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赤を目指してるのですか?

デジタル庁設置ですって!
諸外国に比べて遅れがちなデジタル化が進むのはイイね!と思った方、
大丈夫ですか?

まぁ、このコロナ禍でオンライン化で在宅ワークが進み、
別に毎日のように会社に出勤しなくても、
ネットさえ繋がればどこでも仕事はできるよねって、
たくさんの人が気づいてしまいました。
実際、私の知人でも、田舎に移住したり別荘を買ったりした人が何人もいます。
つまり、オンライン化というか、ネットが繋がることは、
いま必須というのは間違いありません。

ということは、菅政権の肝煎り政策であるデジタル化は、
時宜を得ているのだろうとは言えるでしょう。
政府はデジタル庁について、
「行政の縦割りを打破し、大胆に規制改革を断行する」と言っています。
あははは、それっぽいことを言いますね。
そして「国や自治体のシステムの標準化として、
マイナンバーカードの普及促進を一気呵成に進める」そうです。

果たして、デジタル庁設置は、
国民の幸福につながるんでしょうか。


これが、行政運営の効率化や行政組織のスリム化によって、
いわゆる「小さな政府」を目指す動きなのであれば、
財政赤字の解消や規制緩和につながる流れとして、
大いに歓迎すべきだと思うのですが、
果たしてそうでしょうか。

今回のデジタル庁設置に向けた流れに大きな影響を与えたのが、
コロナ対策において、日本のアナログな性格が、
たとえば助成金の支給などの面で、迅速な対応を鈍らせたという説です。
河野氏や平井氏という、それっぽい人物を大臣に据え、
「ハンコ押すためだけに出勤とか、ダメじゃない?」とか、
「ワクチン接種ではデジタル敗戦にならないようにしないとね」とか、
確かにそうかも…と思わせるような発信を続けています。

諸外国に比べて……と言いますが、
コロナ感染リスクをQRコードで表示する「健康コード」で表し、
国民を色分けしている中国をはじめとして、
韓国や台湾、香港、シンガポールなどのアジア諸国では、
スマホ端末を用いた国民の行動管理を徹底することでコロナを封じ込める、
いわば「強い措置」を採る国が多いですよね。

一方、日本などの欧米でそれが導入されないのは、
デジタル化云々の話ではなくて、
できるだけプライバシーの侵害を避けようとするからです。
私は、それでいいと思うのです。

何の病気に罹っているかということは、もともと個人情報で、
その情報を開示するかどうかは本人の同意が必要なはずです。
いえ、過去の経歴や預金残高など、疾病以外の情報だって、
本人の同意なく開示される必要はないと思うし、
日本という国は、そういうコンセンサスで、うまくいっていました。

しかし、いま、平時ならともかく、この緊急時なら、
ある程度の強権が発動されても仕方ないよね、という、
国家権力の増長を認める風潮が国民に広がっている気がして、
私は、本当に、心から恐ろしいです。

仮に、今回のデジタル庁設置の原点として、
緊急時において「国民をコントロールしたい」という発想があるとすれば、
それは、強権を発動するということであるので、
菅首相が掲げる「自助・共助」とは真逆じゃないですか。

ずいぶん昔、マイナンバーの議論が始まった頃、
マイナンバーは「国民総背番号制」などと揶揄されて評判が悪く、
ちっとも現実的な議論にならなかったと記憶していますが、
いま、緊急時なんだからとゴリ押しされているように感じますし、
言われたほうも、じゃ、しょうがないかと懐柔されている感じです。
下品な比喩で恐縮ですが、
もうホテルまで来たんだから挿れさせろと暴れる悪い男と、
まぁ、ついてきちゃったから1回は仕方ないかと諦める女のようです。

下品な比喩のついでに言いますが、
そういう一夜があったことすら、白日の元に開示される社会が来るかもしれません。
マイナンバーカードが保険証の代わりになるということは、
その一夜で何かに感染して医療機関を受診した場合など、
誰とどこで何をしていたか、丸裸に調べられるということです。
これでは、宇宙人に捕まって、
首の後ろにマイクロチップを埋め込まれているのと変わりません。

繰り返しますが、何の病気に罹っているかということは、
財産と同じで、国家が把握する必要のないプライバシーです。
実は「栄養摂取は個人の問題ではない」という詭弁で、
健康管理の名目で喫煙や個人の食生活の指導まで展開していたのが、
ヒトラー率いるナチスです。
ナチスの健康管理は、国民の健康を守るという点において効果的で、
科学的に正しかったとも言われていますが、
一方で、みなさんご存知の通り、その健康管理情報が悪用されたことで、
優生思想に基づいた、障害者や病人、ユダヤ人の虐殺が発生したのです。

そんな大袈裟なと笑うかもしれません。
しかし、健康管理を名目としたマイナンバー制度は、
ナチスのような管理主義に近づく一歩のように感じるのです。

全国民に、何が何でもワクチン接種しろと言ってみたり、
それをマイナンバーで管理すると言ってみたり、
全体主義化の波はヒタヒタと近づいてきています。
国民が持つべきなのは、政府に指図や管理を受けず、
自分の考えで生きていくんだという気概です。

国民は自助努力によって、自由に繁栄していくべきなのです。

そうそう。
このところ、菅首相の発信が弱いとか、
リーダーシップに疑義を呈する世論が多いですよね。
しかし、ずっと裏方でやってきた老人なんだから、
たいしたリーダーシップを持ってないのは予想通りでしょうよ。
よく喋る森元首相や麻生元首相の時はそれはそれで批判しといて、
寡黙な人に代わったら代わったで、やっぱり批判するって、
みんな、誰だったら満足するんでしょうか。
そもそも、首相に強いリーダーシップって必要なんでしょうか。
「必要だろ!」って思った方、理想は習○平さんですか?
彼、たぶん世界で一番のリーダーシップを持ってますよ?

デジタル化が目指しているのは、そういう全体主義国家です。
騙されないようにしましょう。

[SE;KICHI]
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隣の芝生は青すぎます!

