対岸の火事でいいのかしら。

富山市の交番が襲撃され、拳銃が奪われて2人が殺害された事件。
いつも静かな富山市にしてはセンセーショナルな事件でした。

この事件の犯人は、何が狙いだったのでしょうか。
この手の事件のとき、私たちは、わりと安易に、
「最近は、危ないヤツが増えて、怖いねぇ」という話をしがちです。
それは、もしかしたら、そのとおりなのかもしれません。
しかし、そういう話にすると、話が「くわばらくわばら」で終わってしまいます。

かつての日本は、みんなが互いに関わり合って生きていました。
煮物を多く作りすぎたと言っては鍋ごとおすそ分けをいただき、
鍋を返す際には、カラの鍋は返せぬと代わりに何かを詰めて差し上げ、
延々と終わらぬおすそ分けのラリーは、
いまどきのご時世からすると鬱陶しいこと極まりないと感じますが、
そういうやり取りのなかで、
「あら、○○ちゃん、学校はどう?」とか、
「あそこの△△ちゃん、テニス部だって」みたいな、
周りの大人が地域内のメンバーを仲間として認識していたと思うのです。
それは、ある意味で“プライベートなんてない”状態だったかもしれませんが、
もともと、日本とは、互いに関わり合う、そういう国でした。

かつての社会とはそういう社会でしたから、
あそこの家の若造が自衛隊やめて帰ってきたらしい、と聞けば、
親世代はその青年が働ける場所があるか聞いて回ったし、
地区の青年団みたいな面々は、本人に対して、
オマエ、どうしたんだ、これからどうする気だと、
地域みんなが彼のことを放っておきませんでした。

だから、私は思うのです。
危ないヤツが増えたのは、地域が、そいつを放っておいたからだ、と。

人間、生まれついての極悪非道などということは、ないはずです。
おぎゃあと生まれたそのときは、純粋な目をしてママの指を握っていたはずです。
それなのに、その20年後に殺人事件の加害者になってしまう青年がいる現実。
この20年の間に何があったというのでしょうか。
「最近は、危ないヤツが多いねぇ」という話は、そのとおりだとしても、
純粋な赤ん坊をそのように変質させる力が社会にあるのではないかと、
私は、なんだか恐ろしくなるのです。

もちろん、この犯人がやった、
無辜の人物を殺めるという行為は許されることではありません。
いまのところ推察ですが、動機はおそらく、身勝手な欲望に基づいてのことでしょう。
しかし、このニュースに接して、
「あぁ、うちの地区でなくてよかった」とか、
「いやぁ、うちの子が無事でよかった」とか、
自分と関わりのない事件で良かったと胸をなでおろした私たち、
突き詰めれば、自分と自分の家族さえ無事ならよいと言っているわけで、
それだって、身勝手な感覚なのではないでしょうか。
これは、震災関連のニュースの際にも感じることです。

マスコミも然りです。
少し前の、新幹線車内で刃物を振り回して乗客を殺傷する事件もそうですが、
このような特殊な事件を、手口などを含めて広く全国に報道する意味は何なのか。
また、これから犯人像というか、加害者の性癖から通院歴までが暴かれ、
面白おかしく報道されるのでしょうが、
それを私たちに伝えようとする意図は何でしょうか。
知る権利?
少なくとも、私はそのようなことを知りたいとは思わないのですが。
知る権利を隠れ蓑に、
何でも流せばいいというものではないと思う
のです。
マスコミにとっては絶好のコンテンツかもしれませんが、
加害者の異常性を暴き立てる報道の仕方では、
次の被害はなくならないのではないでしょうか。

そうそう、その1週間ほど前の大阪の地震では、
ブロック塀が倒れて小学生の女の子が犠牲になりました。
実に痛ましいことだと思うのですが、
だいたい、小学校に、どうしてブロック塀が必要なんでしょうか。
プールなどの目隠しのため?
本気の変質者が来たら、ブロック塀などでは防げないでしょう。
そんな視点で安易にブロック塀なんか作るから、倒れてしまうんです。
この先どうするんでしょうか。
全国的にブロック塀は撤去の動きですが、
そしたら、今回のような拳銃持った暴漢への守りはどうするのでしょうか。

