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平成“最後”の武者修行

戦国時代、今川義元が松平広忠の子、竹千代(後の徳川家康)を人質として迎えたとき、
家臣に「竹千代にはむごい教育をしろ」と指示しました。
それを聞いた家臣は、
竹千代に粗末な食事を与え、朝早くから叩き起こして、
休みなしで武術と学問を教え込む生活をさせたそうです。
それを聞いた義元は、家臣を叱責し、
「バカモノ! むごい教育とは、朝から晩まで、
海の幸や山の幸あふれる贅沢なご馳走を好きなだけ与え、
寝たいと言ったらいつでもいくらでも寝かせてやることだ。
夏は暑くないように、冬は寒くないようにしてやることだ。
学問が嫌だと言うならやらせるな。
何事も、好き勝手させることだ!」と言ったそうです。

『茹でガエル』の話を知っていますか。
カエルを熱湯に入れると、カエルは熱さにびっくりして逃げますが、
カエルを水に入れ、この水を加熱して徐々に熱湯にしていくと、
カエルは逃げるタイミングが分からず、そのまま茹であがってしまうそうです。

茹でガエル
http://kamuimintara.blogspot.com/2013/09/4_4.html

これは、カエルってバカだよねぇという話ではなく、
緩やかな変化には気づきにくいという話です。

私たちもそうなのではないでしょうか。
社会は刻々と変化していますが、一日一日の変化は微々たるものです。
そのため、状況の変化に気づきにくかったり、
それに対する対策が遅れたりするものです。
前述の“むごい教育”も、
現場から脱出しよう、自己を変革しようと思わせないように、
甘い環境に慣らして腑抜けにしてしまおうという狙いの悪だくみです。

夏休み、この酷暑のなか、子供たちはどう過ごしているでしょうか。
もしかしたら、クーラーの効いた空間で慣れきってしまい、
もはや外に遊びに行ったりしないかもしれません。
そんな子供たちに対し、
仲間同士で助け合って目的を達成することの大切さについて学んでほしいと願い、
今年も有志にて登山を企画しました。
当社も運営に関わっており、当社の社員もサポートに入っています。

平成の武者修行2018
平成の武者修行 2018 概要

このイベントは、この酷暑のなか、厳しいプログラムだとは思います。
また、一部に、山などに登って何になるんだというご指摘があることも承知しています。
でも、自分の損得だけを行動基準として、
他人を殺傷してでも自我を押し通すというふざけた大人が増えてきた昨今、
過酷な山上で仲間と助け合う体験こそが、
その子の将来に渡る大切な糧となると信じているから、
私たちはこの活動に意味があると思っています。

それから、お預かりする大切なお子さんに万一のことがあっては大変なので、
この武者修行には、各社の新入社員が引率者として帯同します。
その、引率者としてのスキルを高めるための研修も、毎月毎月重ねてきました。
フォトロゲで助け合うことを学び、座学で子供を預かるということの重さを知り、
プロジェクトアドベンチャーでチームワークを養い、
滝行で精神力を鍛え、写仏で子供たちのために心を込めてお守りを作り、
最終的に当日のコースをダイジェストで巡りました。

研修-フォトロゲ 研修-振り返り
研修-座学 研修-プロジェクトアドベンチャー
研修-滝行♂ 研修-滝行♀ 研修-写仏
研修-登山① 研修-登山②

4月には渋々参加していた新入社員たちが、
回を重ねるたびに少しずつでも成長を見せて頼もしくなり、
最終的に、尋常ではない早朝に集合して下見に出かけている姿に感動します。
新入社員たちが入念な準備をしていることだけは知ってほしいと思います。

さぁさぁさぁ、平成“最後”の武者修行、もうすぐ開門です。

[AKA]
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キケンなクシャミ

このところ立て続けにギックリ腰になっています。

今年の冬は雪がずいぶんと続き、連日の除雪で疲れ気味の中、
スコップに雪をのせて腰をひねった瞬間に腰にビクンと電気が走り、
そのまま動けなくなりました。
約7年振りのギックリ腰で、久しぶりの痛みに脂汗をかきました。
元の状態に戻るまで1ケ月以上もかかりました。

そしてそんな事も忘れかけていた6月の朝、
寝起きで座椅子にもたれかかってクシャミをした瞬間
またしても腰にビクンと電気が走り動けなくなりました。

それから1カ月後にほぼ痛みも感じなく鳴った頃、
やはり朝に洗面台でヒゲを剃っている最中に、
またクシャミをしてビクンとなり動けなくなりました。

ここまでくると自分でもビックリです。

ようやく痛みがなくなった頃にまた振り出しに戻されて、
最初からやり直しをさせられているようで、
なんとも言えない気分になりました。

クシャミをするだけで腰を痛める体になったとは情けないものです。
年齢のせいだと言う人もいますが、
ならない人もたくさんいる訳ですから、そうとも言えません。
自分では運動不足が原因かと思います。
普段車にばかり乗って、歩かない事が悪影響になっているのだと思います。

