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手水舎

コロナ禍とはいえ、こういう時こそと思い立ち、
少し前に熱田神宮に参拝に行ってまいりました。

熱田神宮

熱田神宮は境内が広大であるうえ、
緩やかに動線を区切って回遊できるようにしてあって、
他の参拝客と密になることはなく、ゆったりと参拝できました。
熱田神宮といえば、境内に放たれているニワトリが有名ですが、
そのニワトリも健在であるうえ、その周囲に人だかりができることもなく、
とにかく、密にならないよう、かなり配慮されている印象でした。

が、ナンジャソリャと思った箇所が1点。

それは手水舎。

手水舎というのは、神社の拝殿の手前にある小さな水場のような施設ですよね。
そこに用意されている洗い水は手水(ちょうず)と呼ばれ、
拝殿へ進み出る前に身の穢れを清めるためのものとされています。
つまり、手水舎というのは(みそぎ)の場なのだと思うのですが、
コロナ禍にあって、この禊の場であるはずの手水舎に異変が起こっていたのです。

手水舎 手水舎 - 拡大

ごく普通の手水舎ですが、その柱に何やら紙が貼られています。
近寄ってみてみると、「⇒ 流水手水」と。
……なんですかね、手水舎とは別に用意された“流水手水”、聞いたことないですが。
行ってみます。

臨時の手水…樋? 臨時の手水…樋の様子

そこにあったのは、参道に沿って設置された、竹で作られた柵のようなもの。
もっとよく観察してみましょう。

臨時の手水…樋? 拡大

よく見ると、竹の節のあたりから、細く水が出ているの、分かりますでしょうか。
その水が、柵の補強材を濡らしながら、そのまま下に流されています。
どうやら、これで手をすすぎなさいということなのでしょう、
なるほど、これは確かに“流水手水”というわけです。
誰が使ったか知れないような柄杓の柄を握って手を清めるよりも、
こうして常に流れている水に手をかざすほうが衛生的ということなのでしょう。

しかし、私は少し不満です。

手水は、「柄杓を右手で持って水を満杯に汲み、その水を左手にかけて清め、
次に柄杓を左手に持ち替えて右手にも水をかけ、、、」と、
時折クイズ番組になるほど、意外とうるさい作法が設定されているもの。
つまり、定められた作法があるということは、
「好きにしていいよ」ということではないということ。
極端なことを言えば、ここは神社なので、神様の臨在を意識し、
そのうえで作法が定められているということです。

なので、まず、チョロチョロ出る水で手を濡らしたらOKというのは、
ちょっとインスタントで、威厳に欠けるかなぁと思うのです。

しかし、このコロナ禍にあっては、それも致し方ないではないか、
どうしたら安心して手水を使ってもらえるか、これは神社による渾身のアイデアなのだ、
その取り組みをこそ褒めるべきではないのか、と、
いまどきは、そういうバッシングを受けそうな気もします。

しかし、私は少し不満です。

なぜなら、ここは神社。
神社というのは、八百万の神々に対し、平素からの恩恵への感謝を奉じ、
自らの精進の誓いと、日本の安寧を乞い願う場所ですよね。
そういう場であればこそ、
柄杓の柄を触るのに躊躇するような凡夫に対し、
「おい、しっかりせんか!」と、
神様(すなわち神社側)から一喝があってもよかったし、
それこそが神社に期待されている機能であるような気すらします。
つまり、見えもしない微生物に右往左往するのではなく、
希望を抱いて、しっかり信念をもって生きよ
、と、
そういうことを教えてほしいのです。

まぁ、簡単に言えば、神社ともあろうものが、
コロナに右往左往する凡夫に負けて、
手水舎の設えを変えてるんじゃないよ、という話です。

[SE;KICHI]
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お墓どうしよう・・・

しばらく前になりますが、
営農組合の仕事で除草剤を散布してまわっていた時のことです。

墓地周辺にきた時に私が「お墓も直さないとな~」と発言したところ、
私よりも若いのですが子どもは一人っ子で、
すでに東京の方で就職した我が家と同じ状態のお父さんが、
「お墓をなくすことを考えている」と。