我が家は7人家族です。
日常生活を送る毎日、たとえ贅沢をしていなくても、
様々な費用が×人数分の費用が発生します。
これは自慢話ではなく、お叱りを受けたいわけでもなく、
切実なとある嫁の愚痴とお思い下されば幸いです。

私たち夫婦は二人ともフルタイムのサラリーマンです。
主人の両親と同居のため、二世帯住宅です。
間違いなく豪邸ではありませんが、そんな狭い家でもありません。
自家用車も義両親の分も含め5台所有しています。
はたから見れば裕福な家庭に見えているのだろうなあと自分でも思います。
だって、同居している上に夫婦そろってフルタイム勤務ですもの。

よく、同居しているというと、
おそらく精神的な意味合いで「大変だね」と言われます。
確かにその通りです。
でもそれはお互い様だろうと理解はしています。
お互いに他人同士なのですから、合うわけがないのです。
しょうがありません。
ただ、理解はしているだけで、ストレスは相応にたまります。
それもお互いのことだと思っています。

それより、もっと私がみんなにわかってもらいたいのは、
あくまでも我が家は!ですが、
金銭面でちっっっっっっとも裕福ではない
ということです。
お金がないとぶつぶつ言っていると、
よく、祖父母に出してもらえるから大丈夫、などと、
簡単に言われることが多いのですが、そんなことはありません。
金銭面で優遇してもらえるご家庭もあるのかもしれませんが、
出してもらえる家庭であればこんな場で愚痴りません。

私たち若い世帯はローンの支払いが15年ほど残っているうえに、
水道光熱費(電気・水道・ガス・灯油)、食費、新聞代の支出があります。
あとは、携帯料金はさすがに自分たちの分だけでいいものの、
子供たちの学費が3人分、ガソリン代など、
毎月決まって出ていく費用がすごいです。
そのほかにも税金とかいろいろありますよね。

そして、なんといっても水道代と電気代。
水道代は7人分なので、トイレにせよお風呂にせよ、人数分がかかってきます。
まして、洗濯の量も比例して多くなるので、
そこにつかう水道代も洗剤の量も多くなります。
当然、食器の後片付けも然り。
電気代に至っては、祖父母が日中家にいるので、
私たち若い世帯が仕事や学校で家にいない間も、
気温に応じて冷暖房の使用もあるし、
もちろん、パソコンやテレビの使用もあるため一日中メーターが動いています。
昔ながらの風習か、玄関も明るくなくては駄目だと、無駄に電気がついていたり、
冷暖房がついている状態なのにドアが開けっぱなしとかもよく目につきます。

・・・イライラが止まらないですね。

また、食費に関してですが、主人も私もお弁当持ちです。
そして食べ盛りの子供が3人います。
お米は毎日一升炊いています。
言っておきますがもちろん外食はできません。
子供たちの食欲を満足させるだけ食べさせる金銭的な余裕など一切ありません。
お惣菜も5個で100円のコロッケとか、そういった割安のものしか買いません。
お惣菜は人数分を買うとなると高額になりますからね。
ですので、材料を買ってかさ増ししながら作るしかありません。
お肉も牛肉は買うことがありません。
グラムあたり100円未満のお肉しか買いません。
質より量です。
それでも、量を買えばそれだけ出費が多くなりますから、なかなか厳しいです。

世間でgo to ~ がコロナの関係で実施されていますが、
我が家は旅行も外食もできない状況です。
Go to eatの食事券買った??とか聞かれて、
「我が家はお金ないし、外食いけないし、買ってないです」と返すと、
「またまた~」と、
決まって、まるで冗談を言っているかのように受け取られます。
いやだって、外食でたとえ一人500円で済ませられたとしても、7人で3500円。
しかもきっとそれだと子供たちはお腹いっぱいにはならないから、
3500円あれば2食分作れて、おなかもそこそこ膨れるでしょう? 
私は7人分一食1000円~1500円で押さえられるようにしているので、
一人当たり220円相当。

夜ご飯はおかずを3~4品作ります。
世間様の平均が一食いくらなのかわからないので、
もしかしたら努力が足りないのかもしれませんが、
私としては家族でそれぞれ好き嫌い(肉、魚、エビ、麺類)があるなか、
そこそこ頑張っているつもりです。

電気を使いすぎ、水道を使いすぎというご指摘もあるかもしれません。
確かに、すごく節約はしていません。
ですが、状況を理解してもらいたいのは、
同居している嫁の立場からは、節約の強制はしにくいということです。

そんな、日々家計のやりくりに頭を痛めているなか、
つい先日、衝撃的なことがありました。
なんと水漏れしていたことが判明したのです。
しかも見なければいいのに、
ネットで水道代や電気代が今までの最高額を更新した!とか載せている方がいて、
どれぐらいなのだろうと見ても、我が家よりはるかに安いんですよね・・・。
その方にしてみればお高いのでしょうが、私にしてみればこれで高いの?です。
我が家、今回の事で水道代7万円しましたけど。
ちなみに2カ月分の水道代の平均は4万円です。
おまけに漏れていた部分の修理でまた出費。

さらにおまけに16年お世話になったオーブンレンジも壊れました。
電子レンジは今のご時世必須です。
またまた痛い出費です。
そして、冬場は毎年電気代月5万円ほどかかっています。

二人フルタイムで働いて毎月いただくお給料が、
毎月それ以上、出て行っています。

現在ひもじい思いはしていないものの、貯金は一切できません。

春からは長男が高校生。
携帯も持つことになりますし、お小遣いもたくさんはあげられないですが必要でしょう。
まだ進学先が決定しておらず、公立校に受からなければ私立になります。
毎月の学費が高いです。
給食もないので昼食代も上乗せになります。
これからの生活に不安しかありません。
もやしと豆腐の出番が確実に増えることでしょう。

内情を知らない人から見たら我が家は青い芝生のように見えているのかもしれませんが、
私から見れば、皆様の状況がとてつもなく青々として見えています。
・・・まあ、多くの人が、そのように感じているのかもしれませんがね。

[okei]

異形の神のお化粧直し(前編)

宇賀神という神サマがいます。
いや、まぁ、神サマというか、なんというか。

財をもたらす福の神ということになっていますが、
見た目はとぐろを巻いた蛇で、顔だけが人間のおじいちゃんという、
なかなかサイケデリックなビジュアルの神サマであり、
しかも、竹生島の寶厳寺など、多くの場合で、
弁財天という女神の頭上に乗っているという、
いや、まぁ、神サマというか、なんというか、ねぇ……という神サマ。

宇賀神 寶厳寺弁財天
左)https://www.ensenji.com/2018/02/13/%E5%AE%87%E8%B3%80%E7%A5%9E%E5%83%8F/
右)https://janonet123.com/index/chousa/22/08_06chikubusima/08_06chikubusima.html


さて、私、この宇賀神が描かれた掛け軸を持っており、
もう、入手してかれこれ30年ほどになります。
もともとは祖父の持ち物だったもので、
祖父が見せてくれた古い櫃の中に仕舞われているのを発見し、
ワガママを言って譲ってもらったのでした。
とはいえ、祖父も「気味の悪い蛇の絵だ」くらいの感覚だったようで、
宇賀神についてはそんなに詳しくなかったのでしょう、
もともと宇賀神を知っていた私は、「処分しといてあげるよ」などと、
半ば騙して、手元に連れてきたのでした。

