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意地悪しないでおいてやりなよ。

世間では、先ごろ、自民党の選挙対策委員長に就任した小渕優子さんのことを、
「ドリル優子」と呼ぶのだそうです。

小渕優子氏https://jp24h.com/post/196885.html

もし、彼女自身が、そう呼ばれることを望んでいるのならともかく、
そうでないなら、そう呼ぶことは嫌がらせです。
彼女、泣いてましたからね。
小学校なら学級会が開かれ、泣かせた側は担任から叱られ、謝罪させられる案件です。

「ドリル優子」とは、
彼女の、10年も前のスネの傷に由来する卑称だそうです。
確かに、彼女がやったことは褒められたことではないかもしれないけれど、
10年というと、小学校1年生のときのミスを、
高校生になってもまだ言われているということで、
それは不登校になるかもしれない長さです。

いや、彼女がやったことは法に触れることで、説明責任があるはず、
小学生のしくじりではないのだから、
話を矮小化するなという方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、説明責任ってなんでしょうか。
彼女にしろ萩生田さんにしろ、
何度も何度も質問され、説明していらっしゃると思います。
ただ、聞く側が、その説明で納得せず、
説明が済んでいない!と言っているだけで、
聞き手が納得していない説明は説明ではないとするなら、
説明とは、嘘をついてでも納得してもらうことということになりますが、
この理屈、小学生のみなさんに分かるでしょうか。

証拠隠滅の意図はなく、
職務上の個人情報の漏洩などを懸念して、
PC等の廃棄時には、日常的にドリルで破壊していました……
という説明を聞いた私たちの正しい態度は、
「そうかぁ。私だったらそんなことしないけど、
本人がそう言うんだったらそうなのかねぇ」
ではないでしょうかね。
そのうえで、「私だったらそんなことしない」の部分が高じれば、
「そういう感性の人には投票しない」という行動をとればいい話です。

つまり、仮に内容に疑いが残っても、それは説明を聞いたうえで疑っているわけで、
説明が済んでない!ということではないと思うのです。
納得する答えを引き出すまで許さないというのは、
相手による説明の有無とは無関係というわけですが、
世の中の人は、そこを口実に、
10年経ってもあの時のことを蒸し返すのが好きなようで、
ちょっと、底意地の悪さを感じるのです。

そもそも、以前にも言いましたが、
知人でもない相手を呼び捨てで呼ぶとか、
「クン」とか「チャン」とか茶化した敬称をつけて呼ぶとか、
そういうこと自体、そもそもイーブンではない見下した態度であり、
あまりいいことではないと、私は思います。

だいたい、ニュースとは恣意的なもので、
先日の内閣改造の場合も、
駅前などで街の声などをインタビューしたもの流していますが、
聞かれた人は、口を揃えて「地味な顔ぶれ」などと言います。
しかし、「議員マニア」の私からしてみれば、
新内閣の顔ぶれに知らぬ方は誰一人としておらず、
それなりに思惑を感じる人事です。

つまり。
詳しく知らない人にインタビューしても、
「(知らない人ばかりで)地味ですね」という答えになるし、
そのインタビューを何人分か集めて流すことで、
世間はそういうもんかという誘導になるわけです。
説明責任も然りで、
好意的に聞く気のない状態では、
「(納得いかない説明だから)説明してないのと同じ」になるし、
当時を蒸し返すような報道を繰り返すことで、
世間は「説明しないなんてけしからん」となるわけです。

つくづく、“和を以て貴しを為す”を是とするこの日本ですが、
なんと民度の低い、レッテル貼りの好きな国民性なのか
毎度のことながら、驚きます。

10年も前まで遡って叩かれれば、
ホコリの出ない人なんてほとんどいないでしょう。
そんなこといつまでも覚えててやるなよ、
忘れてやれよと思います。

本人、頑張って働くって言ってるんだからさぁ。

まぁ、私は、岸田首相のやり方は好きではないし、
河野デジタル相の高飛車な感じや、鈴木財務相のとボケた感じも苦手ですが、
そういう、好き嫌いの話とは別です。
日本のリーダーが「この陣容で頑張る」というのだから、
「頑張れ、頼むぞ」とエールを送るのが正常ではないかと思うのです。