これ以上何回もやる訳にいかないので、
とにかく早めにクシャミにだけは勝てる体にしたいと思います。

[M M]

ミグダ

カロートとかドゥケルバンとかラプサンスーチョンとかイルガチェフェとか、
時折、ワケの分からないカタカナ言葉を紹介してきましたが、
今回はミグダです。

ミグダ、実はそんな単語はないそうです。

ミグダは焼き菓子の名前なのですが、
富山県は高岡市にあるフェルヴェールという洋菓子屋さんのオリジナルです。
古い時代にスペインやらフランスやらで食べられていた、
伝統的なアーモンドケーキのなかから、
小麦粉を使わない、アーモンドだけで作ったケーキを再現したものだそうで、
ミグダは、それを指導してくれた磯部先生という方の命名によるとのこと。
エスペラント語でアーモンドを意味する MIGDALO に由来するそうです。

ミグダ

やってみたことのある方は分かるかもしれませんが、
製菓や製パンのためにアーモンドを使おうとするとき、
ふつうはアーモンドプードルというものを買います。

アーモンドパウダー

アーモンドプードルというのは、
マカロンやダックワーズを作る際には必須の材料で、
私はネットで購入することが多いのですが、
200グラムで600円ちょっとと、なかなかのお値段です。
なので、そうそう大胆に使える材料ではなく、
小麦粉に混ぜて風味づけにするとか、その程度の使い方になります。
ちなみに、これが、そのアーモンドパウダーで作ったガナッシュです。
40枚ほど焼いたので、これにクリームを挟めば、
20個ほどのマカロンができる予定ですが、
これだけでも相当の原価が掛かっています。
マカロンやダックワーズが、お店で買うと高いのはそういう理由でしょう。

マカロン

とにかく、そのようにお高いアーモンドパウダー。
アーモンドだけで何かを作ろうなんて、
正気の沙汰ではありません。


その証拠、というわけでもありませんが、
この、マドレーヌほどの大きさのミグダ、1個 550円です。
隣にハイライトを並べていないので大きさが分からないかもしれませんが、
ごくごく一般的な、昔ならではのマドレーヌほどの大きさで、その値段です。

しかし、卵とアーモンドの粉だけと砂糖とバターだけで作られた、
シンプルでリッチなこのミグダ、
値段のことも頭の片隅にあるのかもしれませんが、
しっとりしながらもコクがあって、美味しいです。

ミグダ 切ってみた

さて、このミグダ。
ベーキングパウダー、ショートニングなどの副原料を使わないため、
製造には技術が必要なのだろう、作るのは大変そうだなと思うのですが、
では、なぜ、そんな面倒なものを作ったのか。
それは、古い時代の食文化の味を再現し、伝承するためだそうです。
なるほど。
そして、試行錯誤を経ながら、このミグダが完成した時、
その喜びはひとしおだったと言います。
なるほど。

日本人の私たちは文化の伝承というと、
歌舞伎や能などの伝統芸能や、祭りの山車の曳き回し、
または、宮大工などの古式ゆかしい建築などを想像しますが、
なるほど、洋菓子にもそういう伝承すべき伝統があるのですね。

[SE;KICHI]

出生前診断

妊娠中に胎児の状態を検査して診断することを出生前診断といいます。
出生前診断の目的は、産まれる前に赤ちゃんの状態を観察・検査し、
生まれる前に赤ちゃんに治療や投薬を行ったり、
出生後の赤ちゃんの治療の準備をしたり、
また赤ちゃんについての情報をご夫婦に提供すことです。

ですが悲しいことに、異常があるとわかった人の9割が堕胎を行っているそうです。
その数字のあまりの大きさに正直驚きました。
出生前診断のそもそもの目的が、
赤ちゃんを産むことを前提としたものであるのに対し、
現状はというと、
検査結果によって生まないという選択をするという結果になりがちだということに、
非常に憤りを感じます。

検査の結果、胎児に病気があったり奇形があったりすることが分かっても、
それは、
産むために、胎児に治療をする。
産むために、誕生後にすぐ治療に取り掛かれるように準備する。
産むために、今後の生活の準備をする。
などのためです。
決して産まないための選択、であってはならないと思います。

もちろん、安易な判断で堕胎を選択する人は少ないのかもしれません。
経済上の理由や、その他どうしようもない理由があっての、
苦渋の決断なのかもしれません。
それでも理由がどうであれ、
堕胎をするという事は一人の命を絶つ決断をするという事です。
親側の事情で、せっかく授かった命をなかったことにする、
それは許されるべきことではないはずです。 

