種子がびっしり付着した靴は、
ハリネズミのような姿に大変身していました!
(爆笑)


その場で払い落とせるような数ではなかったので、
そのままの状態で帰宅する羽目に。
そこに出向いて行ったのは私たちの方なので文句は言えませんけど、
まんまと運び屋となりました。

景色ももちろんですが、
こんなハプニングもこの時間を共有できたからこそ。
次回会った時、また、数十年先も幾度となく盛り上がれる共有財産です。

[fu~ma]

「今日の仕事は、楽しみですか。」

2021年の夏、覚えていらっしゃいますでしょうか。
JR品川駅のコンコースに並べられた、
「今日の仕事は、楽しみですか。」
というデジタルサイネージが、すさまじい批判を受けて炎上し、
たった1日で終了になりましたよね。

『今日の仕事は楽しみですか。』
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/3402929

その批判とは、「仕事なんだから楽しいとか、楽しくないとか関係ねえだろ」とか、
「凹んでいるときに見たらメンタルをやられる」などというものでした。

当時、私は、この出来事では、3つのことでびっくりしました。

一つめは、純粋に、
「今日の仕事は、楽しみですか。」という質問は禁忌なのだという事実です。
私は、仕事とは誰かに求められて成立するものであり、
だとすれば、『仕事は、それ自体が喜び』だと教わってきたし、
自分でも心からそう思っているので、
「仕事なんだから楽しいとか、楽しくないとかではない」という視点は考えたこともなく、
こんなに大多数の人がこの文言に引っかかるというのは予想外でした。

しかし、よくよく考えてみれば“仕事”に対するスタンスが個々に違うのは当然で、
それは、平たく言えば、
その仕事をすること自体が目的であり喜びなのか、
あるいはあくまで生活手段なのか
という違いです。
生活のために致し方なく仕事をしているのだという人にとっては、
それが楽しいかどうかなど関係なく、収入が目的になるのでしょう。
これは、しっかり考えてみれば分かることではあったのですが、
私にはその概念がなかったため、
“仕事”に対するスタンスが個々に違うことは発見であり、驚きでした。

個人的には、稼ぐ手段としての労働、
すなわち、お金のために働くって、苦しくないか?と思うのです。
その稼いだお金を使って誰かの役に立ちたいという目的があるなら別ですが、
とりあえず、この先何があるか分からないからという、
いわば恐怖心に突き動かされて働くというのは、
なんたが楽しくなさそうだな、と。

このところ、投資大好きの岸田首相の影響か、
どうやったら儲かるかといった話ばかりする人が増えたように思うのです。
もちろん、お金は大事ではないというつもりはありませんが、
なんでもいいからお金が欲しい、収入が欲しいというのは、
なんというか、考えが貧しい感じがするのです。
現在放送中の『舞いあがれ!』でも、
父親から「おまえ、夢はないのか?」と尋ねられたヒロインの兄が、
「指一本で億のカネを動かせる男になる。あかんか?」と答えていましたが、
私は、お金を稼ぐことを目的にするよりは、
得たお金を何に使うか、ワクワクしたいものだと思うのです。

人物や事業に投資するにしろ、どこかの会社の株式を保有するにしろ、
リターンを期待するというより、
その事業や会社を応援する気持ちでお金を使っていただく、
そういう利他の心が大事なのかなと思うのです。

異論はあるかもしれませんが、
使途にワクワクしないのに、稼ぎ続けるというのは、
モチベーション維持が大変じゃないかな
と思うのです。

二つ目の驚きは、このデジタルサイネージが即座に引っ込められたことです。

コロナが流行り始めた頃、他県ナンバーの車が投石に遭うとか、
正義を標榜する荒くれ者が、はみ出し者に鉄槌を下す的な、
互いに攻撃性の強い社会になっていましたよね。
今回のデジタルサイネージにしろポスター等の広告にしろ然りで、
この程度の表現の刺激ぐらいで、
やれ傷ついたとか、やれ取り下げろとか、非難の嵐が起きるなんて信じられないし、
またその要求にすぐさま応じてしまう企業側の弱腰も、
私にしてみたら、信念はないのかと不思議に感じます。
結局、文句を言う市民とすぐに引っ込める企業と、
二人三脚で社会の息苦しさや閉塞感を加速させているように見えます。

広告についていちおう考えてみますと、
ありとあらゆる人にとって不快感のないコンテンツなど存在しませんよね。
自分にとって快適な表現でも、誰かにとっては不快かもしれないという意味で。
いくら配慮を重ねたところで、全員が了解する「満額回答」などはないでしょう。

