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規格品製造なのかな?

個人的に、ちょっと行政に関わるようなことに参画している関係から、
先日、2件ばかり、とある小学校の運動会に引き出されまして、
偉そうにテントの下に座って、子供たちの運動会を見ておったわけです。

実は私は、自分が子供の頃から、運動会がイマイチ好きではなく、
今回、別に自分が出場するわけでもなければ、
自分の子供が出ているわけでもないので、全体をボケ~と眺めておりました。

運動会が好きではない理由は、目的がよくわからないから。

運動会って、基本は“かけっこ”なんだから、いちおうは競争なんでしょうが、
出場する子供たちにライバル意識というか、
「とにかく戦って勝つぞっ!」という闘志があるはずもなく、
勉強の成績に影響するわけでもないから、なんだか遊び感覚のようです。
そのくせ、遊びにしてはそれほど楽しそうではないという、
競争なのかレクリエーションなのか、よくわからない感じ。

そういうわけで、私は、
運動会より授業の方が好きな困った子だったわけですが、
今回、改めて眺めてみて、やはり運動会が好きではないことを再確認した次第。

まぁ、それはともかく、
今回、見ていて少し気になったことがあるんです。

競争ではなく、学年全体とかでやるダンスのようなプログラムがあったのですが、
たくさん練習したのでしょう、ポーズがビシッと決まっていて、
それはもう整然としていて・・・気持ち悪い。
共産圏のマスゲームのようです。

「指先までピシッと揃ってないと、みっともないですよ!」という、
先生たちのヒステリックな指導の光景が目に浮かぶようです。
つくづく、日教組って、
こういう、全員で同じ動きをさせようとするのが好きなんだなぁと思います。

ダンスというのは、パフォーマンスです。
「一糸乱れぬ」ということを、
パフォーマーである子供たちが自ら企図しているなら構いませんが、
そうでないなら、そもそも整然と揃っている必要などなく、
思い思いに身体を動かしてこそパフォーマンスだと思うんですよ。
ほら、EXILE も AKB も E-girls も、個々の動きの自由度は高いでしょう。

学校のダンスと EXILE は違うと言われるかもしれませんが、
私はそうは思いません。

最近は下火になっていますが、昔の運動会には入場行進というものがありました。
整然とザッザッザッザッと歩かされ、そのためにかなりの練習をしたものです。
みんな、こんなものを楽しいと思ってやっていたはずはないでしょう。
同じ“行進”ということで言えば、
オリンピックの選手入場なんか、ちっとも整然となんかしてないじゃないですか。
ダラダラ歩きながら、観客席に手を振ったり、笑顔を見せたり、
選手自身の感情の発露として、好きに歩いているじゃないですか。
それでいいと思うのです。
オリンピックも子供の運動会も、おしなべてそれでいいと思うのです。

人生もパフォーマンスも、他人を不快にさせなければアリで、
必ずしも整然としている必要はないと思うのです。


私は、人生というのはある種のパフォーマンスだと思っています。
他人の迷惑を顧みないとか、そんなのはダメですが、
人生哲学として、経験や教育から一本筋の通った考え方を身につけ、
そのポリシーに従って「自分は、こうである」と振る舞うことが大事で、
それって、アーティスティックなことだろうと思うわけです。


学校の運動会にしろ、何かのコンクールにしろ、
私は、「自分は、こうである」という自己を発露する行為のなかで、
それぞれの子供の自我が育っていくものだと思っているので、
全員で同じことをやり、わざわざ揃えるなんて、ナンセンスだと思います。

要は、自分の生き方に責任を負いつつ、
自分の思うように行動するということが大事で、
学校はその練習をする格好の場所だと思うんですよ。


成長段階の子供たちに、せっかくの自我の発露という機会を与えず、
揃っていることを美徳とする指導を押し付けるなんて、
日教組はバカなのか。
こういう教育をしていると、
大人になっても哲学を持たず、周囲にどう見られているかばかり気にして、
周囲から浮かないようにということばかりに注意を払う、
大衆に流されやすい、くだらない大人が育ってしまうでしょう。
それでは国が傾くかもしれません。

