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いまこそ佐藤一斎先生

〽春なのに 春なのに ため息またひとつ……と歌ったのは柏原芳恵でしたが、
この春はコロナ騒ぎで自粛に次ぐ自粛、
もはや、集まっただけで白い目で見られるような状態で、
歯を見せて笑っただけで憲兵さんが飛んできた戦時下のような厳戒態勢です。

それにしても、マスクやらトイレットペーパーやらの奪い合いは、
冷静さを欠いた場面での日本人の弱さがよく分かる騒動でしたね。
まぁ、カラになった棚の映像をニュースで放送し、
レポーターが「残りわずかの状態です」とか言えば、
そりゃ、不安に駆られた視聴者が買いに走るのは必定で、
報道の在り方に大いに問題はあったとは思いますけど。

このブログでは、waka さんが『言志四録』のレビューを書かれておりましたが、
買い占めに走る人しかり、それを煽る報道関係者しかり、
今回のような緊急事態に、
自身のことしか考えられない方が多かったのは少し残念ですよね。
その意味で、『言志四録』は、
ますますその重要性が高まっているのではないかと思うのです。

『言志録』第122条には、
本然の真己有り。躯殻の仮己有り須らく自ら認め得んことを要すべし。
とあります。
これはつまり、一斎先生は、“自己”には、
善悪を正しく判断できる“真己”と私欲に引きずられてしまう“仮己”の2種類があって、
まずは、そのことを認める必要があると言っているわけですが、
私自身は、感覚的にそう思いたい面があって、昔から大事にしている言葉です。
善悪を正しく判断できる“真己”に従って沈思黙考し、
「自分は何のために生まれてきたのか」を突き詰めて考えることは、
八正道の正見・正思に通じる視点ですし、
私は、そうすれば、私欲に引きずられる“仮己”を抑えられると思っています。
いろいろなところで「志」の大切さが説かれている昨今ですが、
私は、この、「自分は何のために生まれてきたのか」が「志」であり、
「自分の人生をよりよく生きる指針」だと思っています。

そもそも、私欲に引きずられる“仮己”というのがあることに衝撃を受けた私ですが、
一斎先生が80歳を過ぎて書いた『言志耋録』第66条には、
人心の霊、太陽の如く然り。
但だ克伐怨欲、雲霧四塞せば、此の霊鳥いずくに在る。
」と説かれてあり、
つまり、
一斎先生が「すべての人間はもともと善人である」と考えていたことが分かります。
このことは、私の人間観と合致していて心地良いものですが、
一斎先生曰く、その本来の善の心を曇らせるのが克伐怨欲だというわけです。
克伐怨欲というのは『論語』に出てくる“四悪徳”で、
“克”とは人に勝つこと、“伐”とは人に自分の功績を誇ること、
“怨”とは人を憎むこと、“欲”とは貪欲な心、です。
これらの心があると、人間本来の善の心を曇らせると言っているわけです。
うふふふ、人に勝つことは悪徳だそうですよ。
どうでしょうか、みなさん。
私の価値観にはとてもよく合致していますが。

この“四悪徳”は、ほとんどが人間関係に起因するものですよね。
少し前に流行ったアドラーが、
「人間関係の悩みはすべて対人関係に悩みである」と言っていましたが、
裏を返せば、人間関係で悩まなければ、“四悪徳”はほぼクリアできるということです。
そう考えると、一斎先生の「すべての人間はもともと善人である」という考えは、
「そうだったらいいな」的なものではなく、実に合理的な考えであるように思えます。
なぜなら、“四悪徳”は、他人を他人と見るから起こる感情であり、
自他が一体であり、仲間として信頼するという立場をとれば、
起こり得ない感情だからです。

