毒矢の譬え
仏教僧として出家することを願っていた若かりし私は、
師僧について修行に励んでいた時期があるのですが、
そのときに知ったのが「毒矢の譬え」です。
ある人がどこからか飛んできた毒矢に射られたとき、
周囲の家族や知人は、早く医者に診せ、早く矢を抜かなければと考えるでしょう。
しかし、射られた本人が、
「どうして自分が射られたのか、犯人が誰か分からないうちは矢を抜くな」
と、そこにこだわったとしたら、どうでしょうか。
毒矢なので、そうこうしているうちに毒が回り、
その人は絶命してしまうことでしょう。
この話は、お釈迦様が弟子のマルンキヤプッタの質問に答えるという形で、
ちゃんと説法に残されているのですが、示唆に富んでいると思います。
まず、ひとつは、現代人にありがちなことですが、
納得できないと行動できないということへの戒めでしょう。
何にこだわるかは個人の勝手ですが、それを気にしているうちに絶命するなら、
それは合理的なこだわりではないでしょう。
犯人を捜査することよりも、命を救うことのほうが明らかに大事なわけで、
必ずしも腑に落とす必要などないのだと、そういうことですね。
それと、もう一点は、その次のステップではありますが、
大事なことは何か、本質を見定めよということもあるでしょう。
この毒矢の例えにあっては、まず命を救うことが第一ですが、
次にすべきことは、再発防止だと思うのです。
犯人は誰なのかという観点はいったん保留し、
どうして射られたのだろう、誰かに恨まれるようなことしたっけな、
どうしたら防げるのだろう、敵を作らないように注意しようとか、
そういう、今後どうしようかというような視点です。
少なくとも次は射られないようにということです。
まぁ、何が言いたいかというとですね、
若かりし頃の修行の日々に、この「毒矢の譬え」を学んで以来、
私は、誰のせいかという話が嫌いです。
もちろん、急にどこからか矢で射られるというのは意味不明で理不尽なことで、
今後、再びそのような災難に遭わないようにするためにも、
誰に射られたのか確認したいところではあるでしょう。
しかし、それをしてみたところで、その相手と果し合いできるわけでなし、
知ったところで警戒するぐらいのことしかできないので、
それよりも、再びそのような災難に遭わないようにするためは、
恨みを買わぬよう、全方位的に人格を磨く以外ないですよね。
いずれにせよ、私は、
ロクに報われない犯人探しなんかより、
次に失敗しないためにどう対策するかを考えるほうが有意義だと思うので、
そっちに時間と労力を費やしたほうが良いのではないかと思うのです。
ところで、当社のある富山は、このところ全国的に有名みたいですね。
政治資金の問題で市議会議員がどんどん辞職し、補選が行われる始末です。
私は辟易しています。
不正を行った議員の存在にではなく、
魔女狩りのような報道に。
公費の不正ですから、納税者として憤る気持ちも分からなくもないのですが、
誰が不正したとか、そういうことは、物事の本質ではないと思うのです。
不正を働いた議員は確かにけしからんし、適性を欠くという指摘ももっともですが、
そういう議員だって、選挙で選出され、議員として貢献してきたんでしょ、たぶん。
肝心なのは誰が悪いとか、そういう話ではなく、
そもそも、そういう不正ができちゃう仕組みってまずいよね、
今後、こういうことが起きないようにどうしようか、という、
未来志向の「これからどうする?」が大切だと思うのです。
豊洲の新市場建設の問題も、小池都知事が、
「誰のせいでこうなったか、誰が…何を隠したのか、原因を探求する」
と記者会見していました。
曰く『責任の所在を明らかにする』のだそうです。
私は、そんなの最終的には歴代の都知事の責任なんだろうし、
そんな探求は後回しでいいから、早く、どうするか決めれば?と思います。
しっかし、『責任の所在を明らかにする』って、
みんな好きですよね~、魔女狩り。
今年、と、総括するにはまだ早いですが、
誰と誰が不倫していたとか、あの芸能人が覚醒剤に手を染めていたとか、
女優の息子がレイプ事件を起こしたのは子育てに問題があったのではないかとか、
そういうことって、どうでもいいじゃないですか。
だって、私、関係者じゃないんだし。
だいたい、前の舛添知事についても、一時は首相待望論も出ていた人で、
都知事として「都知事外交」を展開し、
安倍首相が訪問できない中国や韓国を訪問して、友好を結んでいましたよね。
要するに、日本が孤立しないようにネットワークを築く、
国政との、ある意味での二元外交の一翼を担っていたと思うのです。
そういう稀有な国際戦略家を、湯河原の別荘とか絵画購入とか、
取るに足らない金銭問題なんかで辞任に追い込んで、政治生命を奪うとか、
結局は「悪い者探し」ですよね。
社会不安なんでしょうか。
「失敗してもいくらでもやり直せる」と若い人を激励しておきながら、
実際にちょっと失敗したら袋叩きって、矛盾している気もします。
誰かを叩いていれば気が晴れる、みたいなことで、
常に仮想敵を設定して攻撃を加えている感じもしますね。
失敗した人、今後は気をつけましょうね。
他の人は、そのことをあんまりとやかく言わない。
それが矜持だろうって話です。
[SE;KICHI]