そういうことじゃないですよね。
必要なのはブロック塀でもないし、さすまたでもないでしょう。
もう一度言いますが、
危ないヤツが増えたのは、地域が、そいつを放っておいたからです。
そいつにみんなで関わって、そいつの人間力を高めておけば、
少なくともそういう事件を起こすような人物にはならなかったでしょう。
そういう意味では、
社会に一員としての私たちにも責任はあるでしょう。
反省すべきだし、対策を考えるべきです。
また、第四権力としてのマスコミにもそれを促す力になってほしいものです。

私は、そういう問題提起があっても良いのではないかと思うのです。

[SE;KICHI]
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働き方改革

前回のブログ内容と変わって今回は少し真面目なお話となります。
テーマ通りですが、
安倍首相が提唱した「働き方改革」についてのお話となります。
自分の思ったこととなりますので、
ちょっと違うんじゃないか等あるかもしれませんが読んでいただければ幸いです。

「働き方改革」とは一人ひとりの考え、能力、事情などを考慮し、
私生活の充実、仕事の生産性アップ、合理化等を実現し、
誰しもが活躍できる社会を目指すものだと思っております。
実現となったら素晴らしくて正直びっくりするかもしれませんよね。
今の生活とだいぶ変わる方も多いと思います。

しかし、このようなことを敢えて唱えるということは、
現状は問題があるということです。
私がわからない部分も多々あると思いますが、
私が気になった2点を書こうと思います。

まずは「労働人口の減少」が予想されます。
少子高齢化が進んでいる背景もあり、
年々に労働人口が減っていくのは簡単に予想できることです。
働く人がいなくなってくるということは、
様々な企業の生産性ダウンに繋がると思います。
そんな状態になれば誰もが活躍できる社会どころではないですね。

そして「長時間労働の問題」です。
世界的にみても日本の長時間労働は深刻らしく、
特に働き盛りの30~40代の長時間労働の割合が多い状態とのことです。
長時間労働で過労死や、様々な事情があり自殺をしてしまう方もいます。
人の命が関わっているのでこれは重大な問題だと思っております。

以上が私が気になった点です。身近に感じやすいところですので、
この問題について何かしら思っている方は多いのではないでしょうか?
ここからは問題点についての私の思ったこととなります。

「労働人口の減少」についてですが、やはり出生率が大きく関わると思っています。
少子高齢化問題は以前からもありました。
私自身も独身ではありますが、私の友人でも独身の方が多くいます。
以前はそんなに宣伝はされていないと思っているのですが、
最近では婚活や街コンなどが多く宣伝されています。
私もそうなのですが、今は外に出なくても楽しいものがたくさんあり、
出会いの機会を多く逃してしまっている方々も少なくないと思われます。
そんなこともあり多く宣伝活動されているのではないでしょうか。
書いてみると、
その問題にちゃんと向き合わなければいけないですね・・・

「長時間労働の問題」については、
作業効率のいいシステムをそれぞれの企業が見直すべきだと思います。
物理的に限界はあっても一度見直し、
改善することにより30分でも1時間でも労働時間が短くすることも可能だと思います。
諦めたり、
面倒に感じたりして見直さなければずっと変わりません。

作業効率が悪いと感じたら一度手を止め考えるべきだと思います。

効率化という部分に関してはいいと思いますが、
個人的には残業はしてもいいと思っております。
これは先程も書いたように物理的に限界がある場合があるからです。
毎日同じ仕事をされている方であれば、
効率化を実行し、残業をなくすことが可能かもしれません。
(あくまで仕事量による話ですが)
しかし、毎日が違う仕事をしている方は残業せざるを得ない場合もあると思うのです。
それは自分のペースで仕事をできない業種であると思います。
そして自分のペースで出来ない業種というものは世の中に非常に多くあります。

ただ、意味も生産性もないのに、
サービス残業を押し付けたりする企業は問題があると感じます。
私が残業は賛成というのは、
そういった押しつけられたりする環境ではないからかもしれせん。
自主的に残業をしています。
残業は仕方のないことだとしても、
その時間をいかに減らすかという効率化は目指したいですけどね。

最後に私の知人の変わっている考え方を書こうと思います。
あくまで私が変わっていると感じたことです。
労働人口が少なくなっても、
これから機械化が進み、ロボット等が仕事をすれば問題ない。
能力のある人間が多く稼ぎ、働き口がない人たちに還元すればいいというのです。
まあ、個人的にはかなり思い切りのいい意見だなと思いました 笑
ちなみにその知人は、
いかに仕事を早く終わらせて遊ぶ時間を作るかを心掛けているとのこと。
遊ぶ時間というのは、テレビや漫画を見る時間ではなく、
今の仕事と関係なくても、
これからさらに稼ぐ為の勉強時間
とのこと。
私としては遊びの時間には思えなかったが、
その知人にとっては仕事以外の時間だから遊びとのこと。
色々な方がいますよね・・・

