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キケンなクシャミ③

前回は腰や左足の痛みを止めるのにブロック注射をした話までしましたが、
その後、1週間安静にして様子を見ました。
しかし左側のお尻から前太もも、スネにかけての痺れや痙攣はあまり変わらず、
病院の診察の日が来ました。

主治医にブロック注射のおかげで痛みはかなり軽減されているものの、
症状は改善されていないことを告げ、
今後このまま痛みを押さえて様子を見るのか、
あきらめて手術をするのか話し合いました。

私は1週間経っても症状が全く変わらなかったことから、
このまま時間が経過してもそれほど改善しないのではないかと感じていました。
そこで手術をした場合、痺れが治るものかと聞いてみましたが、
またもや人によるとのこと。
痛みは取れても痺れは残るかもしれないと。

そうは言っても神経に触っているところを取り除けばスッキリするだろうと思い、
手術することにしました。
内視鏡手術なので傷口が2cmほどで、時間も麻酔を合わせて1時間半ぐらいで済み、
入院も順調なら術後4日間で退院できると言われました。
2日後か3日後に1人ぐらいなら手術入れれるけどどうしますかと聞かれ、
ビビリの私は心の準備期間を少しでも欲しいというのと、
ちょっとでも先延ばしにしたいという往生際の悪さから3日後にしました。
そして手術の前日に入院し、緊張と慣れない環境で寝られません。

いよいよ手術当日、ストレッチャーに乗せらせて手術室に入ります。
そこで別のストレッチャーに乗せられるのですが、
ヒーターが入っていて温かいのです。
温かいんですねと付添いの看護師に話しかけると、
あなたのために温めておきましたよと笑いながら言われました。
まあ、私は緊張で笑えませんでしたが。

その後のことは麻酔のため覚えていないのですが、
手術後大きいな声で呼ばれて目が覚めました。
無事に終わったことを聞いてホッとしました。

病室に戻ると、麻酔の副作用で強烈な吐き気とだるさが襲って来て、
吐き気止めの点滴を打ち、数時間後にようやく落ち着きました。
すると今度は尿意が襲って来ました。
尿道に管を通すのが嫌で拒否した私は、シビンでしなければなりません。
寝たままだと力が入らないのでシビンはちょっと無理そうだなと思っているところに、
丁度主治医が様子を見に来て、
私が見ているから自分で立ってトイレに行ってすればいいと言われました。
個室だったのでトイレは近いのですが、
手術後いきなりすぐに自力でトイレに行くとは思っていなかったのでかなり驚きました。
実際何とかできましたが、少し動くだけで傷口が痛くて苦労しました。

肝心の手術後の体の症状は、その時点で腰の痛みはないのですが、
残念ながら左足の膝からスネにかけての 痺れは取れていませんでした。
スッキリ治ると思っていたのですが、
やるだけやったのだから時間の経過を待つしかしょうがないなと、
特に落ち込む事もありませんでした。
とにかく終わってホッとしました。
その3日後に傷口の抜糸をし、4日目に退院しました。
予定通りです。

入院中は夜も病室の戸を開けっ放しで出入りが激しく、
他の病室から夜中じゅう叫んだり奇声を発する声が聞こえ、
ナースコールをしょっちゅう鳴らす人や、
向かいのベッドの人は心臓が苦しいと言って緊急事態になったりと、
全くといっていいほど寝れませんでした。
毎日夜になると動物園にいるような気分になり、さながらナイトズーです。
食事も、特に何も制限されていなかったのですが、
学校給食の方がまだ美味いと思えるものしか出ませんでした。
もう入院はこりごりです。
あらためて健康の大切さを感じました。

実は話はこれで終わりません。
また今度。

[M M]
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衣裏繋珠のたとえ

ある貧乏な人が、親友の家を訪ねてお酒を飲んだところ、大いに盛り上がり、
2人して酒に酔って眠ってしまったそうです。
ところが、翌朝、
その親友は早朝から仕事で遠方に行かなくなければならなかったので、
寝ている友人を起こすのも忍びないと、彼を置いてそのままそっと出かけるのですが、
この親友はちょっと裕福な人だったので、貧乏な彼を憐れみ、
寝ている彼の足しになればと、
彼の着物の裏に、それはそれは莫大な価値のある宝石を縫い付けて、
そのうえでそっと出かけて行ったわけです。
目が覚めた彼は、親友がいなくなっているのでその家を去りましたが、
友人が縫い付けてくれた宝石には気がつかず、
あいかわらずの貧乏暮らしで、衣食にも事欠くありさまで、
そのうちに浮浪者にまで落ちぶれてしまいました。
浮浪者となった彼は、ずいぶんたってから、
最初の親友と道でばったり会ったのですが、
その親友は、浮浪者となった彼の姿を見て憐れみます。
「キミが楽に暮らせるように、宝石を縫い付けておいてあげたのに・・・」と。


