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ココロとカラダのアップデート

先日、あるお寺で開かれている坐禅会と、
これはまた別の日ですが、
ヨガと坐禅がセットになったヨガ坐禅に参加してきました。
坐禅は初体験。
ヨガは2回目。
今回は坐禅を中心に少しばかり紹介したいと思います。
お付き合いくださいませ。

坐禅は、文字通り、坐る禅。
では、禅とは何でしょう?
梵語(インドの古代語)でゼンナという言葉があり、
それに音を表す禅という文字を当てたものです。
物事の真実の姿やあり方を見極め、
これに正しく対応していく心の働きを調えることを言います。
そのためには、身体を調え心を静かにして、
物事の好き嫌い、善し悪しなど、
日頃の心の働きに執らわれてはいけません。
流れのままに任せることが大切ということです。
そして、禅を行う最も基本的なかたちが「端坐(たんざ)」でして、
「参禅(仏道をまなぶ)は坐禅なり」と、坐禅を重視する訳です。
おおよそですが、このようなことです。

「坐禅会」。
さぁ、やってみました。
まずは足を組むんですが、
右の足を左のももの上に深くのせてから、左の足を右のももの上にのせます。
これが結構キツイ。
「痛たたたっ。」
心の中で叫びました。
手の組み方はというと、右手を左の足の上に置き、
その上に左の手をのせて、両手の親指を合わせます。
そして、首筋をまっすぐにのばし、
頭のテッペンで天井を突き上げるようにして、あごを引きます。
体のどの部分にも無理な力が入らないような位置に体を落ち着かせて、
最終的にはフルリラックス。

さて、少々驚いたのは、目の作法。
目を閉じてはいけません。
自然のままに開きつつ、視線は1m前方、45°の角度に落とすのです。
お寺によっては、目を閉じることもあるようですが(眠ってしまうよ)

坐禅25分の2セット。
坐禅のやり始めは、色々余計なことが頭を巡ります。
外からはバイクの音や虫の鳴く音が耳に飛び込んできます。
若者がバイクで疾走する映像がよぎったり。
あの鳴いている虫は何だろう?
鈴虫かな。
カエルの鳴き声も聞こえるぞ。
今日は皆既月食だ、今見えてるかなぁ(夜だったので)。
などなど。

「思いを決して追いかけないことがポイント。」と言われていたのに、
「追いかけない」、これがなかなか難しいです。
それでも、その駆け巡る思いを否定する必要はないとのこと。
これには救われました。
「私は、私が」という主観的な見方から離れて、
客観的に物事を見つめる。

そのための坐禅でもあります。

さて、途中から慣れてきたのか、集中できたのか、自分に合っているのか、
あっという間に終わりの合図。
1セット25分が10分程度に感じ、2セット目も同様。
全て終わってお寺を出ると、皆既月食です。
坐禅の初体験の日が皆既月食の夜なんてと、勝手に根拠のない縁を感じる自分。
心がフラットになり、穏やかでもあり、楽しくもある、そんな気分。
「坐禅はいいね。続けてみようかな。」
そう感じました。
但し、足の痺れが尋常ではなかったことを付け加えておきます。
その後、1週間、中指と薬指に痺れが残りました。

ちなみに、「ヨガ坐禅」。
ヨガについては、先生についていくのに必死。
見よう見まねでポーズを決めると、体が軋み、痛いのなんの。
堪えながらやりきりました。
心がどうのこうのは、遠く先の話です。
ヨガは呼吸法も重要ですから、坐禅より高難度に感じます。

いずれにせよ、ヨガも坐禅も継続して行う必要があります。
でも、はっきりしたこと。
どうやら私には坐禅の方が合っているみたい。

[TOTSU]
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地域行事・其の弐

先回の寒暖の差の話から一気に夏へ移る切り替えの早さ。
読み手(いるかどうかも不明)の気持ち一切無視の展開。
我ながら構成力、文章力の無さに脱帽。

 先回ブログの書き出しは今回の運動会がメインになるハズが、
 運動会まで到達できなかったのです。


秋の初めに地域ふれあい運動会なるものも御座います。

もちろん3町内合同。
というか3町内の戦場。

競技自体は子供達が主役の競技構成ではないです。
高齢者向けの競技が多いです。
参加出来るのも年齢制限があります。
子供達も参加させてやってくださいよぅ。
参加したくて泣いてますやん。

