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「水増す雨の」

梅雨ですね。
花粉で辛かった春も終わり、暮らしやすい時季になりました。

先日、最近知り合った20歳の女の子とメールのやり取りをしていて、
何度かメールを往復させたあと、
そのことを「なんか、文通みたいだね」と表現したところ、
「文通だなんて、年齢を感じますね」と返信されてしまいました。
あ、もう、文通なんて言うのは古いのかと、ショックを受けた27歳の私です 笑

さて、文通といえば。

その昔、平安時代の結婚というのが、
夜になると男性が好きな女性のところに通っていく、
いわゆる「通い婚」というスタイルだったというのは、それなりに有名な話ですよね。

その「通い婚」、
女性の家で一夜を過ごした男性は、
裸のまま朝までダラダラ寝ていてはいけません。
夜が明けきらぬうちに女性の家を出て帰宅するのがマナーで、
女性の家から帰った男性は、
夜が明け切ってからできるだけ早い時刻に、
「後朝の文(きぬぎぬのふみ)といって、
その女性に手紙を贈る必要がありました。

もちろん、郵便屋さんはいませんから、お手伝いさんに届けてもらうのですが、
当時、女性にとって、この手紙が届かないことは、別れを意味したので、
女性側は、ドキドキしながら手紙が届くのを待ったわけです。
『大和物語』には、「後朝の文」も届かず、数日連絡がなかったため、
捨てられたと悲観した女が出家してしまったという話が出ています。
実際には、男性は急な出張で連絡できなかっただけだったのですが、
出家されてしまっては、残念ながら、もはや後の祭り。
「後朝の文」を贈らないと大変なことになるというエピソードです。

ところで、枕草子の二七五段には、
いつも愛し合った翌朝には「後朝の文」をくれる男性が、
ある晩、何かの弾みに怒って帰ってしまったという話が書かれています。
翌朝の「後朝の文」もなかったので、
なんだか寂しいなと思いつつ、それなりに過ごしたものの、
さらに翌日の大雨の日、朝になっても昼になっても何も届かなかったので、
「あぁ、これは捨てられた」と縁側で脱力していると、
夕方になって手紙が届いて、はしゃいじゃったわというような話です。

なんか、女性の気持ちの変化が手に取るように描かれていて、
読んでいてウキウキしませんか。
いまでも、男女問わず、恋愛のハウツー本なんかでは、
「意図的に距離を置くことで惚れ直させましょう」なんていう、
ちょっとしたテクニックが指南されているそうですから、
これは現代にも通用する駆け引きと言えるでしょう。

ところで、夕方になって届いたその手紙には、
「水増す雨の」とだけ書かれていたようです。
清少納言はこの一言だけの手紙にキュンとして、
「長々と詠まれているよりステキ!」と言っていますが、
当時は、これだけで相手にどんな歌か伝わったのです。
たぶん、これは、当時の有名な歌の一節なのでしょう。
当時の教養として、有名な歌は暗記しているのが普通でしたから、
いまで言う“イントロ・ドン”みたいなもので、
「水増す雨の」と言われただけで、どの歌か相手に分かったのです。
それも、なんだか風雅で素敵だなと思いませんか。

現在、すべての歌が残っているわけではないので、
実は、この「水増す雨の」がどの歌を指すのか、分かってはいないのですが、
この分野の専門家の間では、
古今和歌集収載の紀貫之の歌を指しているのではないかと言われています。
雨が降ると水が増すように、あなたへの思いも増すよという歌で、
清少納言は、相手の気持ちを察してキュンとしているというのです。

つまり、この文通には、有名な歌は暗記していることを前提としたうえで、
その知識を駆使して、相手が何を語りかけているかまで察知しないと、
最終的にキュンとはできないわけです。
現代はLINEなどで瞬時に連絡が取れるので、
察するとか推し量るということが必要なくなりましたが、
当時は連絡手段も限られていたので、教養と感受性が大事だったのでしょう。

ところで、本当に蛇足ですが、私は、
このケースでは、雨の日に男性本人が来たのではなく、
手紙だけが届いたというのが良かったのだろうと考えています。
というのも、清少納言の雨嫌いは有名ですよね。