これは、『衣裏繋珠のたとえ』といい、
いわゆる“法華七諭”という7つのたとえ話のひとつ、
法華経五百弟子受記品に説かれているお話です。

この話は何を示唆しているのでしょうか。
登場人物は2人、
莫大な価値のある宝石を与えてくれる親友の男と、
莫大な価値のある宝石を与えられながらそれに気づかぬ貧しい男です。
実際は、莫大な価値のある宝石を気前よく与えてくれる人物など、そうはいません。
そうです、こういう話の時にありがちな設定ですが、この人物は仏さまです。
だとすれば、仏さまから莫大な価値のある宝石を与えられるのは誰でしょうか。
そうですね、これは私たち、一般の衆生ということになります。

つまり、私たちの人生はこの貧乏な男のようなものだということです。
仏さまから莫大な価値のある宝石を与えられているのに、
それには気づかないで、毎日の生活にきゅうきゅうとしていると。

では、莫大な価値のある宝石って、どんなのでしょうか。
“高価な”とかではないところがポイントです。
人間に与えられた莫大な価値、これを仏性といいます。
仏性というのは仏さまの性質ということです。
分かりやすく言うと、“仏さまのような清らかな心”という感じでしょうか。
いずれにせよ、人間には仏さまの性質が与えられているということです。
なるほど、これは、プライスレスで、莫大な価値ですね。

ということはですね、ざっくり言えば、
いまこの文章を書いている私にも、仏の性質が備わっているということになります。
人生、自分の思い通りになることばかりではなく、理不尽なことも起こります。
そういう、挫折のさなかにある時、
自分にも仏の性質が備わっているのだと知ることは、
悩める人々にものすごく自信を与えるものでしょう。
特に今の時代、「生きている価値がない」とか「生きていてもしょうがない」とか、
投げやりになってしまった人が、
さまざまな事件を引き起こしているケースが多いように思います。
「生きている価値がない」などということはなく、
自分の中に尊い価値があることに、
まずは気づかなくてはいけません。

しかし、一方で、
ここ数年は「世界に一つだけの花」という誤った曲が流行ったせいか、
たとえば運転マナーを注意されたらキレて反撃されるとか、
唯我独尊的に仕上がった人が傍若無人にふるまうケースが増えています。
自分を“もともと特別な Only One”と思い、他者を排撃するようになったのです。
自分が、“もともと特別な Only One”であるなら、
他人は他人で、それぞれ“もともと特別な Only One”であると、なぜ思えぬのか。
自分がそうであるように、相手にも尊い価値があることに、
これはこれで、一人ひとりが気づくことが大切なのではないでしょうか。

これはとても重要な思想だと思います。
仏教では、
どんな人間にも、この仏性という、尊い宝石があると教えています。
つまり、私たちには、生まれつき、
物事を正しく見る賢さや、正しい道を歩む素直さが与えられていて、
他者に対する慈しみの心が与えられているというわけです。
そういう意味で、平等。
このことを強く認識することで、
このところ跋扈している、とにかく自信がないという若者の救済にもなるし、
一方で、自分さえよければよいという自分至上主義からの脱却にもなるしと、
いわゆる中道を行く考え方になります。

それにしても、
私たちは、仏性という“仏さまのような清らかな心”が与えられているのに、
毎日の生活に追われ、なかなかそのことに気づかないでいます。
なぜ気づかないかと言えば、
この話に出てくる貧乏な彼が酒を飲んで眠り込んでしまったように、
私たちは、心が眠り込んでいる状態なのだということです。
それで、私たちは、自分の仏性に気づかないままに、
人間関係で思い通りにならない自分に腹を立てたり、相手を憎んだりします。
衣服やクルマ、地位に名声やお金など、欲望にも際限がありませんが、
それも、何でも手に入るわけではないので、悩み苦しんだりします。

こういうのは、この話に出てくる貧乏な彼が、
毎日の暮らしに苦しんでいるのと、本質的には同じ状態です。
貧乏な彼の着物には、
一生安泰で暮らせるだけの宝が縫い込まれていたのに、
本人は全くそのことの気づかず、苦しみの毎日を送っていました。
私たちも、着物というか、心の奥のほうに仏性が縫い込まれていて、
それを意識していれば、怒りなどの粗野な心は消えるはずなのに、
そのことに気づいていないのではないかという感じがします。

私たちは、どうしましょうか。

[SE;KICHI]

おせっかいな私

富山といえば、冬は雪が積もっている印象の方も多いはず。
ですが、今シーズンはほぼ、雪が積もりません。
通勤時はおかげさまで快適に運転できるものの、
私の記憶の中では40年生きて来てこんなことなかったので、
なんだか怖くもあります。

さて、雪が降らずに寂しい思いをしている我が家の子供たち。
スキー場には多少なりとも雪が積もっているので、先日初滑りに行ってきました。
やはり雪は少なめなので、ところどころに泥が見えていましたが、
お天気も良かったこともあり、多くのスキー客が来場されていました。

