わかって下さい……ってこと?(by 因幡晃)
コロナ禍で、様々な悩みを抱えた方も多いということで、
先日、頼まれて、電話で見ず知らずの方の相談に乗るというか、
お悩みを傾聴するということがありました。
その方は、保育園で4歳児だか5歳児だかを担当しているそうなのですが、
受け持っているクラスに、多動というのか、
何かにつけて行動が荒い男児がいるとのことで悩んでおいてでした。
たとえば、自分のロッカーから登園バッグを持ってくるだけでも、
開けたロッカーは足で閉めるか、もしくは開けっ放し、
手に持った登園バッグはグルングルン振り回し、
それが当たったお友達と小競り合いになるとか、
その子は、なにしろ、トラブルを起こす子なのだそうです。
保護者の方に分かってもらいたいと面談もしたそうですが、
「家ではそんなことないんですけどねぇ」とか、
「検診では発達に問題なしって言われたんですけど」とか、
あまり伝わらなくて困っています……とのこと。
はい、問題です。
この相談に対して、私が一番違和感を感じたのは、どのような点でしょうか。
正解は、保護者に分かってもらいたい……の点。
何を? 何のために?
現場の大変さを知ってほしいってこと?
この相談はとある保育園の先生の例でしたが、
このような人、増えつつある感じがします。
何をどうしてほしいとかではなく、
自分の大変さとか、自分の不安を知っておいてほしいと考える人が。
私が不思議に思うのは、
なぜ、それを知っておいてほしいと思うのかという点。
私は最初、たとえば何か懸念する事柄があるとして、
他者に先んじてそれを述べることで先見の明をアピールしたいのかな、
あとから「私は分かってました」と誇示したいのかなと思ったのですが、
それだと、単なる不安を吐露してしまう理由にはなりません。
そこで、私は、観察を重ね、
ようやく、先ほどの保育園の先生の例で分かったのです。
単なる「オレ、大変なんすよ、分かってくれてもいいでしょ」、
「アタシ、不安で、話聞いて欲しいんですけど」ってこと、
つまり、共感してほしいってことなんですね。
しかし、具体的に何かしてほしくはないのにそれを聞かせるって、
どういうことなのでしょうか。
なんか、「話したいことを話すんで黙って聞いていてください」って、
「好きな感じでオナニーするんで、黙って見ててください」的な、
なかなか変態じみたプレイ性を感じるのですが。
たとえば、今日はちょっと体調がすぐれないなぁという日、
まぁ、生きていればそういう日もあると思いますが、
その日の午後、大切な商談とか志望校の面接の予定があったとしたら、
どんな顔をしてその場に行きますかという話です。
体調が悪いのは事実なので、仕方なく、青色吐息みたいな顔で行きますか。
おそらく先方は、「体調悪そうですが、大丈夫ですか」と聞くでしょう。
それに対して、
「あ、いや、大丈夫ですから、気にしないでください」と返すことになりますが、
先方は思います。
大丈夫ならそんな顔して来るんじゃないよ!って。
昭和の昔。
体調の悪さなんて、他人に感づかれてはならぬことでした。
大変さや不安もそうだし、イラ立ちや落胆など、
言うなれば自分の喜怒哀楽は外に出さないように育てられました。
それは美学とかそういうことではなく、相手やその場への配慮でした。
「こんな顔して行ったら相手も困るわね」とか、
「こんなこと聞かされても相手も迷惑よね」とか、
「こんなこと急に言ったら場が凍りつくかも」のような、
相手への思いやりだったと思うのです。
それが、コロナ禍による不安定な社会のせいなのか、
いや、たぶんコロナ禍より以前からそうだったと思うのですが、
自分が、自分の、自分に……って、自分のことばかり。
知ってほしい、分かってほしいって、
自己顕示欲が強すぎるのではないでしょうか。
もちろん、いろいろ感じていても、
グッと我慢しなさいと言っているのではありません。
ただ、自分の心の、その部分から目を逸らす取り組みは必要でしょ。
感情っていろいろあるのに、
苦労や不安にスポットを当てすぎなんですよ。
考え方を変えて発散するか、
他に目を向けて忘れるしかないと思うんです。
先日、思いがけず耳に入った のですが、
ずいぶん久しぶりに『イメージの詩』を聴きました。
映画の主題歌ということで、稲垣来泉という10歳の女の子が歌うバージョンでしたが、
「涙をこらえて笑っている人は、きれいなものでしょうね」という歌詞、
昔から聴き慣れて、覚えていたはずなのに、
なんだか感極まってしまった私なのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=SwcArTme7nQ
自分の感情を辞譲の心というか、他人を責めない心というか、耐えて笑う心というか、
そういうの、いま大事なのではないでしょうか。
[SE;KICHI]
先日、頼まれて、電話で見ず知らずの方の相談に乗るというか、
お悩みを傾聴するということがありました。
その方は、保育園で4歳児だか5歳児だかを担当しているそうなのですが、
受け持っているクラスに、多動というのか、
何かにつけて行動が荒い男児がいるとのことで悩んでおいてでした。
たとえば、自分のロッカーから登園バッグを持ってくるだけでも、
開けたロッカーは足で閉めるか、もしくは開けっ放し、
手に持った登園バッグはグルングルン振り回し、
それが当たったお友達と小競り合いになるとか、
その子は、なにしろ、トラブルを起こす子なのだそうです。
保護者の方に分かってもらいたいと面談もしたそうですが、
「家ではそんなことないんですけどねぇ」とか、
「検診では発達に問題なしって言われたんですけど」とか、
あまり伝わらなくて困っています……とのこと。
はい、問題です。
この相談に対して、私が一番違和感を感じたのは、どのような点でしょうか。
正解は、保護者に分かってもらいたい……の点。
何を? 何のために?