一般的に、当時、雨の夜に男性が女性宅を訪れるということは、
足元も悪いのにわざわざ愛情深いことだと好感を持たれていたので、
だからこそ、その好印象を狙って雨の日に女性宅を訪ねる男性も多かったのですが、
清少納言は二七四段で、雨の夜に訪れる男性はイヤと明言しています。
なぜなら、愛情が深いんじゃなくて単なる雨宿りなんじゃないの?と、
彼女は、どうも相手の好意を疑ってしまうらしいのです。
雨でずぶ濡れになってやってきて「は〜、参った参った」とかいう男、
恩着せがましくて超イヤだと言っています。
なかなかメンドクセーオンナですね、清少納言。

なので、このエピソードの男性、
雨の中を訪問することなく、手紙だけを届けたところが、
おそらく彼女の琴線に触れたのだと、私は推察しています。

しつこいですが、読んでいてウキウキしませんか。
荒天時にわざわざ通ってポイントを稼ごうとするオトコと、
まんまとそれにキュンキュンするオンナ、
一方で、そんな小技には引っかからないメンドクセーオンナと、
そんなメンドクセーオンナに絶妙な手紙を出すオトコ。
私は、毎年、大雨が降りがちなこの梅雨の時期、
当時に想いを馳せて、ほっこりするのです。

清少納言 百人一首
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/清少納言

[SE;KICHI]
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メリッサのこと。

今でこそ、サッカー好きの魔女みたいな雰囲気を醸し出している小柳ルミ子ですが、
往時は、それはそれはチャーミングだったわけですよ。
特に、慕情を駆り立てる『瀬戸の花嫁』なんて、
ヒットの要因は当時の小柳ルミ子の楚々としたルックスもあったに違いないと、
私は信じて疑っておりません。

『瀬戸の花嫁』については、
以前、JR四国の駅の列車接近メロディに採用されていると紹介しましたが、
瀬戸内海地域ではかなり思い入れを持たれている曲のようです。
この曲を知らぬ人は少ないかもしれませんが、
瀬戸内海に浮かぶ島に住む女の子が、別の島に嫁入りするという内容で、
家族との別れや、これからの新たな生活にスポットを当てた歌詞になっていて、
私なんかは、日暮れ時のオレンジ色に染まった漁村などをイメージし、
“幼い弟”の気分になって聞いていたものです。

さて。
以前、とあるご縁でブラジル大使館にうかがう機会がありました。
そこでお聞きしたのは、
この曲が、かつてブラジル移民の間で人気になっていたということ。

これは、一見、妙なことです。
瀬戸の花嫁の発売は1972年なのに対して、
ブラジル移民政策が始まったのは1908年なので、
流行るもなにも、ぜんぜん時期が一致しません。
ところが、瀬戸の花嫁の発売以降、ブラジル移民たちは、
コーヒー豆やバナナを栽培する作業中に、この曲を口ずさんでいたそうです。

というのも、瀬戸の花嫁発売の翌年・1973年に、
日本のブラジル移民政策が終了しますので、
それ以降、日本からは新しい移民はやってこないわけです。
したがって、瀬戸の花嫁は日本から届く最末期の楽曲になりますが、
政策の終了による移民たちの取り残されたような気分が、
島から島へ嫁ぐという曲の世界観に、なんとなく合ったということのようです。

ところで、1970年代というと、ブラジル移民も日系二世くらいになっていて、
必ずしも日本語を理解できる方ばかりではなかったようです。
つまり、瀬戸の花嫁が流行ったとしても、歌詞の意味は分からず、
ただ、メロディーや雰囲気から郷愁を感じ、
日本に残る有縁の方々や、祖先の墓などに想いを馳せたわけです。
歌詞云々ではなく、曲が持つ力には敬服するばかりです。

そして2019年。
みなさん、メリッサ・クニヨシという歌手を知っていますか。
日系ブラジル人の歌手で、現在16歳。
私が初めて彼女を知ったのは、
彼女が8歳の頃に出演したという、ブラジルのカラオケ番組の映像でした。


https://www.youtube.com/watch?v=1cCSLGIPiPg

彼女が歌ったのは、瀬戸の花嫁。
彼女は祖父母の鼻歌のようなものを聞いてこの曲を知ったようですが、
当時の彼女は日本語を理解しておらず、歌詞は音写だったそうです。
動画は1分22秒から貼っていますが、その前の会話も日本語ではありませんね。

しかし、どうでしょうか。
私には、情感たっぷりの歌唱のように思えます。
この時の彼女はまだ8歳ですから、
当然、移民政策初期の開墾の苦しみや、文化の違いなどへの戸惑いなど、
そういうことは経験していませんが、
彼女の歌唱を聞くと、
あぁ、おじいちゃんおばあちゃんはこの曲を大事に歌ったのだな、
移民の方々は遠い異国の地でご苦労なさったのだなと、
しみじみ思います。