そうそう、一斎先生は、
凡そ事を昨すには、須らく天に事うるの心有るを要すべし。
人に示すの念有るを要せず。
」とも言っています。(『言志録』第3条)
何かを成し遂げたいなら、天に仕えるという心を持ちなさい、
人に見せびらかしたいという自慢の心を持ってはならぬという意味ですが、
一斎先生に心酔していた西郷さんの名言集である『南洲翁遺訓』の第25条にも、
「人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。
人の非をとがめるようなことをせず、自分の足りないところを反省せよ」とあり、
西郷さんが一斎先生の影響を受けていることを如実に示しています。
また、一斎先生が、自他が一体であり、仲間であると考えていた証左です。

まぁ、他人からの評価などに惑わされることなく、
前述の“真己”、すなわち志と向き合ってこそ、人は成長できるということでしょう。

そういえば、『言志録』には、
太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。
という、有名な言葉もありますね。
これは、様々な解釈ができそうな感じですが、
立派な人は、先生とか経験・経典などよりも、
“天”の導きを大切にするのだという意味と考えてよいでしょう。
では、この“天”とはいったい何を指すのかといえば、
それは神と呼んでもよいし、お天道様と呼んでもよいと思いますが、
つまりは、すべてを司っている偉大な何か(サムシング・グレート)だと、
私は理解しています。
要するに、世の中には何やら神様的でグレートなご存在があり、
そのご存在(=天)からの導きを最優先すべきであって、
自分の先生からの言葉とか、
自分自身の浅薄な経験や見聞きした書物の情報とか、
そんなものを優先するんじゃないということです。

結局、他人からの評価などに惑わされることなく、
グレートなご存在の導きに従って“真己”を求めよという話でしょう。
コロナ騒動で日本中が疑心暗鬼に陥っている今こそ、
一斎先生の『言志録』、注目されるべき時かもしれません。

[SE;KICHI]
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最初から全部が分かっていることは、ない。

〔ステップビハインド→チャチャチャ→ボックスステップ→横向いてステップニーアップで後ろ向き→踏んでマンボ→バックシャッセ→フロントシャッセ→ステップタップ→スッテプニーアップ→ビハインド→前向いてVステップ〕

まぁ、こんなの、ワケが分からなくて当然だというような話を前にしましたが、
これは、私が通っているエアロビクススタジオの、
ある月のコリオ(動き)の一部です。
ワケが分からないかもしれませんが、
完成型として、このように表現されると理解してください。

さて、完成型と言いましたが、これをいきなり踊り始めるわけではありません。
おそらく、そういうことはできませんし、
できたとしてもケガをしたりしてしまうと思われます。

はじめはステップタッチ2往復(8拍)を繰り返して、リズムに慣れます。
そして、慣れてきたら、
このステップタッチをステップビハインドクロス4回に変えます。
それにも慣れてきたら、最初の1回(2拍)だけ残して、
3拍目4拍目をチャチャチャ、5拍目以降をボックスステップに変えるわけです。
そして、その状態で10回は繰り返して、慣れます。
これで最初の、右リードのワンエイトは完成です。
次に、その後に、左に向きながら、
右足を踏んでから左足をニーアップ……という動きを足します。
ニーアップの後は、とりあえず足踏みでもしておきましょう。
ニーアップと足踏みでツーエイト、左右シンメトリーになりました。
ツーエイトに続くスリーエイトは横を向いたままステップタッチ2往復、
フィーエイトは前を向いてのVステップ2回です。
ここまでを繰り返して練習し、そして、ここまでにも慣れたら、
ツーエイトのステップニーアップの際、
アップする足を外に大きく外に振り出す形で、180度後ろ側を向きます。
そこで一つ踏んでからマンボ、それからとりあえず足踏みして、
スリーエイトのステップタッチにつなげます。
このあと、その2往復のステップタッチの後半をビハインドに変えてみます。
そして、前半も、ステップタップ+ステップニーアップに変えます。
最後に、マンボの後の足踏みをシャッセの前後往復に変えて完成。

