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富山と長崎の縁

同僚のFさんは長崎の異国情緒が好きだと言います。
みなさんは、長崎といえば何を連想されますでしょうか。

長崎といえば、潜伏キリシタン関連遺産の世界文化遺産登録が決定し、
今年の長崎は祝福ムードでしょう。
これは、弾圧を受けながらも、隠れキリシタンなどの形で信仰を隠し、
必死に守ってきた歴史が世界に求められたことになるわけで、
そりゃ、喜びもひとしおでしょうね。
そうそう、喜びというか慶事といえば、
6月のコンチストーロ(公開枢機卿会議)で、
隠れキリシタンのひ孫にあたる長崎出身の前田万葉大司教が、
日本人として10年ぶりに枢機卿に任命されましたね。
ますます今年の長崎は祝福ムードでしょう。
私も、前田万葉師が大阪の大司教として着座される前、
広島の幟町教会という、ものすごく斬新な外観の教会で、
お話をお聞きする機会があったので、今回の抜擢を嬉しく思いました。

さて、突然ですが、カトリック富山教会。
正式な教会堂名は、“聖母の汚れなきみ心”教会堂だそうです。
(あまり知られていませんが、教会というのは、たいがいこういうネーミングになっているものです。)
聖母マリアの汚れなきみ心というのはカトリック教会における信心業の一つですが、
全人類を思いやる心といったマリアの内的生活を言い表す呼び方ですね。

カトリック富山教会

この教会の前には『浦上キリシタン流配の地』石碑が置かれています。
「明治2年12月、長崎の浦上村のキリシタン三千余名が捕縛され、
富山藩など全国20の藩に流配された」と書かれています。
いやぁ、知らないことというものは、あるものです。
私は、そのようなことがあったことを、この教会を訪れるまで知りませんでした。

「富山藩の預かったキリシタン42名は、浄土真宗の29の寺院に預けられ、
15歳以上の者は、首に犬のように“鉄ののど輪”をかけられ、
改宗するよう迫害を受けた」とのこと。
いや、明治2年って、1869年ですので、わりと最近のことのように感じるのですが、
首に犬のように“鉄ののど輪”って、そんな野蛮な。
こういう非人道的な話題が身近にあったことに衝撃を受けます。
最初は現在の富山市大沢野の温泉に収容されていたようですが、ちっとも改宗の気配がないので、家族をバラバラにして寺院に収容し、首輪をつけたようです。

カトリック富山教会が1994年に刊行した、
創立百周年記念誌というのを取り寄せて読んでみたところ、
あたりまえのことですが、
「重次郎 35歳、妻・キク 33歳、長女・さき 15歳、次女・とめ 4歳」という具合に、
“キリシタン42名”という表現を越えて、それぞれに個性があり、
たとえば、明治3年6月7日に重次郎が迫害の末に棄教したとか、
記録が残されています。
ただ、敬虔な信徒であった重次郎が、迫害されたとはいえ、棄教するのは不自然で、
これは、おそらく懐妊中であった妻・キクの出産予定日が近づくなか、
最愛の妻に寄り添いたいと願う重次郎に、
役人側が「改心したら会わせてやるぞ」と持ち掛けたからに違いないでしょう。
しかし、明治3年6月20日、キクは難産のため赤ちゃんと一緒に絶命してしまい、
6月22日には長沢(富山市婦中町)の焼き場に葬られます。
このように、それぞれのキリシタンの方に焦点を当てると、
それぞれにドラマのあったことが、臨場感を持って迫ってきます。

しかし、そんな非人道的な迫害が諸外国の厳しい非難を受けたため、
キリシタンは富山藩の鈴木家老の屋敷に全員まとめて移され、
1ヶ月間、神道の講義を聴かされたのだそうです。
その屋敷を、1814年に名古屋の宣教師が購入し、教会としたのが、
現在のカトリック富山教会のはじまりなのだそうで、
つまり、現在の富山のカトリックの繁栄は、
浦上キリシタンの尊い犠牲のうえに成り立っているということですね。
いやぁ、知らないことというものは、あるものです。