師僧について修行に励んでいた時期があるのですが、
そのときに知ったのが「毒矢の譬え」です。
ある人がどこからか飛んできた毒矢に射られたとき、
周囲の家族や知人は、早く医者に診せ、早く矢を抜かなければと考えるでしょう。
しかし、射られた本人が、
「どうして自分が射られたのか、犯人が誰か分からないうちは矢を抜くな」
と、そこにこだわったとしたら、どうでしょうか。
毒矢なので、そうこうしているうちに毒が回り、
その人は絶命してしまうことでしょう。
この話は、お釈迦様が弟子のマルンキヤプッタの質問に答えるという形で、
ちゃんと説法に残されているのですが、示唆に富んでいると思います。
まず、ひとつは、現代人にありがちなことですが、
納得できないと行動できないということへの戒めでしょう。
何にこだわるかは個人の勝手ですが、それを気にしているうちに絶命するなら、
それは合理的なこだわりではないでしょう。
犯人を捜査することよりも、命を救うことのほうが明らかに大事なわけで、
必ずしも腑に落とす必要などないのだと、そういうことですね。
それと、もう一点は、その次のステップではありますが、
大事なことは何か、本質を見定めよということもあるでしょう。
この毒矢の例えにあっては、まず命を救うことが第一ですが、
次にすべきことは、再発防止だと思うのです。
犯人は誰なのかという観点はいったん保留し、
どうして射られたのだろう、誰かに恨まれるようなことしたっけな、
どうしたら防げるのだろう、敵を作らないように注意しようとか、
そういう、今後どうしようかというような視点です。
少なくとも次は射られないようにということです。
まぁ、何が言いたいかというとですね、
若かりし頃の修行の日々に、この「毒矢の譬え」を学んで以来、
私は、誰のせいかという話が嫌いです。
もちろん、急にどこからか矢で射られるというのは意味不明で理不尽なことで、
今後、再びそのような災難に遭わないようにするためにも、
誰に射られたのか確認したいところではあるでしょう。
しかし、それをしてみたところで、その相手と果し合いできるわけでなし、
知ったところで警戒するぐらいのことしかできないので、
それよりも、再びそのような災難に遭わないようにするためは、
恨みを買わぬよう、全方位的に人格を磨く以外ないですよね。
いずれにせよ、私は、
ロクに報われない犯人探しなんかより、
次に失敗しないためにどう対策するかを考えるほうが有意義だと思うので、
そっちに時間と労力を費やしたほうが良いのではないかと思うのです。
ところで、当社のある富山は、このところ全国的に有名みたいですね。
政治資金の問題で市議会議員がどんどん辞職し、補選が行われる始末です。
私は辟易しています。
不正を行った議員の存在にではなく、
魔女狩りのような報道に。
公費の不正ですから、納税者として憤る気持ちも分からなくもないのですが、
誰が不正したとか、そういうことは、物事の本質ではないと思うのです。
不正を働いた議員は確かにけしからんし、適性を欠くという指摘ももっともですが、
そういう議員だって、選挙で選出され、議員として貢献してきたんでしょ、たぶん。
肝心なのは誰が悪いとか、そういう話ではなく、
そもそも、そういう不正ができちゃう仕組みってまずいよね、
今後、こういうことが起きないようにどうしようか、という、
未来志向の「これからどうする?」が大切だと思うのです。
豊洲の新市場建設の問題も、小池都知事が、
「誰のせいでこうなったか、誰が…何を隠したのか、原因を探求する」
と記者会見していました。
曰く『責任の所在を明らかにする』のだそうです。
私は、そんなの最終的には歴代の都知事の責任なんだろうし、
そんな探求は後回しでいいから、早く、どうするか決めれば?と思います。
しっかし、『責任の所在を明らかにする』って、
みんな好きですよね~、魔女狩り。
今年、と、総括するにはまだ早いですが、
誰と誰が不倫していたとか、あの芸能人が覚醒剤に手を染めていたとか、
女優の息子がレイプ事件を起こしたのは子育てに問題があったのではないかとか、
そういうことって、どうでもいいじゃないですか。
だって、私、関係者じゃないんだし。
だいたい、前の舛添知事についても、一時は首相待望論も出ていた人で、
都知事として「都知事外交」を展開し、
安倍首相が訪問できない中国や韓国を訪問して、友好を結んでいましたよね。
要するに、日本が孤立しないようにネットワークを築く、
国政との、ある意味での二元外交の一翼を担っていたと思うのです。
そういう稀有な国際戦略家を、湯河原の別荘とか絵画購入とか、
取るに足らない金銭問題なんかで辞任に追い込んで、政治生命を奪うとか、
結局は「悪い者探し」ですよね。
社会不安なんでしょうか。
「失敗してもいくらでもやり直せる」と若い人を激励しておきながら、
実際にちょっと失敗したら袋叩きって、矛盾している気もします。
誰かを叩いていれば気が晴れる、みたいなことで、
常に仮想敵を設定して攻撃を加えている感じもしますね。
失敗した人、今後は気をつけましょうね。
他の人は、そのことをあんまりとやかく言わない。
それが矜持だろうって話です。
[SE;KICHI]
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