我が家は1シーズンにせいぜい1~2回しか行けませんが、
必ず1回はスキーに行き、子供たちは主人の指導のもと、
抜群に上手なわけではありませんが、一応一人で滑れるようになっています。
それでも転ぶとなかなか起き上がれないこともあり、子供たちの後には、
主人か私のどちらかが最終滑走者として後から滑ります。
放置するわけにいかないですからね。

そうすることが家族連れで来た際の大人の責任と考えていたのですが、
そう考えている人は少ないのかもしれないと感じる出来事に遭遇しました。

その時は私が後からついて行った時でした。
主人と子供たちが滑っていくのを確認しつつ、
前方のゲレンデを見ながら滑っていると、私の目線の少し先に、
ゲレンデの端に設置してあるネットのところに挟まっている男の子を見かけました。
小学校低学年くらいでしょうか。
ちょっと気になったのでしばらく様子を見ていましたが、
何とか抜け出そうともがいているようでした。
助けに行く大人もいないようです。
そろりそろりと近づくと、
「誰か・・・助けて・・・」とか細い声で助けを求めてきました。
もちろん、助けに行ったわけですが、
助けつつ、親はどうしたという疑問でいっぱいでした。
そして、無事救出を終えると、
その少年は何も言わずにそのまま滑り去っていきました。
『え、ありがとうの一言もなし!?』

別にありがとうと言ってほしくて助けたわけではないですが、
お礼の一つも言えないのって駄目じゃない?と、
おばさんは思ってしまいました。
そして、親も近くにいないということへの苛立ちがふつふつと沸いてきました。

その時はお礼も言えない少年と、子供を放置している親に苛立っていましたが、
冷静になって考えると、
子供は恥ずかしさとか、急いで滑らなくてはいけないとかの焦りがあって、
お礼を言う余裕がなかったのかもしれないし、
親は親で自立心を養うためだったのかもしれないですね。
(困ったときは誰かに助けを求めて自分で何とかしなさい、という教育)
余計なことをしてしまったかしら・・・?とかは、その時は思えませんでしたが、
子供がもう少し大きくなるまでは私はそばで見守りたいと思いました。

実は、その少年を助けた後、
今度は木に挟まって動けなくなっている成人男性に遭遇しました。
お連れの彼女が下の方まで滑って行っていたので、
おせっかいとは思いつつ素通りすることができずに声を掛けました。
でもその男性は自力で脱出されました。
それこそ、彼女も見ている前で余計なことをしたなあと、
ちょっとへこみましたが、
きっとこれからも声をかけるんです、私。

はあ~、なんておせっかいな私。

[Okei]

おきくさんを偲んで

9月に、長崎の浦上村のキリシタン一家が、一家離散で迫害を受けたうえ、
身重の妻・おきくが難産の末に命を落としたというエピソード
を書いたところ、
この話は富山の人でも知らない方が多かったらしく、
もっと詳しく書けと、いろいろとお問い合せをいただきました。

このきくという女性は、富山藩に預けられた浦上キリシタンたちのなかで、
一種のアイコンになっている存在です。

明治2年12月5日、肥前浦上村(現長崎市浦上地区)、
「浦上四番崩れ」と呼ばれる、
日本宗教史上でも特筆されるべき“隠れキリシタン弾圧”が始まりました。
詮議は村民すべてに行われ、詮議中に棄教を表明した者を除く3416名が、
続々と捕縛されて流罪に処されたといいます。

重次郎一家(重次郎 35歳、妻・きく 33歳、長女・さき 15歳、次女・とめ 4歳)は、
同年12月8日、長崎大波止桟橋を出港し、
大阪からは徒歩で、厳冬の北陸路に難渋しながら、
明治3年2月21日、富山藩に到着し、
大熊村の「経力の湯」と大久保村の「合田の湯」に入りました。

温泉と言っても、湯治ではないので、楽しくはありません。
信徒たちは、長崎を出る際に既に殉教を覚悟していたので、
曳き立てられた時点で、どこかに連行されて殺されるものだと思っていたようです。
従って、温泉に家族と一緒に収容されていても、
死刑執行を待つような身で、祈るしかない状態だっただろうと思います。
よくパニックにならなかったなと思いますが、それが信仰の力なのでしょう。

温泉に収容していたキリシタンたちが、一向に説得に応じないので、
焦った富山藩は明治3年4月28日、意図的に家族を離れ離れにし、
15歳以上のキリシタンに鉄の喉輪を嵌めて浄土真宗29寺院に配属しました。
5月1日、きくと、4歳の次女トメが、
西光寺という寺(富山市婦中町長沢)に預けられました。