カトリック富山教会内部

現在の富山教会は、富山の中心部にありながらも、静かで穏やかなものです。
2013年に献堂50周年を迎えていますが、
現在の聖堂の祭壇の彫刻装飾に、旧聖堂で使われていた、
60年ほど前の主任司祭・ワイペルト師の作品がそのまま使われており、
先人の働きを大切にしていることが感じられます。

ところで、使徒パウロがコリントの教会への手紙で、
あなたがたは神の建物なのです。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、
神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか

と言っています(Iコリント3・9、16~17)が、
これは、「どんな人でも内面に神(仏)を宿しているのだ、争ってはならぬ」という、
仏教でいうところの“山川草木悉有仏性”の教えだと私は理解しています。
私は別に信徒ではありませんが、綺麗に清められた教会を見ると、
私たち自身が、神の宿る教会であり、
人によっては、寺であり、神社であるのだなぁと、感慨深く思います。
そして、殉教してしまったキクは、人間の一生としては不遇だったかもしれませんが、
神を宿す「器」としては幸せだったかもしれない、
いや、むしろ、そうであってほしいと思うのです。

私たちも、あまり殉教の心配をする必要のない毎日を暮らしていますが、
自分の仏性を尊重する立場から自己卑下はあってはならないし、
相手の仏性を尊重する立場から不誠実な態度もあってはならないと思います。
自他は等しく尊いものと観じ、
それを意識して、自らを戒め、心穏やかに生きていきたいものです。

ところで、カトリックにまつわる動きといえば、
このところ、香港の陳日君枢機卿がすごく怒っていますが、
法王がベネディクト16世からフランシスコに変わってからの、
ここ数年の路線変更はどうしたことでしょうか。
ガバナンスに難があるような気がするのですが……それは別の話ですかね。

[SE;KICHI]
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恒性皇子の痕跡

先日、弊社の K.K さんと、彼の運転で出かけたのですが、
途中で寄り道するように連れていかれたのが、恒性皇子御墓

恒性皇子御墓遠景

この恒性皇子御墓は、富山県内で唯一の宮内庁治定陵墓なので、
富山県民なら、聞いたことくらいはあるだろう(←本当か。)と思っているのですが、
仕事中に同僚の運転で連れてこられるとは・・・・・・。

K.K さんは、墓にしろ城にしろ、それを造営した人の心情に興味があるみたいで、
たとえば、恒性皇子御墓の場合であれば、被葬者である恒性皇子というよりは、
遺された人々がどんな気持ちで墓を作ったのか、
そういう、人々の心情のほうに思いを馳せるのだと言います。
私はといえば、遺された人々の心情にも少しは関心はあるのですが、
基本的に、以前紹介したとおり被葬者に感情移入するタイプなので、、
恒性皇子御墓の場合、私は700年近くここで眠る恒性皇子になりきって、
周囲の情景の変化に栄枯盛衰というか、
諸行無常を感じるのです。

恒性皇子は、第96代後醍醐天皇の皇子です。
当時は北条氏が権勢をふるっていた時代で、
父の後醍醐天皇は、天皇という立場ではありましたが、
何から何まで北条氏の支配を受けなければいけない状況でした。
天皇家の皇位継承すら思うようにできないことに憤った彼は、
政治を朝廷に取り戻そうと考えた末、幕府に反旗を翻したのです。(元弘の変)
しかし、圧倒的な武力を持つ幕府軍に勝てるはずもなく、
あっさり捕らえられた後醍醐天皇は隠岐の島に流されました。
そのころ、息子である恒性皇子は、僧として修行をしていたようで、
この騒ぎにはいっこうに関係はなかったようなのですが、
連座というか、“父が憎けりゃ子も憎い”ということで、還俗させられ、
越中国射水郡二塚(現在の富山県高岡市二塚)に流されました。