高齢者向けの競技ということは、小さなお子様も可能な場合が多いですね。
見てるとそんな感じがします。

次第に熱くなる参加者たち。
若手?が参加する競技で他所の町内に負けると叱責されます。
しかも本気で。
叱責されてる本人たちは大笑いなんですがね。(ニヤリ

ちなみに我が町内は2位でした。
あ。2位までしかありません。
毎年同着2位で終わる感じです。
ほのぼのです。

慰労会で町内会長に更に叱責されますが、アルコールの偉大なお力に全て流されます。
来年は子供達が参加出来る競技もう少し増やしていただけるよう提案してみます。
なにせ「ふれあい運動会」ですから。

[Y2K2]

大門未知子の賢さ

『私、失敗しないので』という自信過剰とも見える発言や、
雑用などは『いたしません』と、仕事を選ぶ姿勢を貫いている、大門未知子さん。
すごい人気だそうですねぇ。

『私、失敗しないので』は、そもそもなかなか言えるものではありませんが、
私のような宮仕えの会社員にしてみれば、
雑用などを『いたしません』と拒むようなことを言えるはずもなく、
まぁ、そういう会社員たちの溜飲を大いに下げているのが人気の秘訣なのでしょう。

細かい内容について私がコメントするのも変なのですが、
私が考える大門未知子さんの最大の魅力は、
『私、失敗しないので』でも『いたしません』でもなく、
人見知りと思われる点で、そのことが意外と示唆に富んでいると思うのです。

“人見知り”というと、多くの場合、欠点というか、短所というか、
ネガティブな雰囲気を伴って使われる単語です。
なぜかというと、“人見知り”という単語には、
「人づきあいが上手ではない」という意味が含まれていて、
引きこもりとか、協調性のなさを連想させるからでしょう。

しかし、私は、実は“人見知り”って、そう悪くないと思っています。

私はもともと、
「ふつう」というか、
「みんなと同じ」ようなことしかできない人物をつまらないと思っていて、
個性的というか、ちょっと変わった人物のほうが好きです。
そして、“人見知り”というのも、ひとつの個性として、アリだと思っているのです。

どうして個性としてアリなのか。
“人見知り”の人って、たぶん、洞察力が高いのだろうと思うからです。

大門未知子さんも、病院では協調性のない感じで好き勝手やっていますが、
所属する名医紹介所の所長らとは麻雀を楽しんで大騒ぎしたりしています。
つまり、クールに接したり、楽しんだりは、
相手を選んでやっているということです。
そして、この相手を選ぶという行為は、適当にやっているわけではなく、
あらかじめ、相手をよく観察して、
心を許せる相手を見極めているということだと思うのです。

たとえば、世の中には、善人ヅラしていながら、
自己保身のために簡単に悪気なくウソをつく人とか、
周りの目を気にして話すたびに違うことを言う人とか、
ひとつひとつのエピソードとしてはたいしたことなくても、
長く付き合っていくには信頼しにくい人物も、たくさんいるものです。

簡単に交わらず、じっと観察していれば、
その相手が信用に足る人物か、見抜くことができるのでしょうね。
そして、この、簡単に交わらないところが“人見知り”なのでしょう。

“人見知り”というと、他人となかなか打ち解けられない、
ちょっと困った性格のように言われることが多いですが、
実際のところは、相手をよく見ていて、
本性を見抜いてるのだと思うんです。


実際、協調性のない人って、鋭い人が多いですよね。
「○○がない」というとネガティブに聞こえるけれど、
その裏に「鋭い洞察力」という、プラスの個性があるという捉え方をすれば、
豊かな個性の話になると思うんですよ。