まぁ、そういう大衆に迎合する感じを常識とか社会通念とかいうのかもしれませんが。
でも、
時代を動かすのは、
常識にとらわれない表現力を持った人なんですけどね。


というわけで、まぁ、招待されておきながらナンなんですが、
まぁ、先生たちの指導のおかげで、見ていて超つまらないダンス×2校で、
こんなもの、授業を潰して練習するなよと思ってしまいました。

[SE;KICHI]
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お土産話

本社、富山へ行った帰りにお土産で買った「酢昆布」が大当たりでした!

出かける度に必ず買って帰ろうというタイプではないのですが、
お酒のアテになりそうな商品があったら買ってしまいます。
今までも昆布〆やら蒲鉾やら富山名物と言われる物を買って帰り、
お酒と一緒に楽しんでいました。

今回は帰りに立ち寄った有磯海SAで売店をうろうろと眺めていたら、
地味な感じに(失礼)陳列された酢昆布を発見。
とろろ昆布や塩昆布はなじみがあるものの、酢昆布?
パッケージには、お茶うけやおやつの他に「おつまみ」にもとの文字(ニヤリ)
ハイハイお買い上げ
すこんぶ
http://www.tsubokawa.co.jp/store/oyatsu.html

適度な歯ごたえはあるものの柔らかく甘酸っぱく味付けされた、
坪川昆布さんの酢昆布は我が家で大ヒット!
あっという間に食べてしまい、実家用に買った物まで結局手を出してしまいました。
後日インターネットでお取り寄せのリピ。
実家用もしっかり買い直しました(笑)

ショップのホームページを見ていたら他にも美味しそうな商品があり、
一緒に購入しましたが、驚いたのが昆布〆用の平たく薄い昆布があったことです。
これもまた新潟にはなじみがない物です。
もし自分で昆布〆を作ってみようかと気持ちが湧いたら買ってみたいと思います。

東京では各地方のアンテナショップがとても人気だそうですけど、
いわゆるお土産の定番品を購入するのは他府道県出身の人で、
ショップの地元出身者は小さい頃から食べ親しんだものを、
懐かしいーと買うのだとか。
旅行先のスーパーを覗くのを好きな私は、
このアンテナショップ巡りをするのも楽しいだろうなと思っています。
酢昆布は富山のスーパーには普通に売られているのかもしれませんね。
今度覗いてみないと。

お土産といえば、弊社の社長はとてもご家族思いで、
新潟に来た際は必ずお土産を買われるようです。
前に選んだ商品に「車麩」がありました。
これはまさに新潟のふるさとの味的な食べ物です。
車麩
http://www.otomisan.com/kakou-food/fu/kurumafu.html

社長の一言で、私も最近全然食べていなかったなーと懐かしくなり、
早速買って料理しました。
うーん、しみじみ美味しい 社長、目の付け所ナイス!

そんな社長から、先日、
「富山ブラックサイダー」なる商品の話が出ました。
Y2K2さんは飲んだことがあり、お二人、味の話で盛り上がっていましたが、
美味しいか美味しくないかの感想はなかなか口にしないので、
尋ねてみたところ・・・うーん。でした。

後日Y2K2さんのご厚意でご相伴に預かることが出来ました。
口にした瞬間はサイダーの清涼感が、そのあと喉の辺りで
ピリッとペッパーをちゃんと感じました。
とやまブラックサイダー
http://www.tombow-b.jp/toyamablackcider/secret.html

美味しいか美味しくないか・・・うーん。
気になる方は是非飲んでみてください(笑)

そして最後にもう一品。
先日友人から北海道旅行のお土産で貰った
「塩辛ととうきび、干しちゃった」
塩辛とトウモロコシをフリーズドライにした代物。
塩辛ととうきび干しちゃった
http://www.kitanosakanaya.co.jp/co060123no0601.html

これが、もー美味しい! サクサクの食感に塩辛の旨味とキビの甘みがGOOD

まだまだ未知なるお土産が沢山ありますねー。
自分で買うのも楽しいですが、お土産はやっぱり貰った方が嬉しいですね
年中受け付け中でーす!