実際のところ、私の子供たちは奇形で生まれてきたわけでもないし、
大病を抱えて生まれてきたわけでもありません。
えらそうなことは言える立場ではありません。
ただ、少しだけ気持ちがわかる気がします。
私の長男は生後すぐ心臓に異常があると言われ、
顔面の片頬にも異常がある(麻痺)と言われ、
大学病院への受診を勧められました。

とてもショックでした。自分のせいだと思いました。
初産で産後すぐの、産み終わった安堵感と幸せ感でいっぱいだった私は、
本当にどん底に突き落とされた感じでした。
気が遠くなりそうでした。
主人も母も帰宅した後だったので、たった一人で説明を受け、
私は自分が何か悪いことをしたその罰ではないかと考えました。
途方に暮れて、泣きました。
その日の夜は眠れませんでした。

でも、あったのは自分のせいで長男がこうなったのかもしれないという、
自分を責める気持ちと、これからどうなっていくのだろうという不安だけで、
産まなければよかったなどとは全く思いませんでした。
翌日主人に報告したのは覚えていますが、
なんと言われたか、どん底にいた自分がどう気持ちを切り替えたのか、
まったく覚えていません。
覚えているのは退院早々、
おむつやらミルクやらをかかえて大学病院へ通い始めた事実だけです。

結局、心臓の方は1歳になる前に完治し、片頬の麻痺は、
保育園の頃まではまだ傍から見て違和感が残っていましたが、
いつも間にかそれもなくなっていました。
手術をすることなく、自然治癒でした。

大病のある子や障害を持った子を現在育てている訳ではないので、
障害のある子、大病を患っている子のご家族の思いや、
生活状況は正直分かりません。
想像を超える苦労をされているのかもしれないし、
とても幸せな日々を送っておられるのかもしれません。
経験のない私が言うと批判の目を向ける方も少なくないかもしれません。
でも、私が想像するに、堕胎した後の後悔というのは、
想像以上に大きいのでないかと思います。
もし、苦労することになるだろうという想像で堕胎を決断する人がいるなら、
人は誰しもどこかの場面で苦労することを与えられていると思うので、
その苦労をどこでするか、なのではないかと思います。

ヒトの命を絶つという後悔はそれをした人にしか生じ得ません。
それこそ取り返しのつかないことです。
命というかけがえのないものを、自らの判断で絶ってしまえば、
その後悔は重くのしかかって消えることはないのではないかと思います。

自分に置き換えたとき、妊娠して(検査は受けませんが)仮に受けたとして、
陽性だったら、
おそらく経済状況や今後の生活の不安で押しつぶされそうになるでしょう。
でも堕胎という選択は私にはありえません。
一度流産して一人の子を亡くしてそのつらさを知っているからこそ、
自ら選択して授かった命を絶つことはありません。


生まれてくる子には生きていく力がある。
生まれてくる子には生まれてくる意味がある。
生まれてこなくていい子はいない。

生まれてきてくれた赤ちゃんが、病気に勝てず、
つらい思いをされたご両親も少なくないでしょう。
でも生まなければよかったと思われるご両親はいないと思います。
検査を受けて堕胎して、
心が痛まないお母さんは少ないと思います(思いたいです)
代理母出産という制度をもってしても子供を授かりたいと願う女性の為にも、
せっかく授かったお子さんを、ぜひ産んで欲しいなと思います。

相変わらずニュースでは生まれたばかりの赤ん坊が遺棄されたり、
虐待される子供さんがいます。
でも赤ちゃんも子供もモノではありません。
一人の尊い人間です。

[Okei]

マイノリティ・リポート(2)

3年ほど前、「マイノリティ・リポート」という記事を書きまして、
自分としてはしょうもない記事だったなと思っていたのですが、
意外にも、リアルの社会で、そこそこの反響をいただきました。
そこで、調子に乗って第2弾を書いてみます。

何を隠そう、私は知覚過敏です。

知っていますか、知覚過敏。
虫歯でもないのに歯が沁みて痛い、という症状です。
おおざっぱに言えば、何らかの原因で歯を支えている歯肉(歯茎)が下がり、
そのことで歯の根っ子部分が露出してしまうことにより、
その露出部から、たとえば食事の時に歯が沁みると、そういうことです。

これは、意外とキツイです。
歯医者に関係のある感じでたとえるなら、
歯石除去のとき、たまに「おわっ」ってくらいに痛い歯、ありますよね?
あの、響く痛みがずっと続いている感じ。
基本的には熱いものや冷たいものを食べた時に沁みるわけなので、
鍋料理とかアイスクリームを食べなければ大丈夫と思いがちですが、
私のように進行してしまうと、深呼吸をしたときの空気でも沁みます。
いわんや、食事なんて噛めません。