というわけで、私が考える大門未知子さんの最大の魅力は、
鋭い洞察力によって人を見抜く力だと思うのです。

そして、自分自身もそうありたいと思うのです。
いや、まぁ、私自身はそう個性的な人物でもないので、
まずは個性豊かな人物にならないことには。
道は険しそうですが、まずはそこからです。

[SE;KICHI]

気になるどうでもいい話④

前々から思っていることなのですが、
カップ麺のペリペリはがす薄いフタを全部はがさずに端につけたまま食べる人がいます。

なぜでしょう。

面倒くさいから? ゴミを増やさないように? 
食べるときに邪魔になりませんか?

・・・・・そこそこ聞いてみたい。

[KAZSOU]

瞑想の季節

4月の末に kome さんのヨガの記事が掲載されましたが、
本人に聞いてみたところ、最後の最後にやるシャバアーサナが格別とのこと。
彼女がヨガに通っているのは週に一度、平日の夜ですが、
シャバアーサナで一週間分の疲れが抜けていく感じがするそうです。

このブログでは2年ほど前に紹介していますが、
シャバアーサナは、日本語で「屍のポーズ」と呼んでいるもので、
要するに、大の字になって目を閉じ、何も考えず脱力するというものです。

菅野美穂さんのインドヨガのDVDなどを観ていますと、
ヨガマットさえあればどこでもヨガができちゃうんだなぁと思うのですが、
それを羨ましいなぁとか、素敵だなぁとは思うものの、
日本で、例えば公園でシャバアーサナをやるなどということは、
ちょっと奇妙な光景で、なかなか勇気がいることです。

ところで、ヨガから、人目につく奇妙なポージングを取り除いたもの、
それが瞑想です。
シャバアーサナも、一見ただ寝ているだけのようなポーズなのですが、
何も考えず、心を静かな状態に保つということですので、
結局のところ、これは止観瞑想と呼ばれる、一種の瞑想です。

自分自身に注意を向けるという意味で、はっきり言って、
ヨガの本質は瞑想です。

仕事中に、変わったシャンプーを楽しむために美容院に寄ったり、
オシャレなチョコを買うために白金台に途中下車してウロウロしたり、
新しい発想を生むために自由にやっているのは弊社の粋人 WAKA さんですが、
私は根が真面目なのか、仕事中にそういうところに立ち寄ることはあまりないものの、
疲れてくると、お寺や教会に寄って瞑想することが、わりとあります。

安倍総理も石破前幹事長も、たまに坐禅を組み行くと聞きます。
リーダーとして求められる精神修養のため、必要なことだろうと思います。
実際、それなりのレベルで判断を求められる企業経営者など、
立派な方ほど、きちんと坐禅などの精神修養の時間を確保しているそうです。

放っておくと、心は好き勝手に乱れますから、
瞑想などの精神修養の時間は必要なんだそうです。


人間、「他人からどう見えるか」「自分がどう周りに思われているか」ということが、
知らず知らずに行動の規範になっていることがあります。
その価値観は、社会生活を送るうえで完全に不要とは思いませんが、
その想いは八方美人的で、自己愛に繋がっているため、いかんせん自慰的です。
私が親しくさせていただいている方のなかでも、
立派な方は、そのような瑣末なことに思い煩うということはないようです。

坐禅というか、瞑想は、無心になって自分の中の声を聞くとか、そういうものです。
ヨガもそうです。

ヨガと聞くと、つい、仲代達矢のような仙人的な風貌の人が、
どうやったらそうなるのか分からない体勢になっているところを想像しがちですが、
身体の硬さなどには個人差があり、全員が脚を首にかけるのは無理です。
つまり、ヨガは、ポーズの美しさとか、身体の軟らかさを競うものではありません。
自分なりのポーズで構わないのです。
競わない、つまり、他人と自分を比較する心を捨てるということです。