そうすると、
たとえば「仕事がつらくて、自殺を考えるくらいに追い詰められている人」にしてみれば、
今回のデジタルサイネージに限らず、
キャリアを活かそうというような、転職事業会社の広告はすべて加害的に見えるだろうし、
気が狂いそうなほどの孤独感に苦しんでいる人からすれば、
マッチングアプリの広告なんか、憎悪の対象に思えるかもしれません。
それは、お金がない人が自動車や旅行の広告を見て軽蔑されている気分になったり、
酒に酔ったトラブルの経験のある人がアルコールの広告を見て落ち着かなくなったり、
そういうのと同じことです。

つまり、何かを表現する際に、誰かの被害意識にすべて配慮して、
誰のことも刺激しないようにしなければならないのであれば、
結局は何の表現も世に出すことはできなくなってしまうでしょう。

今回の騒動は、もちろん憲法上の「表現の自由」の問題などではありません。
しかし、市民が多少の不愉快さや感情的動揺を根拠にして、
「社会的に望ましくない」、「取り下げるべきだ」などと、
表現者に対して、撤回を要求したり、
企業側がそのようなヒステリックな声に弱腰に従ったりしてしまうことは、
個人の精神的な脆弱性や、企業の性急な思慮の浅さに繋がっている気がするのです。

結局、SNSで吐露した自分ひとりのちょっとした不快感が、
何かのきっかけで多くの人びとの共感を得てしまった場合、
それはもはや個人的な問題ではなくて社会的な旋風となり、
場合によっては政治的な問題にすら発展してしまうという話です。
そのことで社会が良くなることももちろんあるでしょうが、
誰かを完膚なきまでに叩き潰すこともあり得るでしょう。

これは旧来の社会には存在しえなかった驚異的な権力と言えます。
人間社会に「法秩序」のルールを築いた近代の人びとは、
現代社会にSNSという力が誕生することを予想できてなどいなかったわけで、
これが、誰かの息の根を止めるほどに大きな影響力を持つようになり、
社会を揺るがすようになるとは思っていなかったでしょう。
それくらい、駅にほんの一瞬だけ表示される、
「今日の仕事は、楽しみですか。」程度の広告表現を、
寄って集って叩き潰すような真似は、想定外なことだったはずです。

と、ここまで考えて三つ目の気づき。
企業側もバカじゃないんだから、こうなることは予想の範囲内だったのかも。
だとすれば、巧妙な炎上商法ってことですかね。

[SE;KICHI]

事件です!?

とある休日のことです。
午前10時くらいだったでしょうか。
我が家恒例のお茶の時間(普通にコーヒー飲むだけです)にむけて、
準備をしようとしていたその時、
玄関の方から何かが落ちたような、倒れたようなカシャンという音が聞こえました。
大して気にも留めなかったのですが、一応様子を見に玄関へ行きました。
でも、特にこれと言って変わった様子はありませんでした。
念のため、玄関ドアを開け外の様子も見てみましたが、
外にも何かが倒れたような形跡はありませんでした。

ただ、石ころが数個、ドアの付近に落ちていました。
こんなのあったかなあと、少し気にはなりましたが、
特に深く考えずお茶の時間が始まりました。

主人も二階からお茶の時間を過ごすために降りてきたので、
その音を聞いていた息子と一緒に報告をすると、主人も様子を見に行きました。

「石、投げられとるわ」

一瞬にしてぞわぞわ~っと鳥肌が立ちました。
まさか?! ウチに?!
よくTVで取り上げられているような嫌がらせが、我が家に??

「間違いない、警察呼ぶか」
数か所に傷がついたドアを見ながら主人がいいました。

なんてことでしょう。
午後から外せない用事があるので事情聴取とかで時間取られるの困るんだけど・・・
そんな自分本位なことを言っている場合でないことは確かですが、
心の中では、今日、このタイミングで警察呼ぶのはやめて~!!!と叫んでいました。

結局のところ、義父がドア前に落ちている石を、
早々に片づけてしまっていたため(事件とかの可能性は考えてなかったのでしょうね)
証拠もないし時間もたっていたしということで、警察を呼ぶには至りませんでした。

主人は、「近所の子供のいたずらか、
嫌がらせをしにきた誰かの仕業だろう」と言っていましたが、
こんな白昼堂々、しかも自宅前には義父・義母・主人・私の4台の車両が停まっていて、
いつ誰が家の中から出てくるかわからない状況で、
そんな嫌がらせなりいたずらなりするかなあ・・・?とは私の見解でした。
とにもかくにも何か対策をとらなければということで、
わが家に初めて防犯カメラをつけることになりました。