しかし、知覚過敏を感じている人は、一説に1800万人もいるらしいので、
知覚過敏自体は、マイノリティとは言えなそうです。

問題はその原因。
歯磨きが不充分で歯の隙間にプラークが残っていた、とか、
炭酸飲料を好んで飲んでいて歯が弱くなった、とか、
世間一般、そういう理由が多いようです。

が、私は歯磨きを長くするほうで、虫歯はあまりありません。
出張や旅行にも、スペイン製の1700円もする歯磨き粉を持参するくらいです。
また、炭酸飲料もそんなに飲まないので、関係なさそう。
もちろん加齢とともにどうしても歯肉は下がるようなのですが、
年齢を理由にするには、ちょっと早すぎると思われます。

そういうわけで、自分の知覚過敏の原因が見当たらず困っていたのですが、
最近お世話になっている歯医者さんで言われた言葉は、
「あなたは頑張り屋さんなのです」

ほうほう。
自分の上司ですら、言ってくれない言葉。

曰く、昔は、苦難や困難が発生した時など、
「歯を食いしばって耐えろ!」などと言われたものですが、
歯のことを考えれば、歯は食いしばってはいけないんだそうで、
実際に歯を食いしばったりすると、その歯に数トンの負担がかかり、
歯が砕けたり、弱くなったりしてしまうそうです。
歯肉に炎症を起こしてしまうこともあるそうで、歯医者さんは、
「あなたは歯を食いしばって耐えるタイプなのだろう」ということで、
私を頑張り屋さんと言ってくださったようです。

歯医者さんによれば、
唇を軽く閉じたとき、上の歯と下の歯は当たらないのが普通なんだそうですが、
それを聞いた私はびっくりしました。
私はガッチリ当たります。
いや、意識すれば離すことはできますが、無意識だとガッチリ当たります。
なぜなら、当てることが習慣になっているから。
つまり、口を閉じたとき、自分で上下の歯を当てているのです。

これがマイノリティ。
Tooth Contacting Habit(TCH)という、
この、無意識に上下の歯をあててしまうタイプの人は、
世の中に20%弱しかいないそうなのです。

実際に自分が頑張り屋さんなのかどうかはともかくとして、
確かに、私には、何もない時間に歯を擦り合わせるクセがあります。
なるほど、知覚過敏はそれが原因だったかと溜飲を下げました。

私の知覚過敏の治療法は、歯を食いしばるクセをやめること。
それだけだそうです。

[SE;KICHI]

学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇。

『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』
大先哲ソクラテスの言葉です。

「ソクラテスの弁明」
http://chibacarp.blog.fc2.com/blog-entry-450.html

「知を疎かにする者は場当たり的に道を歩き、
知を学ぶ者は一歩一歩確かな道を歩くだろう。」
なるほど、その通りだなと思います。

最近、色々なところで学ぶ機会が増えています。
例えばユーキャンのような資格を取る為の通信講座。
一昔前は有名おバカアイドルが猛勉強に挑戦の末、
資格を取ったことがすごいことだと大々的に宣伝するCMが流れていました。
応募して始めた人も多いのではないのでしょうか?

通信講座イメージ
https://www.sikaku-net.biz/sharosi-u-can-tusin

また芸能人が難関大学へ合格するため、
勉強して受験するという企画がテレビで流れていたりなど、
年齢は関係なく、
その気になればいつでも始められるんだという風潮が出てきた感じもしています。
書店へ行っても、学校で学んだ強化以外の分野を含めた学習本が、
所狭しとズラリと並び、人々の関心が大きいことを物語っています。
さらに資格や試験の為の勉強のみならず、
哲学や自己啓蒙に関わることまでへ広がり、
昭和の時代にあったような、
義務教育が終わったら後は社会に出てバンバン稼ぎ、
学ぶことは社会で学び、やがて定年を迎え、
余生を過ごすといった典型的な生き方のようなことは、
最近は薄らいできているように感じます。
(昭和の時代を生きた訳ではありませんが…すみません。)

集団就職 https://tetuzou-kisi.com/?p=853

話は変わりますが、かく言う私も、
最近四年制総合大学の通信教育課程へ入学致しました。
仕事や他の活動も行いながらの“三立”四立”の状態でかなり厳しいですが、
今からでも遅くない!進む!と自分で決めましたので、
卒業まで走りぬいて参る決意です。

選んだ学科は好きな歴史学などを学べる分野でしたが、
ある時、弊社の SE;KICHI さんとそのことについて車中で話す機会がありました。
「どうして勉強するのか?」という問いに対し、
私は仕事に直接関係もないし、今は自分の人生に厚みを持たせるためであり、
いわば自己満足なんだと伝えました。
すると SE;KICHI さんは、
「大学は義務教育と違って好きなことを好きなだけ学ぶところ。
そしてその学んだことをどんな形であれ、
誰かの為に使っていくべきだよ。
とのアドバイスに、私はハッとしました。