瀬戸の花嫁。
私もカラオケで歌うことがありますが、
そんな郷愁は表現できない私です。

[SE;KICHI]

流行りに乗ったとかじゃなくて、昔から好きだったんだってば。

PayPay とか AmazonPay とかの利用が急拡大していて、
最近では、現金決済できない場所も出てきましたね。
経済産業省はキャッシュレス決済を推進していて、
2025年までに40~50%の決裁をキャッシュレスにする目標を打ち出しています。
もはや、キャッシュレス決済は世界の潮流といえるわけですが、
そんなときに飛び込んできたのが、5年後に新紙幣を発行する話。
このキャッシュレスの時代に新紙幣発行って、なんだか不思議な政策です。

それはそうと、新10000円札の肖像画は渋沢栄一に決まったそうです。
このブログでも、以前、ちょっとだけ名前が出たことがありますが、
近代日本経済の父・渋沢栄一は、紙幣の肖像にぴったりのような気がします。
しかし、世の中の渋沢栄一の知名度の低さときたらどうでしょうか。
失礼ながら、農業や漁業などの一次産業に携わる方に聞いたのならともかく、
経済の中枢といってもいい新橋駅前でビジネスマンに聞いたにもかかわらず、
渋沢栄一の知名度はほとんど皆無で、私は本当に驚きました。
ちなみに、弊社の Okei さんに「渋沢栄一って知ってる」と尋ねたところ、
「え? 私物は禁止? 何ですか、それ?」と言っていました。
うふふ、Okei さんの期待を裏切らない回答には恐れ入ります。

さて、決まったといえば、4月に発表された新元号「令和」です。
「令和」は、その出典が万葉集だったということで、
にわかに万葉集ブームが巻き起こりました。
20年ほど前から万葉集に興味を持って学んでいる私としても、
万葉集ブームが起こる日が来るとは思ってもいなかったので、嬉しいことです。

しかし、地味ながらも確実に起きているこのブーム、弊害もあるようで、
4月以降、富山が万葉集の故地であると聞きつけた“にわか万葉集ファン”が、
大勢で押し寄せ、歌碑などが荒らされるということが頻発するようになり、
万葉集仲間でも、手放しでは喜べないねという雰囲気になっています。
私の師匠のT先生も激怒して、自費で看板を作って設置していました。

歌碑。
繰り返しますが、富山は万葉集の故地ということもあって、
歌碑はたくさんあって、県民に親しまれています(と私は思っています)。

歌番号4017 歌番号4022

たとえば、左側の歌碑。
これは富山県射水市の放生津八幡宮というところにある歌碑です。
八幡宮ですから祭神は誉田別尊で、天皇家には関係の深い神社ですが、
746年に、越中守大伴家持が宇佐神宮から勧請したと伝えられています。
歌碑には、万葉仮名で、
安由乃風以多久吹久良志奈呉能海人農釣春流小舟己機隠留見遊」と書かれています。
万葉仮名はひらがなが発明される前の公式表記で、字自体に意味はありません。
1文字1音として、これを読み下すと、
「東風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ」、
つまり、「東風が強く吹いているらしい
奈呉の海人の、釣りをする小舟が漕ぎ進んでいるのが波間に見える」という、
なんというか、荒涼とした水墨画的な風景が浮かび上がってきます。
美しいですよね。

たとえば、右側の歌碑。
これは富山県富山市の鵜坂神社の裏手にある歌碑です。
宇佐可河泊和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴礼爾家里
と読めますね。
「鵜坂河 渡る瀬多み この我が馬の 足掻きの水に 衣濡れにけり」ということで、
「鵜坂川には渡る瀬がいくつもあって、
この私の馬の掻き上げる水しぶきに、着物がすっかり濡れてしまった」という、
こちらは躍動感あふれる情景が思い浮かびます。

詠んだ大伴家持は奈良時代の貴族で、国司として富山に赴任していました。
つまり、単身赴任というわけで、
基本的に、任地である富山の風景の美しさを詠んだ歌が多いわけですが、
単身赴任ゆえに…という感情を詠んだ歌もあります。