[fu~ma]

ツッコミの達人

小学4年生の息子があることをやるかやらないかの話で、
私がやればいいと言ったところ、
「親に勝手に決められるとは、昔の結婚事情か!」とツッコまれました。

面白かったので本人に話を聞いてみると、
なんでも、昔は親に決められた相手とのお見合い結婚が多く、
学校の図書室で以前に読んだ“はだしのゲン”というマンガの中でも、
主人公ゲンの両親がお見合い結婚させられていたシーンがあったとのことです。
あのマンガの中でそこに着目するとは・・・・・変わった子供です。

“はだしのゲン”は広島で被爆を体験した少年の話で、
約40年前に週刊少年ジャンプに連載されていました。
反核、反戦の色が濃く、少年マンガの割に絵がグロテスクで(私が見る限り)
今で言う差別用語がちょいちょい出てきます。
当時少年だった私は、エグいマンガだなぁと思いながら読んでいました。

また、マンガとしては珍しく街の図書館や学校の図書室に置いてありますが、
数年前に、描写が過激であったり差別的な表現が多いという、
一部の世論の意見に反応したある教育委員会の方針や、
小学生の保護者らからのクレーム等により、
本棚から撤去して倉庫に保管する等の措置をとる図書館や学校が出てきました。
が、しかし、子供に対して閲覧制限をするかしないかは現場の判断にまかせるべき、
読むことさえできなくするのは子供達への著しい人権侵害、といった意見により、
再度審議した結果、閲覧制限は撤回され結局本棚に戻されているようです。

う~ん、この腰の弱さはいったい何なのでしょうか?
そもそも“はだしのゲン”が多くの学校の図書室に置かれるようになったのには、
反核、反戦という作品の性質から、
日本教職員組合(いわゆる日教組)の影響が大きかったと思われますが、
良い悪いは別として、昨日今日突然置かれたのではなく、
今の子供達の親が学校に通っていたであろう1980年代から置かれていて、
当然内容を理解している人はたくさんいるはずです。
その上で何十年もの間、図書室に置かれることを承認されてきました。
それが今頃になって突然逃げ腰になるのは、
このところ急に何かが弱くなっているのでしょうか?

私は、子供が世の中の善悪や物事の良し悪し、
嘘か真か等を見極める力をつけるためには、
ある程度の毒は必要だと思います。

毒のないきれいな温室の中で育てると免疫力がつかないので、
疑うことを知らず、物事の真贋がわからない薄っぺらい人間になりそうで、
そっちの方がよっぽどこわいです。
そうならないようにするために、時には悪いものも見せ、
まずい物も食わさなければいけないのだと思います。
とは言え、トラウマになったりお腹をこわしてもいけませんのでほどほどです。

差別に関して言いますと、
実社会においてはいろんな差別が存在しているわけですから、
差別があることを前提にしないと余計に話がややこしくなります。
すべての人間が平等であるというようなことも、
生まれた瞬間から国や性別、言語や思想、
姿形や肌の色の違いがあるわけですから平等とは言えず、
不平等があることを前提にしなければいけません。

私が幼少の頃は保育所の先生に“カチカチ山”や“さるかに合戦”といった、
強者と弱者が存在し、因果応報が主題となるような紙芝居を、
よく見せてもらいました(アナログな時代だったので)。
怖いもの見たさもあり飽きずに何回もリクエストしたものです。

物語の中には色んな教訓が含まれていました。
昔話の残酷さの中には先人達の知恵がたくさん詰まっています。
それが今では“舌切り雀”なんぞやろうものなら、
動物虐待などと言われるのでしょうか?