ヨガはの本質は瞑想で、「自分がどう周りに思われているか」などという、
自分の行動を制限している、くだらない自己限定から解放されるためのものです。

他人と自分を比べても、
何もいいことはありません。


身体ではなく、自分の心のほうに注意を向けるのが瞑想という作業で、
ただ深い呼吸で座っているだけですから、それはどこでもできます。
吐く息とともに、あなたの苦しみや悲しみが、身体から出ていきます。
また、吸う息とともに、あなたの身体に光が差し込んできます。

というイメージングが大事なので、
公園どころか、釣りをしながらとか、美術館で絵を眺めながらとか、
うまく場所を選べばヨガマットすら不要なのです。

人間には、性分と言うか、考え方の癖みたいなものがあるはずですから、
自分の言動や心の動きなどについて、それが正しいかどうか自問自答し、
必要に応じて反省したいものです。

気候が良くなってきました。

瞑想の季節ですね。

私も、週に何度か、出勤前にヨガの教室に参加することがあります。

朝からゆったりとした呼吸で瞑想的な時間を持ち、
自分の性分について考え、自らの身体や心と対話し、
必要に応じて修正を加えることは、とてつもなく気持ちよく、
とっても頭がスッキリする時間です。

そこで良いイメージングができれば、
良い1日が過ごせそうです。


[SE;KICHI]

地域行事・其の壱

どうも皆様こんにちは。
朝晩の寒暖の変化に負けてしまいそうなわたくしです。

私の居住している地域には、様々な催し物があります。
それも町内クラスでの催し物が。

役員ともなるとさまざまな催し物に駆り出されます。
学校のPTA役員、町内の役員等々。
今年は我が家はPTA+町内のW当選。
PTAは立候補なんですがね。町内会は予想だにしない当選。

夏には夏祭り。1丁目から3丁目までの合同夏祭り。
子供達が主役ではなく町内の高齢者方が主役。
子供たちは準主役的な位置。
祭りの名前が「ふれあい祭り」なので全く問題なし。

慰労会でようやく役員含む大人たちが主役へ。
祭りの最中の子供達が遊ぶ姿はまた何とも言えず可愛くて。

各町内で色々なお店を出すのですが、今年は野菜の直売が開始早々の売り切れ。
予想外の展開に販売側が驚きを隠せない様子でした。
私の町内はフランクフルトを販売してましたが、
お腹を空かせた中学生たちが来る前にまさかの完売。
仕方がないので200本近く追加購入を決めましたが、それも中学生到着直後に完売。。。。
読みが甘すぎでした。

一番最後まで残っていたのは生ビールの販売。
それは・・・・ね。
完売した売り手たちが順に買い始めるから必然的に遅くなるのですが。

やはり、あれですね。
高齢者と子供達の触れ合う場所は必要と思います。
子供達もお年寄り達もすごく良い顔してますもん。


[Y2K2]

魅惑の・・・(4)

一部の好事家の方、お待たせしました。
以前からリクエストをいただいておりながら、億劫で先送りしていましたが、
一年ちょっとぶりに仏像について書かせていただきます。

東京には「高幡不動」や「目黒不動」「目白不動」などという場所がありますが、
これらはすべて不動明王という仏さまを本尊としたお寺を指しています。
「目黒」「目白」という地名は、それぞれ目黒不動と目白不動から来ています。
不動明王といえば、ここ富山には大岩山日石寺というお寺があります。

“明王”というのは、仏教修行者を外敵から護るという使命を持ったグループで、
言わば修行者のガードマン役であり、
威嚇のためなのか、怒ったような姿かたちをしています。
外敵というのは不信仰者を含むので、信じない者に対して力ずくで正しい道を示すという役割もあります。

明王グループのリーダー格である不動明王も、
火炎の中でメンチを切りつつ、牙をむいて怒ったような表情を作り、
手には剣と羂索(投げ縄みたいなもの)を持っているという、
まぁ、ガードマンとしてもわりと攻撃的な風貌を持っています。
不動明王 http://ameblo.jp/japan5374/entry-10049178731.html