西光寺

これより前の4月10日に、15歳だった長女のサキは一人で他の寺に送られ、
5月28日には夫の重次郎が楽入寺という別の寺へ移送されました。
もはやこの時点で臨月のきくでしたが、家族バラバラになったわけです。

きくは5月末が出産予定でしたが、
それを過ぎてもまだ出産しないのを耳にした重次郎は、
妻を案じ、介抱のために西光寺を訪れたい旨を申し出ましたが、
そんなことが許されるはずがありません。
私は、こんな卑劣なことを考えた役人に対して、
腹が立つという言葉では足りない思いがするのですが、
役人は重次郎に、改心して真宗門徒になれば、首輪を外してやろう、
家族の面会を許し、仕事も与え、帰郷にも配慮すると囁きました。
重次郎は、浦上では指導的というか、中心的な信者だったようですが、
この……家族の面会を許し……にグラっときたのでしょう、
6月の初めに改宗の届けを提出し、きくが伏せる西光寺に赴きました。

信仰を捨てることと引き換えに妻を見舞うことができた重次郎でしたが、
きくは間もなく産気づき、難産の末、母子共に死亡しました。
西光寺で死亡したきくは、村の火葬場で焼かれ、その片隅に埋葬されました。

その後、きくを哀れに思った地元民によって、山中に供養のための地蔵尊が建てられました。
行ってみましょう。

きくの塚 入口 きくの塚 アプローチ

蚊の猛攻に遭いながら数百メートルも登ると、
天頂部に十字架のついた祠が見えてきます。
火葬場に埋葬されているので、ここは「墓」ではありませんが、
小高くなっているところを見ると、遺灰か何か埋めたんでしょうか。

きくの塚 きくの塚 近影

祠が開いているというのもシュールなもんです。私が開けたわけではありません。
覗いてみると、2体の像。
右に地元の人が建てたという地蔵尊、左にカトリック教会によるマリア像。

きくの塚 内部

怖いですねぇ。
ちょっと画像が暗いですが、これに照明を当てる勇気のない私、勘弁してください。

この2体の像、賛否あると思いますが、私は強い違和感を感じます。
だって、きくはキリシタンで、地蔵なんて信仰していなかったわけですから、
供養するならマリア像だけで充分なんです。
浄土真宗に帰依する地元民の気持ちも分からなくはないけれど、
「関係ないのを勝手に混ぜんなよ」という気持ちになります。

さて、キリスト教を捨て、晴れてキクに会えたものの、
一週間ほどで妻子を亡くすこととなった重次郎。
気の毒でなりません。
妻を亡くしてしまってはキリスト教を捨てた意味もないので、
まもなく彼は、改心戻しをしたいとの願書を出し、キリスト教徒に復帰しました。
それから3年後の明治6年、政府はキリスト教禁制をやめたので、
重次郎らキリスト教徒は釈放され、長崎に戻って行きました……。
……新しい奥さんとその間に生まれた子供と一緒に!
どうも、重次郎は、きくが亡くなった後、
合寺令で1箇所に押し込められているときにヌイという女性と恋に落ちたようで、
あっという間に再婚し、ツネという娘が生まれたようです。

え~・・・
いや、私も、そう模範的な生き方をしているわけではありませんが……。
長崎から遠く離れた富山の山中に置き去られたおきく。
かわいそうでなりません、よね。

[SE;KICHI]

こだま

昔話ですが、幼い頃、私の祖父が一枚の写真を見せてくれました。

モノクロ写真で、そこには当時の熱海駅ホームで、
0系東海道新幹線「こだま」と一緒に映る祖父がいました。
私は前にもお話した通り鉄道が大好きで、
なかんずく国鉄カラーの在来線L特急が好きでしたので、
「こだま」と聞くと、
有名な0系より、それ以前に走っていた国内初の特急電車151系の、
ボンネット車両を思い出して興奮するド変態な少年でありました。
なので見た瞬間少しだけ残念に思ったのを覚えています・・・
(決して新幹線も嫌いでは無いのです。ただ懐古趣味と言いますか、古いのが好きです。)

新旧こだま
https://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/20256548.html

話が大きくずれましたが、何を言いたいのかと言いますと、
祖父が写真が撮られた頃の話をしてくれたことです。

その写真が撮られたのは1964年(昭和39年)12月とのこと。
今まさに大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でも注目されている、
最初の東京オリンピックが開催された年ですね。
新幹線開業は10月1日(在来線9月30日廃止)で、
オリンピックが10月10日開催でしたから、なんとタイムリーなことでしょうか。

当時すでに伯父や母が生まれて2歳になる頃ですので、
新婚旅行ではなく会社の旅行か何かであったと思います。
祖父は、熱気があふれる東京オリンピックと、
高度経済成長期を身近で感じて生きてきた世代の1人でありますが、
この時代、日本は活気に満ち溢れていた時代と言っていました。