教育は国の根幹に関わる重要なことです。
また、国の水準は教育のありかたで大きく左右されます。
今の子供達への教育は、
近い将来の国造りに多大な影響をおよぼします。
従って、未来を見据えた、
大きな視野に立って考えて欲しいものです。

子供は大人が思っている以上にタフで理解力があります。
腫れ物に触るようなことをしていては、
それこそちょっとしたクレームにすら怖気付くような、
腰の引けた人間になってしまうのではないでしょうか。

私は、自分の子供には、食わず嫌いなつまらない人間にはなって欲しくありません。
清濁併せ呑むぐらいの度量の大きい人間になって欲しいと思っています。
良い事も悪い事もたくさん見聞きし、酸いも甘いも噛み分けて、
どんどん私に絶妙なツッコミを入れて欲しいものです。

[M M]

脚が、脚がぁぁぁぁ!

以前にも少しだけ触れましたが、私は足が少し不自由なんです。

足長差と呼びますが、20年ほど前の事故の後遺症で、左脚が3cmほど短いので、
装具という、一種の義足のようなものをはめて生活しています。
私の装具は足底板と呼ばれる、左右の脚の長さを調整するようなものです。
装具を装着することで歩きやすくなり、骨盤の高さも整います。

歩きやすくなったのならいいじゃないかと思うかもしれませんが、
片足に装具を装着することで、片足にだけ高下駄をはいて歩く感じになるので、
どうも無意識にいろいろな箇所が歪んでくるらしく、
長年、肩とか腰とか、骨盤以外の別の箇所が常に痛んでいます。

だから、本当は歩きやすさの面では装具サマサマなのですが、
身体の歪みという意味では、装具はないほうが違和感は少ないので、
装具を外し、いつか素足で歩きたいというのが、ささやかな夢になりました。

装具を外すためには、左右の足の長さの差を解消しなければなりません。

そこで、私は月に2回くらいカイロプラクティックに通っています。
その治療院は、完全予約制で、いちおう女性専用になっている治療院なのですが、
場所は単なる民家で、そこの家のリビングにお邪魔する形で施術を受けます。

足湯に入りながらお茶を飲み、身体を温めてから、施術スタートです。

施術師さんはほとんど私の身体には触れません。
立っている私の身体に手をかざし、何かブツブツ、小声で誰かと話しています。
誰か、というのは、私ではありません。たぶん身体です。

身体は、たくさんのことを知ってるし、覚えてるんだそうです。
私の場合は、歪みの原因が20年ほど前の事故の後遺症なので、
歪みを解消するには、その事故前の、つまり歪む前の身体に戻せばよいわけで、
身体に、事故でどこがどう歪んだのか、その前はどういう身体だったのか、
身体が覚えている記憶を聞くのだそうです。

施術師さんが話している相手は私の身体であり、私自身ではありませんので、
私は返事をしません。
というより、つぶやく感じなので、ほとんど聞き取ることができません。
無理して聞き耳を立ててみると、
「事故で大変だったけど、それからずっとずっと頑張ってきたんだね。」とか、
「その前の身体がどんな感じだったのか、教えてね」とか、
「その時の、自分らしい身体に戻るために、私が手伝えることはある?」など、
幼ない子供に話しかけるが如く、小声で優しく話しかけています。
それは15分くらい、“身体に、どう触っていいかを尋ねている”という感じです。

施術後に聞いたところによれば、身体に拒絶されることもあるそうで、
その場合は施術効果が出ないことが多いので、やめることもあるそうです。
まぁ、潜在意識で拒否していることをやっても、そりゃダメでしょうからね。

私の身体は思いのほか素直な身体らしく、施術師の方の手助けを望んだようです。
私の身体は、私自身も知らぬ間に、直接、施術師さんに何かを伝えたようです。

私はうつ伏せになるように言われ、施術師さんは身体の発注通りに施術を開始します。

施術を開始といっても、やっぱり施術師さんはほとんど私の身体には触れません。
たまに、そっと身体に手を当てたり軽く揺すったりするだけで、
押したり揉んだりすることはありません。
そして、施術師さんは、やっぱり何かブツブツ、小声で私の身体と話しています。
「頑張って・・・何か手伝えることがあったら教えてね・・・」と。

これも施術後に聞いたところによれば、
身体が事故前の自分らしい身体に戻ろうとしているのを応援しているのだそうです。
それは、私の身体と施術師の彼女にのみ分かるサジ加減で、
身体の主である私自身ですら蚊帳の外です。

・・・みなさん、ついてこれていますか。

さて、施術中、私の身体がどうなっていると思いますか?

