玉三郎の美しさ
去年は中村翫雀の四代目中村鴈治郎襲名がありましたね。
今年は春から中村芝雀の五代目中村雀右衛門襲名披露もあり、
また、お騒がせの中村橋之助が今秋に八代目中村芝翫を襲名するなど、
歌舞伎はなかなかの盛り上がりを見せておりまして、
好事家にはたまらない様相になっております。
中村雀右衛門と言えば女形ですよね。
当代(五代目)は清楚で上品な印象ですが、
女形で私が好きなのは四代目鴈治郎の弟、中村扇雀です。
決して清楚で上品とは言えない、母親(扇千景)似の品のない顔立ちが、
すこぶる私好みで、いつも見入ってしまいます。
しかし、世間で最も有名な女形と言えば、坂東玉三郎でしょう。
まぁ、妖艶さというか、色っぽさについては、
他の追随を許さない域にまで達していると思うので、
3年ほど前に中村福助が歌右衛門襲名直前に病に倒れた今となっては、
ほぼ「女方といえば玉三郎」と言っていい状態です。
中村扇雀派の私としては少し悔しい気もしますが。
しかし、確かに当代(五代目)の玉三郎は凄い努力家です。
現在、人間国宝にまで上り詰めた彼ですが、道のりは険しかったようです。
まず、彼は幼い頃に患った小児麻痺の後遺症で、
右手を自由に使えない身体になっていましたが、
リハビリを兼ねて日本舞踊を習い始めたのが、そもそものスタートだったそうです。
右手が麻痺しているのに日本舞踊ってのもすごいですが、
それを職業としてやっていこうと決意したことにも驚きます。
なぜかって、彼は、梨園の出ではないので、
はっきり言えば、歌舞伎俳優にはなれないはずの人なのです。
しかし、彼は、歌舞伎俳優になるために親元を離れ、
十四代目守田勘弥という歌舞伎俳優の養子になります。
実の親を捨てる決断が14歳の時だそうなので、中学2年生。
その年で、身体のハンデも抱えながら、
職業に対する切実な大志を抱いていたことに感嘆します。
こうして歌舞伎俳優への道を歩んだ玉三郎ですが、
カツラをかぶると2m近いと、女形としては背が高すぎたため、
舞台に上がっても失笑を買うありさまだったそうです。
「どうすれば、美しく魅せられるか・・・」と悩んだ彼は、
身体を華奢に見せるため、
腰を落として膝を曲げながら演じるスタイルを編み出しました。
現在でも、彼は膝を曲げながら道成寺などを舞ったりしていますが、
これは、実はとんでもないことで、
膝を曲げながら上体をねじったりして大丈夫なのか、
足腰がどうにかならないか、心配になります。
何を言っているのかというと、
状況が暗澹たるものであったとしても、
努力や精進で乗り越えられないものはないと、
彼の人生を見ていると考えさせられます。
私たちは、ちょっと状況が悪くなると、あきらめがちです。
すぐにあきらめてしまうクセがついているようです。
以前に羼提波羅蜜の話をしたことがありますが、
私たちは、少し耐えて淡々と精進を続けることが苦手なものです。
しかし、玉三郎に限らず、過去の偉人の例は枚挙にいとまがなく、
努力や精進で乗り越えられないものはないというのは、
ひとつの真理でしょうから、肝に銘じておきたいところです。
なお、冒頭で何人かの襲名をご紹介しましたが、
玉三郎については、養父の十四代目守田勘弥が既に他界しているので、
彼が十五代目守田勘弥を襲名してもよさそうなものですが、
彼はそれをしません。
人間国宝にまでなっておきながら、彼はそれをしません。
それどころか、玉三郎などと、若い歌舞伎俳優が名乗る名前を、
初舞台から50年以上、ずっと名乗っています。
そして、現在でも、小児麻痺の後遺症が残っている彼は、
いつか身体が硬縮して踊れなくなるのではないかという不安を常に抱えながら、
仮にそうでも、まずは、明日の観客にベストな舞台を披露したいと、
今日も全力で身体のケアや稽古に励んでいるのだそうです。
彼曰く、常に精一杯に明日のことを考え、
今日を大事に生きることこそ大切だと言います。
それはまさに一日一生。
謙虚だなと思います。
私も見習いたいところです。
ちなみに、この記事を書くにあたって、
普通の人の歌舞伎の認識はどんなものかしらと、
同僚の Okei さんに「知ってる歌舞伎俳優は?」聞いてみましたが、
彼女の答えは梅沢富美男でした。
・・・・・なんか、もう、玉三郎に申し訳ないです。
[SE;KICHI]