しかし、この宇賀神の掛け軸、
現在、長期出張中で、我が家にいないのです。

もともと、この掛け軸、ウチに来た時点で、なかなかに傷んでいたのです。
表装は紙でできていて、それが煤けているというか、なんかボロボロ。
床の間に掛ければ千切れてしまいそうな痛みっぷりで、
しかも、紙ゆえに、下手に広げられないというハンデつき。
わりと早めに「これは表装を直してからじゃないと掛けられないな」と思い、
一旦、箱に戻したまではよかったのですが、
そのまま25年以上が過ぎてしまったのでした。

すいません、宇賀神サマ。

5年ほど前の秋口のこと、季節の変わり目に掛け軸を掛け替えようと、
掛け軸をしまってある地袋を物色していたところ、
偶然、25年以上ぶりに宇賀神サマにお目にかかったというわけ。

そのころ、たまたま関西の美術系の大学から講演の依頼があって、
秋口とはいえ、まだ暑い時期の週末だったのですが、
関西に来たついでと、奈良を散策していた私。
細い路地に一軒の表具屋を見つけたのでした。

長屋のような建物のガラス戸に「表具」と墨書きされているだけのその店は、
はっきり言って尋常でない敷居の高さでしたが、
旅先で気が大きくなっていたのか、
私は、わりとすんなり足を踏み入れたのでした。

そこにいたのは、還暦くらいの痩せた職人でした。
作業の手を止め、胡散臭そうにこちらを見ています。
「あ、あの、古い掛け軸の表装って、直せますかね?」
「……どれ? 見てみんとなんとも言われへん。」
……そりゃそうですね。
しかし、いまは旅先の散策中。
現品を持参してはいませんから、見せられるものはありません。
仕方なく私は店を出て、翌週、現物を持って再訪したわけです。

黙って現物の状態を検分した職人は、
「それで、これをどうしたいの?」と聞いてきます。

実はこのような、
特に美術系の職人さんと話しててよくあるのは、『口頭試問』
プロが納得する答えができれば交流は続くけれど、
うまく答えられないと、鼻で笑われて追い返されるというパターンで、
要は、依頼人としての見識を値踏みされる感じです。

私は掛け軸に対する思いをそれなりの熱を込めて語りました。
もちろん25年も寝かせたことは秘密にしたことは言うまでもありませんが。
職人は満足げに「なるほどね。分かったよ」と言ったのでした。

こうして試験に合格した私は、ようやく彼と普通に話せるようになり、
宇賀神の掛け軸の修復も引き受けてもらえることになったのですが、
開口一番、その彼が言うのには、
「納期は最低でも3年、通常は5年ね」

いやいやいやいや。
掛け軸の直しが5年って、さすがにちょっと。
お値段は、拘束時間の分だけ高いとか言いませんよね……。
最初は担がれたのかと思いましたが、
しかし、彼は本気の目をしており、
曰く「時間をかけるほど、表装に狂いが生じなくなる」とのこと。
職人さんにそう言われてしまうと、もう返す言葉もありません。

こうして、私は掛け軸を彼に預け、
数ヶ月に一度、まるで別居する孫の顔でも見に行くかの如く、
打ち合わせを兼ねて、いそいそと奈良に出かけることになったのでした。

この話は続きます。

[SE;KICHI]

今、考えるべきこと①

大学って何でも学ぼうとすれば、どれだけでも学べる良い環境かと思います。
勉学そのものが自由ですし、仕事のように拘束されない。
それこそ一日中勉強してもバイトに明け暮れても、
レポート締め切りと試験の後の単位の取得をこなしていけば、もう自由でしょう。
現役の学生生活を経ていませんので、あまり適当なことは言えないのですが、
一応学生でもありますので、
時間の使い方は別にして、やることは変わらないと思います。
私は様々な授業が受けれる総合大学にいますので、
好きな歴史関連は履修科目として多く占めています。
それでもそれだけでは卒業はできません。

総合大学としての強みでもある様々な分野の科目、
特にその大学が大切にしているカラーのような授業が、選択必修で用意されています。

昨年の秋、選択必修で選び受けた科目で「平和学」という学問があります。
この学問は、一般に紛争などの争いの背景や経済、
地政学などから回避する方法や平和維持などを科学的に研究する分野のことです。
正式には、アカデミックな世界では学問の分野では通っておらず、
平和研究に近いイメージでしょう。
その目的は、紛争及び戦争を回避防止すること。
学問的で客観的な視点で捉えず、”争いの否定有りき”で有るため、
先述のように学問ではないとの批判や、
人間の動物的な本能から、根絶することは不可避なため、
研究そのものが無駄ということまで言われてきたそうです。
いかにも意見が偏りそうで、
しかし一つだけではない科目といったイメージでしょうか。
私が好きな歴史のように、一つの答えだけ覚えれば良いといったものではないので、
考え論じることがメインです。
(他にも哲学、人間学、異文化コミュニケーション等といった授業もそうです。かと言って、数学は大変苦手ですが。笑)

我が大学では「平和学入門」「平和学」の2科目が取れることになっており、
私は両方共受けてみることにしました。
(※様々な角度から平和について研究が進められている為、ここではかなり限定的な私の意見を書いていきます。)

そもそもですが、皆さん、
平和とはどのような状態を考えますでしょうか?
国と国の間で交易や交流が行われており、戦争なんかになっておらず、
お偉いさん同士が仲良く手を繋いでカメラの前で笑っている、
テレビの奥の光景といったところでしょうか。
私もこの授業を受けるまでは、そんなレベルでしか考えたことがありませんでした。
平和学では国連のことが取り上げられるのですが、その中でも重要なワードとして、
「消極的平和」「積極的平和」という言葉があります。
「消極的平和」とは、単に戦争が無い状態を意味するもので、
先述の私のイメージに近い状態です。
「積極的平和」とは、戦争が無い状態に加え、
個人間レベルにおける肉体的暴力、精神的暴力、性的暴力などの”直接的暴力”と、
戦争の原因となる”構造的暴力”が無い状態であることを意味します。