施術師さんは私の身体に、せいぜい手を添えたり軽く揺するくらいですが、
毎回、私の身体はものすごく反応します。
特に、短いほうの脚(左脚)がこむらがえりのように激しく引き攣ります。
北斗神拳を食らった時のように、筋肉が激しく勝手に動きます。
施術師さんいわく、「脚自身が伸びようとしている」のだそう。

そして、施術後、私の身体がどうなっていると思いますか?

足長差が、なくなっているのです。
3cmの足長差といえば、片足だけ電話帳に乗せているようなものだったのですが、
施術師さんの説得で脚が奮起したか、その足長差は解消されているのです。
現在、私は左足に装具をはめるのをやめていますが、生活に不自由はありません。

どうでしょうか、コレ。
私の左脚は説得されて伸長し、励まされながら治癒したということになります。
それどころか、左脚は装具が心から嫌だったらしく、
施術師さんによれば、装具の話をすると不快な雰囲気を漂わせるらしいです。
私ではなく左脚が、です。

これは、いわゆる気功です。

もしかしたら自己暗示のようなものかもしれません。
左脚の自己治癒能力を深く信じる、一種の催眠のようなものかもしれません。
しかし、実際に足長差の解消を体験してしまうと、
どういう経緯か、頑張って元の状態に戻してきた左脚を、愛おしくすら思います。
これまでは、装具の原因となっている短い左脚を忌々しく思っていたのに、です。

これは、治ると信じれば病気は治るとか、受かると信じれば受験に受かるとか、
いわゆる“引き寄せの法則”の仲間かもしれません。
「脚が伸びて、装具のいらない身体になる」と信じたところ、
そういう身体が引き寄せられたのでしょうか。

だとすれば!ということで、最近の私は、左脚をよく褒めます。
隣の右脚と長さを合わせてくれようと、毎日、頑張ってくれているからです。
褒められて気分がいいのか、まだ、今のところ足長差は復活していません。
すこぶる調子が良く、ありがたいことです。

私の知っている人で、ここ数ヶ月、耳鳴りに悩まされ、
大学病院に通って投薬治療を受けている人がいますが、一向に治ってきません。
脚と耳は違うのかもしれませんが、治ると信じる力が足りないのかもしれません。

ちょっと不思議な話でしたが、
肉体を含め、自分自身との対話というのは、大事なんだろうなと思います。

ちなみに、私の次の施術予定は、施術師さんと私の身体が話し合って決めます。
私自身の意見は聞いてもらえません。
足に手を当てられ、「半月後がいいって」と言われ、問答無用で半月後に決まります。
身体がそう言うのであれば、仕方がありません。

[SE;KICHI]

ボウリング①

唐突ですが、最近の趣味はボウリングです。

友達と集まった時にやることないね?という話になった時に、
何となくボウリング場(某ラウンドワン)に行ったのがきっかけです。

始めた時は何となくやっていましたが、
なぜかスタッフの方と仲良くなってしまたのが運のツキ、
また行かなくてはならない雰囲気になり、行く回数を重ね、
いつの間にかマイボール、マイシューズを購入。

さらに2個目のボールを作り、
スタッフのお姉さんに乗せられて言われるがまま、
リスタイと呼ばれるグローブまで買ってしまい、なんだか後に引けない状態です。

最近では趣味とは言わずに部活と呼んでいます。

でも特に大会に出るとかでなく、運動不足解消的なノリですが。

しかしながら流石に段々と上達してきたのか、
1回行くと1回は200前後のスコアが出るようになり、
アベレージも150~160になってきました。

ベストスコアは216です。

まあ、投げ始めにいきなり100くらいのスコア出すときもあるんですけどね(笑)

目標としてはアベレージ200を目指したいところですが、
今の通う頻度ではいつになることやら…。

そのうちアベレージ200が出たら証拠写真アップします!