そして大学の入学式で読んだ創立者の一言にも、
「学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない。
人びとの幸福に寄与するためであり、
むしろ、大学で学ぶのは、
大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためである。」

との言葉があったことも思い出しました。

通教を始めた動機としては、
かつて諦めた学ぶ機会をもう一度得たいというのと、
自分の好きなことをやりたいという、
自分ベースでしか考えていなかったのですから、
その厚みというかもう一歩深く踏み込んだその崇高な目的感に、
自分の浅はかさを痛感、反省しました。
(決して卑屈になっているわけではありません。感銘を受けました。そうだなと。)

このことから、決して自己満足で留まるのではなく、
学んだことがそのまま活かせればそれはそれでなお良いかもしれませんが、
そうではなくても、周囲の人々に自分のできる範囲で貢献していくための光となり、
力になろうと改めて思いました。

弊社でも自己啓発セミナーをはじめ、仕事に直接関係がなくても、
人間的成長を高めるための学ぶ機会が多くあります。
これはとても大事なことだと感じています。
学ぶことは、絶えず成長していこうと前に進むことでもあります。
自分のみがずる賢く利益を貪る輩もいますが、
そうではなく、
周りの人や社会に尽くしていく自分に成長するため、
今日も学び、前進する一日でありたい。

そう決意しております。

[K.K]

無になる時間

ハガニアシャトルバスが終了したこと、
これは、私にとっては、なかなかに残念なニュースでした。
2年に一度ほどの頻度でグアムに行っているのですが、
青い海には目もくれず、
聖母マリア大聖堂(通称ハガニア大聖堂)に行くことが主目的だった私、
昨秋、タモンからハガニアへの直通バスが廃止されてしまい、
乗り継ぎなどが必要となって、ものすごく不便になってしまいました。

まぁ、それは仕方ないのですが、その大聖堂に何をしに行っているのかというと、
それは、ズバリ、癒し。
瞑想的なことが大好きな私、
そのハガニア大聖堂で呆けたように座っているのが大のお気に入りです。

私とハガニア大聖堂との出会いは15年ほど前。
鉄道マニアに乗り鉄とか撮り鉄とかいろいろあるように、
実は、教会マニアにもいろいろあって、
そのひとつに聖遺物好きというジャンルがあります。
聖遺物というのは、イエスが磔にされた十字架とか、手足に打ちつけられた釘とか、
死を確認するために脇腹を刺した槍とか、イエスの遺体を包んだとされる布とか、
イエスや聖人たちの遺骸そのものや、殉教に関わる遺品群のことで、
たとえば、有名どころでは「最後の晩餐」で使用された聖杯など、
これはスペインのバレンシア大聖堂に安置されているのですが、
そのようなものが世界各国に遺されています。
日本は、鎖国していましたから、聖遺物が伝わることはありませんでしたが、
それはグアムも同じで、グアムの教会で拝観できる聖遺物はないものの、
あるとき、たまたま訪れたハガニア大聖堂では聖遺物に関するセミナーをやっており、
もちろん英語だったので私には難しかったのですが、
そこに参加して以来、聖遺物について、少しだけ興味を持っている私。
そういえば、5年ほど前に少しだけ書いた即身仏も、
まぁ、聖遺物といえばそうでしょう。
日本史で有名なザビエルの遺体もボム・ジーザス教会に祀られて、
たまに公開されていますしね。(爪だけなら日本に分祀されています)

まぁ、つまらぬ話をしましたが、
とにかく、そういう経緯で、ハガニア大聖堂を気に入ってしまい、
別にセミナーも何もやっていないときでも、
そこに座って半日くらい過ごすのが好きな私。

ここまでは前置き。
しかし、グアムは3時間ちょっとで行けるのが魅力ではあるのですが、
やはり国内よりも渡航に費用が掛かるので、そう頻繁には行けません。
そこで、私は、国内の代わりの教会でボーっとしたりするわけですが、
最近、さらにそれに代わるスポットを見つけました。
それが宮脇俊三的世界。
言わずと知れた、鉄道廃線跡を旅する大家です。

いや、私は、本気の廃線はダメです、怖いので。
私が特にちょうどいいと感じているのが、ココ。
ローカルな話で恐縮ですが、富山地方鉄道の大川寺駅。
もともとは遊園地が近くにあったそうで、それなりの規模の駅だったようですが、
遊園地閉園後、20年ほどかけて順調に朽ちていっている感じ。
近くには地名のもととなった大川寺というお寺があるくらいで、
いま、あんまりこの駅を利用する方はいなそうです。