まぁ、読んでいても意味不明でしょうが、
とにかく、最初からその動きをするわけではなく、
少しずつ変化させたり、足したりしていくのだということです。

これはエアロビクスの話でしたが、
私たちの生活というのは、そもそもが、こういう感じだと思うんです。
最初からいきなりやれたりしないのはもちろんのこと、
よく分からないのに突然やらされることだって多々ありますよね。
そして、私は、そういう時にどうするかが大切だと思うのです。
「いやいや、やり方分からないし」と、尻込みして結局やらないのか、
「よっしゃ、分からんけどやってみっか」と、とりあえずやってみるのか。

たぶん、「分からんけどやってみっか」の人のほうが、人間力は高そうですよね。
だって、たとえば、災害などに見舞われた場合、
あらかじめ万全の構えで被災するということは少ないでしょう。
しかし、「いやいや、避難の仕方とか分からないし」などと言ってまごついていては、
みすみす助かる確率を下げてしまうことになるかもしれません。
一方、もちろん行動には充分な注意が必要ではありますが、
分からないなりにも、熟慮のうえで避難の行動を起こすということは、
命を守るために必要なことかもしれません。

そこまで大袈裟な話ではなくても、
世の中には、遊びとか清掃とか料理とか、
はたまたお茶やお花のお作法から、婚活やSEXに至るまで、
「やり方を言ってくれないとできません」的な方が多い多い。

Resilience という言葉を知っていますか。
もともと、工学や物理学の世界で使われていた言葉で、
物質や物体に対して外力が加わったとき、
どれくらいその力を吸収できることができるか、
また、どれくらいその力を取り除いて元の形に戻ろうとすることができるか、
という用語です。

人間も、Resilience が大切だと思うのです。
離島における急病人みたいなもので、
アレが足りない、コレが充分でないなどと言ってみても物事は解決しないわけで、
状況を認識し、受け入れたうえで、
あるもので全力を尽くす
以外にないじゃないですか。

先日、とある研修に参画した際、
その研修には、研修の一環として、
お世話になった会場の清掃もセットされていたのですが、
そこは少年自然の家ではないので、人数分の清掃用具の準備はありませんでした。
私などは、「そうか、足りないのか。じゃあ、どうしようかな」と考えるのですが、
一部の受講者からは、
「清掃用具が足りないから掃除できません」という苦情が飛び出したとのこと。
何しろこれは研修ですから、おそらく主催者側としては、
「足りないなりに考えて取り組みなさい」という意図もあったのでしょう、
「道具は足りなくても、手も足もあるんだから」と返答していたようですが、
言われたほうには「えっ! 手で掃除しろと言うんですかっ!」と、
それはそれで気色ばんでいました。

私は思うのです。
人生、全てが揃っていて、
「さぁ、やってごらん」と物事を始められることなんて、ない。

だいたいの場面で、何かが不足しているものですが、
そうも言ってられないから、いまあるものを活用して、やるんですよ。
「揃ってないとできない」なんて、環境のせいにする詭弁でしょう。

手持ちで戦う。
そして、全てのことに責任を負う。
そういう姿勢が大事だと思うのですが、どうでしょうか。

[SE;KICHI]

一網打尽願望……結局は貧乏性

学生時代の先輩に、自室に風呂がない安アパートに住んで、
かといって金欠のためになかなか銭湯などにも行けず、
日常的に入浴はできないのだという人がおりました。
人体というものは、だいたい4~5日も入浴せずにいると、
髪が油っぽい感じに見えるとか、なんとなく匂うような気がするとか、
控えめに言っても不潔な感じに見えてしまうものです。
彼は、半月も入浴しないこともザラにあったのですが、
そうなると、通っている雀荘から匂うから帰ってくれと言われたり、
乗ったバスでは混んでいても彼を中心に人がいなくなったり、
少し不潔とかいう次元ではなく、あからさまに汚い感じになるものだそうです。