オリンピックそのものは、正直東京ではなく富山に住んでいたこともあり、
テレビで見る東洋の魔女とか、ウルトラCとか、
そういったところからしか見えないところもあったそうですので、
あまり息吹は感じなかったそうですが、
景気も良く社会全体の生活文化が、
みるみる向上していくことを実感できた
のだと。
またそれが仕事を頑張るための原動力となり、
貧しかったけど楽しかったとも語っていました。
そして何より今ほど物は豊かではないけども、
それ以上に心が豊かな時代であったと。

今でこそ凄惨な事件が起きたり、親戚付き合いがなくなったり、
自分さえ良ければいいから他人は関係ないとか、
それこそ人と人の繋がりが薄い時代になったと言われていたりしますが、
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でないですが、
助け合って、また気兼ねなく相談できる生きやすい時代であったのだそうです。
そう祖父は懐かしそうに目を細めながら、
自分なりのオリンピックの話を語ってくれたと記憶しています。

私の両親も子供の頃をこの時代で過ごしてきましたので、
あの頃はよかったとか昔話することもあり、
ともすれば今の時代を嘆いているようにも聞こえますが、
今の時代、皆が忘れてしまった大事なことを、
見直すヒントがあるのかもしれないと、祖父の話を思い出して感じました。

来年2020年には2回目の東京オリンピックが再び日本で開催されます。
(私は以前書きましたようにラグビー経験者ですので、どちらかと言えば今年日本で9月に開幕するラグビーワールドカップ2019年大会の方が関心ありますが。)

もちろんスポーツを通しての平和の祭典として、
大いにアツく燃えあがることは間違いないでしょうし、
選手たちもアツい戦いを見せてくれるでしょう。
でもどうせなら、ただお祭り騒ぎのイベントにするのではなく、
前回のことも振り返る機会も多いでしょう、その時代あった良いものを学び、
今の現代社会に反映させていく、良い機会にしていくべきだとも思います。

ちなみにですが、ここ数年祖父は老人ホームの施設に入っていて、
そこでテレビをたまにしか見ることはできないのですが、
再び開催が決まったあの時、
まさか自分が生きている間にもう一度オリンピックを見ることができるかもしれないと、
感激して涙ぐんでいました。
もう90歳近くですがまだ死ねないとも・・・(笑)

祖父だけではないでしょうが、
(「いだてん」の副題を借りて)みんなそれぞれのオリンピック噺があるのだと思いました。

・・・タイトルあまり関係ありませんでしたね。(笑)

[K.K]

飛鳥の執念➉ ~天皇の名前

ちょっと変化球で行きますが、
奈良時代後期の貴族に淡海三船という人がいました。
この人物は、奈良時代以前の歴史散歩好きにとっては欠かせない人物です。

乙巳の変(大化の改新)で有名な中大兄皇子が天智天皇として即位するのは、
近親相姦とかなんだかんだあって、先代の斉明天皇が崩御してから6年半後、
正式に即位した時には既に42歳でした。
42歳って、いまでは働き盛りの年代ですが、
当時は寿命が短く、実際、天智天皇も46歳で崩御しますので、
42歳と言えば、もはや晩年と言っても差し支えないほどの年齢です。

さて、42歳で即位した天智天皇は、
弟の大海人皇子を皇太弟に指名しました。

ところで、この大海人皇子という人は、天智天皇の弟でありながら、
皇后となった鸕野讚良皇女や、その姉の大田皇女のほかに、
兄・天智天皇の娘(つまり自分の姪っ子)を4人も妻にしたうえ、
さらに、それとは別に6人、合計10人の妃を持ちました。
その一人が、私が峰不二子似説を提唱している額田王です。

この額田王は、最初、大海人皇子の妃で、十市皇女という娘を生んでいますが、
のちに、大海人皇子は兄の天智天皇に額田王を奪われてしまっています。
そして、大海人皇子と額田王の娘である十市皇女は、
天智天皇の息子である大友皇子の妻となり、葛野王という子を産んでいます。

さて、弟の大海人皇子を皇太弟に指名した天智天皇、
これは、簡単に言えば「次は彼です」という内外に向けた宣言なのですが、
その2年半ほど後、天智天皇は大友皇子を、史上初の太政大臣に指名しました。
突然作られた太政大臣というのは皇太弟より上の立場で、
これは、「次は彼です」といったん指名していた弟の大海人皇子を飛び越え、
その上に自分の息子を据えた形です。
つまり、天智天皇は、いったんは弟を後継指名したものの、
そのうち、わが子・大友皇子を後継者にしたいと思い始めてしまったということでしょう。

この時代、権力者にとって目障りな人物は容赦なく粛清されますから、
大海人皇子は震え上がったはずです。
その結果、大海人皇子は皇太弟を辞退し、出家して山奥に隠れてしまい、
代わりに大友皇子が皇太子になりました。
まぁ、たぶん、天智天皇の思う壺でしょう。