それから数日が経ち、いつもと変わらない日常が過ぎていく中、
主人から思わぬ報告がありました。
「もしかしたら、玄関わきに停めている自転車のタイヤのパンクが原因かも」と。
なぜか自転車のタイヤが裂けており、そのパンクしたタイヤの破裂による衝撃で、
付近の石が飛び、玄関ドアに当たったのかもと。
その根拠として、自転車付近の石がなくなっていると。

ただ、タイヤの空気圧も計っていたし、タイヤが裂けていることから、
自然にパンクするかなあ??と、
主人はまだ故意にされたものではないかと疑っています。
・・・そのパンクが、作為的にやられたのか、自然と生じたものなのか、
はたまた近所の猫の爪によるものなのかは、未だわかってはいません。

さて、防犯カメラがついたことで、
多少なりとも安心はできたのでよかったのですが、
何よりも、夜自転車で帰ってきて、センサーによって防犯カメラの明かりが灯り、
自転車を停めるところが明るくなって一番喜んだのは長男でした。

[Okei]

「富山県SDGs宣言」登録のお知らせ

このたび弊社は、『富山県SDGs宣言』企業に認証され、登録されました。

弊社は下記の8項目でのSDGsへの取り組みを宣言しています。

SDGs④ SDGs⑦ SDGs⑧ SDGs⑨ SDGs⑪ SDGs⑫ SDGs⑬ SDGs⑰

この登録は、富山県内の企業や団体等でのSDGsに関する取組みを宣言するもので、
現在、330社ほどが登録されているところに、弊社が加わる形となりました。
この取り組みは、県内企業等のSDGsの取組みを「見える化」し、
広く情報発信することで、県内外への啓蒙と、県・市町村や企業同士の連携を促進し、
社会的なSDGsの取組みを推進していくという趣旨のものだそうです。

弊社としましても、何でもできる体力があるわけではありませんが、
できることについては躊躇なくやる企業でありたいと思っております。

『富山県SDGs宣言』

今後ともよろしくお願いいたします。

     県の専用ウェブサイト ⇒ https://www.sdgs-toyama.jp/

[AKA]

『天間荘の三姉妹』

年に数本だけ、渾身の選択で映画を鑑賞する私。
天間荘の三姉妹という映画を観ました。

ストーリーは、交通事故で臨死状態となった小川たまえが、
幽体離脱というか、魂だけの状態になって天間荘という旅館に連れてこられ、
2人の異母姉が営んでいるその旅館で住み込みで働くなかで、
面倒な宿泊客と向き合いながら成長するという、書くとありきたりな筋書きなんですが、
この天間荘という旅館の立地がキモで、
天界と地上の間にあるという街に建っており、
死にかかった人は、この旅館に止宿し、
現世に戻って生きるか天界へ旅立つかを考えるという設定。

若干の既視感があったのは、『千と千尋の神隠し』でも、
主人公がワケも分からず連れてこられた油屋は旅館のような場所で、
そこで働きながら成長するところも、その旅館の立地の特異さも、
世界観として、なんとなく似通っているように見えるからでしょうか。


https://www.youtube.com/watch?v=hAv9H-erb9w

というわけで、この映画は実写でありながら、ファンタジー映画です。
こう言ってはナンですが、そんなに技術的に上手に作られた映画ではなく、
案の定、ネットではご都合主義だとかいろいろ言われているようですが、
ファンタージ―映画のリアリティを指摘するほど無粋なこともありませんので、
私はそんなに気にならずに楽しめたのでした。

なにより、死生観が、ドンピシャではないけれど、私の価値観に合っていました。

何度か披歴しているように、
私は、自分の人生は生まれる前にあらかた計画を立てて、
その計画を神様に承認されて生まれてくると思っています。

本当にそうかどうかは実質的に分かりませんが、
そもそも、人生というのは、時に理不尽なことも起こるもので、
そういうときに、あらかじめ立ててある計画通りだと思えば、
まぁ、消極的だったとしてもおさまりはいいもので、
どんな艱難辛苦が降りかかっても割り切れると思うのです。
いずれにしても、まずは、死んだら灰になるだけだという、
目に見えないものは信じないという唯物論的価値観ではなく、
漠然と、どこかには還っていくんだろうなと思っておいたほうが、
いざというときに踏ん張る力になるだろうなとは思います。

さて。
あまりネタバレになるようなことは言えませんが、
この映画は、上記のような、観る者の世界観によって、
冒頭で物語の設定を理解できるスピードが変わります。
映画の世界観に入り込むためのタイムラグが個々に異なるといったところです。
そして、最終的には、バカじゃなければ、
この映画が製作された意図が分かってくるわけです。