大岩山日石寺の本尊は岩肌に彫られた磨崖仏と呼ばれるタイプなのですが、
私が、師匠のK先生から紹介されて初めて10尺ほどの不動明王を見たとき、
その迫力に圧倒され、思わず嘆息したのを覚えています。

ところで、明王グループのリーダー格である不動明王なのですが、
リーダーだからなのか、リーダーのくせになのか、
火炎の中で牙をむくという、それなりの個性を発揮しているにもかかわらず、
明王の中ではわりと地味というか、オーソドックスなな見た目です。

たとえば、不動明王の同僚の一人、降三世明王はこんな感じ。
降三世明王 http://yaplog.jp/aksayamati/archive/322

・・・腕が8本! しかも顔が3面!
誰か踏んじゃってますよ。しかも胸。コレ、息、止まっちゃうでしょう。
怖いですねぇ。
以前、私は、福井県のお寺で、荒々しい降三世明王を目にして、
自分が叱られているような錯覚に陥り、3時間ほど呆けていたことがあります。

別の同僚、大威徳明王はこんな感じ。
大威徳明王 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46900621.html

・・・牛っ?
そして、見づらいかもしれませんが、
大威徳明王は顔が6面、手が6本、脚が6本あるのです。
多っ! 徒歩は歩きづらいから牛に乗っているのでしょうか。
私は、大分県の山中のお寺で大威徳明王と対面した際、
その迫力で動けなくなったこと、あります。

降三世明王も大威徳明王も、腕がたくさんあるのだから、
ロメロ・スペシャルとか、簡単に決まるでしょう。
ちょっと不謹慎な言い方ですが、クーデターを起こせば、
もしかしたら、不動明王からリーダーの座を奪うことも可能そうです。

まぁ、明王最強が誰なのかはともかくとして、
私が言いたかったのは、明王たちの姿かたちのバラエティの多様さ。
もうね、
キン肉マンに出てくる超人みたいですよね。
なるほど、主役の不動明王が地味なのは、
気が付いたらキン肉マンやテリーマンが地味に見えるのと同じ理由かも。

私は、誰かから「オススメの仏像を紹介して」と頼まれたときに、
明王系の仏像を紹介することが多いです。
もちろん、以前紹介した観音菩薩や地蔵菩薩のような菩薩像とか、
いわゆる奈良や鎌倉の大仏に代表される如来像にも、優品は多くあるのですが、
仏像にそれほど詳しくない初心者の方にとって、
静謐で動きのない優美な仏像は、「ほほぉ」とは思うものの、
迫力や躍動感などは感じにくいので、どうも興奮しにくいというか、
期待外れになることが多いみたいです。

なので、私は、必ずしも自分のマイベストではないとしても、
紹介時には、わざわざダイナミックな動きのある明王像を推します。
マジンガーZとかガンダムみたいで、
きっと、
あまり知識のない初心者さんでも興奮できます。

ちなみに、植村花菜さんの曲によれば、
トイレにはそれはそれはキレイな女神さまがいるそうですが、
明王グループでは、烏蒭沙魔明王という、トイレ担当もちゃんといます。
キレイかどうかは難しいところですが、スタイルは良く、
片足を上げたヨガっぽいポーズで祀られています。
この烏蒭沙魔明王、男女の産み分けなんかも担当しているようですから、
営業を工夫すれば、もっと人気が出るかもしれません。

ま、ちょっと下世話な楽しみ方ですが、それでいいと私は思っています。

最後に、オススメをご紹介しておきますね。

 不動明王;不動寺(東京)教王護国寺(京都)同聚院(京都)大山寺(神奈川)
 降三世明王;明通寺(福井)醍醐寺(京都)教王護国寺(京都)常福寺(三重)
 大威徳明王;真木大堂(大分)牛伏寺(長野)教王護国寺(京都)不退寺(奈良)
 軍荼利明王;金勝寺(滋賀)教王護国寺(京都)
 愛染明王;西大寺(奈良)勝鬘院(大阪)金剛三昧院(和歌山)
 烏蒭沙魔明王;瑞龍寺(富山)明徳寺(静岡)可睡斎(静岡)
 大元帥明王;秋篠寺(奈良)                   などなど