”構造的暴力”の概念は広く、
経営者と労働者の関係や貧困、飢餓、抑圧、差別といったものが、
間接的や潜在的にふりかかってくるものであるとされ、
極端なことを言えば、暴力の主体者がいないような状態ですので、
不平等かつ貧困に苦しむ国々に住む人たちが、
裕福な国に住む人々らに自国の資源を、
貿易によって吸い上げられているような状況でしょうか。
戦争するための軍隊を持つことそれ自体が暴力ですが、
例えば徴兵制そのものが強制力のある”構造的暴力“であり、
警察官の特権であるそれも、人が人を死刑に処する法律そのものも、
”構造的暴力”といえるのでしょう。
(もちろんいじめや各ハラスメント等もこれらに属すものです。)
(一方で、軍や警察といった暴力装置が無くても、全く大丈夫かと言われると、それはおそらく否と言えます。現に必要暴力として日本にも警察、自衛隊が存在しているのも事実です。秩序を守る為に必要な、矛盾があるということです。)


この理論はノルウェーのガルトゥング博士が唱えた理論で、
現在は、平和学の当初の研究対象であった戦争や紛争のみならず、
貧困飢餓、開発、ジェンダー、コミュニティ、
はてはLGBTなどにまでその対象を広げてきました。
実際、1960年代のインドからの国連に対する報告では、
「戦争が無くても平和ではない」というものでした。
差別や弾圧、極度の貧困など、
一国の中でも人間全体の発展の可能性を奪う構造的な暴力の形ができていました。
今も北半球と南半球に代表される地球規模での、
”構造的暴力”で溢れていると言えます。
現在の「平和学」とは、こういったあらゆる暴力を多角的に捉え研究し、
その解決を図っていくのが課題であり目的なのです。

国際連合旗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E3%81%AE%E6%97%97

1つ、考えてみます。
今、日本は周辺国との関係性が非常に冷め切っていると言われているほど、
決して平和な状態とは言えない状態です。
隣国は1つだけではありませんが、領土問題や核ミサイルなど、
日本は平和なようでいて、実際は「平和学」的に見ても、
十分考察に足り得る危険な問題を抱えた状態であることは間違いないでしょう。

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ。」とは、
4世紀後半のローマの軍事評論家ヴェケティウスの、
『軍制論』に由来する、格言とされています。
これは好戦論ではなく、簡単に言えば、
平和の為に戦争の準備をしておけば、戦争の回避をすることができるという、
現代の解釈で言う抑止論でしょう。
(抑止論では核兵器について展開できますが、それは次回にしたいと思います。)

しかし、自らの安全のために、戦争回避のために、自衛の備えを行うことによって、
逆に自らの安全を損ねてしまう場合があります。
国際政治の世界でも度々問題になる、「安全保障のジレンマ」と言われるもので、
分かりやすい例で言えば、冷戦時代の米ソの関係でしょう。
ここでは核については深掘りしませんが、
明確にぶつかってもいないのに、互いに抑止のために開発競争を繰り返した結果、
相互不信と不安が生まれ、やがてそれは膨れ上がりました。
そして相手国のみならず、
自国、ひいては人類全体を破滅に追いやるだけに十分な量の、
兵器を生み出してしまったのです。
これは悪循環の例であり、
まさにヴェゲティウスの格言通りの行動は、平和を損ねてしまう場合があるのです。

現に日本の周辺だけでも、北朝鮮の核問題、中国の南シナ海における軍事行動など、
彼らが言う自国防衛のためが、他国に脅威を与え、
様々な軍事的緊張を引き起こしています。
かくいう日本の防衛予算も、
2020年度予算案は5兆3千億円超と例年過去最高となってきています。
まさに「安全保障のジレンマ」を引き起こしていると言えるのではないでしょうか。

こういったものに対して「平和学」をはじめとする分野から、
平和のための準備を重要としていることから、
それを達成するための”手段”も様々検討されてきました。
具体的には、先進国が主導の国連の存在やPKO等各種支援の動きです。

第二次大戦後の国連誕生において、国際憲章が制定され、
人権が国家主権より大切に扱われるようになり、
各国国家間の戦争が減り、新興国家が独立する一方、
民族間や宗教思想の対立である国内紛争または国際化した紛争が多くなりました。

国連は平和創造や平和維持の為に、平和とは真逆のように思える国連軍を組織し、
激しい人権侵害や危機にある国家において、
主権国家が自国民を守れないまたは守らない場合に、
強制的に武力を用いて介入していきました。
人道的介入といわれる、軍事介入です。
(有名な例で言えば、コソボ紛争におけるセルビア空爆などです。)

それは、1993年にもアフリカのソマリアでも行われました。
そのソマリア内戦(モガディシュの戦闘)の実話をモデルにした、
「ブラック・ホークダウン」という映画を先日鑑賞する機会がありました。

『ブラックホーク・ダウン』
https://movies.yahoo.co.jp/movie/236636/

映画は戦闘シーンが多く、その他のことは詳しくは触れられていませんでしたが、
国連安保理のPKO活動によって国連軍(米兵、英兵等)が派遣され、
平和建設と破綻国家となった政府再建のため、
敵対する敵将幹部らの拘束を迅速に遂行する作戦となっていました。
ですが、当初予想はしていなかった、激しい応戦を伴った被害の大きい戦闘となって、
結果的に全軍を撤退するきっかけとなりました。

ソマリアは、まさに人道的に治安も衛生的にも悲惨な状況のなかにある中で、
国連による軍事的介入を受けたんです。
当然彼らの反発は強くなりますし、
登場するソマリア人の人物や民兵らの台詞も心に突き刺さるものがありました。
関係の無い一般市民も多く被害にあっており、
アメリカ視点とはいえ、平和的な手段を選ぶ、
平和構築を行うことの重要性を考えさせられるものでした。
国連の決議と失敗とはいえ、これからも起きてしまうだろう事態の教訓として、
より平和的に思考と行動に反映するべきではないでしょうか。

1994年のルワンダ内戦では、逆に不介入を行ったために、
多くの人が虐殺されてしまう悲劇が起きています。
失敗を重ねて、現在は伝統的PKOに回帰する方針が示されています。
このように、国連だけにおいても、平和における様々なジレンマを抱えているのです。

私の住む北陸地方でも、かつて北朝鮮による拉致被害者が多くいたことからなのか、
かの国に対して、目には目を歯には歯をの理屈で、
早く指導者を殺して報復してしまえばいいなどと漏らす人もいます。
ですが、
憎しみに対する報復は、結局憎しみを生んできたのも現実です。
安易に軍事や暴力で片づけてしまえると考えることを、
平和的思考に転換していく為には、
「平和学」の視点からも、平和的に話し合うことからであると思います。
仲の良くない隣の住人とのトラブルも、対話中心で模索していく。
幼い頃の子供の喧嘩でさえ、よく考えて話し合えていれば、
お互い傷つけずに解決することもあったのかもしれません。
案外、そのヒントは近くにある気がします。
普段からコミュニケーションを取ること等、
近しい人から、平和構築について学ぶ何かがあると思うのです。