人生というのは、時に理不尽なことも起こるものと前述しましたが、
人の生死があらかじめの計画通りだったとしても、
東日本大震災しかり、ウクライナのような戦時下しかり、
ついさっきまで、普段どおりの日常を過ごしていたのに、
ほんの数分後に、自分が存在していた街ごと破壊され、
自分の命もなくなっていたとしたら…
「死んだ」という自覚のないまま亡くなった方が、何万人もいることでしょう
不意に、もしかしたら本人も気づかないうちに命が奪われるようなことも、
あるかもしれません。
不意に訪れた死に、ワケも分からず右往左往するかもしれません。

そのように青天の霹靂で命が終わった人は、
ちゃんと亡くなったって認識できるのでしょうか。

納得がいかない!とか、もっと○○がしたかったのに!とかって思うのでしょうか。

私は、そういう意味でも、
人生はあらかじめの計画通りという世界観は合理的というか、
自分を納得させるのに好適だと思っているのですが。

この映画を見ていると、急に命を奪われて「納得いかない!」人は、
「もっとやりたいことがあったのに!」とか、
「もっと行きたい場所があったのに!」とかではなく、
「あの子は無事なのか?」とか、
「アイツは元気にやってるのか?」とか、
生死によって分かたれた誰かを案ずる念なのだなと思うのです。
平たくいうと、「納得がいかない!」のは、
「別れの挨拶もできないなんて、納得がいかない!」ってことなのでしょう。

人が他人の事を思い、
他人のために頑張ることは尊いなと思います。

逆に、自分の収入や地位や名声など、欲のために頑張っている人を、
人はさもしいと評するものです。

正直、この映画は商業作品としては弱いかもしれません。
でも、イイ映画なんですよ、人が人のために作った映画なんです。

[SE;KICHI]

スマホのお話

私事ですが、本当に小さな自慢があります。
それは現在のスマートフォンを長く使っていることです!

今まで知り合いの方達とスマホの話になった時に、
今のスマホを5年以上使っていると言っていました。
多くの方達に驚かれます。
ちなみに機種はiPhone SE(初代)です。


https://iphonepro.co.jp/trouble/display/%E3%80%90iphone%E3%83%BBse%E3%83%BB%E4%BF%AE%E7%90%86%E3%80%91%E6%96%B0%E5%9E%8Bse%E3%82%82%E3%81%A7%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8C%E5%88%9D%E4%BB%A3se%E3%81%AE%E4%BF%AE%E7%90%86%E3%82%82/

少し気になって発売日を調べたところ、2016年の3月31日だったとのことです。
発売されてから割とすぐに購入したので、
実際は6年以上使っていることに気付き改めて驚きました。

当然のことですが、この年数使用していると、
電池の減りが本当に早いです。
いつでも充電できる環境下にいる時は問題ありませんが、
そうではない時は本当に辛いです・・・
調べ物や動画等をそれなりに見たらもう1日持つ気がしません。
友人と飲みに行っている時なんかは、
緊急時の為にスマホはほとんど使用しないようにしています。

さて、そのiPhone SEなのですが、もう第3世代が発売されています。
使っている方も多いと思います。
正直、第2世代が出た時に機種変更しようと思っていたのですが、
そのままスルーして今日に至ります。
さすがに近日中に第3世代にしようと思います。

iPhone SEシリーズの良いところは、
なんといっても他のiPhoneシリーズより安価なところ。
そしてコンパクトなところです。
動画を頻繁に見たりする方には正直物足りないかもしれませんが、
私はコンパクトなスマホが好きなので気に入っています。

機種変更したら、さすがに今使用しているものとの違いに驚くこと間違いなし!笑
次回のブログまでに機種変更しようと思いました。

[SYUN]

原爆に対して、そこはかとなく考えること。

最近、隣国からたびたびミサイル?が発射されますよね。
それを、太平洋上に落下するまで教えてくれない政府にもどうかと思いますが、
その日は Jアラートの鳴動によりテレビがそれ一色となったため、
ネットには朝の連ドラの放送が吹き飛んだとかで怒っている人も多くいて、
あぁ、日本の平和ボケは官製かと思っていたけど、
もうずいぶん洗脳が進んで、平和とドラマを天秤にかける人も現れたのだなと、
なかなか感慨深いものがあります。