[SE;KICHI]
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忍び寄る赤い影

大阪府が、25日の戦略本部会議で、
私立高校の授業料を完全無償化する制度案をまとめたそうです。
入学金とか制服代とか、一定の必要経費はかかるものの、
授業料負担はゼロとなるということで、生徒や保護者の反応は好意的だそうです。
この制度は、大阪維新の会に所属する吉村知事の肝入りで、
経済的な心配をせず、
生徒たちには行きたい学校を目指してほしいという意図があるそうです。
大阪府では、公立高校の授業料無償化は春先に決定していますから、
今回の私立高校の授業料無償化により、
「公私ともに、授業料ゼロ」ということになります。

親としては助かるでしょう。
また、それ以上に、
新聞には、「いままで私立に行きたいと思ってたけど、
家の負担を考えたら言い出せなかった」という女子生徒の、
「これで親に行きたいと言える」という喜びの声が出ていました。
いいことづくめですね、めでたしめでたし。

しかし、実は、私は、性格がねじくれているのか、
こういう種類の話に違和感を抱きやすい者です。

まず、授業料ゼロということは、各家庭の負担はありませんという意味ですが、
それでは学校は運営できませんから、
その運営費用は大阪府が各校に支給する形になるはずです。
そしたら、各学校は、誰を気にしながら運営されることになるでしょうか。

これまで、私立高校というのは、
生徒やその保護者が「顧客」であるという構造を持っていました。
果たして、大切な顧客に対して厳しい教育はできるものなのかという疑問は当然ですが、
そこは伝統校になればなるほど、校風をぶらさないことで、
より保護者の支持を得ることができるという結果につながり、
おそらく、顧客でありながら厳しく育てることはできていました。

しかし、これからは、お客様は大阪府です。
預かっている生徒の保護者うんぬんよりも、
お金をくれる大阪府に尻尾を振っておかないと、
運営がおぼつかなくなりますよね。

そもそも、子育ての目的は、
先に去る者
(親)が、後に残る者(子)に、
一人でも力強く生きていけるように鍛えること

でしょう。

その観点から、私立は高いことは百も承知ながら、
独自の教育に期待し、それを選んでいるという家庭があるわけです。
すなわち、「高いけど、ウチの子の未来のために、
この高校に行かせたい」という親の願いです。

もちろん、経済的な理由からそれを選択できないケースがあることは、
気の毒なことではありますが、
だからと言って、全部をゼロ円にして、
「公立も私立も差はありませんけど?」というのはどうなのでしょうか。
すなわち、「高いけど、ウチの子の未来のために、
この高校に行かせたい」という親の願いはどうなるのでしょうか。

私は、高いものには高い理由があると思っています。
原則論ですが、価値の高いものには高値がつきますし、
価値の高くないものには二束三文の値がつきます。
私たち消費者は、ついつい、安いとありがたいというメンタルになりますが、
それが安いのは、安物だからです。
高いものには価値があるものです。

そうであるならば。
私立高校の授業料が公立高校より高いのは、
その授業内容の価値が高いから、です。
もちろん、絶対の価値評価ではありません。
提供する側(学校)と消費する側(保護者)が納得している場での、
当事者同士における価値評価です。
つまり、保護者が納得している価格なわけです。

繰り返しますが、経済的な理由からそれを選択できない方がいるのは、
気の毒なことではあるけれど、
それはその家庭への個別支援が必要な案件なのであって、
頑張って工夫して、独自の価値を提供している私立高校に対して、
「公立も私立も差はないと認めるなら、運営費を渡すぜ」というのは、
ちょっと、恫喝して言うことを聞かせるという、
どこぞの赤い国のような感じがして、少しゾクッとするものがあります。

この、生徒の選択肢を広げるために授業料免除…以外にも、
出産一時金の増額とか、コロナ関連の補助金とか、
マイナポイントだって然り。
気がついたら選択肢を奪われているような政策は他にもありそうです。
私たちは、忍び寄る「赤」に飼いならされているかもしれません。

[SE;KICHI]

鈴木貫太郎の信念

さて、戦後78回目のお盆が終わったわけですが、
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

この時期は戦争をテーマにしたドラマやドキュメンタリーが盛んに放送され、
否が応でも戦争の気分が高まるわけですが、
あまり「皮膚が焼けただれ…」のような感情的な話になってしまい、
本質を見誤りがちです。