今日のお話は以上です。
仕事量が多くても少なくても効率よくやっていきたいですね。
私も自分で書いていて改めないとなぁと感じました。
「働き方改革」は、小さなことでも、
それぞれの気づきや習慣の見直しでできることだと思っております。
少しずつでも改善し、私生活も仕事も充実させたいものです。

[SYUN]

安かろう悪かろう、か。

子供の教育に費用が掛かるので、
つまり、生活を考えたら子供なんて産んでいられないということで、
日本は果てしなく少子化が進んでいるという状況だそうです。

安倍首相なんかは、
幼児教育を無償化すればもっと子供を産むだろうと思っているようですが、
それはどうなんでしょうか。
前回は大学の無償化について触れましたが、
幼児教育も無償化すれば、日本はよくなるのでしょうか。

私は、本音を言うと、もっといろいろ選択肢があればそれでよいと思うのです。
一時期、教育勅語を暗唱させている幼稚園について賛否両論が出ましたが、
私は、もちろん、そのような幼稚園があっても良いと思うし、
そうでない幼稚園もあってよいと思うのです。
ヨコミネ式しかり、七田式しかり、同じことです。
そういう、いわゆる高級な幼稚園や保育園があったっていいし、
安いところがあってもいいし、タダのところがあってもいいと思うのです。

資本主義社会なのですから、
お金がある家庭はお金を払って、高額な幼稚園に行けばいいのです。
これは小学校以上の教育にも言えることですが、
お金のある方は、高額で高度な教育をお受けになればいいと思うのです。
やっかんではいけません、
国家財政を考えても、そういう家庭が存在することはありがたいことです。
そういう家庭の納税で国が回っているのですから。
一方、経済規模が標準程度かそれ以下の家庭であれば、
月謝が安ければ安いに越したことはないでしょうし、
「タダにしてくれないと子供なんて産めない」という家庭にとっては、
無償で預かってくれる幼稚園・保育園も必要でしょう。

何が言いたいのか分かりますでしょうか。
選べるようにしてくれれば、それでよいという話です。
政府は幼児教育をタダにすればもっともっと子供が増えると思っているようですが、
そんなわけないだろう。
普通の感覚では、子供を幼稚園に預けようとするとき、
まずは教育勅語等に代表される教育方針など、
その学校の運営方針が自分の家庭にあっているか、
そういうことを検討したうえで、自宅からの距離や費用等を勘案し、
各家庭で選び、決めればよいと思うし、そうしていると思うのです。
タダでさえあれば、
たとえば昨年あったような給食が貧しい幼稚園でもいいかと言われれば、
それは、たぶん多くの親御さんが、タダでもイヤだと思うのです。

なんか、こう、いろいろ無償化すればみんな喜ぶみたいな論調が流行ってますが、
現状のすべての子育て世帯が、
「タダにしてくれないと子供を産めない」なんて言っているわけではないし、
全施設をタダにしろなんて言っているわけではないと思うのです。

高校もタダという流れになってきていますが、
考えてみれば、学校教育が充実していれば塾なんて行く必要はないのに、
現状では、大学へ進学するためには学校教育だけでは充分ではなく、
みんな、学校教育よりもはるかに高いお金を払って塾に通っているわけです。
つまり、今後、せっかく高校をタダにしても塾通いの費用がかさむという、
ワケの分からないことになる可能性はあります。

結局、親の金銭的負担は増し、
子供はダブルスクールで疲れるということになります。
それで、いったい誰が幸せなのかという話です。
ダブルスクールなんて、学校へ通いながら夜勤で働くようなものでしょう。
そんな戦後すぐみたいな教育事情で良いはずがありません。
疲弊した子供たちは、「せめて学校に行っている間は眠ろう」と、
授業中にうたた寝をしたり、保健室で休んだりするかもしれません。

いいかげん、国には、
タダならみんな喜ぶよね~という感覚を捨ててほしいのです。
もちろん、均一の水準であれば、安いほうがありがたいのは事実です。
たとえば、100円ショップで売っているような雑貨であれば、
300円で売っても売れることはないでしょう。
それは、その商品には100円の価値しかないからです。
逆に言えば、300円分の価値があれば、
つまり、300円払っても惜しくないとみんなが思うような商品であれば、
300円でも売れるはずなのです。