大川寺駅

もともと、それなりに整備された駅だったためか、
往時と、現在の朽ちつつある情景とのギャップに萌えるというか、
一層強調された虚無感のようなものを感じます。

そこに身を委ねてみると、どうでしょう。
木々のそよぐ音のみが聞こえる静かな場所で、身も心もホウっと力を抜く時、
ゆっくりとゆっくりと、空間に溶けていくような感覚になります。
自分が空間に溶けだしていくのですから、
これが仏教用語でいうところの、“宇宙即我”の境地なのでしょうか、
日々に頭脳を支配している悩みや心配事も溶けてなくなり、
おおらかで活力あふれる感じになります。

しかし、駅舎は朽ちつつあっても、鉄路として生きていれば電車は来ます。
木の張り出した枝をかいくぐり、止まっていたかのような時間を引き裂いて、
電車はゆるやかに入線します。

普通 岩峅寺行き

写真は元東急8590系ですが、
空間に溶け出ていた私の自我は、慌てて私の肉体に戻るのでした。

学術的に、人生には瞑想が必要だと言われています。
人間は、制御しないとネガティブなことを考えやすいようで、
なんとなく頭脳を支配している悩みや心配事は、自らの自由度を奪い、
くだらない、義務感の毎日へと、人生の質を落としてしまいます。
位相を正してポジティブに生きるためには、どうしても瞑想が必要ですと、
そういうことのようですが、私は、それはその通りだと思います。
おしなべて、人生で大をなす方には定期的な瞑想の習慣があるようです。

もちろん、瞑想というのは何もせずに静かな場所で考えることであり、
酒を飲みながらぼんやり考えるとか、パソコンの前でいろいろ調べながら考えるとか、
そういうことを指してはいませんので、
そういう意味で、瞑想とは本来、教会や寺でやるべきなのでしょうが、
私は、スマホを置いて外界と断絶した環境さえ作れれば、
宮脇俊三的な、退廃的な環境に身を置いてみるのもいいのではなかと感じます。
汚いベンチを拭いて、そこに腰を下ろして目を閉じた時、
その効果は、確かに教会に似たものを感じます。
(正確には、仏教的には瞑想よりも経行に近い感じかもしれませんが。)

[SE;KICHI]

『南洲翁遺訓』

大河ドラマ「西郷どん」の視聴率は12~14%程で、
徐々に落ちてきている感じがします。
私は明治維新の頃を題材にしたドラマが好みではなく、
今回も見るか迷っていたのですが、
撮り貯めしたのを見始めるとジワジワとはまり見ています。
今回は最後まで見るかもですね・・・やっぱり途中でやめそう(汗)

見ている最中に講習会にて「南洲翁遺訓」を勧められ読んでみました。
最初は原文を頑張って読んでいたのですが・・・
やっぱり途中で訳文や解説を見ないと理解できず、
なんかすいませんって感じです。

理解に偏りはあるとおもいますが、
初めの国や政治のあり方やなどは藩主を主としてきた人達のこともあると思い、
あまりピンとこなかったのですが、
役人・政治家は私欲や私事をなくさなければならない。
でも国会で○○学園などのくだらない不要の話をしているのを見ると、
私事を挟んでいるのだと感じてしまいます。
私は小人で大きな事はできないかもしれませんが、
不要な話で議会の時間を使っているのを見ると、
国に対し尽くしても尽くしてくれることは無いのだと、
再認識してしまいます。
本当に腹立たしい。

いろいろなことに日常流されていると思いますが、
小人でもやれることがあるしやりたいことがあるので、
まずは全うしたいとも思います。
16訓の節操・義理・恥について、
世界のどの国でも同じであるとあり、
時代は違うが日本人は特に強く文化ではなかったかと思い、
どうしてこんなに変わったのかと。
先にも書いたくだらない話を、
する方もされる方も節操や恥が無いのだと思ってしまいます。
そんなことをいつまでもやっているから、
拉致とか核とかで問題になっている国から、
なめられるのではないかと思います。


今回読んでいて一番目を止めたのは21訓です。
論語のようですが、己に克つための極意、
「意なし、必なし、固なし、我なし」
原文の漢字が出なかったので訳文の方を書いてしまいました注)が、
私欲を貪る心を持たぬこと、
自分をおそうとしないこと、
こだわりの心を持たぬこと、
独りよがりにならぬこと。

注)「毌意毌必毌固毌我」です。

こだわりが強いほうだとは思いませんが、
意固地になっていることもあるし、私欲が強かったと思うこともあります。
己の欲を優先させるとろくなことがないと、
本から思ったのは初めてだったので心に残りました。