なぜ、そういうバカなことをしていたのかと聞けば、
最初は、確かに、自室に風呂もなければカネもないからという、
よんどころない事情だったそうですが、
途中からは、いつかせっかく風呂に入るとき、
すべての汚れを脱ぎ捨てて新しい自分に新生するのだ!という、
妙な妄想に取りつかれてしまい、
むしろ、あらかじめ存分に汚しておいたほうが、
すべての汚れを脱ぎ捨てる際に快感なのではないかと思って、
もう、やめるにやめれなかったとのこと。
現在は誰もに名を知られる上場企業で管理職をしている立派な彼は、
「あの頃はどうかしていたね」と言います。

ちなみに、満を持して入浴した風呂。
彼は自室に風呂がないので、とある後輩の部屋が犠牲になりました。
いやあ、実際に私が彼の入浴シーンを見たわけではないのですが、
浴室を提供した後輩によれば、、
人間の身体に、こんなにもたくさんの汚れがついていることがあるのだと、
変に感心してしまうほど、浴槽の湯が変色したそうですし、
入浴後の浴室から悪臭を抜くのに2日くらい換気扇を回しっぱなしだったと聞きました。

……何の話か見失いましたが、
私は、この、「どうせやるなら……じゃないと」という思考は、
あまり良い結果を生まぬと思うのです。

いや、たぶん、みんなに、
“一網打尽にしたい欲求”というのがあるのではないかと思うのです。
いや、それはみんなにあるんじゃないかと思ってるのですが、
どうせやるのでしょうなら、まとめてやっちゃいたいっていう、
一見すると合理主義っぽい、アレです。

たとえば、みなさんも、虫歯の治療というわけではなく、
歯垢除去などのメンテナンスのために定期的に歯医者さんに行くでしょう。
その費用って、だいたい、毎回定額だと思うのですが、
その金額を支払えば、
そんなに汚れていなくても、もしくは、すごく汚れていたとしても、
おおむね、毎回同じレベルにまできれいにしてくれますよね。
そういうときに、私は思うわけです。
金額が一緒なら、汚いほうが得じゃね?って。

たとえば、みなさんも、別に致命的なケガをしたわけではなくても、
整体とかエステとか、定期的に肉体のメンテナンスに行くでしょう。
それも、やっぱり、だいたい定額になっていると思うのですが、
骨格があまり歪んでいなかったとしても、はたまた、ガタガタに歪んでいたとしても、
その規定の施術料金さえ支払えば、
だいたい日常生活に支障のないレベルにまで整えてくれますよね。
そういうときに、またしても、私は思うわけです。
金額が一緒なら、歪んでたほうが得じゃね?って。

ちょっと貧乏くさい話になってきて、恐縮です 笑
が、そんなに悪化していないものをチョイチョイっとされて費用を請求されるのと、
かなり深刻な状況のものを熱心に手を入れてもらって費用を請求されるのと、
金額が同じなら、後者のほうがありがたみがあるというものでしょう。
まぁ、感覚的なものですが、少なくとも私はそうです。

もちろん、だからと言って、わざと歯を磨かずに歯医者に行ったり、
わざわざ腰などを痛めてから整体に行ったりということはありません。
それでなくても歯医者さんというのはなかなか褒めてくれないものですが、
そんな汚い歯で行ったら何を言われるか、想像しただけでげんなりしますし、
整体に至っては、あまりに腰を痛めてしまうと、
その施術では治せないようなレベルかもしれず、リスキーです。

そうです、この感覚は間違っているのです。
本当に一網打尽がよければ、そもそも歯垢除去になど行かず、
歯垢を貯めまくって、虫歯になってから行けばよいのです。
整体も、細かく定期的なメンテナンスなどに通わず、
足腰が立たなくなってからバキッと治してもらえばいいのです。
ただ、それだと大変だし、
そもそも、結果的に治療費がかさむ可能性が高いので、
意味があるのかどうか、よく分からぬと思いつつ、
みんな、歯垢除去や定期メンテに通っているわけです。