10年後になるかもしれませんが(笑)

[ハク]

デビューしました②

納豆が嫌いです。

まず、あのネチャッとした糸を引く感じがイヤです。
もともと糸を引く食品は総じて苦手なのですが、
納豆の場合はそれに加え、履き古した靴下のような匂いがあって、
苦手な食品の最高峰です。

もちろん自分で食べるのもイヤですが、
誰かが納豆をかき混ぜている光景や、漂ってくる匂いを感じるのもイヤです。
最近は、分煙ということで、
喫茶店などでも喫煙席と禁煙席が分かれていることが多いですが、
納豆もそうして欲しいと思うくらい。

さて、納豆に限った話ではないのですが、
特定の食品が嫌いだという話をすると、
食べ方をアドバイスしてくれる方がいらっしゃいます。
たとえば納豆の場合だと、
糸引く感じが嫌いだと聞けば、
「納豆汁にしたら粘りは気にならなくなるよ」とか、
匂いがイヤだと聞けば、
「オムレツに混ぜたら匂いもマイルドになるよ」のように。

いやいや。
良かれと思って言ってくださっているのは理解するのだけれど、
別に食べれるようになりたいと思ってないから。
苦手を克服したいとか、思ってないから。


そしてふた言目には「納豆、身体にいいのにぃ」と憐れまれるのです。
むむむむ、そうかもしれないけど、嫌いなんだってば。

ところで。
何ヶ月か前にテンペを買ったのですが、それをずっと忘れておりまして。

テンペはご存知ですよね。
「インドネシアの納豆」と呼ばれる発酵食品です。
140428テンペ http://www.tempeh.co.jp/about.html

どうしてそんなものを買ったのかは思い出せないのですが、
買ったはいいけれど、納豆の親戚ということでなんとなく食指が動かず、
攻略が先延ばしになっていたのでした。
まぁ、とにかく、テンペが家にあったので、
そろそろ調理して食べなければと思い、重い腰を上げたという話。

このテンペ。
匂いはないし、形状からして糸を引くことはなさそうだけれど、
味が納豆に似ていることは知っていたので、油断は禁物。
あまり納豆感が残ってしまうと、食べられないものになる可能性が。

思案の末、「インドネシアの納豆」と言うくらいだからと、
ケチャップマニスで味をつけたインドネシア風の野菜炒めを作り、
それとテンペを絡めてみました。
作ってみると、なんだか赤茶色で、少しも美味しそうに見えなかったので、
春ということで冷蔵庫に入っていたウルイを小さめに刻んで茹で、
上から散らして緑っぽさを演出しました。

実食。

・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・美味っ!


というのは少し大袈裟ですが、思っていたほどイヤではない感じ。
テンペ自体は、確かに納豆に似たというか、普通の大豆の味ですが、
納豆のような粘り気や匂いがなく、
そのうえ、野菜炒めの調味料にケチャップマニスを使ったため、
やや甘いナシゴレンみたいな味になっていて、わりと平気。

テンペ、攻略。

もちろん、サラダに加えるなどという食べ方は私にはまだ無理かもしれないし、
欧米のようにシチューに入れるという食べ方も、
私はそもそもシチューが好きではないので挑戦しませんが、
とりあえずは、テンペ、攻略しました。
次はインドネシアの味にこだわらず、
カスレに入れてみるとかどうだろうと思ってみたりして。
あれなら家庭料理だからもっと簡単かも、なんて。

まぁ、納豆は依然として食べられませんけどね。
でも、同じくらい身体にいいと言われるテンペを食べれるようになったし、
もともと納豆の攻略なんて望んでいないので、
別にいいんだもん。

[SE;KICHI]

先生とお呼びっ!