一生に一度くらいは
見ておいて損はないと思いますよ。


[SE;KICHI]

魅力

少し前の富山のニュースでは、北陸新幹線関連の記事が多かったですが、
それにともなって富山の魅力ってなんだろう?
と考える事が多くなりました。

県関連でも観光客誘致を積極的に進めていたりもするのですが、
当の県民が聞かれたときに何と答えれるだろうか?
魅力が無い訳ではないでしょうが、
住んでいるとわからなくなってしまいます。


都市部のように目立った商業施設があったり、
テーマパークがあったりではないですから、
イメージし難い事になってくるのでしょう。

関西からだと石川県で止まってしまう感がありますし、
関東からは、新潟や長野止まり。
氷見はまだ上手くPR出来ているのかもしれません。
そんな事を書いている時点でダメなのでしょうが・・・

台風や自然災害などの悲しい現象が昨今多いですが、
比較的災害が無いなど平穏な感じはあります。
海と山が近く、食べ物と自然をPRしていることが多いでしょう。

日本全体でも外国人観光客の誘致を言っていますが、
富山だと台湾などからたくさん来てはいただいているようです。
テレビで見ると上手しか言わないので本音はわかりませんが、
雪の大谷は雪が降らない地域の方には魅力があるのはわかります。
期間が限定されてしまうのがもったいないです(涙)

朝の情報番組で、外国人が撮った面白い写真を紹介していました。
東京のスクランブル交差点なんかは分かるのですが、
自動販売機だったり、店先の案内看板だったり・・・
人によって感じ方・魅力が違う良い例だと感じます。

欧米からの観光客が有名な観光地に行くのは日程もありますからしょうがないですが、
足を伸ばしてもらうことは可能なのではないかと思いますね。
私は観光をとやかく言えることはしていませんが、
富山が観光も含め活性化すれば、色々な賑わいが出て、
仕事や私生活がもっと充実すればいいです(笑)

感じ方と言えば、先日同僚と出張に行き夕飯を食べていた時に、
イラッとさせる事を何度か言われ、話が面白くなるようには感じなかったので確認すると、
口撃したつもりは無いようでした。
私の取り方の問題もあるでしょうから一概には言えないのですが、
お客様とはそんな会話ではないよね?って話をした事がありました。

人の振り見て我が振り直せですね。
気付かない所で不快にさせてないか注意しなくては(汗)

結果まだ富山の魅力を書いていない(汗)
言えるように感じていきます。

[球技人]

家庭における實際的看護の秘訣

私が多読であるということは、これまでにもご紹介したとおりです。

今日は私の蔵書のなかから、変わった本をご紹介しましょう。
『家庭に於ける實際的看護の秘訣』

大正14年に刊行された家庭医学書で、
その真っ赤な装丁から、後年の“赤本”の元祖となった本です。
著者は元海軍衛生大尉の築田多吉さんという方で、個人出版であるにも関わらず、
健康に関する“虎の巻”として1000版以上の版を重ね、大ロングセラーになった本です。

軍関連の出版なので、当時の文部省のお墨付きを示す連署のページもあります。
私が持っているのは現代語版の増補新訂版というやつですが。

それは、今で言う「家庭の医学」みたなものですが、
それとは決定的に違っていることがあります。
それは、著者が効果を確認した民間療法を掲載しているという点。

今の「家庭の医学」は、医学的なエビデンスがないと書いてはいけないのでしょう、
どれもだいたい同じような内容になっており、読んでも、正直、つまらないもの。
そればかりか、どの症例の項目を読んでも、
最終的には「専門医の診察を受けよう」などと書かれていて、
せっかく調べたのに、結局、「医者に行け」以上の情報がないという、
素人にはあまり役立たない事典になっています。