衝撃でした。

建て直すお金を使うなら、
なくして永代供養をお願いした方が安いのではないか?
もう息子が帰ってきて一緒に住むこともないだろうし、
富山にお墓があって管理の負担をかけるのも考えものだからと…
なるほど確かに。
我が家の息子も東京での就職が決まり、
富山に居を構えることはないだろうと思うとその方が良いと、
残り人生の宿題が一つ片付いた気持ちになりました。

私自身であれば、
お墓に入るとか現在はどうでもいいと思っているので、
遺骨は捨ててもらってもいいくらいです。
簡単に捨てる訳にはいかないでしょうが、あくまでも気持ちとして。

早朝から営農組合の仕事をしながらだったので、
なおさらそのように思ってしまいます。
自分もやりたくないと思っている農作業を息子にさせようとも思いませんし、
彼の頭の中にもないと思うので、負担になることはと思っています。 

そういえばそんな話を面と向かってしたことはなかったかも。
そういった話をゆっくりできたらいいなと思います。

[WA]

地味な目論見

小さい頃から体が硬く、このまま歳をとると大変な事になると思い、
2年ほど前から下半身を中心にストレッチを始めました。
一時、怠け心から中断していましたが今は毎日朝晩欠かさずやっています。

最初は前屈をしても指先が床から10cm以上離れている状態でした。
そして今でも床に届く手前ぐらいです。
届いてないんかい!とツッコまれそうですが、
私も最初は毎日やっていれば、
そのうち手のひらがベッタリつくイメージを持っていました。
しかし、私のやり方が良くないのか、そうではない事がわかりました。
それでも今が1番体が柔らかいです。

以前は運動をすると、
股関節のあたりが筋肉痛のように痛くなっていたのですが、
毎日股関節を伸ばしていると、
少しくらいの運動では痛くなることがなくなりました。
また、腰が痛くなることもほぼなくなりましたので、
体を柔らかくすることは血行も良くなり、
かなり良い効果があるのだと思います。


この調子で今の状態を維持していけば、
今後、老人になった時に、
同じ世代の周りの人達は徐々に体が硬くなっていくはずで、
自分はその時になって、
ようやく体が柔らかい人になれるのではないかと目論んでいます。
ただし、老人にしてはですが。

その前に、それまで続くかどうかの問題もありましたね。

[KAZSOU]

脈々と護られてきた私たち。

大東亜戦争が始まって3年目の1944年、沖縄には圧倒的な米軍包囲網が迫っていました。
この窮地を救うべく派遣されたのが、有名な牛島満陸軍中将でした。
牛島中将は部下たちには父親のように接し、
ときには壕を掘る県民たちに混ざって作業するなど、
偉ぶらず、誰に対しても慈悲深く接する人でした。
このような牛島中将の姿は、軍と県民の結束を強め、
両者の間には強い絆が生まれたと言います。

牛島中将は、一人でも多くの県民を疎開させることに心血を注ぎました。
しかし、米軍の攻撃が激しさを増すなかでの疎開は容易ではなく、
疎開する子供たちを乗せた貨物船「対馬丸」が攻撃を受けて沈没するなど、
遺族らから激しい非難を浴びることも多くありました。
それでも牛島中将は、県民を戦闘に巻き込まないよう疎開を進め、
最終的に8万人以上を県外に逃すことに成功したのです。

1945年3月には、いよいよ米軍上陸の空気が漂ってきますが、
牛島中将は息子に向けて、
「われわれがここで敗れることは、ただちに日本の滅亡を意味する。
敗戦後の日本は、何びとも想像することのできぬ世の中に一変するであろう」と綴り、
米軍の上陸を迎え撃つ覚悟を決めました。
そして、4月1日、ついに米軍は沖縄本島に上陸します。

その5日後、山口県から、
「海上特攻隊」として、戦艦大和を含む艦艇10隻が沖縄に向け出撃します。
なんと、大和を沖縄の浜辺でわざと座礁させて砲台にし、
乗組員は陸上戦を援護するという作戦でした。
航空機の護衛もなく、片道分の燃料だけしか積んでいない大和の乗組員たちは、
生きては帰れないと知っていながら、
君が代を歌い、故郷に帽子を振って出撃したわけですが、
ご存じのように、出撃後まもなくから、一隻また一隻と沈められていきます。

