教育勅語ってどう思います?
教育勅語ってどう思います?

https://www.kakunodate-shinmeisha.jp/tyokugo.html
もう5年ほど前の話になりますが、
国会において、教育勅語の教材使用の可否について議論されました。
当時、私は、審議や答弁書における政府の見解を総じて曖昧だと感じていて、
こんなことでは誰かから厳しく突っ込まれかねないと心配していたのですが、
案の定、日本教育学会など、教育関係の17の学会が、
「政府の教育勅語答弁に関する声明」を出したのは記憶に新しいところ。
この日本教育学会などによる声明は、政府の、
「教育勅語には普遍的な価値が含まれており、
日本国憲法および教育基本法等に反しない限り、
教材として使用できる」とした国会答弁に対するものですが、
声明文は、この政府答弁に対し、
「教育勅語とは、戦前・戦中に君主であった天皇が、
臣民に対して国体を重視する価値観を押し付け、
天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書である」と断じ、
「歴史資料としては批判的にしか使用できない」、
「普遍的価値を含むものとして肯定的に扱う余地はない」と主張しています。
まぁ、つまり、教育勅語は使えないと言っているわけです。
しかし、本当に教育勅語は、現代日本の教育に、
悪影響しかないのでしょうか。
ピーター・ドラッカーは、著書『マネジメント』で、
「日本はかつて極めて貧しく、厳格な身分制度に縛られてきたが、
明治維新から30年後、近代国家となり、
字の読めない人が、事実上1人もいない最初の国になった」と、
明治の日本を評価しています。
教育勅語は明治23年ですから、“明治維新から30年後”に貢献しているはず。
明治天皇という人物は、地方巡幸などで、わりと頻繁に学校を訪問したと聞いています。
そのなかで、天皇は、伝統的学問だけでは、近代社会では不充分であると悟られ、
本邦固有の道徳を涵養せよとの指示を発せられ、
そうして作られたのが教育勅語です。
有名な話ですが、起草した井上毅は、
その徳目が日本だけの特殊すぎるものではなく、
諸外国にも広く通用するものかどうか、かなり調査させています。
つまり、教育勅語は、日本固有の倫理の教えに基づきつつ、
世界に通用する普遍的なものとして作られたわけです。
そのご苦労を思うと、
いまの教育勅語の扱われようが不憫でなりません。
だいたい、これ、天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書ですかねぇ。
私は、普遍的価値を含むものとして肯定的に扱っても問題ないと思いますがねぇ。


https://www.kakunodate-shinmeisha.jp/tyokugo.html
これのどこが、天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書なのでしょうか。
夫婦仲よくとか、社会の役に立つ仕事をしろとか、
普遍的価値を含むものとして扱ってもよいのではないかと思いますし、
現代の、度を越えた個人主義に対するアンチテーゼとして、
かなりの力を持つのではないかという気がします。
もちろん、ある時期の軍国主義とか、教育勅語が悪用された時期があったことは認めます。
しかし、それは使い方の問題であり、教育勅語自体の価値ではありません。
クルマを使った犯罪があったからといって、
クルマ自体を問題視して、クルマ撲滅論にはならないのと同じです。
教育勅語がまとう雰囲気にアレルギーのある方もいらっしゃるでしょうが、
だからと言って、それ自体を問題視して教育勅語撲滅論に走るのは、
いささか過剰反応ではないかと思うのです。
私は、明治の先達たちが苦労して、
その徳目が世界に通じるものになるよう尽力した、
その心意気に評価を与えないというのは、
ちょっと冒涜ではないかとすら思うのです。
[SE;KICHI]

https://www.kakunodate-shinmeisha.jp/tyokugo.html
もう5年ほど前の話になりますが、
国会において、教育勅語の教材使用の可否について議論されました。
当時、私は、審議や答弁書における政府の見解を総じて曖昧だと感じていて、
こんなことでは誰かから厳しく突っ込まれかねないと心配していたのですが、
案の定、日本教育学会など、教育関係の17の学会が、
「政府の教育勅語答弁に関する声明」を出したのは記憶に新しいところ。
この日本教育学会などによる声明は、政府の、
「教育勅語には普遍的な価値が含まれており、
日本国憲法および教育基本法等に反しない限り、
教材として使用できる」とした国会答弁に対するものですが、
声明文は、この政府答弁に対し、
「教育勅語とは、戦前・戦中に君主であった天皇が、
臣民に対して国体を重視する価値観を押し付け、
天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書である」と断じ、
「歴史資料としては批判的にしか使用できない」、
「普遍的価値を含むものとして肯定的に扱う余地はない」と主張しています。
まぁ、つまり、教育勅語は使えないと言っているわけです。
しかし、本当に教育勅語は、現代日本の教育に、
悪影響しかないのでしょうか。
ピーター・ドラッカーは、著書『マネジメント』で、
「日本はかつて極めて貧しく、厳格な身分制度に縛られてきたが、
明治維新から30年後、近代国家となり、
字の読めない人が、事実上1人もいない最初の国になった」と、
明治の日本を評価しています。
教育勅語は明治23年ですから、“明治維新から30年後”に貢献しているはず。
明治天皇という人物は、地方巡幸などで、わりと頻繁に学校を訪問したと聞いています。
そのなかで、天皇は、伝統的学問だけでは、近代社会では不充分であると悟られ、
本邦固有の道徳を涵養せよとの指示を発せられ、
そうして作られたのが教育勅語です。
有名な話ですが、起草した井上毅は、
その徳目が日本だけの特殊すぎるものではなく、
諸外国にも広く通用するものかどうか、かなり調査させています。
つまり、教育勅語は、日本固有の倫理の教えに基づきつつ、
世界に通用する普遍的なものとして作られたわけです。
そのご苦労を思うと、
いまの教育勅語の扱われようが不憫でなりません。
だいたい、これ、天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書ですかねぇ。
私は、普遍的価値を含むものとして肯定的に扱っても問題ないと思いますがねぇ。


https://www.kakunodate-shinmeisha.jp/tyokugo.html
これのどこが、天皇と国家のために命を投げ出すことを強要した文書なのでしょうか。
夫婦仲よくとか、社会の役に立つ仕事をしろとか、
普遍的価値を含むものとして扱ってもよいのではないかと思いますし、
現代の、度を越えた個人主義に対するアンチテーゼとして、
かなりの力を持つのではないかという気がします。
もちろん、ある時期の軍国主義とか、教育勅語が悪用された時期があったことは認めます。
しかし、それは使い方の問題であり、教育勅語自体の価値ではありません。
クルマを使った犯罪があったからといって、
クルマ自体を問題視して、クルマ撲滅論にはならないのと同じです。
教育勅語がまとう雰囲気にアレルギーのある方もいらっしゃるでしょうが、
だからと言って、それ自体を問題視して教育勅語撲滅論に走るのは、
いささか過剰反応ではないかと思うのです。
私は、明治の先達たちが苦労して、
その徳目が世界に通じるものになるよう尽力した、
その心意気に評価を与えないというのは、
ちょっと冒涜ではないかとすら思うのです。
[SE;KICHI]
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