知識は確かに足りないと思いますが、
少しでも実践できる人ではあるようにしたいと思いました。

『南洲翁遺訓』
https://store.kadokawa.co.jp/shop/g/g321611000864/

[WAKA]

ありありと未来を思い描くこと

弊社の社長は、ダンディ坂野と同い年の51歳。
その彼の夢は、地域貢献としてスポーツ施設を作ることだそうです。
聞けば、サッカーや野球のようなメジャーなスポーツのための施設は多いものの、
特に田舎では、マイナーなスポーツのための練習施設等が不足しているため、
いつか、自分が、普段お世話になっている地域への報恩として、
スポーツ施設を作りたいと、まぁ、ざっくり言えばそういうことのようです。

コレ、素敵じゃないですか?
私自身は、スポーツ全般に少しの興味もないので、
その施設の必要性から採算性まで、ちょっとよく分からないのですが、
彼が、いつか地元にスポーツ施設を作れるような人物になりたいと、
その志を持っているところが素敵だと思うのです。

このブログではつい最近も、ジョセフ・マーフィーについて触れましたが、
マーフィー曰く、人間、思い描けもしないような未来は引き寄せられないと言います。
ということは、思い描くことのできる未来は引き寄せることができるということ。
つまり、地域貢献としてスポーツ施設を作ることを思い描いていれば、
それが叶う日は、やってくるということです。

ただし、「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルも言っていますが、
願いを叶えるためにはそれなりのコツもいるようです。
そのコツとは、思い描くのはありありと鮮明な未来でなくてはならないということです。
そりゃ、視界が曇っていては見通せなくなりますからね。
つまり、ありありと思い描ける未来は引き寄せることができると、
そういうことで、
弊社社長も、できるだけありありとその体育館の竣工を思い描いたほうが、
その夢は叶いやすいということです。

イメージングの力は偉大です。

私は、このことを堅く信じています。
つまり、自分の未来は常に明るいと、
こんなに頑張っている自分を神様が見捨てるはずがないと、
私は、このことを信じていますし、成功のイメージをありありと描いています。
そして、それを信じていれば、そういう未来が引き寄せられてくると思っていますし、
そうでない人物とは、人生、雲泥の差がつくに違いないとも、信じています。

そう思っていたとして、実際に何が起こるかは、私には分かりません。
しかし、そう思っていたほうが幸せじゃないかと思うのです。
どう思いながら生きていくかは、自分で完全に選べるんです。
つまり、自分の未来は常に暗い、
こんなに頑張っている自分を神様はお見捨てになるのだと、
そう思いながら生きることは、一体、誰を幸せにするでしょうか。
否定的な解釈をするクセのある人は、必ず否定的な人生を引き寄せています。
そういう、否定的なくだらない人生を生きている人、
みなさんの周りにもたくさんいるでしょう。

私たちは、年齢とともに要らぬ知恵がついて、
いろいろなことについて、現時点から考えて現実味があるのかないのか、
小賢しい“判定”をしてしまいます。
そして、「なかなか厳しそうだ」と“判定”したことについては、
悲観的に捉え、チャレンジをやめてしまいがちです。
つまり、「この状況から考えて・・・」という、現実的な“あきらめ”です。

これは、大人になることの弊害と言えます。
現在位置から行ける場所を考えたら、そこそこの場所にしか行けません。
最終目的地を決めたうえで、
イメージングを駆使して、そこに到達した自分をありありと思い浮かべ、
それから、そこに至るために、いま、自分はどのような一歩を出すべきか、
そういう考え方をしたいものです。

「忙しい」とは“心を亡くす”ことだと言われますが、
私たちは、日々の生活に追われ、未来をありありと思い描くことを忘れがちです。
このことが、人生をつまらなくする秘訣であると、私は思います。

ついでに言っておくと、もう一つの夢を叶えるコツは、
自分のイメージングを人に話すことだそうです。
冒頭の弊社の社長の夢は、私が勝手にこのブログで披瀝したもので、
もしかしたら、本人的には「そんなの人に話すのは恥ずかしい」かもしれませんが、
自分のイメージングは、他人に公表することで「公約」のようになり、
自己暗示にもなるし、協力者を集めることにもなるし、
なにしろ、人に話すことは、現実化への第一歩だそうです。

中小企業は社長次第だとよく言われますが、
確かに、社員側からすると、社長に賭けているようなところがあって、
社長と夢のビジョンを共有したいというか、
社長の夢を叶えてあげたいという人材の集まり方になります。
つまり、社長があきらめたら終わりなのです。
私は、弊社社長が、自身の夢をありありと思い描けている間は、
そのような未来を引き寄せることができると信じています。

みなさんは、どうでしょうか。

[AKA]