話しは大きく変わりますが、先日、あの森喜朗さんが辞任しましたね。
SE;KICHI さんも取り上げておられましたが、
問題の発言、女性蔑視だ、切り取った部分しか報道していないとか、
もうめちゃくちゃ報道されていましたよね。
(安倍晋三さん、森喜朗さん、今度は誰なんでしょうか?笑)
すみません、脱線しました。

女性蔑視そのものはダメとして、男女が全く同じことはできないと思います。
男しかできないこと、女しかできないこと、あるはずです。
更に言えば、男性は力強いイメージ、
女性は優しく包み込むイメージがあったりするものですが、
全員がそうではない。
肉体的構造を抜いてみても、一人一人違ったりするのですから、
個人レベルではよりややこしいです。
でも、それぞれ得意不得意があって、
ずっと昔からそういったものをお互いに補いながら、
人間は生きてきたのも事実だと思います。
そこに”構造的暴力”があると言われれば、おそらく間違いないかもしれませんが。
(個人論ですが、男性は奮い立たせる力があり、女性は男性にはない優しい癒す力がある。幼いころからそう思っていたりします。)
男性が狩りに出て、女性が家で家族を守り食事を作る、
縄文時代の関係性は極端ですが、
きっと持ってる能力が違ったのだから、
こうなったのだろうと思っています。


昔、役職をお持ちの年上のお客様と話すのに、気を遣って上手く話せないと、
SE;KICHI さんに相談したことがあります。
その時のSE;KICHI さんのアドバイスが未だ忘れられないのですが、
「天皇も、総理も、女優も、社長も、皆、役目があるんだよ。
それぞれが必要な役割があって存在しているように、
あなた自身にも役割がある。
そのお客さんも役割があってそこにいるんだから、
変に気を遣う必要は無い。
偉いか偉くないじゃない。
一人の人間であり、おじさんなんだから。」
と言われたのを覚えています。

これは私の中で今も心している指針の一つですが、
どこか、「平和学」の視点で考えれる点だと思います。

森さんが意図して発言したかどうかは別として、
女性蔑視の発言そのものは「平和学」から見ても、
”構造的暴力”の片鱗が出ているような気がする・・・。

あらゆる暴力をなくしていく学問として、
こういった問題からも、「平和学」の研究ができると考えます。

[K.K]

ポージングの話

いや、切ない! 実に切ない!

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森会長による、
女性に関する発言をめぐった日本社会の“狂乱”の話です。
森さんが謝罪したにもかかわらず、
直接関係のない国会で資質について執拗に疑義を投げかけ、
さらに関係のないワイドショーなどでも芸能人たちが声高に辞任を促し、
こんなことごときで世論調査をするとか、
謝ってるのに際限なく叩く姿は、リンチのようですね。

発端となったのは、森さんの、
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言です。

これが女性蔑視なのかどうなのか、
それは受け取り手の問題なのでしょうから、私には分かりません。
立場やタイミングを考えて、もっと配慮して話せばよかったのに、
バカだなぁ……と、森さんに対しては思いますけど。

ただ、心理学などを見てみても、
『男性はいちばんになりたいという「競争」、
女性はみんなと同じになりたいという「共感」を大切にしています』とか、
『男性は論理的で目的達成を重視してものを考える傾向にあり、
女性は人とコミュニケーションや協調性を重視しています』とか、
それなりの統計学に基づいた学説がふつうに流布されていて、
嚙み合わない男女を題材にした学術書からラブコメまで、
もはや性差の違いは存在するものとして扱われているといってよいでしょう。
たとえば今回の森発言でいえば、「女性は話が長い」という点について、
共感を求めるために言葉を尽くすという意味では、
性差としてあり得ることのような気がします。
一方で、男性が、目的達成を重視するために言語化が充分でないという意味では、
「男性は細かく教えてくれない」などと、相対する概念があるはずで、
つまり、感覚的に、性差はあると思うんです。

でも、それは別に問題ないでしょう。
子どものころだって、
きちんと授業のノートをとって、さぼらずに掃除をしていたのはだいたい女子で、
男子はノートなんかロクに取らず、掃除もホウキ振り回して遊ぶだけだったでしょう。
そして、女子に「ちょっと男子! 真面目にやって!」って、
いつも怒られてましたよね。
感覚的に、間違いなく性差はあると思うんです。

でも、それは別に問題ないでしょう。
世の中、SDGs を標榜していますが、
SDGs って違いを認める社会ですから、
まずは、男女の違いを互いに認め合ったうえで、
向き不向きとか、得意不得意を考慮して補い合うことが肝要なはずです。
「女性は話が長い」と言ったからって、別に女性蔑視ではないと私は思いますけどね。
それよりも、「女性は話が長い」として、それに男性はどうかかわるか考えるのが、
本当の意味での SDGs ではないんでしょうかね。

それに、森さんの発言について、あまり無責任なことも言えないので、
今回は、わざわざ全文を取り寄せて読んだのですが、
実際には発言の最後のところで、
「私どもの組織委員会にも女性は7人ぐらいいますが、
みんな、わきまえておられます。
お話もきちんと的を射たものが集約されて、非常に役立っています。」と、
至極まともなことを言っています。
むしろ、女性をリスペクトしているようなことを言っているのですが、
しかし、マスコミでは女性蔑視と決めつけて報道していて、
特に、「わきまえる」とは何事だ!と、
その表現を使ったことが女性蔑視の証左のように非難されています。
別に「オンナはすっこんでろ」とか言ったわけでもないし、
会議の席でわきまえるべきなのは、男女問わず、参加者全員だと思うのですが。

まぁ、それは私の意見というか、私の印象なのですが、
しかし、それにしても、この状況はどうなのでしょうか。
森さんがスポーツ界に果たしてきた貢献も実績も、
オリンピックの東京招致に対する尽力も、
IOCとのパイプとか影響力とか、そういうのは全然評価されず、
いま、彼は、ただただ、みんなに「早く辞めろ」と突き上げられています。
息子さんも亡くされ、ガンを患いながら、
83歳の老骨にムチ打って、無報酬で働いてきた老人に、

この仕打ちはどうなのでしょうか。


いや、切ない! 実に切ない!
こんなの、いじめじゃないですか。
少なくとも、小学校では、謝ったら元通りのお友達に戻れると教わりました。
つまり、謝っている子を責め続けることを認めてないのです。