今年は春から中村芝雀の五代目中村雀右衛門襲名披露もあり、
また、お騒がせの中村橋之助が今秋に八代目中村芝翫を襲名するなど、
歌舞伎はなかなかの盛り上がりを見せておりまして、
好事家にはたまらない様相になっております。
中村雀右衛門と言えば女形ですよね。
当代(五代目)は清楚で上品な印象ですが、
女形で私が好きなのは四代目鴈治郎の弟、中村扇雀です。
決して清楚で上品とは言えない、母親(扇千景)似の品のない顔立ちが、
すこぶる私好みで、いつも見入ってしまいます。
しかし、世間で最も有名な女形と言えば、坂東玉三郎でしょう。
まぁ、妖艶さというか、色っぽさについては、
他の追随を許さない域にまで達していると思うので、
3年ほど前に中村福助が歌右衛門襲名直前に病に倒れた今となっては、
ほぼ「女方といえば玉三郎」と言っていい状態です。
中村扇雀派の私としては少し悔しい気もしますが。
しかし、確かに当代(五代目)の玉三郎は凄い努力家です。
現在、人間国宝にまで上り詰めた彼ですが、道のりは険しかったようです。
まず、彼は幼い頃に患った小児麻痺の後遺症で、
右手を自由に使えない身体になっていましたが、
リハビリを兼ねて日本舞踊を習い始めたのが、そもそものスタートだったそうです。
右手が麻痺しているのに日本舞踊ってのもすごいですが、
それを職業としてやっていこうと決意したことにも驚きます。
なぜかって、彼は、梨園の出ではないので、
はっきり言えば、歌舞伎俳優にはなれないはずの人なのです。
しかし、彼は、歌舞伎俳優になるために親元を離れ、
十四代目守田勘弥という歌舞伎俳優の養子になります。
実の親を捨てる決断が14歳の時だそうなので、中学2年生。
その年で、身体のハンデも抱えながら、
職業に対する切実な大志を抱いていたことに感嘆します。
こうして歌舞伎俳優への道を歩んだ玉三郎ですが、
カツラをかぶると2m近いと、女形としては背が高すぎたため、
舞台に上がっても失笑を買うありさまだったそうです。
「どうすれば、美しく魅せられるか・・・」と悩んだ彼は、
身体を華奢に見せるため、
腰を落として膝を曲げながら演じるスタイルを編み出しました。
現在でも、彼は膝を曲げながら道成寺などを舞ったりしていますが、
これは、実はとんでもないことで、
膝を曲げながら上体をねじったりして大丈夫なのか、
足腰がどうにかならないか、心配になります。
何を言っているのかというと、
状況が暗澹たるものであったとしても、
努力や精進で乗り越えられないものはないと、
彼の人生を見ていると考えさせられます。
私たちは、ちょっと状況が悪くなると、あきらめがちです。
すぐにあきらめてしまうクセがついているようです。
以前に羼提波羅蜜の話をしたことがありますが、
私たちは、少し耐えて淡々と精進を続けることが苦手なものです。
しかし、玉三郎に限らず、過去の偉人の例は枚挙にいとまがなく、
努力や精進で乗り越えられないものはないというのは、
ひとつの真理でしょうから、肝に銘じておきたいところです。
なお、冒頭で何人かの襲名をご紹介しましたが、
玉三郎については、養父の十四代目守田勘弥が既に他界しているので、
彼が十五代目守田勘弥を襲名してもよさそうなものですが、
彼はそれをしません。
人間国宝にまでなっておきながら、彼はそれをしません。
それどころか、玉三郎などと、若い歌舞伎俳優が名乗る名前を、
初舞台から50年以上、ずっと名乗っています。
そして、現在でも、小児麻痺の後遺症が残っている彼は、
いつか身体が硬縮して踊れなくなるのではないかという不安を常に抱えながら、
仮にそうでも、まずは、明日の観客にベストな舞台を披露したいと、
今日も全力で身体のケアや稽古に励んでいるのだそうです。
彼曰く、常に精一杯に明日のことを考え、
今日を大事に生きることこそ大切だと言います。
それはまさに一日一生。
謙虚だなと思います。
私も見習いたいところです。
ちなみに、この記事を書くにあたって、
普通の人の歌舞伎の認識はどんなものかしらと、
同僚の Okei さんに「知ってる歌舞伎俳優は?」聞いてみましたが、
彼女の答えは梅沢富美男でした。
・・・・・なんか、もう、玉三郎に申し訳ないです。
[SE;KICHI]
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