おかずのクッキング

1年ほど前に土井善晴さんの記事がありましたが、
土井善晴さんといえば、『おかずのクッキング』ですよね。
お父上の土井勝さんの番組を引き継いで、40年以上続いている料理番組ですが、
この番組の土井さんとアシスタントの久冨慶子さんとの掛け合いが斬新というか、
土井さんの一貫して自由な感じが面白いんです。

たとえば、先日は納豆を挟み込んだオムレツのようなものを作っており、
まぁ、私は納豆などに少しも興味はないのですが、いちおう見ておりました。
まず、納豆をかき混ぜて粘りを出し、これを火にかけて少し温め、
それを火から降ろして粗熱を取り、その間に生地となる部分を用意する、と。
(いや、うろ覚えですよ。なにしろ私は納豆などに少しも興味はないので。)
料理番組とは、無言で淡々と進行するものでもないので、
久冨アナウンサーが、何気なく、
「どうして、ここで一度火から降ろしたほうがいいんですか」と質問します。
普通は、「あんまり火を通しすぎると風味が落ちるから」とか、
そんな答えを予想しますわね。
しかし、その質問に対する土井さんの答えは、
「え? そのほうがいいと思ったから。」

・・・・・・コレ、よく考えたら、かなり斬新な切り返しじゃないでしょうかね。
だって、「どうして?」って聞かれて、「そう思ったから」って、
質問に対する答えになってないですもん。
小学生みたいな切り返しです。

その後も、慌てて何かそれっぽいことを言い繕うでもなく、
「いや、そんなんでいいですよ。ダメ?」と、
料理初心者(という役)の久冨アナウンサーに、逆に聞く始末。
自由ですよね。

私はこの放送を見て、とてもいいな、見習いたいなと思いました。

人間を含む動物は、いろいろな行動の積み重ねで毎日が成り立っています。
その行動というのは、もともとは何かの思考に立脚して起こるものですが、
とはいえ、多くの場合は、その行動は習慣化され、無意識に行われるはずです。
たとえば、“歩く”という行為をとってみても、
「右足を出す」「左足を出す」「右足を出す」「左足を出す」・・・
のように意識することは、ない、でしょう、軍隊の行進ならいざ知らず。
つまり、人間の行動はほとんど自動運転ってことですよね。

自動運転といえば、飛行機の自動操縦とか、クルマの自動運転とか、
安全を担保するための高度なプログラムというイメージがありますが、
こと生物の自動運転というのは、無意識の行動パターンということで、
きわめて動物的な機能であるような気がするのです。
意識して右、左、右、左と歩むヒトはまれでしょうが、
たぶん、キリンもチーターも、カエルもカマキリも、同じでしょう。
普通は無意識に歩いたり走ったりしているわけです。

カッコよく言うと「心の赴くままに」という、
放浪の画家みたいな言い方になるのかもしれませんが、
それは結局、野放図というか、野生の勘に従うということでしょう。

土井善晴さんの「え? そのほうがいいと思ったから。」は、
理由なんてないよ、感性に従ったまでさ という意味でしょうが、
しかし、なかなか自分の感性に自信が持てるものではありません。
私も、たまに地元でラジオに出させてもらうことがあるのですが、
自分が話す内容に盤石の自信を持つというのは、意外と難しいものです。
そんななかで、「いや、そんなんでいいですよ。」という自信。
私はここに、信念の強さを感じます。

「そのほうがいいと思ったから。」

信念さえしっかり確立できていれば、自動運転の精度は上がるわけで、
そうなってしまえば理由なんていらないということなんでしょうね。
自分に自信がないとかいう人が多いご時世、
自己肯定感とか、いろいろな意味で勉強になる一言でした。

[SE;KICHI]
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悩むことの罪

昨年末、徳島に隠遁している恩師にお会いした際に聞いた言葉。

悩みは持ち越してはいけない。

私たちは、現状の厳しさや展望の暗さなどから、
ついつい、まだ来ぬ未来について思い悩み、
やれ不眠に陥ったり、やれ胃に穴が開いたりするものですが、
その恩師は、悩みは持ち越してはいけないと、強く言います。

その理由は、悩んでも解決できることは少ないから。
いや、むしろ、悩んで解決できることなど、ほとんどないような気すらします。
だって、悩んでみても急に道が開けるわけでもないでしょうし、
ちょっと悩んでみたところで解決がつかないことなんていくらでもあるでしょうから。
だとすれば、悩むことは、それ自体が時間のムダ、悩み損というものです。