ちょうど20年前、えひめ丸の事故で批判にさらされていた森首相を思い出します。
あれだって、日米外交問題と見れば外務省の所管だし、
海難事故という視点では国土交通省か海上保安庁の所管だし、
えひめ丸が水産高校の実習船であることを考えると文部科学省の所管でもあるので、
それぞれの省庁が機能していれば、
別に首相はゴルフをしていても問題はなかったはず。
いや、所管が複数の省庁に跨っているので指揮系統が混乱するのであれば、
その統一のために内閣官房を所管として指示すればよいだけのことで、
どうも、この森さんという人は攻撃を受けやすいというか、
足を引っ張られやすいようで、気の毒になります。

私自身は、2016年のリオデジャネイロオリンピック終了後にお会いしたことがあり、
その時は、オリンピック選手とパラリンピック選手のパレードを、
史上初めて合同で実施したのが大変だったとお聞きしました。
それまでは、先に終了するオリンピックのパレードを先行して実施しており、
リオデジャネイロオリンピックでも、
前例を踏襲しようという意見が強かったようですが、
森さんはいくら周囲に説得されても応じようとはせず、
パラリンピックが終わるまで1ヶ月くらい待って、
オリンピック選手とパラリンピック選手が合同でパレードをできたのだと聞きました。

花形であるオリンピック選手だけでなく、
どうしても注目度で少々劣るパラリンピックの選手の気持ちを思いやる森さん。
そんな人が差別の権化のように指弾され、
一方的に退場させられる姿には違和感を感じます。
というより、この顛末、子どもに説明できないでしょう。
子どもから、
「あのおじいちゃん、謝ってるのに、
みんな、どうして許してあげないの?」
って聞かれたら、
みなさん、どう答えるんでしょうか。

昨年末に、財布を落としたけど無傷で届けてもらえて、
日本はなんて素敵な国なんだ!という記事
がありましたが、
こんな個人批判が毎日繰り返されるのを見ていると、
日本人というのは立派な国民だという信頼感に、
若干の揺らぎを感じざるをえません。

[SE;KICHI]

掃除のススメ、断捨離

もう2月に入っておりますが、私にとっては2021年初めてのブログになります。

毎年、自宅やお勤め先で、年末の大掃除をされる方は多いと思います。
私もその一人なのですが、掃除を終える度に思うこと・・・
「今年はこのまま綺麗な状態を保とう」です。
これを毎年思うのですが、昨年末に自宅の掃除をした後、
2週間程過ごして気が付いたことがあります。
「いつの間にか散らかっている!」

気合十分で掃除をし、しばらく経ってからこのように思ったことがある方は、
私以外にも多くいらっしゃるはず。
私自身は散らかっている空間は好きではないのですが、
散らかりやすいという矛盾した結果になっております 笑
今までの自分の経験上、散らかりやすい要素は大きく二つあると思っています。

①定期的に掃除をしない、使った物を元の場所に戻さない。

定期的に掃除をする日を決めている方は、
そこまで大掃除の時に一苦労しない気もします。
普段あまり掃除をできていない場所も、明確なような気もしますし・・・
(できてない私にとっては素晴らしいと思っています)
また、使った物を元にあった場所に戻さないということも、
散らかりやすくなる原因だと思います。
「明日も使うだろう」と思って、普段使用しているテーブル等に置きっぱなしにし、
実際は使わなかった、なんて経験もあります。
そんな日々が多くなるといつの間にか散らかってしまう。
子どもの頃に「使ったものは元に戻しなさい」と言われることが多いと思うのですが、
実は掃除や片付けの基本だったのかなと感じます・・・

②「断捨離」ができない。

私が自分自身に一番当てはまっていたことであり、今は少しずつ実行しています。
年末の大掃除をし終えた時は、
何とか自分なりに整理整頓ができたのかなと思っていましたが、
改めて周りの物を見ると、まあ普段使っていない物が多いことに気づきました。
断捨離は、ミニマリスト(必要最小限の物しか持たない)と違い、
今の自分が欲しい物、必要な物なら、持っていても良いと考えるそうです。

自分自身を改めて振り返ると、
普段使ってない上に必要でない物が多くあると感じたのです。
もちろん掃除をする時はある程度捨てる物はあるのですが、
「これは何かの機会で使いそうだから取っておくか」とか、
「これは記念品の物」とか思ったりして、
なかなか捨てられないまま整理整頓をしていました。
何かの機会っていうのは、
具体的な例が出てきてない時点で、今の私にとっては不要だと感じ、
記念品の物というのも、
具体的には自分自身にとって何の記念で必要だと感じているのか、
ということが大事です。
今後持っておく必要があると感じるかは人それぞれですが、
私自身は必要と感じない物もありましたので処分しました。
当たり前ですが、必要と感じる物は購入しますし、
不要な物を持っていたままだと、
掃除してもキリがありませんね。


物を持つということは限度があります。
一番身近に感じられる部分は自分自身の手です。
手で持てる量は限度があります。
まとめて何かを運びたいときは鞄に入れて持ち運びます。
そして自然とその鞄の中に入る量を考えて物を入れているはずです。
鞄を大きくすればそれ以上に入りますが、
そんなに重い荷物は持ちたくないと思う人は多いはず。
断捨離はこの延長線上にあるような気がします。

まだ断捨離を完全に終えてはないので今日も実行します!
私のように改めて不要な物を振り返り処分すると、
掃除や整理整頓が面倒だと思っていた方も、そこまで億劫にならないと思います。
というか、そう信じて断捨離をしているところでございます 笑
自分にとっては不要な物でも、他の方には必要な物もあったりするので、
リサイクルショップに出したりするのも良いですね。
出すのが面倒だったり、値段が付くような物ではないと感じたら捨てましょう。

不要な物を処分すれば、
本当に自分に必要な物を、身近に置くことができます。

それだけで気分がスッキリするので、皆さんもぜひ断捨離をしてみて下さい!