ただ、この一網打尽を望む感覚は、
多かれ少なかれ、みなさんにもあるのではないでしょうか。
ほら、せっかくアカスリに行ったら、
自分の身から出たアカを見て、「おわぁ〜」とか、驚いてみたくないですか。
あんまりアカが出なかったらがっかりすることでしょう。

いずれにせよ、「どうせやるなら……じゃないと」という感覚が、
日本中のそこここに蔓延しているせいで、
歯垢除去にしろ骨盤矯正にしろアカスリにしろ、
定期メンテナンスを怠る者があとを絶たないわけで、
結果的に医療費高騰などの社会的課題を引き起こしていると思うのです。

結局、日本人の特性なのかもしれませんが、
このブログに何度も登場している山本七平よろしく、
人々の「どうせやるなら……じゃないと」などという、
薄く広がっている貧乏性が、なんとなく妙な価値観を作っている気がします。

[SE;KICHI]

故障者たち

いやあ、流行ってるんですかね、「あおり運転」
というか、「あおり運転」とか呼ばれてはいますが、
急いでいるドライバーが、前方の遅い車を後ろからあおったという話ではなく、
何に怒ったのか、進路妨害して車を停めさせ、ドライバーの顔を殴ったということで、
これは別にあおっているわけではなく、ただの暴行ですよね。

このニュースを見て、私だって、その犯人をけしからんとは思うのですが、
一方で強く感じるのが、「恥ずかしい」という感覚です。
大人というのは、世の中の子供たちの規範となるべき存在であるはずなのに、
一部の大人とはいえ、このようなろくでもない姿を子供に見せてしまい、
同じ大人の一人として、子供たちに対して恥ずかしいと、そういう感じ。
偉そうに「仲良く助け合いましょう」と子供に呼び掛けておきながら、
面識もないドライバーを殴るなんて、子供に向ける顔がないでしょう、大人たち。

それにしても、何にそんなに腹が立つというのでしょうか。
私は、「他人に対して腹を立てない」という戒を立てているので、
100%とは言えないまでも、他人の言動に感情が乱されることは多くありません。
それは立派な人格だとか、そういうことではなくて、
単に「人はそれぞれだ」と達観しているにすぎないのですが、
そういう私の感覚からすると、
仮にろくでもない運転をするドライバーが近くにいたとしても、
そんなに、殴りつけなくてはならぬほど腹が立つことはないと思うのですが。

ちょっと、最近、自分の感情に忠実な、すぐ怒る人、多い気がします。
どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
なんというか、日本人は温厚で助け合う民族だったと思うのですが、
そういう日本人感覚が故障しちゃってる人、増えてるんでしょうか。

さて、故障しちゃっている人といえば、知人から聞いた話。
あるところに、90歳台の老婆と60歳代の義理の娘が住んでいたそうです。
“義理の娘”というのは、つまり、そのお婆ちゃんの息子の嫁ということなのですが、
その息子はとうに亡くなっているため、姑と嫁の2人暮らしということです。
それも、まぁ、ちょっと変わった家族構成だなとは思うのですが、
仲良くやれているのであれば別に問題ないと思いきや、
その嫁は、姑のことを徹底的に無視するんだそうです。

無視と書きましたが、姑と嫁という微妙な関係性なので、
互いに干渉しないという紳士協定みたいなものならよいと思うのです。
そうではなく、悪意ある無視。
嫁は姑の食事を用意せず、自分だけはムシャムシャ食べる。
姑は運転ができないので、自分で食事を調達することもできず、
腹をすかせた状態でひっそりと暮らしているとのこと。
冷蔵庫を開ければ何か出てくるかもしれないけれど、
食べられそうなものは、
ご丁寧にも、背の低い姑では届かないような高い場所にしまわれている、と。