では、いくら考えても結論が出ないことは、どう考えたらよいのでしょう。
渦中の浅薄な私たちは、結論が出ないことに思い悩んだりするわけですが、
その恩師曰く、そういうときは「結論が出ない」ということを結論にすればいい、と。

なるほど。
ちょっと禅問答的ではありますが、確かに素敵な考え方です。
少し考えてみて結論が出ないなと思ったなら、
「今日は結論が出ませんでした」という結論にしてしまって、
もう考えるのをやめてしまう。
明日以降、適切なタイミングでまた考えればいいのですから、
これは、精神衛生上、かなり良い考え方だと思います。

“少し考えてみて”というのがミソかもしれません。
もちろん、少しも考えずに結論を出さないのは論外でしょうが、
少し考えてみたんだけど、どうも結論は出なそうだという状況では、
それでもウンウン唸りながら考え続けても時間のムダであり、
どうせたいしたことは思い浮かびませんよね。
逆に、今日はこれ以上考えないと決めると、
意外と、急にひょっこり何かを思いついて、突如として解決するかもしれません。
自力で精進を重ねるところに他力が臨むという、仏教の教えのようです。

ところで、冒頭の恩師の言葉にある「悩みを持ち越す」というのは、
どういう状態を指しているのでしょうか。
たとえば、寝ても覚めてもそのことを考えこんでしまう状態などがそうかもしれません。
人間というのは単純なもので、2つのことを同時には考えられぬと言いますから、
寝ても覚めても・・・ということは、頭がそれでいっぱいということです。
1つしか考えられないというのに、そんなくだらぬ悩みに頭が支配されているなんて、
こんなムダなことはないでしょう。

確かに危機に備えることはとても大切ですが、
まだ起こっていない危機を思い煩うというのも、
思えばムダなことのような気がします。

結局、悩みというのはプレイなのかもしれません。
つい考えてしまうんだよという主張もあるかもしれませんが、
それ自体が、心を自分でコントロールできていない証拠です。

別に、悩んだところで何がどうなるわけではないし、
そのことで誰かが幸せになったりすることもありません。
そうであるなら、悩むのをやめてしまえばいいし、
前述のように「結論は出ぬ」と、棚上げしてしまえばいいのですが、
それでも悶々とするというのは、それはもはや性癖というか、
そういうのが好きなのでしょうか。
つまり、心がそのように動いてしまって止められない状態ですね。

昨夏、このブログでも、心の動きを停めたほうがいいと書きましたが、
その記事で紹介したとおり、仏教においては、
日々、何かを感じたり気にしたりする心を静め、
反射的に心が動かないようにすることをかなり重視します。
再録、『考えない練習』の32ページに、
無駄なことを考えている、ということすら気づいていないと、
当然、無駄な思考の克服はできません。
と書かれていますが、
そもそも、私たちはムダなことを考えがちなのですし、
自然に立ち上がってくる思考のほとんどはムダなのでしょう、たぶん。

そう教えている仏教とは厳しいものだと思うかもしれませんが、
ノーマン・ビンセント・ピール博士は、
世界中に影響を与えた著書『The Power of Positive Thinking』のなかで、
「Please keep your mind in an unshaken state.」と述べています。
この方は牧師さんなので、キリスト教でも教えは然りということです。
そして、心が同時に2つのことを考えられない以上、
悩みや怒りに振り回され続けることは、
時間を浪費しているというであると、ピール博士は言います。

何度か言っていますが、心は統御したいものです。
動物じゃないんですから、湧き上がってくる悩みや怒りに振り回されないで、
自分の心で何を考えるのか、自分でコントロールしたいものです。

ちなみに、私が心に刻んでいるピール博士の言葉は、
「You must fight against fear-ness through brave activity.」とか、
「Please change the focusing point to your strong point.」です。
意訳すると、「勇気ある行動で恐怖心と戦え」、
「自分の強みに焦点を絞れ」という感じでしょうか。
何かに悩みそうなとき、悩むのは時間のムダであると見切り、
ピール博士のような Positive Thinking で行動していく、
肝に銘じたいところですね。

[SE;KICHI]

ひっくり返ったカツカレー

先日お昼にカツカレーを食べたのですが、
その時私はカツをスプーンですくおうとして、
そのままテーブルにベチャッとひっくり返してしまいました。
ああ…、と思いました。
「こういうことの繰り返しの人生だった…」と。

こういう風に書くと悲壮感丸出しで、大げさな感じもしますが、
本当に、カツとカレーライスの間にスプーンを差し込んで持ち上げようとした時に、
カツが、哀れ半回転しテーブルに着地した瞬間は、
情けなさと諦めが入り混じった、何とも言えない気持ちになったのです。