前にも書きましたが、1歳(執筆当時)の息子がプレスクールに通っています。

そのスクールは、保育園でも幼稚園でもなく、
特にはっきりしたクラス分けとかもないので、
いろんな年齢の子供たちがてんでに遊んでいるだけの場所ですが、
オールイングリッシュで過ごすのがルールになっています。

よく、そんなに小さなうちから英語を始めて、
日本語が分からなくならない? と聞かれたりしますが、
いまのところ、うちの息子を含め、みんな英語も日本語も話せるようになるようです。
具体的には、私の母がなぜか英語ペラペラなので、
彼は私の母(彼にとっては祖母)と話すときには英語を使い、
一方で、パートナーの母は英語がほとんど話せないため、
そちらの母と話すとき、彼は日本語を使うという具合です。

日本には、日本語しか理解できない人も多くいることを学んでいるため、
相手によって言語を使い分けるという技術を身につけているようです。

ところで、面白いなと思うのが、「先生」の取り扱いです。

私はかねがね、
日本の学校における「先生」の扱いに不満を持っています。

端的に言うと、ただ教師という職業に就いているだけなのに、
なぜ「先生」などという尊称を含んだ呼ばれかたをしているのだろうか。
そういうことだから、教育学部を出たての若い教師が勘違いして横柄になるのだ、と。
まぁ、日教組が悪いとか、そういうことを言い出すときりがないのでやめますが、
根底には、年長者は敬いなさいという、儒教的な価値観があるのでしょう。

イングリッシュの社会では、二人称で「先生」と呼びかける文化はありません。
「Mr.○○」とか、もっと省略して「○○」と、名前で呼ばれます。Hi, ○○! って。
Teacher という単語を使う場面は、ほとんどないようです。
プレスクールでも、子供たちは、
先生のことを Jason とか Margarita とか、名前で呼んでいます。
先生の側も、先生同士、または子供たちのことを名前で呼んでいます。
そして、父兄も、先生のことや子供たちのことを名前で呼んでいます。

私は、これは良いことだと思っています。
理由は、敬称にとらわれず相手の本質を見ることになると思うからです。

日本では、先生と生徒がそのようにフランクに混じることは皆無でしょう。
先ほどの Jason という名前での呼びかけを日本に当てはめれば、
それは先生に対して「よぉ、金八」などと呼びかけることにあたるわけで、
ステレオタイプの不良ならいざ知らず、普通の日本では受け入れられない感覚です。

しかし、私は、第二外国語にドイツ語を専攻しましたが、
やはり「××先生(Lehrer)」と呼びかける文化はなかったと思います。
習ったのが昔で、もうウロ覚えですが、Herr とか Frau とか、
英語の Mr. とか Ms. にあたる単語を使っていたと思います。

そういう意味では、日本の感覚のほうが世界的にはマイノリティであると思われます。
私はやはり、その相手の内面を理解するために、
ある程度はざっくばらんであったほうがいいと思うので、
尊称にこだわって上下関係を形成することは、マイナスではないかと思うのです。

さて。
日本では英語を小学校の早い学年から正式科目とするための検討に入ったそうです。
英語は世界語というのはもはや事実ですから、基本的には賛成です。

しかしね。
現在、小学校では、英語の時間、子供たちに
「△△Teacher」と呼びなさいと指導している先生もいるそうです。
しつこいですが、二人称で Teacher という単語を使う場面はないのです。
“△△Teacher”などという呼び方はないのです。

儒教や“長幼の序”と英語文化の狭間で苦労するのは分かりますが、
国際社会で恥をかかないように教育するわけなので、
教師が自分への敬称にこだわって
ウソを教えるのはいけません。


ほかにも、Hello と呼びかけられたときに Hello と返すとか、
学校ではそんな馬鹿なことを教えているようです。
(Hello と言われたら Hi で返し、Hi と言われたら Hello で返すのが普通です。)

ちゃんと文化も含めて勉強して、正しいことを教えて欲しいものです。

[KAMATA]