確かに戦争は悲惨なのです。
特攻隊にしても、
あのような戦略で勝利できると考えていた者はいなかったでしょう。
そこを指して、なぜ若者を犬死にさせたのかと言う方もいますが、
若者たちは、別に天皇のためでも大日本帝国のためでもなく、
愛する父母や妻子や友達のために盾となったわけです。
自分に残されていたはずの、
人生の残り時間をすべて投じることで、
自分以外の者を逃がそうとしたのです。

そして、そのことで生き永らえた命があるとすれば、
この戦略を批判する資格は、私たちにはないでしょう。

何を言いたいのかというとですね、
どんなに悲惨な戦争でも、立派な方はいて、
自分の命はその方から守られたものなのだ

ということです。

大東亜戦争より40年ほど前の、日露戦争開戦時、
当時の明治天皇が詠まれた御製の歌、
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」は有名ですよね。
世界の全てを兄弟姉妹であると思っているのに、
どうして波風が立つのだろうか、という意味ですよね。
実際、明治天皇は心からそう思っていたらしく、
開戦の折、全国の学校の教員に対して、
いずれ仲良くなるために戦うのだから、
相手を悪く言うような教育はしてはならぬと命じています。

この明治天皇の御製歌ですが、
のちに昭和天皇も、大東亜戦争の開戦前にこの御製を引用され、
開戦反対の意思を示されたと言われています。

その大東亜戦争で日本と戦ったアメリカは、
当時、ルーズベルト大統領でしたが、
このルーズベルトが終戦4ヶ月前に脳卒中で死去した時、
日本の鈴木貫太郎首相は、なんと、敵の大将であるルーズベルトに弔電を出しています。
しかも、ルーズベルトが敵であるにも関わらず、ひとつも蔑むことなく、
彼の指導力を称え、死去はアメリカの損失であるという内容の弔電でした。

果たして、日本人の精神性というのは立派なものだなと感じます。
「汝の隣人を愛せよ」という聖書の教えを、
日本は騎士道や武士道として身につけていたのだな、と。

私たちは、そうやって受け継がれてきた命です。
権利とか収入とか名誉とか、
自分の生活を守ることに汲々としがちですが、
もっと博愛の精神を持たねばならぬのかもしれません。

ルーズベルトの死後、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しましたが、
このトルーマンが、少しも博愛の精神を持ち合わせない人でした。
大東亜戦争が終わったのは、ご存知のとおり、
このトルーマンが、この時期の日本が降伏の意思を示していたにも関わらず、
そんなこと関係なく広島や長崎に原爆をブッ放し、
そこにいた市民を無差別に虐殺したためです。

確かに戦争は悲惨なのです。
しかし、どんなに悲惨な戦争でも、立派な方はいるのだということと、
別に戦争を礼賛しなくても、その人物を称えることは正しかろうと思います。

[SE;KICHI]

蟻田功という人

かつて、私が学生だった頃、早めの年次に薬理学という講義がありました。
その講義の担当教官がわりと雑駁な話をする人で、
薬理学の細かい機構よりも、それを取り巻く背景などを取り上げたものでした。
そこで、私が知ったのが、蟻田功という人名でした。

この蟻田功という人物は熊本県生まれの医学者で、
世界保健機関(WHO)の天然痘根絶対策本部長を務めた方だそうです。
同じく熊本出身だった担当教官の思い入れは強く、
特に天然痘に関心がなかった私たち学生にも熱心に「伝道」されたので、
そのしつこさに、ついつい記憶してしまった人名でした。

あれから幾星霜。
卒業後はそんな人名を思い出す必要もなく、すっかり忘れていたのですが、
5月の新聞で、3月に亡くなっていらっしゃったことを知り、
学生当時の記憶と共に、急に思い出したわけです。

学生だった頃は「ふ~ん、WHOの偉い人が日本人なんだ」くらいの認識でしたが、
いま、大人になって少しは視野が広がった私から見て、
天然痘根絶宣言というのは偉業だなと分かります。