天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ですが)後継として朝廷を主宰します。
その半年後、山奥の大海人皇子は挙兵を決意して山奥から脱出、
武力で大友皇子を自殺に追い込んで、自ら即位し、天武天皇となりました。(壬申の乱)
大友皇子の妻であり、天武天皇の娘である十市皇女の悲壮感
計り知れませんね。

しかし、こうなってしまうと、自殺した大友皇子を父に持つ葛野王の立場が、
俄然、不安定なものになっていきます。
天武天皇の死後、その皇后の鸕野讚良皇女は持統天皇として即位し、
わが子・草壁皇子の継がせるために執念を燃やします
が、
葛野王は、その彼女にひれ伏し、草壁皇子後継のために尽力しました。
まぁ、そうしなければ生き残るすべはなかったでしょうから、
保身のために魂を売ったとも言えますが、
ある意味では“うまく立ち回った”というわけです。

その葛野王の子が池辺王という人物で、さらにその子が、冒頭の淡海三船です。
縷々書き連ねてきたのは、
彼が天智系の正統であるということを伝えたいがためですが、
天智系は壬申の乱で非主流派に追いやられており、
この人物は大友皇子の曽孫でありながら、若いころから出家していました。
しかし、30歳ころに勅命により還俗させられて御船王に戻ったのち、
淡海の氏姓を賜って臣籍に降下し、淡海三船と名乗っているわけです。
それはともかく、彼の最大の功績は、
初代神武天皇から第44代元正天皇までの、
ほぼ全部の天皇の漢風諡号を決めたこと
です。

実は天皇の呼び名というのは、在位中から本人が名乗っているわけではなく、
退位後、第三者が決め、そう呼ばれるものなので、
たとえば桓武天皇の“桓武”という称号は崩御後に贈られた名前なので、
生前、「桓武さ~ん」と話しかけても、
「は~い、桓武で~す」ということにはならないのです。
つまり、どの天皇も、基本的に在位中はその名前では呼ばれていないのですが、
この天皇の名前について、初代から第44代までの分を決めたのが淡海三船で、
そういうわけで、彼は歴史散歩好きにとっては欠かせない人物です。

というより、この記事に出てきた斉明天皇も天智天皇も天武天皇も持統天皇も、
全部、彼のネーミングなんだということです。
臣籍降下ということで、皇族としては主流ではなかったのかもしれませんが、
“名付け親”として、現在に至るまで名が遺っているというのは、
それはそれで、大を成した人生だったのだなぁと感心します。

[SE;KICHI]

『社員心得帖』

松下幸之助さんの「社員心得帖」を読ませていただきました。
新人・中堅・幹部社員と順を追って読んでいったのですが、
特に中堅社員までのところで思ったのは、
全てではないですが、昔に学校の先生や社会人になってからの先輩に、
そのように言われ、指導をいただいたことを思い出しました。

「体調管理も仕事のうち」
当たり前と言えばそれまでですが、
若い体力がある頃は、
多少の無理をしたり夜更かしをしたりしても大丈夫と思い、
失敗につながることもありました。
仕事を任され、やり遂げようとすると、
プライベートの時間を調整することは必要になってくると思います。
もちろん過度の残業や休日出勤が良いということではありませんが、
乗り越える心の成長のようなものはあったと思います。

叱られることについても、
注意してくださる方は、
私に興味を持ってくれている人だと思っています。

書には叱られて喜んでいるような紹介もありましたが、
私は進んで叱られたいとまでは思わないですし、
褒められるほうが嬉しいです。

でも一番困るのはダメなのに何も言わないことだと思っています。
自主性とか個性はもちろん大切です。
ハマれば効果も大きいと思いますが、
間違っているのに注意しないのは、見捨てている感じがします。

街中で注意して逆ギレされても困るのは分かります。
刃物で刺されたような事件もありましたから、
言い方やり方・状況には注意しなくてはいけないです。
そもそも逆ギレって、自分が間違っていることをわかっているが、
認めたくない・謝りたくないからするのですかね?
キレても解決することはないのだけど。

自分も感情をコントロールできているかわからないけど、
逆ギレはしないようにしたいものです。 

人を育てることは大切です。

やりたいと思ってもらえるように伝えるのも思うのも、
両者の気持ちが通じないと好きになることはないのだろうと思います。

大変わかりやすく書いてありました。
他の方にもまわしたいと思います。

[WAKA]

何様のつもり

正月早々、わざわざ引っ張り出すようなことでもない気もしますが、
生き方として、自らの指針にしたいこともあり、意図的に披瀝します。

一昨年の話になりますが、東名高速道路の下り線で、
迷惑な男が、家族連れの乗ったワゴン車を追走し、
蛇行運転などで進路をふさいで停車させるということがありました。
この事件では、その迷惑男が、手前のパーキングエリアで、
家族連れのパパに駐車マナーか何かを注意されていたとのことです。
つまり、そのことを恨みに思った迷惑男が、
注意した家族連れのワゴン車を追いかけ回し、
結果、高速道路上でムリに停止させられたワゴン車の夫婦が、
娘2人を遺して落命してしまうという、
なんとも痛ましい結果になってしまいました。