偽善のススメ

人の心すなほならねば、僞りなきにしもあらず。
されども、自ら正直の人、などかなからん。
己すなほならねど、人の賢を見て羨むは尋常なり。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。


これは徒然草の一節です。(第85段)

最初の行は、人の心というものは、そうそう素直なものでもないから、
偽りが皆無というわけではないだろうという意味です。
続けて、他人の正直さを見て、自分もそうなりたいと願い、
理想として羨ましく思うのは普通のことであり、
愚かな人は、そういう人にケチをつけるのだと言っているのです。

なるほど。

平たく言えば、普通の人間の特性にはどうしても欠点が含まれるものであると達観し、
それはそれとして、嫉妬したり悪口を言ったりしないで、
人格者や成功者から学びとる姿勢が大事だよ
というところでしょうか。

もともと「学ぶ」という単語は「真似ぶ」の転化であると言われます。
徒然草では、このあとに下記のように続きます。

狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。
惡人の真似とて人を殺さば、惡人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
僞りても賢を学ばむを賢といふべし。


「狂人の真似をして道を走れば、それは狂人である」だそうです。
「悪人の真似をして人を殺せば、それは悪人である」だそうです。
そりゃそうですね。
要は、本心ではなくても、
賢人の真似をして努力していれば、それは賢人である
ということですね。

そういう意味では、私は、偽善というのも悪くないと思っています。

そりゃ、心から善であれば、それに越したことはないですが、それが難しいなら、
本心ではなくても、善人の真似をして努力していることで、それは善人であるとする理論。
それは、所詮は善の真似事ですが、少なくとも何もしないよりは世間の役に立ちます。
偽善を嫌って行動を起こさない人や、偽善を非難して善行自体を否定する人に比べれば、
真似事とはいえ、よっぽどマシですわね。

たまに、他人の幸福を見ると心がざわつくという人もいらっしゃいますが、
さっきの理論どおりなら、
幸福人の真似をして努力していれば、それは幸福人だということになりましょう。
一生懸命、自分は幸福ではないという自己暗示をかけるよりも、
あぁ自分は幸福だと思うか、それが難しければ、
幸福なあの人の真似をしようと思うことです。


凡人は、そんなもんで良いのです。

[SE;KICHI]

居場所が見つけられない

皆様、GWいかがお過ごしでしょうか。

わたくしめはあいも変わらず時間の使い方が下手だと再認識させられております。

さて。
GW前より我が家は卒園式、入学式等々で多忙な時期ではありました。
が。

卒園式。
わたくしめ、会社よりお時間をいただきまして卒園式に出席を予定しておりました。
しかし、早朝より上の子がトイレにて嘔吐、発熱。
どうやら感染性胃腸炎。
病院へ直行し、そのまま点滴2時間コース。
最後の卒園式よさようなら。。。。

午前中で点滴が終わり、帰宅してみると。
妻が横たわっている。。。。
コレはもう間違いない。
午後より病院送りで点滴。

下の子は13時よりゆりかご会主催の会食。
妻はお弁当だけもらって帰ってくればいいよ。と言うものの、
子供は遊びたがっている。
覚悟を決めるっきゃない。

案の定、参加してるお父さんは自分一人(涙)
しかも、行った直後に友達達と遊び始めてる。
体調不良な状態をおして卒園式を耐えた妻の苦労を無駄にはできない。

耐えましたよ。
2時間半。

在園中のスライドショー見てビンゴ大会。
ビンゴは結局最後までビンゴせず。
ある意味大当たり。

なんやかんやで2時間半過ごせた訳ですが。
案外と人は異性のみの(子供たちは居ますが)環境に置かれると、
落ち着かないものなのですね。

改めて自分の知らない一面を知ることになりました。
多少ならずとも、人は今までと違った環境に置かれると、
新たな自分が発見できると思います。

案外と自分は寂しがりなんだな。と
思わせていただく機会になりました。

もう少し社交性スキルが高い人ならば、
居場所くらいは見つけられるかも知れないですね。

[Y2K2]
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