現場の大変さを知ってほしいってこと?
この相談はとある保育園の先生の例でしたが、
このような人、増えつつある感じがします。
何をどうしてほしいとかではなく、
自分の大変さとか、自分の不安を知っておいてほしいと考える人が。
私が不思議に思うのは、
なぜ、それを知っておいてほしいと思うのかという点。
私は最初、たとえば何か懸念する事柄があるとして、
他者に先んじてそれを述べることで先見の明をアピールしたいのかな、
あとから「私は分かってました」と誇示したいのかなと思ったのですが、
それだと、単なる不安を吐露してしまう理由にはなりません。
そこで、私は、観察を重ね、
ようやく、先ほどの保育園の先生の例で分かったのです。
単なる「オレ、大変なんすよ、分かってくれてもいいでしょ」、
「アタシ、不安で、話聞いて欲しいんですけど」ってこと、
つまり、共感してほしいってことなんですね。
しかし、具体的に何かしてほしくはないのにそれを聞かせるって、
どういうことなのでしょうか。
なんか、「話したいことを話すんで黙って聞いていてください」って、
「好きな感じでオナニーするんで、黙って見ててください」的な、
なかなか変態じみたプレイ性を感じるのですが。
たとえば、今日はちょっと体調がすぐれないなぁという日、
まぁ、生きていればそういう日もあると思いますが、
その日の午後、大切な商談とか志望校の面接の予定があったとしたら、
どんな顔をしてその場に行きますかという話です。
体調が悪いのは事実なので、仕方なく、青色吐息みたいな顔で行きますか。
おそらく先方は、「体調悪そうですが、大丈夫ですか」と聞くでしょう。
それに対して、
「あ、いや、大丈夫ですから、気にしないでください」と返すことになりますが、
先方は思います。
大丈夫ならそんな顔して来るんじゃないよ!って。
昭和の昔。
体調の悪さなんて、他人に感づかれてはならぬことでした。
大変さや不安もそうだし、イラ立ちや落胆など、
言うなれば自分の喜怒哀楽は外に出さないように育てられました。
それは美学とかそういうことではなく、相手やその場への配慮でした。
「こんな顔して行ったら相手も困るわね」とか、
「こんなこと聞かされても相手も迷惑よね」とか、
「こんなこと急に言ったら場が凍りつくかも」のような、
相手への思いやりだったと思うのです。
それが、コロナ禍による不安定な社会のせいなのか、
いや、たぶんコロナ禍より以前からそうだったと思うのですが、
自分が、自分の、自分に……って、自分のことばかり。
知ってほしい、分かってほしいって、
自己顕示欲が強すぎるのではないでしょうか。
もちろん、いろいろ感じていても、
グッと我慢しなさいと言っているのではありません。
ただ、自分の心の、その部分から目を逸らす取り組みは必要でしょ。
感情っていろいろあるのに、
苦労や不安にスポットを当てすぎなんですよ。
考え方を変えて発散するか、
他に目を向けて忘れるしかないと思うんです。
先日、思いがけず耳に入った のですが、
ずいぶん久しぶりに『イメージの詩』を聴きました。
映画の主題歌ということで、稲垣来泉という10歳の女の子が歌うバージョンでしたが、
「涙をこらえて笑っている人は、きれいなものでしょうね」という歌詞、
昔から聴き慣れて、覚えていたはずなのに、
なんだか感極まってしまった私なのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=SwcArTme7nQ
自分の感情を辞譲の心というか、他人を責めない心というか、耐えて笑う心というか、
そういうの、いま大事なのではないでしょうか。
[SE;KICHI]
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