人類とウイルスの長い闘いのなかで、
天然痘は、人類が勝利を宣言できた唯一の事例です。
ひとつの感染症に打ち勝つことがどれほど困難かということは、
私たちはここ数年、新型コロナウイルスのパンデミックで痛感しました。
いまだに続く新型コロナウイルスに関して言えば、
当初、人類は根絶を目指そうとしたものの、
感染の広がりに根絶の取り組みは追いつかず、
じりじりと土俵際に追い詰められた結果、
仕方なく根絶を諦めて共存を指向したように見えます。
結果、闘いとしては勝利できたとは言えず、
事実上、勝利は無理なのだろう
つまり、人類はウイルスひとつ滅ぼすことができぬのだと、
己の無力さを思い知らされましたよね。
それゆえに、たった1勝とはいえ、
天然痘に勝てたというのはとんでもない偉業でしょう。

蟻田さんが天然痘根絶対策本部に参加した時、
WHO本部からの参加メンバーは蟻田さん含めてわずか4人だったそうで、
それに対して世界の患者数は推定で年間3千万人、
死者は600万人以上に及んでいたそうです。
私は、権威的な賞などに価値を感じるタイプではなかったそうですが、
蟻田さんの偉業に対しては、
ノーベルなんとか賞でも、国民なんとか賞でも、
差し上げて然るべきだと思ったりもします。
だって、それ以降、日本人どころか世界中で、
その対戦で勝つことは並大抵でないと思い知ったわけだから。

[SE;KICHI]

繁殖学の小松教授

性的少数者への理解増進を図る法案が国会に提出されましたが、
LGBTの当事者団体とか女性団体からは、
反対の声が上がっています。
特に女性団体の場合、女性であると自認した男性が、
女性トイレ、女性浴室などに介入してくる点など、
切実な問題が起きると思われるからです。
ジェンダーレストイレも設置されたりはしましたが、
結局は女性からは不満が渦巻きました。

それよりも、私が危うく思うのは、
この法案が成立することにより、
学校教育はどうなるのかという点です。
性差を否定するような教育は、
たとえば、全員を「○○さん」と呼ぶとか、
名簿を男女混合にするとか、
受験の願書の性別記入欄の廃止とか、
そういうことは、すでにじわじわ行われていて、
このところは、
保健体育で第二次性徴について教えないよう、
保護者から要望があったりもするそうです。
この法案が成立すれば、このような動きがさらに加速されることでしょう。

「性の多様性を尊重した教育の推進」という、
社会教育団体から出ているリーフレットを見たのですが、
[性]には、心の性・体の性・好きになる性・表現する性があり、
「違う性別の相手を好きになる人もいれば、
同じ性別の相手を好きになる人、
性別は関係ないという人もいます。
異性愛も同性愛も、人を好きになるという点では同じです。
なかには恋愛感情を持たない人もいます。
どれも大切な気持ちです」
と書かれていました。

私は思うのです。
こんなにたくさんの例を挙げて、どれも尊重しましょうって、
そんなことが子供たちに分かるのでしょうか。
本当の意味での恋愛感情を抱いたことすらなさそうな、
10歳~12歳の子供に、「異性愛も同性愛も…」って、
そんなの、理解できるのでしょうか。

私は学生の頃、小松教授という人に、このように教わりました。

人間を含め、動物はメス(女)がオス(男)を選ぶのが標準です、と。
それは、1回の繁殖にかかるエネルギーのほとんどをメスが負担するからです。
メスは、一度妊娠したら、出産、授乳、子育てと、
しなければならぬことが目白押しになるので、
人間の場合、繁殖のチャンスは年単位になります。
だから、同じ繁殖をするならできるだけ質の良い相手とということになり、
相手選びは、生物学的に慎重になるものです。
一方、男は、一回射精したら、次は精子が回復したら繁殖のチャンスとなり、
物理的には数分後くらいから可能なわけですから、
繁殖のチャンスはすぐに巡ってくるのだから、
慎重に相手を選ぶ必要はないし、
血を残すを考えたら、むしろ慎重さは害です。

小松教授は、男女の違いとは、
このように、繁殖の原則が違うことだ
と言い、
そのために男女は各々が独自の性質を持っているのだ、
とおっしゃっていました。

彼女はすでに退官されているようですが、
私は、このLGBTの議論に触れるとき、
彼女を思い出すのです。
性差をなくす教育とは、
動物としての大原則に真っ向から逆らうことだなと、
怒る彼女が瞼に浮かぶ気がするのでした。

[SE;KICHI]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
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