この事件で危険運転致死傷などの罪に問われた石橋和歩被告に対して、
昨年12月14日、横浜地裁は最終的に懲役18年を言い渡したわけですが、
そもそも、停車している車輛に対して「危険運転」が認定されるのかどうか、
判例が乏しく、法解釈がグレーゾーンだったために、
一般人が裁判を担当する裁判員制度の対象だったにもかかわらず、
えらく高度な法判断が求められたようで、その判決が注目されました。

まぁ、それは、いいんです。
私は判決に対して……特に感想はないですね。
いや、石橋被告については、逮捕前にテレビのインタビューで、
「言われたらカチンとくるけん、こっちも人間やけん」
と言っていたことだけは不快に感じますが、
量刑が適切だったかどうか、私には、特に感想はありません。
ただ、裁判員の方が判決後に記者会見され、
感情を抑え、過度に被害者に感情移入することなく、
法に基づいて判断することが大変だったと言っていたのが印象的でした。

ところが、最近のネットニュースにはわざわざコメント欄があって、
その裁判員の方の会見の後、なぜ感情を抑える必要があるのか、
被害者に感情移入して何が悪いのかという議論が巻き起こり、
しまいには、「18年で出てくるなんて許せない」とか、
「これは致死罪ではなく殺人罪だ」とか、
「2人殺したんだから死刑にすべきだ」というコメントがたくさん出ました。

私は、これに、何様のつもりかと思うのです。
そもそも、たとえば懲役18年というのは、
「18年間、刑務作業などを通じてきちんと反省しなさい」ということで、
基本的に更生を期待した制度なわけですよね。
あまりに罪状が重い場合には、
更生を期待せずに死刑などが選択されることもあるのでしょうが、
基本的には「更生するにはこれくらいかかるでしょう」という年数が量刑のはずです。
つまり、人間は更生するんだということを前提とするシステムであって、
「危ないから閉じ込めておけ」という考え方ではないはずです。

逆に言えば、その「危ないから閉じ込めておけ」という考え方は、
基本的に、人間は、年数をかけて反省しても変わらないという考え方です。
私は、そんなはずはないと考えています。
機根は人によってそれぞれでしょうが、人間は変わると信じています。
だって、どの人も、生まれつきのまま成長していない人はいないでしょう。
年数をかけても人間は成長しないのだったら、
学校も行かなくていいし、習い事もムダですよね、
逆上がりとか縄跳びとか、コツコツ練習することは全部ムダです。
……人間は変容するんですよ、仮にゆっくりとであっても。

本人は、法廷で、いちおう謝罪の言葉を口にしたそうですが、みんな、そこは無視。
「あんなヤツが反省なんてするわけない」と言わんばかり。
繰り返しますが、何様のつもりかと思うのです。
悪いことをした者は、心の底から真っ黒なのか、
何故、そんなことを他人が言えるのか、そういうオマエは真っ白なのか、と。
おそらくは、石橋被告がいけ好かないキャラクターだったことも相まって、
なんだか、みんなして「殺せ! 死刑にしろ!」と言っているようで、
私はなんだか、怖さを感じるのです。

最近の世の中はどうなってるんでしょうか。
マクレガーの「XY理論」で言うところの、
X理論で生きている人が増えたんでしょうか。
だとすれば、マクレガーが提唱したとおり、
世間が低次元化してきているということでしょう。

私は、自らの指針として、他人に対する見方は Y理論でありたいと思うし、
ゆえに、人間は反省などを経て変容(すなわち成長)するものであり、
周囲の人間には、それを信じて見守る忍耐力が求められると思うのです。

私は、別に石橋被告の肩を持つわけではありませんが、
そもそものポリシーとして、人間は善なりと思っているのです。
よく、葬儀などで、「生かされている私」と言われたりしますが、
もし、誰か偉大な存在から生かされている私たちなのであるならば、
私たちの本性が悪であるはずがないではありませんか。

2019年、私の戒は、「人間は善なりと信じる」ことにしたいと思います。

この話は、そのうち続きを書きますね。

[SE;KICHI]

予祝

“あえのこと”というのをご存知でしょうか。
毎年12月5日、一年の豊穣に感謝し、
収穫を終えた田んぼから「田んぼの神様」を自宅に迎え、
翌春の2月9日まで、
見えない神様を、あたかも人間のように入浴と食事でもてなし、
長く厳しい冬を家族と一緒に過ごすという、奥能登の民俗行事です。