そして、出撃の翌日には、鹿児島県坊ノ岬沖で大和も猛攻を受けて横転。
最後を悟った伊藤整一海軍中将は、
部下の一人ひとりに答礼し、長官室の扉を固く閉ざします。
航海長は羅針盤に体を縛り付け、暗号士は重要書類を抱きかかえ、
大和とともに轟沈しました。

そのころ沖縄では、冒頭の牛島中将率いる陸軍が、
少しでも本土決戦を遅らせるため、徹底抗戦を行なっていました。
そのため、米軍は1ヶ月で沖縄を攻略する予定でしたが、
1ヶ月で5kmしか進軍できませんでした。
まるで、今般のウクライナのようです。

しかし、米軍の圧倒的な兵力により、徐々に防衛線は突破され、
ついに弾も食糧も尽きた6月18日の夕方、牛島中将は最後の電報を送ります。
「矢弾尽き 天地染めて散るとても
魂還り魂還り 皇国護らん」
と。
23日、摩文仁の丘で牛島中将は自決し、沖縄戦は終結しました。
私は、沖縄に行っても水族館も国際通りも行きませんが、
摩文仁の丘には必ず参ります。

ところで、その後も戦い続けた部隊もありました。
24歳の伊東孝一大尉率いる部隊は、疲弊しきったなか、
日の当たらない洞窟で、昼間は米軍の掃討をかいくぐり、
夜は芋を掘って命を繋ぎ、終戦の日まで耐え抜いたのでした。
私は、10年くらい前に伊東大尉からお話をお聞きする機会があったのですが、
当時の行動の動機は、沖縄を守りたい一心であったとおっしゃられていました。
それは、沖縄の人々のためであり、日本国民のためだった、と。

多くの軍人が日本を守ろうと決死で戦ったのです。
1000人以上が出撃した特攻隊も、約300隻の米軍艦船を沈めたと言われており、
決してムダ死になどではなかったはず。

また、日本軍とともに沖縄県民も勇敢に戦ったわけで、
劣勢になっても士気を下とさない沖縄県民は、米軍を驚愕させたと聞きます。
沖縄県民から深く慕われた大田実海軍少将は、
自決直前、沖縄戦の惨状と、県民の献身的な戦いぶりを綴り、
海軍次官に「沖縄県民 斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と電文を送っています。

沖縄戦では、約10万人の日本の軍人とともに、約10万人の沖縄県民の命が失われました。
その被害は甚大で、確かに悲劇だったかもしれません。
しかし、そこには、沖縄を愛し、
守るために戦った人たちの大和の心があったのだと、
信じてやみません。

さて、今年も終戦記念日がやってきます。

[SE;KICHI]

宇喜多秀規

『宇喜多』といえば、ほぼ一択で「宇喜多秀家」ですわね。

戦国武将・宇喜多秀家といえば、
その妻となった豪姫は、豊臣秀吉が大切に育てた幼女です。
秀吉は、晩年になって側室・淀君との間に子供が生まれるものの、
正室・ねねとの間には子ができず、
親友の前田利家から、生まれたばかりの彼の四女を幼女に迎えました。
秀吉とねねの夫婦は、豪姫を、それはもう溺愛して育てたそうです。
権力者・秀吉の養女ですから、
大名から「わが息子の相手に…」と、多くの縁談が持ち込まれたそうですが、
秀吉はなかなか首を縦に振らず、
最終的に秀吉が豪姫の夫に選んだのは宇喜多秀家でした。
宇喜多秀家は、岡山を拠点とする宇喜多家の嫡男でしたが、
幼い頃に父を亡くしたので、秀吉に預けられていたという人物です。
秀吉は秀家を養子扱いの厚遇とし、彼に帝王学を授けました。
秀家もこれに応え、本能寺の変以降の天下取りの戦いに大いに貢献し、
秀吉の天下統一後は57万石を知行する大大名に躍進したという人物です。