あの、1950年代の朝鮮戦争のとき、米軍のマッカーサー司令官が、
「平壌に原爆を落とすべきだ」と主張して更迭されたでしょう。
先日、ちょっとした飲み会の際に、
「あのとき、もし本当に平壌に原爆が投下されていたら南側が勝利して、
ソ連が版図を拡大することもなかったのだろうか」という話になりました。
われながら渋い話で飲んでいたものです。

そもそも、日本の学校では子供たちに対して、
先の大戦は軍部の暴走が原因だったなどとウソを教えているので、
それはしなわち、自虐史観を養成しているようなものです。
しかし、実際はそうではないので、
アメリカには、大戦が正しかったかどうか、
もう一度反省していただきたいところです。

例えば、「日本が中国に攻め込んだのが悪い」ということで、
アメリカは中国の味方をしましたが、結果的にそれが正しかったのかどうか。
その後、中国では毛沢東の革命が起きて共産主義国家となり、
国内の殺し合いで6千万人が死んだといわれていますよね。
日本は中国人を6千万人も殺したりはしていませんし、
だいたい、日本は戦闘員以外とは戦わない清廉な国なので、
死者は多くないはずです。
結局、アメリカは、満州国の利権が欲しかったのに取れなかったから、
単純に日本に嫉妬しただけのようにも思えます。

いずれにせよ、アメリカは、中国を助け、日本を潰しにかかったのですが、
その結果、朝鮮戦争というのが勃発しています。
私は、マッカーサーはその段階でようやく、
戦前の日本の意図に気づいたのだと思っています。
そうしなければ朝鮮半島はソ連(ロシア)領になっていたはずですからね。

戦後史というのは改竄されるのが普通です。

インドはイギリスから150年も独立ができず、
抵抗運動をやっても、いつも鎮圧されてばかりでした。
しかし、日本の戦争があって、
白人が日本の軍隊に敗れていく姿を現実に見たことで鼓舞され、
結果的に独立を勝ち取っています。
しかも、当時、インド独立のために何万人もの日本人が命を落としたので、
このことに感謝しているインド人は、現在も、いくらでもいます。
インドだけではありません。
アジアやアフリカ諸国が白人による植民地支配から独立できた、
そのことへの日本の貢献は、客観的に見ても、非常に大きいといえるでしょう。

だから、隣国などが主張している、
日本が行ったことが、
全部悪だったかのように言われるのは心外ですし、
実際に誤った言説だと思います。

日本は立派だったのですが、
外交的に謝罪ばっかりしているうちに、
正当に評価されなくなってしまいました。
悲しいことです。


そういえば、開戦時の大統領であるルーズベルトは、
「アメリカは戦争しません」などと公約して大統領に当選したはずですが、
その公約を破らないように何をしたかといえば、
「日本の側から吹っ掛けてくるのを待つ」という戦法を取りました。
具体的には、石油や鉄など、エネルギーや物資が入らないように日本を包囲し、
そうやって締め上げておいて、苦し紛れに噛みついてくるのを待ったわけです。
ルーズベルトにしてみれば、自分は開戦する気なんてなかったのに、
相手が攻めかかってきたから・・・という論法が使えるわけで、
私は、実に卑怯なやり口だと感じています。

ちなみに、日本の広島や長崎に原爆を投下したのは、
ルーズベルトの跡を継いで大統領になったトルーマンです。
私は、核兵器というものを保持していても、
実際は外交カードとして脅すのが精いっぱいで、
本来は、持っていても使えやしない、
戦力というより抑止力にしかならない武器だと思っているので、
それを、おそらく文明実験的に投下したというのは、大変なことだと思っています。

もっと言えば、別に原爆の投下に限らず、
たとえば東京大空襲で何万もの民間人を一晩で焼き殺すようなことは、
どう考えても、やってはいけないことですよ。
日本は真面目に軍隊同士でのみ戦っていますし、
真珠湾攻撃でも、軍艦は攻撃しても民間には攻撃をかけていません。
実にフェアな戦いをしています。
アメリカは、兵站を断つため、武装していない日本の輸送船から沈めました。
最終的に勝ったから誰も文句を言わないだけで、
都市に焼夷弾を落とし、広島・長崎に原爆を落とし、
民間人をたくさん殺したことは、
本当は、ものすごく卑怯な行為です。


そのようなわけで、
冒頭の「平壌に原爆を落とすべきだったか」というクエスチョンに対して、
私は、やはり断念してよかったと思っています。

[SE;KICHI]

訃報

弊社創業者であり前代表取締役 安井寛光 儀 病気療養中のところ11月3日永眠いたしました 享年83

ここに生前に賜りましたご厚誼に感謝し謹んでご通知申し上げます
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Author:kkseishin
株式会社セイシン
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