歌番号4020 歌番号4002

故之能宇美能信濃乃波麻乎由伎久良之奈我伎波流比毛和須礼弖於毛倍也」。→写真左
この歌は「越の海の 信濃の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや」ということで、
つまり、「越の海に沿った信濃の浜を一日歩き暮らしたが、
この長い春の日、片時も都の家族を思わずにはいない」という意味です。
風景の描写は抑えられ、都に残してきた家族への思いが詠まれています。
それにしても、この歌碑は魚津市の海岸にあるのですが、
これを揮毫した高瀬重雄という方は実に親切で、
同じ歌碑に書き下し文も彫ってくださっています。
高瀬さんは、歌番号4002の、大徳寺にある歌碑も揮毫されていて、
そちらも、やはり書き下し文も彫ってくださっています。→写真右

どう思われますでしょうか。
私は、実は、強風で揺さぶられる釣り船を見ても、
水しぶきで着物を濡らしている様子を目にしても、
あまり心が動かされるタイプではありません。
しかし、もともとメディテーションのようなことは得意な私、
必ずしも感性が腐っているということではなく、
単なる、関心領域の傾向性ということだろうと自負しています。
つまり、光景そのものではなく、それを見た人がどう感じるのか、
人の心情に興味があるのですが、
そんな私からしてみれば、家持の情景を詠むセンスは秀逸と感じます。
もちろん、父(大伴旅人)や叔母(大伴坂上郎女)の影響もあるでしょうが、
都から遠く離れた赴任地で伸びやかな感性が花開いたのだなと、
鵜坂の川とか越の海とか、
同じ景色を見ながら感慨深く感じます。

ところで、富山は万葉集の故地ということで、
もともと、図書館などに万葉集コーナーなどが常設されていることも多く、
私たち万葉集マニアは普段からそういうのを重宝しているのですが、
最近は、そういうコーナーを利用すると、
「あぁ、元号のアレで、万葉集、流行ってますからね ニヤリ」と、
司書の方から声を掛けられることが多くなりました。
本当は20年モノのマニアなのですが、
ブームに乗ったと思われているようで、少し恥ずかしいです。

[SE;KICHI]

6度目のピンチ

いよいよ平成が終わり、次は「令和」だと発表されましたね。
昨秋にも、漢籍の古典から採るのもほどほどにしてもらいたいと訴えていましたが、
今回の出典は万葉集とのことで、実は密かに喜んでいる私です。

日本という国の特徴は、天皇が宗教の主宰者であるということです。
以前にも触れましたが、
ボーっと生きていると、
天皇って、たまに姿を現して手を振る人だよねと思うかもしれませんが、
本来の天皇とは、国家の安寧を願う祈りの主体であり、
そのことこそ、皇室が別格の権威を保持している理由です。
つまり、代々続いていることは間違いないことですが、
当主自身が宗教を主宰しているという点において、
老舗の旅館とか造り酒屋などとは明らかに違うのです。

さて。
あと数週間で、皇太子さまが新天皇として即位され、
秋篠宮さまさまが皇嗣殿下となられますが、
その後の展望はどうなっているんでしょうか。
単なる老舗旅館の跡継ぎ問題であれば私には関係ないことですが、
日本全体の祈りをつかさどっている家の後継問題ですから、
私にもいくらかの関係があるわけで、注目しています。
現在12歳の悠仁親王が成人される頃、日本と皇室はどうなっているのでしょうか。

8年後ですから、愛子内親王も眞子内親王も佳子内親王も、
女性皇族は結婚なさって皇籍を離れていらっしゃるかもしれません。
さすがにそれまでに誰かが何か手は打つだろうとは思いますが、
下手をすると、悠仁親王の周辺に、同世代の皇族が誰もいないという事態もありえます。
しかも、それは、遠い未来のことではなく、
たった8年後くらいには現実味を帯びてくることです。

もっと言えば、そのまま、現状のまま手を打たずに推移すれば、
悠仁親王が天皇として即位する頃、
ご自身の結婚相手を除いて、皇族が誰もいなくなるかもしれません。
仮に、その結婚相手が多くのお子を産んでくだされば安心ですが、
その間、皇統は細い糸一本で繋がれているような、心細い状況です。
つまり、いま、私たちは譲位を慶事として寿ぎ、なんだか浮かれていますが、
本当は皇統の危機なのです。

この危機は、皇統マニアのあいだで、密かに「6度目の危機」と呼ばれています。
すなわち、歴史上、直系の継嗣がいないなかで皇位継承した、
継体(第26代)光仁(第49代)、光孝(第58代)、後花園(第102代)、光格(第119代)の、
各天皇に続く6回目のピンチというわけです。