これは、「あおり運転」と一緒で、
無視とかじゃなくて、存在を認知したうえでの意地悪です。
姻族である嫁と姑は、それをつないでいた夫と死別した時点で、
同居を解消しても構わないと私は思うのですが、
まぁ、経済的な事情などで同居せざるを得ない場合は、
一緒に住むからには、感情は別として、
それなりのオペレーションというか、ルーティンはあると思うのです。
本当は顔も見たくないと思っていても、最低限の挨拶はするし、
食事は用意するでしょうし、洗濯や掃除も然りです。
なんというか、本当はイヤでイヤで仕方ないと思っていたとしても、
そして、そのことが相手に薄々でも伝わっていたとしても、
感情を抑えて何事もないかのように振る舞うのが大人というもので、
正面切ってそれを確認させないようにするのが不文律でしょう。

どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
だいたい、90歳台の老婆に一貫して意地悪をするとか、
それなりに主体的な悪意を持っていないとできませんよね。
お婆ちゃん、逆縁に見舞われたうえにこの仕打ち、
長生きなんてするもんじゃないと思っていることでしょう。

また別の家では、入り婿で、いわゆる「マスオさん」になっている婿が、
妻やその両親と同居しながら徹底して没交渉を決め込み、
食べるものも行動も別にして、
何事も自分と自分の子供たちだけで楽しんでいると話も聞きました。
これは、いわゆる「マスオさん」の例で言うと、
マスオさんが磯野家に住みながら、波平やフネどころか妻のサザエさんすら無視して、
我が子タラちゃんとだけコミュニケーションをとっているってことです。

これだって、日本人的な感覚では、
いくら義父母が忌々しく、そこにべったりな妻のことすら気に食わなかったとしても、
一緒に住むからには、やはり感情は別として、
それなりにコミュニケーションを取るのが普通でしょう。
知人で、20歳で結婚して7年間同居した28歳の女性がいますが、
その是非はともかく、同居期間中は感情を抑えて、
家族としてのコミュニケーションは取っていたと言います。
どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
そんなことなので、義父母のほうから「あいつはどういうつもりなのか」などと、
公然と言及される始末なのですが、さもありなんというところです。

共通しているのは、自分の感情が絶対だと思っているところ。
そして、それに基づいて行動を選択して何が悪いと思っているところ。
追い越されて腹が立ったから、進路妨害して殴ってよい。
姑が気に食わないので、意地悪してよい。
義父母や妻が嫌いだから、自分だけで楽しんでよい。
……だって、相手が悪いんだから、自分の行動は正しいという、
我こそが正義なりという行動基準です。
本当に、どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。

古来、日本の先人たちは、自分の感情を押し通すことは厳に慎み、
周囲と険悪にならないように、それぞれが税金のように薄く気を遣い合って、
思いやりと辞譲の心で穏やかな社会を築いてきたと聞いています。
自己主張が強くないことは、欧米人に対して劣っているように言われますが、
いやいや、周囲の人間関係を焼け野原にしないための智慧だったのでしょう。

ベトナム人の知人は、日本に来る前、
日本のことを学ぶ授業で、日本は寛容な国だと教わってきたそうですが、
それを聞いた私、「ごめん、そういう日本、もうないかも」と、
なぜか日本を代表して、申し訳なく思ったのでした。

どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
だとしたら、早く故障を直し、寛容な社会を作りたいものです。

[SE;KICHI]

変態ちゃん

弊社の Okei さんにとっては、名前だけは聞いたことがあるレベルらしいのですが、
いま、「マリーゴールド」とか「ハルノヒ」とかを歌っている、
あいみょんという 24歳のアーティストが大人気ですよね。