この親子、そのままおとなしくしていれば何事も起こらなかったものを、
なんと、隠岐の島に流された後醍醐天皇は、1年後に脱出し、
鳥取県の船上山で倒幕の兵を挙げます。
これを追討するために幕府から派遣されたのが、みなさんご存知の足利尊氏ですが、
この足利尊氏は、どういうわけか寝返って後醍醐天皇に味方し、
幕府側の拠点である六波羅探題を攻め始めます。
それに危機感を抱いた執権・北条高時は、
北陸にいる恒性皇子が挙兵して足利尊氏に合流しないように、
越中守護・名越時有に恒性皇子の殺害を命じます。
こうして、恒性皇子は28年の生涯を閉じたわけです。

いや、その時代にはありがちなことではあるのですが、
なんとなく、つまらない人生のような気がします。


さて、越中国射水郡二塚に流刑になった恒性皇子は、
悪皇子宮という屋敷を立ててもらって、そこに幽閉されました。
皇子の死後、村人らが皇子を偲び、
悪皇子宮のあった場所に神社を建てたということで、
それが、現在も気多社として残っています。
ちなみに、“悪皇子”ってなんというネーミングか…と思うかもしれませんが、
“悪皇子”というのは「悪い皇子」という意味ではなく、
当時の言葉で「特別な力を持った皇子」という意味です。
このネーミングや、死後に神社を建立してもらえたことを考え併せると、
この恒性皇子、中央から流刑でやってきた罪人でありながら、
流刑地の地元では、尊敬され、慕われていたのではないかと想像できます。

気多社 悪皇子宮(気多社)

幽閉とはいうものの、別に牢屋に閉じ込められているわけではないので、
恒性皇子は称名寺というお寺で写経などの静かな日を送っていたそうです。
することがないとはいえ、
還俗させられたのに、なお、写経に励んでいたということですから、
本心は、やはり仏の道に進みたいという意志があったのでしょう。
この称名寺は、現在、称名山浄誓寺として残っており、
山門前に、恒性皇子と同時に殺害された侍従3人(日野直道、勧修寺家重、近江宗康)を慰霊する、
「扈従三朝臣慰霊碑(こしょうさんあそんいれいひ)」というのが建っています。
もちろん、これも恒性皇子が建てたものではなく、
地域住民の手によるものでしょうから、
やはり、慕われていたことが伺われます。

三朝臣慰霊碑

他には、「皇子三昧(みこざんまい)」という碑が、
恒性皇子御墓の2キロちょっと南にあります。
古く、“三昧”という言葉には火葬場という意味がありますが、
この場所は、さきほどの悪王子宮(気多社)からも離れていて、
集落のはずれ、田園に囲まれた川に近いところで、
一般家庭の墓が15基ほど並んでいる墓地の一角です。
おそらく、ここがこの地域の火葬場所だったのでしょうが、
一国の皇子である人物が庶民のように火葬されたということに、
衝撃を禁じえません。
火葬されるほうも火葬するほうも、どんな気持ちだったのでしょうか。
ただ、火葬した場所とは別に陵墓が用意された点からは、
被葬者への一定の敬意が感じられます。

皇子三昧

ちなみに、さきほど、恒性皇子と同時に殺害された3人の侍従について触れましたが、
死後、その首を晒された、恒性皇子御墓の近くの太刀城跡にも、
「三ケ首」という碑が建てられています。

三ケ首

どうでしょうか。
被葬者に感情移入するタイプといいながら、
K.K さんばりに、本人死後に遺されたものばかり紹介してしまいましたが、
考えてみたら、本人の生前の人望が、そのような建造物につながるわけで、
被葬者の人柄と、祀る側の心情は不離一体なのかもしれません。

さて、、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇の挙兵・倒幕は成功します。
恒性皇子が殺害された一週間後に鎌倉幕府は滅亡し、
殺害した越中守護・名越氏の一族も滅びました。
そして、死んだ恒性皇子の弟にあたる護良親王が、新たに征夷大将軍となりました。
歴史に if はないのですが、
恒性皇子があと一週間生きていたら・・・。
征夷大将軍にはならなかったとしても、流刑になったこの地で、
村人に慕われ、愛されながら一生を過ごせたいのはないかと思い、
私は切ない、寂しい気持ちになるのです。

恒性皇子御墓

[SE;KICHI]