[SYUN]

飛鳥の執念⑬ ~長屋王の不幸

教科書にも出てくるので、いちおうはみんなが習った「長屋王の変」
ざっくり言えば、現在の首相ほどの権限を持っていた長屋王が、
官房長官ほどの立場だった藤原不比等の息子4兄弟から冤罪をかけられ、
自宅を包囲されて自害……という事件です。

まぁ、当時、よくある話と言ってしまえばそのとおりなのですが、
このクーデターで長屋王とともに亡くなったのが、
妻の吉備内親王と、膳夫王や桑田王など、4人の息子たちでした。
この、妻の吉備内親王という人物は尋常でない血統の人で、
元明女帝の愛娘の一人で、父方の祖父母は天武天皇・持統天皇夫妻であり、
母・元明と祖母・持統の父親は同じく天智天皇なので、
天武・持統の孫でありながら、天智の孫にもあたるという、
もう、ゴリゴリの天皇家の娘っ子だったわけです。

時を戻そう (笑)

以前紹介した、持統天皇が執念で孫につなげた皇統でしたが、
彼女の崩御後、孫の文武天皇が、まだ25歳だというのに病死してしまったため、
皇統はたった5年でピンチに陥ったのでした。
それも、まぁ、よくある話ではあるわけですが、
娘の宮子を文武に送り込んでいた重臣・藤原不比等にとっては大誤算ですよね。
亡き文武と宮子の間には首皇子というのが生まれてはいたものの、
まだ7歳なので、さすがに譲位を断行するわけにはいきません。
そこで、中継ぎが必要となるわけですが、
不比等としては、確実に孫である首皇子に皇位が継承されるために、
何が何でも皇位を文武の家族から動かすわけにはいきません。
たとえば、亡き文武の妹である吉備内親王が即位することになったりすれば、
その夫である長屋王が皇統を牛耳ることになるに違いないし、
皇統は、そのまま長屋王の子・膳夫王に継承されてしまうので、
首皇子に皇位が継承されなくなってしまいます。
それは、藤原一族としてはどうしても避けねばならない事態であり、
まずは、間違っても、吉備内親王系に皇位が流れるのを阻止しなくてはなりません。

そこで編み出されたのが、首皇子の祖母で文武の母である阿閇皇女への譲位でした。
阿閇皇女は吉備内親王の母でもありましたが、
不比等としては、一世代遡ることで、
とりあえず吉備内親王から皇位を遠ざけることに成功した形です。
いや、何が言いたいのかというと、
中継ぎとして阿閇皇女を即位させて元明天皇とする案は、
おそらく藤原不比等の策略だったと思われるということです。

しかし、阿閇皇女も波乱の人生です。
夫の草壁皇子の亡きあと、姉でありながら姑でもある持統女帝と助け合い、
何とか3人の子供たちを成長させ、
軽皇子が文武天皇として即位し、吉備内親王も長屋王との間に孫を生んで、
おそらくホッとしていたころだったはずです。
息子が急死して傷心だったと思うのですが、
阿閇皇女はどういうつもりで即位を承諾したのでしょうか。

ともあれ、とりあえず、皇位は文武の母に戻されたわけですが、
この、異例な形での即位は、
長屋王に皇位継承の可能性を認識させたに違いありません。
もともと、長屋王自身は、天武の孫ではあるとはいえ、高市皇子系統であり、
直接の皇位継承権はないような人物でした。
言うなれば、野心を抱いたところでどうにもならないような立場だったわけですが、
いま、突如として妻の母が天皇となったわけで、
仮に、現天皇が妻を後継者に指名してくれれば、
我が家に皇位が転がり込んでくるというもの。
長屋王、浮足立ったに違いありません。
実際、不比等は保険をかけて、別の娘である長娥子を長屋王にめとらせ、
どっちに転んでも大丈夫なようにしています。

しかし、私は思うのです。
首皇子にまで皇統をつなぐ執念を持っていたのは不比等だけで、
阿閇皇女には、そのような執念はなかったのではないか、と。
わが息子・文武の子であるとはいえ、不比等の娘(宮子)から生まれ、
不比等の正妻(橘三千代)が養母となり、
そして不比等の娘(安宿媛)が妻となる予定の首皇子。
そのような者を身内だとは思えなかったでしょうし、
これ以上、不比等一族の力が強くなることは危険なことです。

そこで、阿閇皇女は何年かかけて布石を打ちました。
首皇子を皇太子にすると同時に、氷高皇女を高位に昇格させたのです。
不比等は首皇子の立太子に夢中で気づかなかったようです。
そうしておいて、譲位断行。
もちろん、皇太子である首皇子ではなく、氷高皇女に。
元正天皇の誕生です。
さらに阿閇皇女は畳みかけます。
もう一人の娘である吉備内親王を高位に引き上げ、
彼女が産んだ孫たちを“皇孫”扱いにしたのでした。

結局、不比等の負けです。
吉備内親王一家への対抗策として、皇位継承者を誕生させようと、
送り込んだ安宿媛を急かして、せっせと子作りをさせますが、
なかなか妊娠しないうえに、たまに産んでは女の子だったり、
せっかく男の子を産んでも早く亡くなってしまったり。
失意のなか、不比等はこの世を去るわけですが、
その後継者である四兄弟が、
破れかぶれで長屋王一家を陥れるのが「長屋王の変」です。

つまり。
「長屋王の変」と呼ばれてはいますが、
別に、特に長屋王は何もしておらず、ただ、お仕事頑張って出世しただけ。
彼が不幸だったのは、妻がやんごとなき家柄の生まれであり、
藤原家から勝手に張り合われていたこと。
そんなことで、一家皆殺しの目に遭わされ、恐ろしい限りです。
ちなみに、長屋王一家を陥れた藤原四兄弟は、
「長屋王の変」から8年後くらいに、全員一斉に病死します。
祟りなのでしょうか、恐ろしい限りです。

[SE;KICHI]

今年の冬は。

小さい頃から体が硬く、前屈など指が床に届いたことがありません。
このまま歳をとってもっと体が硬くなると、
足腰があっという間に衰退するのではないかと思い、
その不安を解消するため、去年から毎日ストレッチをしています。
劇的に柔らかくなることはないのですが、
膝の裏や股関節など、下半身の筋が以前に比べるとずいぶん伸びるようになりました。
私はいつも立ったまま靴下を履くのですが、
以前よりスムーズに履けるようになりました。
と言ってもまだ前屈で指が床に届きませんが。

先日とんでもない量の雪が降りました。
油断をするとギックリ腰になるので、腰にコルセットを巻いて除雪していたのですが、
どれだけたっても降り止まないのでどんどん積もり、
しまいには雪をどかす場所がなくなり、上に積み上げるしかなくなりました。
もうヘロヘロです。

会社の駐車場は雪が1mほど積もり、
入口には除雪車がよけて行った雪の山がもっと高く積み上がり、
とても入ることができませんでした。
何とか自力で除雪をしようと試みましたが、とても1人でできる量ではなく、
割と早目に途方に暮れてしまいました。
業者に頼もうと聞いてみましたが、どこも既にいっぱいで断られました。
まあ、道路の除雪でさえ追い付いていないですからね。

そこで会社に除雪機を持っていたはずの人間がいることを思い出して聞いてみると、
2年前に壊れて捨てたとのこと。
このままだと会社の営業に支障が出ると焦りながら、
誰かいないかとスマホに登録してある連絡先を見たりしていたところ、
知り合いがSNSに除雪機の写真をUPして、
「除雪機買ってて良かった。久しぶりに使った。」と、
コメントをしているのを発見しました。
これだ!とすぐに電話をして協力を頼み、何とか翌日にOKしてもらいました。