一方で、この『家庭における實際的看護の秘訣』は、
どのページも興味深い記載でいっぱいです。

例えば、最近、目が疲れているなぁと感じているワタシですが、
この本には「ヤツメウナギを食べなさい」と書かれています。
ヤツメウナギ・・・ねぇ、そういえば浅草の老舗に売ってますね。
あと、ワタシは腰痛にも悩まされているのですが、
「ハブ草の種4匁と桑の木5匁を4合の水で煎じて飲め」と。
すると、「どんなしつこい腰痛でもたいてい治る」と書かれています。
桑の木・・・、もはやどこで売っているのやら。
それに、匁(もんめ)って、どうやって計ればいいのか。

そう、この『家庭における實際的看護の秘訣』は、
「専門医の診察を受けよ」などという不親切なことは言わないのです。

今の時代にヤツメウナギとか桑の木とか言われても困るのは確かですが、
当時としては入手困難なものではなかったのでしょう。
つまり、症状に悩んで本を開いた人が、身近なもので即時に対処できるよう、
誰にでも親切に書かれている本なのです。

例えば、何年か前まで、私の上司は痔に苦しんでおり、
一念発起して手術したところ、現在は完治しているようですが、
この本によれば「梅肉エキスに塩を少し混ぜ、毎日患部に貼り付けよ」
と書かれています。
もしかすると、梅肉を貼れば、手術するまでもなかったかもしれません。

また、例えば、同僚が耳だれに悩んでいる時期もありましたが、
この本では「鉄冷鉱泉か卵油を数滴耳に入れ、横になっておけ」
だそうです。
お、溺れそうです。

終始こんな感じ。

ほかにも、虚弱児の体質改善には亀の子タワシでこすれとか、
イボ取りには黒ゴマと蛇の抜け殻を混ぜて飲めとか、
まるで魔女のようなおどろおどろしい健康法も含まれていて、
私自身は一抹の不安を感じなくもないのですが、
現代でも、この本に書かれている健康法を自分の指針としている方もいるようです。

もっとも、私にとっては医学書というより民俗資料のようで、
内容にもなかなか愛嬌があるような気がして、読んでいて実に楽しいのです。
もちろん、役に立てようなどということではなく、ただ眺めているだけなのですが。
それでも、近年の、西洋医学一辺倒、医者任せみたいな風潮がないので、
あくまでも自分の努力で病気を治そうとする姿勢に好感が持てます。

ところで、本の最初のほうは「第4章 消化器病の看護法」など、
わりと素直に、病気に対する民間療法が紹介されていますが、
後半になってくると、
例えば「第15章 処女の教育」などという奇抜な章立てに突入し、
なんとこの章には、理想の配偶者の選び方のようなことまで説かれています。
大真面目な本ですが、果たしてそれは医学なのかという感じもあります。

最終的に、長寿健康法については、
人間は労働して盛んに屁をこくべしなどと書かれています。
まぁ、表現は下賎ですが、意外と鋭いところを突いていると思うのですが。

詳しくは忘れましたが、確か、この本は数千円はしますので、
こんな本を愛読書にする人はちょっと変人かもしれません。
ただ、ちょっと身体に変調を感じたとき、現代みたいに安易に医者にかかるのではなく、
昔の人はこうやって乗り切ったということが分かっていれば、
治す参考になるかもしれません。

ちょっとでも興味ある人がこの本を手にしたら、はまること間違いなしです。

[SE;KICHI]

宇宙人は実在するのか

特に用はないのにコンビニに立ち寄り、なんとなく何かを買っちゃう人がいますが、
それは“ひも爺”という妖怪が取り憑いているのだそうです。
また、やりもしないことばかり言って、結果的に周りの信用を失ってしまう人は、
“口だけおんな”という妖怪に取り憑かれているのだとか。
流行りの『妖怪ウォッチ』より。

くだらないと思いましたか?