秀吉は秀家を愛し、そして、自らが溺愛する豪姫を与えたのです。
秀家と豪姫は、いわゆる政略結婚でしたが、互いに深く愛し合っていました。

そして運命の時。
秀吉の死後、いろいろあって関ヶ原の戦いが起こります。
裏切りや調略などが横行した関ヶ原の戦いですが、
秀吉に大切に育てられてきた秀家は、迷うことなく豊臣方に味方します。
宇喜多秀家は、西軍の主力として奮戦しますが、
みなさんご存じのとおり、残念ながら西軍は裏切り者が続出して敗走。
そして、戦後処理で、宇喜多家は取り潰しとなり、
秀家に科されたのは、息子2人とともに、八丈島への流罪。
妻の豪姫は実家である加賀の前田家に引き取られます。

豪姫は自分も八丈島に流されたいと願い出ますが、許されず、
愛し合っていたこの夫婦は、
これきり会えることはありませんでした。


八丈島に流された秀家親子の生活は困窮したことでしょう。
絶海の孤島で、慣れない畑仕事や漁師のマネなど、何でもやったでしょうが、
もともと大名だった人物ですから、どうせ、うまくやれなかったに違いありません。
そこを支えたのが豪姫でした。
前田家を通じ、八丈島で暮らす彼らの支援を申し出て、
自分が60歳で亡くなるまで、白米70俵をはじめとする生活支援を行っています。
夫婦は再会できませんでしたから、神様も意地悪なものだと思わなくもないですが、
遠く離れた家族の無事を願う豪姫の祈りは、実は意外な部分で聞き届けられていて、
彼女が生涯をかけて愛した夫・秀家は、関ヶ原に参戦した誰よりも長命で、
八丈島で50年も過ごし、83歳まで生きました。

宇喜多家の流罪が説かれたのは260年後の明治2年。
翌明治3年に、宇喜多一族は船で八丈島を離れます。
この時の船を用意したのも前田家でした。
そして前田家は、八丈島から東京に引き上げた宇喜多一族に対して、
東京で住まう屋敷と、生活費のすべてを負担しました。
すごくないですか。
実は、豪姫が亡くなって、夫の秀家が八丈島で没してからも、
前田家からの物資援助は途切れておらず、
260年も欠かさず、宇喜多一族へ届けられていたのです。
すごいですよね。
豪姫の遺志が、きちんと末代まで継承されていたということです。

さて、タイトルの宇喜多秀規。
この人物は誰でしょうか。
この人物は、宇喜多秀家と豪姫……ではなく、
宇喜多秀家と奥女中の“お鮮”との間に、大坂備前屋敷で生まれた庶子です。
1594年生まれですから、1606年に父・秀家が配流となった時点では、まだ12歳。

これはあくまで伝承ですが、
この宇喜多秀規を、正室である豪姫が守ったという説があるのです。
それもすごくないですか。
豪姫、罪人となった夫を恋慕するだけでなく、その隠し子すら慈しむという。

さて。
私どもが拠点を持つ富山市には、「浮田家住宅」という文化財があります。
加賀藩役宅として、江戸時代中期の豪農民家の建築様式を残す建造物ですが、
この浮田家は、当時の田舎の代官としては破格の三千石を与えられています。
実は、先述の宇喜多秀規が、罪人の子ということで少し人目をはばかられる面もあり、
前田家から隣の越中の国(富山県)に逃がされ、
この家を興したという伝承があるのです。
“宇喜多”を名乗るのもアレなんで、“浮田”を名乗って。
破格の三千石は養育のための費用でしょうか。
そして、幕府をはばかり正式に八丈島と通信連絡することができなかった前田家は、
この浮田家を使って八丈島へ米などを送っていたと言います。

おお、宇喜多秀家と富山、つながった。
それがどうしたということもないのですが、
500kmを隔てた夫婦の恋物語に地元が噛んでいるなんて、なんか、ロマンチックですよね。

私たちは、流罪はありませんが、
マスクをしたりディスタンスをとって人付き合いをしているうちに、
心の距離も離れてしまっているようです。
ちょっとのことで互いを攻撃したり批判したり。
500kmを隔ててもお互いを思い合っていた夫婦に、
いまこそ学ぶべきではないかとも思うのです。


[SE;KICHI]
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kkseishin

Author:kkseishin
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