『語彙力がないまま社会人になってしまった人へ』
最近はセンセーショナルなタイトルの書籍がヒットするもんです。

「語彙力がないまま社会人になってしまった人へ」。
そういわれると、それは自分に向けて言われているような気になるものです。
この本は、前提として、
社会人としてのレベルは語彙力で測られるという立場に立っていて、
つまり、どんなに能力がある人でも、表現が稚拙だったりすれば、
社会人としてのレベルを低く見られて、軽く扱われてしまうのだから、
そうならないように語彙力を身につけましょうという話です。
たとえば、第一章の手前、“はじめに”に挙げられている例では、
「代替案を考えます」というのを「だいがえあんを考えます」と誤読してしまえば、
知性を疑われますし、仕事相手は不安になってしまいます…と書かれていて、
なかなか手厳しい感じです。
また、人を褒めるときの言葉にしても、
「頭がいいですね」では、やや上から目線の印象を与えてしまいますので、
「頭がいい」などという幼稚な表現を避けて、
「どう頭がいいのか」、つまり、「機知に富んでいる」のか、「含蓄がある」のか、
知性と教養を兼ね備えた言葉を選び、うまく使う必要があると言います。
はぁぁ、なるほどねぇ。
いや、実は私、この手の本は苦手だったのです。
最近、「雑学王」とか「東大王」のようなクイズ番組が多いですが、
たとえば、「“がむしゃら”という単語はもともとどんな意味?」のような、
ある特定の単語について、
「昔は別の意味で使われていた」とか「もともとの語源はコレ」というエピソードは、
どうも、使い道のない情報のような感じがして現実感がないというか、
聞いた後に「ふぅ~ん……それで?」という気分になりやすいため、
私は、そういうクイズ番組が好きではないですし、
同じ感覚で、この手の本も苦手だったのです。
私自身はそういうスタンスなので、この本についても、
言葉の「なりたち」や「語源」に関するエピソードを知って、
おもしろく言葉を身につけようではありませんか、という、
著者の姿勢に対して、私は必ずしも好意的ではありません。
なので、全編まるまる詠嘆したというようなことはないのですが、
その、社会人としてのレベルは語彙力で測られるという著者の確信は、
確かにそういう面もあると実感しているので、納得しました。
たとえば、些末な話で恐縮ですが、
最近、メールやLINEなどで用件を送信すると、
「了解です」という返信が返ってきたりすることが多くなりました。
まぁ、別にそんなことで腹を立てるような導火線の短い私ではありませんが、
私自身は、最初に就職した会社の上司・K次長から、
「失礼だから、ビジネスで『了解』という単語は使ってはいけないよ」と教わっており、
その理由は知らないながらも、後生大事に守っていましたので、
最近の社会の「了解です」の多用は、実に不思議な感じです。
この本によれば、「了」には、垂れ下がるとか、もつれるという意味があって、
あまり良い字ではないため、少なくとも目上の方には使うべきではないとのこと。
目上に対する正解は「承知いたしました」なのだそうで、
これは私がかつてK次長から教わったとおりでした。
K次長は、初対面の私をジャズダンスに誘ったワケの分からない男でしたが、
語彙力という面では、それなりに的確だったということでしょうか。
「その言葉遣いはおかしい」と、
30歳を過ぎた大人にダメ出ししてくれる先輩や上司は、なかなかいません。
なぜなら、語彙力の不足を指摘することは、
その人の家庭環境や知的レベルを否定する行為のような感じがして、
パワハラのように取られてはたまらないというわけで、なかなか指摘できないもの。
つまり、注意を受けないのは、己に問題がないからではなく、
妙な逆恨みが怖いだけのことで、問題はあるのかもしれません。
そのことに気が付かぬまま、ネットニュースだけを読んで、
仲間同士でテキトーに『エモい』『スノる』『tkmk』みたいな、
空気を読むだけの上っ面会話を積み重ねていくと、
まぁ、そりゃ、語彙力は退化するに違いないでしょう。
私は、最近は気が滅入るので、新聞なんて読まなくていいと思っているほうですが、
美文に触れるというほどのことではないけれど、
「よみうり寸評」とか「産経抄」のような短文は勉強になるなと思っています。
結局のところ、スマホばっかり見てないで、
徒然草とか、読んでみればいいのにと思う今日この頃です。
[SE;KICHI]