和のおもてなし

先日ある集まりがあり、私はそこへ来られるゲストをもてなす役目を頂きました。
一緒にもてなすメンバーに茶道具屋さんや着物屋さんがおられましたので、
どうせならゲストの方々を着物を着てお茶でおもてなししようということになり、
私は生まれて初めて着物を着る機会を得ました。

前から一度着てみたかったので、すごく着るのが楽しみで気分が上がりました。
当日になり、着付けをしてもらい鏡を見ると、我ながらなかなかの男前で、
まわりの皆さんにも良く似合っていると言われ、
すっかり舞い上がった私はその気になって自然と背筋が伸びました。

和のおもてなし

そしてゲストが来られる前に、お茶の作法の手ほどきを受けました。
お菓子を出す時の向きであったり、お茶碗の柄ごとの向きなど、
ひと通りの事を短時間で教わりました。
初めてのことでしたので、とても新鮮で面白かったです。
ただし、お茶碗が何と、
どれも一個十万円を下らないから気を付けるようにと茶道具屋さんから言われ、
さすがに肝を冷やしました。

それを聞いてからは、実際お茶の持ち運びをする時は作法よりも茶碗が気になり、
人の後ろを通る時には、後ろを通りますとしっかり声をかけて、
ぶつからないように慎重に運びました。

そうこうしながら無事に終わり、ゲストの方々皆さんにとても喜んで頂き、
素晴らしいおもてなしをありがとうとまで言って頂きましたし、私も十分に楽しみました。

実際にやってみた感想は、
お茶は作法や道具からして、
なんて優雅で贅沢な遊びなんだろうと思いました。
私はほんのさわり程度の体験でしたが、
戦国の武将たちがあの時代だからこそ、
深くお茶を楽しみ重んじたのではないかと何となく感じることができました。

着物を着ている時間は4時間程でしたが、
着慣れないものですからずいぶん疲れました。
着物屋さんからは、すごく似合うし、
大人の男のたしなみとして一着ぐらい着物を持つように言われましたが、
今のところ次に着る機会がないので、あやふやな返事をしておきました。
どうせ買うなら自分で着れるようにしたいし、
お茶を始めるなど着物を着る機会を作りたいですからね。
そうなると一着では物足りなくなるような気もしますし、
道具も一式揃えることになるんですかねえ。
うーん、やっぱり贅沢ですね。

[M M]

“おもてなし”のジレンマ

少し前、ちょっとそそのかされて講習やら試験やらを受け、
“おもてなしエキスパート”という称号をいただく機会がありました。
その試験は運転免許の学科試験くらい簡単なのですが、
試験とは別に、改めて“おもてなし”について考えてみると、
意外と奥が深いというか、ジレンマを抱えているような気がします。

これまた少し前、さりげなく台湾に行ってきたのですが、
現地でランチを食べようと寄った屋台みたいな横丁でのこと。
そこのレストランでは、ランチのセットということで、
A~C の3つから好きなメイン料理を選べるようになっていて、
私は、A の菜脯蛋(切干し大根入り卵焼き)にするか、
B の蔭鼓蚵仔(牡蠣のモロミ炒め)にするか、
けっこう悩んだ末に、B の牡蠣を選びました。
ほどなく運ばれてきた牡蠣は確かにおいしいものでした。
しかし、私は、選ばなかった A の卵焼きが気になって仕方ありません。
長い滞在ならまた今度にしようと思ったかもしれませんが、
そのときの滞在期間はたったの2日だったので、
私は店員さんを呼び、思い切って言ってみました。
そっちも食べたい、と。

というのも、周囲で食事をしている台湾人を見ていると、
たとえば「このおかず、おいしいからもっとくれ」とか、
「これは口に合わないから減らしてちょうだい」とか、
食べている最中に店員さんを呼び、
意外と好き勝手に何か要望している感じがしたのです。
呼ばれた店員さんも、それを増やしたり減らしたり、
お客さんの要求に応えている感じだったので、
もしかしたら、頼めばどうにかしてくれるシステムなのかもしれないと思い、
勇気を出して A の卵焼きも食べたいのだと言ってみたわけです。