あえのこと
https://food-japon.com/p/news/aenokoto-gourokuan

さて、昨年11月、
男鹿のナマハゲなど10件が、『来訪神;仮面・仮装の神々』ということで、
ユネスコの無形文化遺産に認定されました。

ナマハゲ
https://forbesjapan.com/articles/detail/24195#

ナマハゲから連想すると、鬼のような異形の者が襲ってくるイメージが浮かびますが、
儀式として注目すべきなのはそこではなく、
大事なのは、年に一度、決まった時期に人間界に来訪するとされているところです。
そういう意味では、“あえのこと”も、異形ではないものの、れっきとした来訪神で、
2009年にはとっくに世界無形遺産に登録されていました。

そもそも、日本人というのは、
「普段はいない神様が特定の時季にだけやってくる」という考え方が好きです。
ユネスコの無形文化遺産という“肩書き”がついたので、
来訪神に、やや堅苦しいイメージがついてしまった感がありますが、
本来、日本人にとって、来訪神というのは馴染み深い存在でしょう。

だって、たとえばお正月。
「数え年」というのがありますが、あれは、
元日にお出ましいただく神様から1年を授かるという考え方から来ているもので、
いわば、日本人全員の誕生日を元旦に設定するという感じのもの。
年に一度の儀式ということですから、これも来訪神と言えるでしょう。

そうそう、お正月といえば、みなさん、
玄関に門松を飾って注連縄を張りましたでしょうか。
あれは、神様をお迎えする準備だと言われています。
門松は、来訪する神様に「この家ですよ」とお知らせする看板みたいなもの、
注連縄はそのエリアが不浄でないように結界を張るセコムみたいなものです。
つまり、来訪する年神様に備えて飾っているわけです。

何が言いたいかというと、
何のためにそれをやるのかを考えることが大事ということです。
最近では、門松や注連縄を完備している家は少なくなりましたが、
門松や注連縄を飾らない家でも、鏡餅は置くかもしれません。
最近では中に砂糖が詰めてあるプラスチックの鏡餅なんてのも売ってますが、
鏡餅は神様の大好物で、それ自体が依り代にもなる……というわけで、
それを知ったら、砂糖で代用なんてダメですよね。

そもそも、新年を祝う理由を考えたことがあるでしょうか。
お正月がめでたいのは、新しい年が明けたから……ではありません。
お正月がめでたいのは、日本古来の予祝という考え方によるからです。
予祝……あらかじめ祝う……前祝いです。
何の前祝いかって、古代日本人の一番の願いは秋の豊作です。
稲がたわわに実って、お米がどっさりとれることが大事ですから、
その願いの実現を引き寄せるために、
お正月に、その一年の五穀豊穣の前祝いをしているわけです。

春先の“お花見”も、
時節柄、たまたま桜がきれいに咲いていたから眺める……のではありません。
そんな、風流というか感性的な話ではなくて、
秋の豊作に感謝する“祭り”の一種だと言われています。
これも、日本古来の予祝という考え方によるからです。
春に満開に咲く桜を、秋のお米の実りに見立て、
仲間とワイワイお酒を飲みながら喜び、お祝いすることで、
本願である秋の豊作を引き寄せるというわけです。

夏の盆踊りも、夜が暑くて眠れないから踊る……のではありません。
あれも、予祝、秋の豊作を喜ぶ踊りです。

このように、もともと日本人は、
すでに叶ったという気分でお祝いするのが習慣づいている民族です。
先に喜び、先に祝うことで、その現実を引き寄せるというのが、
古代日本人がやっていた、夢の引き寄せの法則なのです。
あらかじめ叶ったという気分になっておけば、
「あぁ、めでたい。神様、ありがたいなぁ。ご恩返ししなくちゃなぁ」と、
感謝の気持ちも高まろうというもの。
結果、一種の自己催眠もあって、現実が追い付いてくることでしょう。
日本という国は、それを個人ではなく、国家全体でやっている国で、
そりゃあ、感謝・報恩の文化が育まれるはずです。

ちなみに、予祝の本質は、いま、喜ぶこと。
いまの喜びは、未来の喜びになるわけです。

さぁ、みなさん。
1年分の大繁栄を祝おうではありませんか。

[SE;KICHI]

年頭の御挨拶

新年あけましておめでとうございます。

旧年中は格別のご高配を賜り、誠にありがたく厚く御礼申し上げます。

少子化、労働者不足などと言われておりますが、先月は外国人労働者の受け入れの拡大のため改正出入国管理法が可決、成立しました。具体的な策は不透明なままで不安な状況が続いております。

そのようななか、私どもは、皆様のご支援のおかげで無事新年を迎えることができました。感謝致しますと同時に、今後も皆様にご満足頂ける真のサービスをご提供できるよう、日々努力して参りたいと存じます。

本年もより一層のご支援を賜りますよう、従業員一同心よりお願い申し上げます。
また、皆様のご健勝とご発展を祈念いたしまして、新年のご挨拶とさせていただきます。

代表取締役 松田 昌貴
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
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