「語彙力がないまま社会人になってしまった人へ」。
そういわれると、それは自分に向けて言われているような気になるものです。
この本は、前提として、
社会人としてのレベルは語彙力で測られるという立場に立っていて、
つまり、どんなに能力がある人でも、表現が稚拙だったりすれば、
社会人としてのレベルを低く見られて、軽く扱われてしまうのだから、
そうならないように語彙力を身につけましょうという話です。
たとえば、第一章の手前、“はじめに”に挙げられている例では、
「代替案を考えます」というのを「だいがえあんを考えます」と誤読してしまえば、
知性を疑われますし、仕事相手は不安になってしまいます…と書かれていて、
なかなか手厳しい感じです。
また、人を褒めるときの言葉にしても、
「頭がいいですね」では、やや上から目線の印象を与えてしまいますので、
「頭がいい」などという幼稚な表現を避けて、
「どう頭がいいのか」、つまり、「機知に富んでいる」のか、「含蓄がある」のか、
知性と教養を兼ね備えた言葉を選び、うまく使う必要があると言います。
はぁぁ、なるほどねぇ。
いや、実は私、この手の本は苦手だったのです。
最近、「雑学王」とか「東大王」のようなクイズ番組が多いですが、
たとえば、「“がむしゃら”という単語はもともとどんな意味?」のような、
ある特定の単語について、
「昔は別の意味で使われていた」とか「もともとの語源はコレ」というエピソードは、
どうも、使い道のない情報のような感じがして現実感がないというか、
聞いた後に「ふぅ~ん……それで?」という気分になりやすいため、
私は、そういうクイズ番組が好きではないですし、
同じ感覚で、この手の本も苦手だったのです。
私自身はそういうスタンスなので、この本についても、
言葉の「なりたち」や「語源」に関するエピソードを知って、
おもしろく言葉を身につけようではありませんか、という、
著者の姿勢に対して、私は必ずしも好意的ではありません。
なので、全編まるまる詠嘆したというようなことはないのですが、
その、社会人としてのレベルは語彙力で測られるという著者の確信は、
確かにそういう面もあると実感しているので、納得しました。
たとえば、些末な話で恐縮ですが、
最近、メールやLINEなどで用件を送信すると、
「了解です」という返信が返ってきたりすることが多くなりました。
まぁ、別にそんなことで腹を立てるような導火線の短い私ではありませんが、
私自身は、最初に就職した会社の上司・K次長から、
「失礼だから、ビジネスで『了解』という単語は使ってはいけないよ」と教わっており、
その理由は知らないながらも、後生大事に守っていましたので、
最近の社会の「了解です」の多用は、実に不思議な感じです。
この本によれば、「了」には、垂れ下がるとか、もつれるという意味があって、
あまり良い字ではないため、少なくとも目上の方には使うべきではないとのこと。
目上に対する正解は「承知いたしました」なのだそうで、
これは私がかつてK次長から教わったとおりでした。
K次長は、初対面の私をジャズダンスに誘ったワケの分からない男でしたが、
語彙力という面では、それなりに的確だったということでしょうか。
「その言葉遣いはおかしい」と、
30歳を過ぎた大人にダメ出ししてくれる先輩や上司は、なかなかいません。
なぜなら、語彙力の不足を指摘することは、
その人の家庭環境や知的レベルを否定する行為のような感じがして、
パワハラのように取られてはたまらないというわけで、なかなか指摘できないもの。
つまり、注意を受けないのは、己に問題がないからではなく、
妙な逆恨みが怖いだけのことで、問題はあるのかもしれません。
そのことに気が付かぬまま、ネットニュースだけを読んで、
仲間同士でテキトーに『エモい』『スノる』『tkmk』みたいな、
空気を読むだけの上っ面会話を積み重ねていくと、
まぁ、そりゃ、語彙力は退化するに違いないでしょう。
私は、最近は気が滅入るので、新聞なんて読まなくていいと思っているほうですが、
美文に触れるというほどのことではないけれど、
「よみうり寸評」とか「産経抄」のような短文は勉強になるなと思っています。
結局のところ、スマホばっかり見てないで、
徒然草とか、読んでみればいいのにと思う今日この頃です。
[SE;KICHI]
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