結果、どうだったか。
店員さんは私に「OK!」と言い、私の前に空の皿を置いてから、
いったん厨房に去ったあと、鍋を抱えて再び現れ、私に言いました。
「どれくらい入れましょうか」と。
店員さんは私の指示通りの量の卵焼きを皿に盛りつけ、
そしてさらに、こう言うのです。
「C の客家小炒(豚肉と堅豆腐の炒め)もおいしいよ。要るかい?」と。

つまり、ちょっと欲しがった A の卵焼きを気前よくもらえたばかりか、
C の豚肉の炒め物もくれるというのです。
しかも、その分の追加料金などはいらないと言うではないですか。
日本ではどうでしょうか。
まず、B のセットを注文しておきながら、A のおかずも欲しいと申し出たところで、
おそらく「そういうのはちょっと・・・」と断られるのがオチでしょう。
それでも、どうしても食べたければ、
その分の追加料金を支払うからと食い下がるかもしれませんが、
「すいません、そういうのはやってないんで・・・」と言われるに違いありません。
おそらく、そういうイレギュラーはマニュアルに載ってないのでしょう、
マニュアルに載っていないことは不可ということですね。

これは、店側の都合ですよね。
そのおかずが、そこにないわけではないでしょう。
提供している以上、そこには必ずあるはずです。
しかし、それを提供できないというのは、
提供できないのではなく、店側の都合で、提供しないということです。

もちろん、私も組織で働く人間ですので、
ガバナンスというか、マネジメントの観点から、
顧客からの妙な要求に全部応じていたら収拾がつかぬというのは分かります。
そして、そのことが、日本の社会のなかで、
ある程度の正当性を持っているということも知っています。
そのうえで、私が言いたいのは、
日本ってそんなもんだということです。

近年、日本の“おもてなし”は丁寧で立派だと喧伝されていますが、
それは果たして本当でしょうか。
たとえば、テレビの「老舗旅館の美人女将特集」などを見ていると、
朝は早くからお客を送り出し、車が見えなくなるまで頭を下げ、
昼間は小走りで、料理を試食したり、花をいけ替えたりと休みなく、
夕方は新たなお客が到着するのを、玄関でお出迎え、
夕食時は各部屋を回って「女将でございます」と挨拶してみたり。
それを見ると、女将というのは忙しい仕事なのだなと思うのですが、
私には、その、女将が繰り出すサービスが、
顧客のニーズに合っていないこともあるのではないかと思えるのです。

多様性の時代ですから、顧客のニーズなんて、様々。
たとえば、夕食なんて半裸でテキトーに食べたいときもあるでしょう。
そういうとき、女将によるお部屋訪問は迷惑千万です。
もちろん、そんなの一律にやめちまえという乱暴な話ではありませんが、
いろいろなタイプのお客が来るでしょうから、
紋切り型の接客はベストではないはずです。
私も、宿泊先の温泉旅館のおもてなしの一環ということで、
女将手作りだというサシェをいただいたことがありますが、
それは果たして、顧客(私)のニーズを汲み取ったサービスなのでしょうか。
私がそれを喜びそうに見えたとでもいうのでしょうか。

そういう意味で、日本の“おもてなし”は繊細で丁寧で立派だと、
日本人としての誇りとともに紹介されたりしていますが、
それは、ちょっと贔屓目ではないかと思うのです。
少なくとも、欲しがってもいないサシェをお客に渡すことが、
繊細なおもてなしであるとは、私にはちょっと思えません。
それよりも、欲しがっているお客に欲しがっているものを与え、
「なんならもっといるかい?」と気さくに尋ねる、小汚い台湾の屋台のほうが、
よっぽど顧客本位というか、お客のニーズに寄り添っている感じがします。

上品で高級感あふれた演出が“おもてなし”でもないだろうと、思うのです。
そういう意味で、サービスが独りよがりになっていないか
それが本当に顧客のニーズを捉えているのか、
けっこう重要なポイントかもしれません。

[SE;KICHI]

もん

家紋ってカッコいいよねとこのブログに書いたのも、もう4年前。

家紋というのは、元の図案は何かというと、花鳥風月です。
私は、たとえば、この時季、桜が咲こうが雀が鳴こうが関心はないのですが、
一方で、この、花鳥風月をアイコンにしようとした昔の人のセンスには、
ものすごく感銘を受けるのです。