対岸の火事でいいのかしら。

富山市の交番が襲撃され、拳銃が奪われて2人が殺害された事件。
いつも静かな富山市にしてはセンセーショナルな事件でした。

この事件の犯人は、何が狙いだったのでしょうか。
この手の事件のとき、私たちは、わりと安易に、
「最近は、危ないヤツが増えて、怖いねぇ」という話をしがちです。
それは、もしかしたら、そのとおりなのかもしれません。
しかし、そういう話にすると、話が「くわばらくわばら」で終わってしまいます。

かつての日本は、みんなが互いに関わり合って生きていました。
煮物を多く作りすぎたと言っては鍋ごとおすそ分けをいただき、
鍋を返す際には、カラの鍋は返せぬと代わりに何かを詰めて差し上げ、
延々と終わらぬおすそ分けのラリーは、
いまどきのご時世からすると鬱陶しいこと極まりないと感じますが、
そういうやり取りのなかで、
「あら、○○ちゃん、学校はどう?」とか、
「あそこの△△ちゃん、テニス部だって」みたいな、
周りの大人が地域内のメンバーを仲間として認識していたと思うのです。
それは、ある意味で“プライベートなんてない”状態だったかもしれませんが、
もともと、日本とは、互いに関わり合う、そういう国でした。

かつての社会とはそういう社会でしたから、
あそこの家の若造が自衛隊やめて帰ってきたらしい、と聞けば、
親世代はその青年が働ける場所があるか聞いて回ったし、
地区の青年団みたいな面々は、本人に対して、
オマエ、どうしたんだ、これからどうする気だと、
地域みんなが彼のことを放っておきませんでした。

だから、私は思うのです。
危ないヤツが増えたのは、地域が、そいつを放っておいたからだ、と。

人間、生まれついての極悪非道などということは、ないはずです。
おぎゃあと生まれたそのときは、純粋な目をしてママの指を握っていたはずです。
それなのに、その20年後に殺人事件の加害者になってしまう青年がいる現実。
この20年の間に何があったというのでしょうか。
「最近は、危ないヤツが多いねぇ」という話は、そのとおりだとしても、
純粋な赤ん坊をそのように変質させる力が社会にあるのではないかと、
私は、なんだか恐ろしくなるのです。

もちろん、この犯人がやった、
無辜の人物を殺めるという行為は許されることではありません。
いまのところ推察ですが、動機はおそらく、身勝手な欲望に基づいてのことでしょう。
しかし、このニュースに接して、
「あぁ、うちの地区でなくてよかった」とか、
「いやぁ、うちの子が無事でよかった」とか、
自分と関わりのない事件で良かったと胸をなでおろした私たち、
突き詰めれば、自分と自分の家族さえ無事ならよいと言っているわけで、
それだって、身勝手な感覚なのではないでしょうか。
これは、震災関連のニュースの際にも感じることです。

マスコミも然りです。
少し前の、新幹線車内で刃物を振り回して乗客を殺傷する事件もそうですが、
このような特殊な事件を、手口などを含めて広く全国に報道する意味は何なのか。
また、これから犯人像というか、加害者の性癖から通院歴までが暴かれ、
面白おかしく報道されるのでしょうが、
それを私たちに伝えようとする意図は何でしょうか。
知る権利?
少なくとも、私はそのようなことを知りたいとは思わないのですが。
知る権利を隠れ蓑に、
何でも流せばいいというものではないと思う
のです。
マスコミにとっては絶好のコンテンツかもしれませんが、
加害者の異常性を暴き立てる報道の仕方では、
次の被害はなくならないのではないでしょうか。

そうそう、その1週間ほど前の大阪の地震では、
ブロック塀が倒れて小学生の女の子が犠牲になりました。
実に痛ましいことだと思うのですが、
だいたい、小学校に、どうしてブロック塀が必要なんでしょうか。
プールなどの目隠しのため?
本気の変質者が来たら、ブロック塀などでは防げないでしょう。
そんな視点で安易にブロック塀なんか作るから、倒れてしまうんです。
この先どうするんでしょうか。
全国的にブロック塀は撤去の動きですが、
そしたら、今回のような拳銃持った暴漢への守りはどうするのでしょうか。

そういうことじゃないですよね。
必要なのはブロック塀でもないし、さすまたでもないでしょう。
もう一度言いますが、
危ないヤツが増えたのは、地域が、そいつを放っておいたからです。
そいつにみんなで関わって、そいつの人間力を高めておけば、
少なくともそういう事件を起こすような人物にはならなかったでしょう。
そういう意味では、
社会に一員としての私たちにも責任はあるでしょう。
反省すべきだし、対策を考えるべきです。
また、第四権力としてのマスコミにもそれを促す力になってほしいものです。

私は、そういう問題提起があっても良いのではないかと思うのです。

[SE;KICHI]
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