しかし、妖怪というのは、もともとそんなもんでしょう。
妖怪というのは、基本的に見えない存在に対する畏怖から発生したわけで、
江戸時代に鳥山石燕の描いた『画図百鬼夜行』を見ても、
つむじ風で切り傷ができるのはかまいたちの仕業に違いないとか、
よく分からないことは妖怪のせいにして畏怖の念を抱いていたんですよね。

自分が分からない事柄については、
人間を超えた存在のせいにして、敬意を払う。


私は、これ、大事だと思うのです。


どうも最近、人間は驕り高ぶっているのか、
科学的に実証できないものは「ない」と言い切ってしまう傾向にあります。
それだと、目に見えないものはたいがい「ない」ことになってしまい、
妖怪どころか、神も仏も宇宙人も、愛も勇気も爽やかさなども、
目には見えず証明不可能な存在は、すべて否定されてしまいます。
そういう人間の態度は実に傲慢だなぁと思います。
そんな不遜な態度なら、お盆の墓参りや正月の初詣では時間のムダですね。
せっかく行っても、存在を否定する気持ちがあるわけですから。

妖怪なり神なり仏なり宇宙人なり、
目に見えない存在が実在するのかどうかということについて、
私には分かりません。
いるかもしれないし、いないかもしれないなぁって感じ。
だって、私は専門家ではないから、
「ある!」と主張する専門家の意見を否定する材料を持っていないし、
否定のための反駁証拠を揃えることすらできませんので、
「ないだろう」なんてことは、言える立場にありません。

私は、学生時代の専攻が、合成有機化学と言って、
化学反応の電子の動きを検討し、機能材料を開発するというものでした。
電子の動きなんて目に見えるものではないので、
目に見えないものは「ない」という姿勢では、研究は進まなくなってしまいます。
したがって、目に見えないが、存在するというスタンスが基本になります。

だから、私、STAP細胞の件も、
STAP細胞が存在しなかったとは思っていません。
だって、小保方さんとか亡くなった笹井さんとか、
疑惑が発覚して論文の不正が認定された状態でもなお、
STAP細胞の存在自体は強く信じている専門家がいらっしゃるのは事実なので、
まぁ、きっと実在はするのだろうなと思うのです。

そもそも私にはSTAP細胞についての知識や経験がないのですから、
実際にあったのかなかったのか、私には分かるはずがありません。
でも、私には分からないだけで、専門家の人があるというのだから、
たぶんあるのだろうと思うのが、謙虚な姿勢だと思うのです。

私は、
「ない」ことの証明ができない以上、
「あるかも」と思っておいたほうが、世の中は豊かになるし、
それが科学の技術開発に携わる人々に対し、
大きなモチベーションになると思っているのです。


それに、科学的に「ない」を証明するのは、もともと難しいのです。

たとえば、先ほどの有機化合物の例で言えば、
化合物の構造は核磁気共鳴スペクトルという装置で解析し、存在を確認します。
読解には技術が要りますが、読解できれば「ある」ことは一発で証明できます。
しかし、「ない」という結論は、科学的には、単に「ある」の反対ではないので、
それはそれで、証拠を集めて「ない」ことを証明しなくてはなりません。
実は、それは「ある」ことを証明するより、途方もなく大変な作業です。

つまり、
繰り返しますが、どうも最近、人間は驕り高ぶっているのか、
科学的に実証できないものを「ない」と言い切ってしまう傾向にあります。
人間は全知全能ではないので、
人間が実証できないことなど山ほどあると思うのです。


卑屈になる必要はないけれど、
人間って、それくらいのものなのかもしれません。
神様じゃない。
だから、人間が、人間の知識を以て「ない」と断じることは、
単に、人間の未熟ゆえの限界なのではないのか、と思ったりします。

人間、というか特に宗教などに忌避感覚を持つ日本人は、
もっと目に見えないことに対して謙虚にならないといけないかもしれません。
だって、言葉には気を付けないといけませんが、
大雨のあと、深夜の土砂災害を予見して住民を避難させておくことすら、
火山の噴火を予知してあらかじめ入山規制を敷いておくことすら、
人間にはできなかったじゃないですか。

人間って、そんなもの。
自分が知らないことは、自分の無知ゆえであるという、
ソクラテスのような認識を持っておいたほうがよいのではないでしょうか。

[SE;KICHI]
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