たとえば、春。
子供の頃は母に連れられ、桜を見に造幣局の通り抜けなどに行ったものですが、
暖かくなって、咲き誇るのはだけではなく、
土手などに行くと水仙カタバミが一面を覆い、
空中にはゆらゆらとが舞い、地面にはオシドリが歩いています。
縁の下にはムカデなど、生命がうごめく季節。
流れる川の白波を横目にまったり、知恵の輪なんかで遊んでいたら、
ややっ、イノシシが飛び出てきた、カマを振って応戦しなければ・・・と、
こういう場面を、昔の人はすべて紋で表現したわけです。
そのデザイン能力、凄いですよね。

桜 水仙 片喰 揚羽蝶 対い鴛鴦の丸
百足 丸に浪 金輪崩し 丸に猪 一つ鎌
https://www.benricho.org/kamon/database/csv_search.cgi
左上から「桜」、「水仙」、「片喰」、「揚羽蝶」、「対い鴛鴦の丸」、
左下から「百足」、「丸に浪」、「金輪崩し」、「丸に猪」、「一つ鎌」


そして、ここからが本当に驚くところなのですが、
これら家紋は、コンパスと定規のみ、
つまり、円と線だけで描かれているのです。
もう、ただただ、凄いですよね。

ところで、現在、富山県美術館では、『デザインあ』展を絶賛開催中です。

『デザインあ』展

デザインあ』というのは、
教育テレビの番組で、私たちの身の回りに当たり前に存在しているモノを、
デザインの視点から見つめ直し、斬新な映像手法と音楽で表現する番組です。
土曜の朝に15分、平日の朝に5分放送されるだけの、知る人ぞ知る番組なのですが、
実は私、桜が咲こうが雀が鳴こうが、自然のものに関心はない代わりに、
人が介在するデザインなどのような分野にはかなり関心があり、
この『デザインあ』展、開幕以来、何度も通っています。

『デザインあ』展示

さて、そこで、再び家紋の話なのですが、
この『デザインあ』では、紋もデザインということで、かなり特集されているのです。
 公式 ⇒ http://www.nhk.or.jp/design-ah/mon/
もともとがテレビ番組ですので、
今回の展示でも円と線から家紋が書かれていくところが動画で見ることができ、
すっごい感動します。
というか、最初に行った日、私は泣いてしまいましたよ。


この『デザインあ』展では、コンパスを使って紋を作る体験ができます。

紋の製作

これは、ヨダレが出てしまいそうな、稀有な体験です。
台紙が用意されているので、指示通りの半径にコンパスを広げ、
指示通りの場所にコンパスの針を刺して円を描きます。
今回は「雁金」、「梅」、「三つ巴」、「瓢」の4種類を体験できますが、
だいたい、多くても6つの円を描けば形になる感じです。

雁金 梅の花 左三つ巴 丸に一つ瓢
https://www.benricho.org/kamon/database/csv_search.cgi

実際にやってみると、その計算された造形に驚きます。
今回は小さい円の交わりで作ることのできるデザインでしたが、
場合によっては、大きな円の弧の一部だけ使う場合もあって、
その場合はコンパスの中心がエリアの外に出るようなこともあって、
いや、本当に、その計算されたデザイン性に驚きます。
たとえば、三つ巴であれば、こんな感じです。(オフィシャルブックより) ←買っちゃったのか。

三つ巴 書き方

凄さ、伝わってますかね?

たとえば千鳥という、鳥の形の紋を書こうとするときでも、
円を組み合わせて輪郭を描いてるんですよ。

千鳥 書き方

さあ。
富山県美術館での『デザインあ』展は5月20日までです。
少しでも関心がおありの方は足をお運びください。
しょっちゅう来館している私に会ってしまうかもしれませんけど。
ちなみに、ミュージアムショップに家紋のTシャツなどを売っていなかったのは、
際限なく買いそうな私にとって、せめてもの救いでした。

[SE;KICHI]
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kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
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■新潟営業所/
〒950-1142
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