教育は、それとは違います。
教育とは、もともとレベルにピンからキリまであるものであり、
そのクオリティは均一ではないわけですから、
教育レベルや環境が付加価値ということになります。
選ぶ側はどこに価値を見出すかは自由なので、
必ずしも、タダなら良いということにはならないはずです。

結局、内容がよければ、人々は優先度を変えて自分のお金を使うのです。
「くだらぬものには一銭も出したくない」のは当然のことですが、
その延長線上に、
「くだらぬものはタダでもいらぬ」という感覚もあると思うのです。
やはり、いくら公立がタダであり、私立はお金がかかったにしても、
その教育が良いものであるならば、私立に通わせたくなるのが親心でしょう。
もちろん、各家庭には各家庭の経済力というものがありますから、
そのへんのファクターはあるとは思いますが、
基本的には、各家庭で用意できる範囲の最良を子に与えたいと思うもの。

国には、タダならみんな喜ぶよねという、
資本主義を無視した感覚を捨ててほしいものです。

[SE;KICHI]

道徳の教科化

今年度から小学生の道徳が特別の教科となりましたね。
2019年度からは中学校でも「道徳の教科化」が始まるそうです。
この学習指導要領の改訂のニュースを聞いたとき、
私は正直、
えーじゃあ私が受けてきた道徳の時間って何だったん?
と思いました。

道徳の教科化は2011年に起こった大津市中2いじめ自殺事件をきっかけに、
いじめ防止を目的として進められたようです。
また、これまでの道徳の時間は教科書や評価がないことなどから、
他教科に比べて軽視されがちでした。
教科化には検定教科書を導入し質の高い道徳教育を、
着実に行うという狙いもあるそうです。
確かに、小・中学校での道徳の時間って何をしたか全然覚えていないんですよね。
「心のノート(道徳の副教材)」というものは配布されていましたが、
学校でそれを開かされたことはほとんどなく、
中学生のときは別の学級活動の時間に使われていたような…?

そう考えると、せっかく時間割に「道徳」と書いてあるなら、
1時間きっちり道徳教育を行うことは良いことなのではと思います。
文部科学省のHPには、道徳教育について、
「児童生徒が、生命を大切にする心や他人を思いやる心、
善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは、
とても重要です。」と書かれています。

しかし一方で、国の価値観を子供に押し付けることになるといった、
反対意見もあるようです。
また、「道徳的な価値を自分のこととしてとらえ、
よく考え、議論する道徳へと転換し、
特定の考え方に無批判に従うような子供ではなく、
主体的に考え未来を切り拓く子供を育てる」ことが、
「特別の教科 道徳」の目指すところですが、
これはなかなか簡単ではなさそうで、
指導する教員も悩むところではないでしょうか。

私はというと道徳の教科化の議論を見るにつけ、
たくさんの大人が、
子供たちに「こういうふうに育ってほしい」という考えを持って、
この問題に注目しているんだな~と感じます。
ただそれだけ、です。
自分に子供がいたり、普段から子供と関わる生活をしたりしていれば、
もっと積極的な賛成・反対意見が言えるのかもしれませんが。

しかし自分の子どもの頃のことを考えると、
道徳が教科になろうがなるまいが、
子どもたちにそんなに影響はないのではないか

と思うのです。

私が受けた道徳教育がゆるゆるだったことは置いといて、
先生が教室で言っていたことって、ほとんど心に残っていません。
先生の私個人に向けての言葉はちらほら覚えていますが、
今まで私を指導してくれた先生たち、
何を教えてくれていたっけ?

中学の卒業式の日、担任が何か良いこと言っていたのは覚えているけれど、
具体的に何言ってたんだっけ…?

思い出せないのは私の記憶力が足りないわけでも、
私が不真面目だったわけでもなく、
大体みんなそんなもんだと思うのですが、どうでしょうか?
それとも道徳の教科化反対派が言うように、
知らず知らずのうちに価値観を刷り込まれていたのでしょうか?