私は、特にあいみょんのファンというわけではないけれど、
彼女の楽曲では「○○ちゃん」という曲が一番好きです。

彼女のメジャーデビューは2016年だそうですが、
その前の2015年に、『tamago』というアルバムをインディーズで発表していて、
「○○ちゃん」というのは、そこに収録されている楽曲です。


https://www.youtube.com/watch?v=OXYxa7UM4_g

歌詞は、
 お酒は大好きで悪酔いも少々 好きでもない男と寝たこともある  とか、
 早くに覚えすぎたタバコも 何度もやめようとは思ってる  とか、
 口癖はいいことないかな 幸せのレベルはもう下げた  とか、
 得意なことも趣味もない おまけに勉強もできないけど  なんて、
総じて、なんというか、そこらによくいる女の子を表現している感じです。
だいたい「○○ちゃん」というタイトル自体、
○○にどんな人名を入れてもそれなりに成立するような、
ごくごく普通の女の子の歌です。

ところで、この曲で、私が衝撃を受けたのはサビの歌詞で、
私のどこがダメですか?と繰り返されるところ。
つまり、この曲は、どこにでもいるようなごくごく普通の女の子が、
「私のどこがダメですか?」と訴えかけるという構図。

いやいや、ダメじゃないですよ!

実は、若手の多く、特に就職などの社会生活に支援が必要な若者たちと話すと、
この、「ボクのどこがダメなんでしょうか」というフレーズはよく出てきます。
そういうとき、私は、「そんな質問するところがダメだね」とか答えたりしますが、
焼け石に水、そういう人が多すぎて、ラチがあきません。

私は、これが、引きこもり(もしかしたら自殺者も)を生む要因だと思うのです。
彼らは言います。
「ボク、特に何にもできないんで」とか、
「ワタシ、なんかトロいらしくて」とか、
「オレ、どの仕事も長く続かなくて」とか。
そして、彼らは「一生懸命やってるんですけどね」とため息をつき、
「ボクのどこがダメなんですかね」と下を向くのです。

結局、、彼らはただ社会に順応できていないだけなのですが、
彼らは度重なる不適合の場面で傷ついて、自己肯定感を下げています。
場合によっては、なんらかの診断を受けているケースもあります。
そうすると、「ワタシ、発達障害って言われてて……」というのも加わります。

ところで、障害とは何なのでしょうか。
世の中には、雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めるという仕事があります。

バラバラの部品をひとつひとつ揃えてキレイに積み重ねて
数も整えて箱に詰める

そんなの、誰にでもできる仕事だと思うでしょう。
でも、少なくとも私は、そういう、コツコツ同じことを繰り返す仕事は苦手です。
先日、視察させていただいた作業場では、
働いているほとんどの方が何らかの障害をお持ちの方だと聞きましたが、
実に淡々と、作業に従事しておいででした。
淡々と手を動かして部品を揃える彼らと、そういうのが苦手な私。
果たして障害があるのはどっちなんでしょうか。
そう思うと、障害って、案外、単なる得意不得意なのかもしれないし、
個性に過ぎないのかもしれないと思うのです。

そして、私は思うのです。
これからは「変態」の時代だと。
自分がいかに周囲と違って特定の分野に偏った知識を持っているか、
自分がいかに手先が器用で特殊な技術を持っているか、など、
人間はロボットではないので、
いかに突出した個性を備えているかで勝負するしかないと思うんです。
雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めることができる……とか。

そうなってくると、周囲から浮くほどの個性を持っていても、
それは誇るべき武器になると思うんです。
実際、彼らは趣味の話だと、私が置いていかれるほど饒舌に語るのです。
つまり、彼らは、「何もできない」わけではなく、
それは、本人の幻想に過ぎぬのです。

私は、引きこもりや自殺を撲滅する運動家の人ではないので、
そこに特化してなんらかの考えを持っているわけではありませんが、
「私のどこがダメですか」などという、
そもそも「自分はダメである」ということを前提とした、
否定的な自己認識を持つ若者の蔓延は、
社会として健全ではないと思うのです。

自分も個性的な「変態」だと認識して、
それのどこがダメかではなく、
それを使って社会に参画するんだという、
たくましさを持って欲しいと思います。


あなたのどこも、ダメじゃないですよ。

[SE;KICHI]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
TEL:(076)451-0541
FAX:(076)451-0543

■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

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