前回のピンチは光格天皇の即位時だったわけですが、
この天皇は、皇統マニア(というか、皇室儀式マニア)において、ピンチ以外の点で、
特に重視されている天皇です。

というのも、私が、天皇の役目として最も重要だと思っている新嘗祭は、
実は300年ほど断絶されていたものを、
光格天皇が、天皇自身の親祭も含めて本格的に再興したものなのです。
また、昨年、秋篠宮の発言によって注目された大嘗祭は、
新天皇の最初の新嘗祭のことで、これは皇室最大の祭祀なのですが、
これも、200年ちょっと断絶していたものを光格天皇が再興したものです。
つまり、いまある祭祀を古式にのっとり正統に復活させたのが光格天皇なのです。

彼は、皇室の責務は宗教の主宰者であることと心得、
天皇としての人格の陶冶に努めつつ、儀式の再興に尽力したという人物です。
そんな彼が、前述の通り、皇統断絶のピンチの中から生まれたというのが、
私には、とても興味深いのです。

光格天皇の先代・後桃園天皇は、生後10ヶ月の女児だけを遺して崩御し、
後継者探しで浮上したのが、傍流・閑院宮家の第6皇子である祐宮でした。
まだ9歳ながら、背に腹はかえられず、
彼が光格天皇として即位したわけですが、
その後の活躍は前述のとおり。
傍流出身であるがゆえに、より理念的な天皇像を追い求めたに違いないと思うのです。

日本の皇室は、この先どうなるのでしょうか。
それは、日本の祈りはどうなるのでしょうかという意味です。
細い糸でかろうじて繋いでいる皇統ですから、
何代か後、もしかしたら、傍流からの皇位継承が現実化するかもしれません。
そのことは致し方ないことですが、
この機会に、日本人全員、祈りとしての皇室の存在意義や、
来し方行く末を考えたいものだと思います。

テレビなどでも、「平成最後の!」とか言って、浮かれまくっていますが、
そんな呼び名の問題なんかより、今後どうするか、もっと考えないといけません。

[SE;KICHI]

やるときは、やるんですね!

今利用している美容院に通い始めて、かれこれ10年程経ちます。
店を変えたきっかけは、
前に利用していた美容院で担当してくれていた方が辞めたから。
その方はお隣の県へ引っ越されたので、追いかけては行けませんでした。
その後もしばらくは利用していましたが、
なんとなく気分転換に今の店に変えてみました。
そこは、女性スタイリストのIさんとSさんがメインのようでした。
その他に、アシスタント、見習い、男性オーナーのOさん。
担当についてくれたのは当時店長のIさんでした。

数年後、Iさんがご結婚。
程なくして産休、育休でお休みにはいられました。
その間担当してくれたのは、新たに店長になったSさん。
1年程してIさんが復帰され、SさんからIさんへバトンタッチ。
Iさんも直ぐにはフルタイムではなく、徐々にといった中で、Sさんがご結婚。
程なくして産休、育休へ。

それから5年程経った今、途中、Iさんが二人目のお子さんを出産され、
公休日を取り入れながら復職される中、
Sさんが二人目の出産でお休みにはいられました。

Iさんが2度目の産休に入る頃から、
オーナーのOさんが担当となってくれました。

このOさん、IさんとSさんがフルで勤務されていた時は、
ほとんどカットしているところを見た事がありませんでした。
たまにはありましたが、せっせと働いている姿は記憶にありません。
私が利用している時が、
たまたまOさんの担当じゃないお客様だけだったのかもしれませんけどね。
それが今では物凄い勢いで働いています!
びっくりするぐらいのフル回転です!

IさんとSさんが子育てしながらでも働きやすい環境を整えたOさんですが、
その動きをみたら、従業員も働き方の意識が変わりますよね。
もちろん同僚の理解と協力もなければ成立しないのですが。
いざとなった時に経営者自身がどう動くか。
経営者の考え方次第で、どっちにでも転びます。


現在は、アシスタントだった方がスタイリストとなり、
週末にはバイトでベテランぽい方がアシスタントで入っていたり、と、
工夫してお店を切り盛りしています。

Oさん、やるときは、やるんですね!
ごめんないさい、おみそれしました。
その経営姿勢に、応援も込めて通いますね。

Iさんの勤務時間となかなかあわないので、
今もOさんに担当して貰っていますが、お願いが一つあります。
私にはあまり話しかけないでください。
ゆっくり雑誌を眺めたいタイプですから!(笑)

[fu~ma]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
TEL:(076)451-0541
FAX:(076)451-0543

■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

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