実際にやって見ると、除雪機が家庭用サイズで、能力以上の積雪があり、
車が入れるようになるまで丸一日かかりましたが、
翌日の営業日に間に合い、本当に助かりました。
ありがたいことです。

1月11日の除雪の様子

その知り合いは後から、何でもSNSにUPするものじゃないなとくどいていました。 笑
注)「くどいていました」……富山弁で「愚痴を言っていました」の意味。

そして、私の体は筋肉痛でガチガチになり、
ストレッチすらできなくなってしまいました。

立ったまま靴下を履くのがツラかったです。

去年は全く雪が降らなかったのですが、今年は未曾有の豪雪になりました。
交通が完全にマヒしてえらいことになりました。
しかし、まだ冬は終わっていませんので油断できません。

スコップが2本、堅い氷のおかげで折れたり変形して使い物にならなくなりました。

折れたスコップ

ホームセンターへ行っても品薄でありませんので準備すらできません。
ひと頃のマスクのようです。

[M M]

『傾城反魂香』

昔、岩佐又兵衛という絵師がいました。
黒田官兵衛を幽閉したことで有名な、有岡城主・荒木村重の子として生まれ、
反逆が鎮圧された際、荒木一族はそのほとんどが斬殺されたところを、
当時2歳だった又兵衛だけが助けられ、母方の岩佐姓を名乗ったという人物で、
動乱の人生のなか、独自の画風を作り上げた人です。
猟奇的な場面やビビッドな色遣いの作品が熱海の美術館に収蔵されているので、
鑑賞したことのある方も多いかもしれません。

さて、近松門左衛門作の『傾城反魂香』という歌舞伎の演目に、
この岩佐又兵衛をモデルとした、又平という絵師が出てきます。

又平は生まれつき「どもり」の障害を抱えていて、
淀みなくすらすら言葉を繰り出すことができません。
日頃から又兵衛の世話をしているのは妻のお徳ですが、
言葉の出ない夫に代わり、相手に話して伝えるのもお徳の役目になっていました。

又平の絵の師匠が、土佐将監という人なのですが、
この人はちょっとワケあって謹慎生活を送っており、
又平夫妻は毎日のように手土産をもってこの師匠の家を訪ね、
不自由な謹慎生活の世話を焼いています。
その又平の誠実な人柄を、師匠も、その奥方も、
また、その家には住み込みの若い弟子もいるのですが、その若い弟子も、
みんながみんな、好ましく思い、一目置いています。

ところが、当の又平本人は、自分の「どもり」の障害に深い劣等感を感じ、
のびのびと振る舞うことができません。
いつも、愛想笑いを浮かべながらぺこぺこと卑屈なお辞儀を繰り返し、
師匠とのやり取りは妻のお徳に任せてしまうのです。


このお芝居を観た人は、だいたいの人が、
不自由な言葉のことなんて気にしないで、
たとえ一言でもいいから自分自身の口で師匠と話せばいいのに、
しっかししろよ、又平!……などと、
又平に対するもどかしい感じを抱くものです。
まぁ、そういうお芝居です。

しかし、人間、そういうものかもしれません。
自分が本当に負い目に感じていることは、
なかなか人前で披露できるものではないのかもしれません。

しっかししろよ、又平!……などと言っては見ましたが、
自分自身にだって、無意識にそういう何かがあるかもしれませんから、
観客とは無責任なものです。

さて、師匠が名乗っている“土佐”は、
学校で習った“狩野派”みたいなもので、
“土佐派”という絵の流派の一員であるという証拠です。
又平も、いつか師匠に認められて“土佐”を名乗ることを夢見ています。
先ほど登場した住み込みの若い弟子は、
又平に先んじて“土佐”を名乗ることが許されました。
それを知った又平も、意を決して、
「自分にも名乗らせてください!」と師匠に嘆願します。
……もちろん、その嘆願も、妻のお徳を通じて、ですが。


いや、さすがにそれは……しっかししろよ、又平!
だって、自分にとって最大の願いであるのに、
それすらも他人に頼るなんて、それはちょっと……。

又平のそういう態度を見かねてか、さすがに師匠は突き放します。
「オマエは、一生そうやって生きていけばいいわ。もう帰れ。」と。


おそらく、劣等感から自信を失い、伝える能力すら不足している状態が、
普段の画風にまで影響を与えていたのでしょう。
師匠は暗にそのことを指摘してくれているわけで、
師匠の突き放したような態度は、愛ゆえの励ましであろうと思うのです。
お芝居を見ている私たちは、
自分が変わらなければ道は開けないぞ、
勇気を出すんだ、又平!
……と祈るような気持ち。

最終的に、この演目のクライマックスは、
死をも覚悟して又平が走らせた筆が奇跡的な出来となり、
それを認め、師匠は又平にも“土佐”を名乗ることを許すのですが、
その手前に感動的なシーンがあります。

「お……お願…い!」と、又平がついに自分の言葉で、
師匠に“土佐”を名乗らせてもらえるよう、直談判します。
当然、つっかえますし、言い間違えますし、活舌も悪い。
しかし、そのようなことは気にせず、ひたすらに思いをぶつける又平。
それはもう、すごい気魄です。
結局、又平に欠けていたのは気魄だったというわけです。


このところ、自己分析が堪能な方が多いような気がします。
曰く、「オレって、母子家庭だったせいか、〇〇、苦手なんですよね……」とか、
曰く、「私、貧乏だったから子どものころから△△とかできないタイプで……」とか、
曰く、「ボク、親が公務員だったんで、昔から××ってやれないんすよ……」とか。
その自己分析は、たぶん正しいのでしょう。
自分でそう思うんだから、間違っているはずはありません。
しかし、母子家庭も貧乏も親が公務員も、かつてそうだったにすぎません。
年齢、性別、職業、血液型なども然りで、
何ひとつ、今後も自分が何かを苦手であることの証明にはならないはずです。

自分を変える勇気。
その勇気を振り絞るのは簡単なことではないですが、
しかし、人間にとって、ここぞというときには、
それが局面を打開する大切な勇気になると思えます。

[SE;KICHI]

建設業許可をいただきました!

かねてより申請中だった建設業の許可ですが、
このたび、富山県知事より許可をいただきました。

これもひとえに、日頃からのみなさまのおかげです。
誠にありがとうございます。


今後も機械器具設置工事業として、より一層、頑張っていきますので
これまで以上に、株式会社セイシンをよろしくお願い致します。

建設業許可

[AKA]
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kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

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FAX:(076)451-0543

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〒950-1142
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TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



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