私は授業というかたちよりも、
普段の家庭での躾や身近な大人の振る舞い、先生の何気ない言動のほうが、
子供はよく見聞きしていると思うし、
それが子供の生き方に繋がるのではないかと思います。

小学生の頃よく家族で通っていた銭湯は、
券売機にカードを入れてチケットを買うシステムだったのですが、
私はカードを券売機に残したまま、チケットだけ持って立ち去りました。
すると後ろに並んでいたお姉さんが「忘れてるよ」と、
そのカードを渡しに来てくれたのですが、
私はカードを取り忘れたことと、知らない人に話しかけられたことが恥ずかしくて、
お礼も言わずに黙ってカードを受け取ったのです。
それを見ていた両親に「ちゃんとありがとうございますって言わなきゃ」と言われ、
あ、そうだったわー!とハッとしたことがあります。

この出来事の前後で、
私の「ありがとう」と言う回数にどれだけ変化があったかは定かではないですが、
このことは今でも時々思い出しますし、
ちゃんとお礼を伝えられる大人になっていると思います。多分。

こんなふうにほんとーに!些細な、
それでもとても身近な経験のほうが、
いつまでも心に残るのではと実感しています。

そしてそういった経験の積み重ねで、
それぞれの人間が「こういうときはこういうふうにすべきだ」と、
自分の考えを作っていくのでしょう。

そんなわけで(こんなことを言う保護者はいないでしょうけど)
学校でしっかり道徳を教えてくれるから安心だとか
一定の価値観を押しつけるようで不安だとかではなくて、
大人が今持っている自分なりの道徳心を、堂々と行動をもって示せば、
それを子供たちは受け止めて取捨選択をしつつ、
それぞれの規範を作っていくのではないでしょうか。

今回の道徳の教科化は、私にとってその是非はあまり問題ではなかったですが、
道徳や子供の教育について考える良い機会でした。
このブログのために図書館で本も借りましたしね!
1ページ目しか読んでないですけど!

「肝腎なのは徳行(モラル)についての教えを述べることではなく、
誰もがしかるべく自分自身の主人になり、
自分のただ一人の裁判官になるように手助けすることだ。」

(アンドレ・コント=スポンヴィル「ささやかながら、徳について」本書についてより引用)

[a.]

栄誉賞?

平昌冬季オリンピックが終わり少し過ぎましたが、
あれどうなりましたかね?

男子フィギュアスケートで羽生結弦選手が2連覇を達成して盛り上がっている時に、
テレビで「国民栄誉賞」を検討だか安倍首相が指示したとか聞きましたが、
あれは勝手に言っていただけだったのですかね?
人気取りに賞を渡したかったけど財務省の問題でそれどころではなくなって、
忘れているのですかね?

偶然ですが羽生選手がフリーの演技をするのをテレビで見ていました。
地区の公民館で見ていたのですが、
周りには、にわかファンやにわか解説者がたくさんいました(笑)
でもそれだけ人を引き付ける魅力が彼にはあるのだと思い応援しました。

でも国民栄誉賞を出すのではと聞いた時に、
「えっ」て私は感じました。
最近のフィギュアスケートの盛り上がりは凄いですし、
2連覇も凄いことなのだろうけど私の国民栄誉賞のイメージは、
王貞治さんとか衣笠祥雄さんのイメージで、
世界記録とか誰もなしえていないことをした人に贈られるものだと。
羽生選手も広く国民に敬愛される選手ですから、
該当しないというわけではないですけど、
もしかしたら3連覇の可能性がある人に渡すのが良いことなのかと。
情報飛び交うなか、若いのに注目が集まり行動が制約され、
少しでも期待とそれると心無いことを言われてしまうこんな時代
だからこそ、早いように思います。

亡くなってから渡されても意味は無いようにも思いますが、
結構いらっしゃるのですね。
とってつけた感じで意味があるのでしょうか?
柔道の野村忠宏さんもオリンピック3連覇していますが、
辞退したような話聞かないですし、
他にも受賞しても良いのではと思う方はたくさんいらっしゃると思います。
引退してから話題性でおいしくない時にこっそり渡しても人気取りはできないから、
意味がないのでしょう。

イチローさんは辞退しておられましたが、そろそろ良いのではないでしょうか。
人気取りなら丁度いい時期ではないでしょうか?
でもまた断られて恥をかくだけかもしれませんね。

鉄人衣笠祥雄さんが亡くなったとニュースで知りました。
ご冥福をお祈りいたします。

[WAKA]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
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〒950-1142
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TEL:(025)283-5311
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URL:http://www.kk-seishin.com/

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