私はよく食事中に何かしら落としたりこぼしたりします。
箸はもちろん、溶けたアイス一滴を服に落としたり、
グラスと口との距離感を誤って飲み物をこぼしてしまったり等々。
どれも一つ一つは大したことないかもしれませんが、
これが一度に何回も続くと恥ずかしいです。

そもそも遡れば20年近く前、お泊り保育のときに毎食お味噌汁がでたのですが、
私はそれを2食続けてひっくり返しました。
普段は子供のころの自分と今現在の自分はまったく別人だと考えている私ですが、
その時の写真…服を汚してしまったので1人だけ体操服に着替えている…
を見るたびに、さすが同一人物だなと思わずにはいられません。
こういった思い出や日頃の小さなミスがあるため、
人とのごはんは気が抜けません。
飲み物を注ぐときに手が滑ってしまうのではないか、
端に寄せたお皿を肘で落としてしまうのではないかと、おっかなびっくりです。
それでも少し気が緩んでしまい、
箸を落としたり、カツをひっくり返したりしてしまうのです。

話は変わりますが、『婚約者の友人』という映画を観ました。
ヒロイン・アンナは踏んだり蹴ったりの失恋をするのですが、
この、マネの“自殺”を見て、「この絵を見ると生きる希望が湧くのよ」と言います。

自殺
https://www.musey.net/4253/4297

「自殺」と「生きる希望」はまったく正反対の言葉だと思います。
劇中の男女の複雑な感情の動きにあまりついていけなかった私は、
このセリフで完全に「もう訳わかんないっすわ」となりました。

観終わったあとこの絵について調べたのですが、
研究はほとんどされておらず、テーマも不明だそうです。腑に落ちない…。
でも少し考えて、アンナはこの自らを銃で撃って死んだ男と、
自分を重ね合わせたのではないかと思いました。
アンナはたくさんの経験をして成長し新しい人間に生まれ変わります。
絵の中の男と同じように過去の自分はこの世からいなくなり、
新しい人生が始まった、ということなのでしょうか。
そう考えると、絵を前にしたアンナの、
どこか清々しい表情もなんとなくわかる気がします。

ここで話をカツカレーに戻します。
私はカツを落としたあと、「こういうことの繰り返しの人生だった」と言いました。
そのときは、「だった」なんて過去形にして縁起が悪かったなと思ったのですが、
あとからこの映画のことを思い出しました。
そうだ!「こういうことの繰り返しの人生だった」と言った瞬間に、
これまでのものを落としたりこぼしたりする私はいなくなり、
別の人間に生まれ変わったんだ!
アンナの大失恋と私のどうしようもない失敗を一緒にするのもおかしいですが、
こう考えた方が気持ちが前向きになって良いです。
よし、私はもう何も落っことさないぞ!
……もしくは、些細なミスは気にも留めない人間になるぞ!(早速弱気)


https://www.youtube.com/watch?v=KxQ6skvDSbc

[a.]

小さい小さい私

先月、子供たちの学習発表会がありました。
体育館には保護者席が設けられ、椅子席とござ席、
それから車いすの人の為の観覧席に分けられていました。
今では当たり前の光景になっていますが、
多くのお店や施設等にも車いすの方等のための専用の駐車スペースが設けられています。
自分が子供のころにはそのようなスペースなんてなかったと記憶しているので、
やさしい世の中になったなあと感じます。

さて、私の子供が通う学校は児童数が多い小学校なので、
保護者も参加する行事となると体育館のスペースが限られているため、
自分たちの子供の出番が終わったら、
次の出番の子供たちの保護者の方へ席を譲るシステムになっています。
私は3人の子供がいるため、後方の席からじわりじわりと前に進んでいきました。
後ろから進んでいくと、
前方に設けられている車いす席のスペースに近づいていきます。
ふと見ると車いすを使用していない母親と幼い子供が2名座っていました。
まあ、付き添いの方なんだろうなと思っていましたが、
しばらくして到着された車いすの方には付き添いの方が2名。
結局、車いすの方1名に対して一緒におられるのが4人でした。

そこで違和感を覚えてしまった、器のちっぽけな私。
そこ、そんな人数で観覧するところじゃないよね?


私が座っていた場所は、ござが一面に敷き詰められており、
わが子をより近くで見ようと必死の保護者たちが前に詰めよって座っています。
狭くて窮屈な思いのなか、
自分の体重に悲鳴を上げている足をかばいながらなんとか座っているのに、
その方たちは悠々と三脚も立てビデオを撮っておられたのです。
ござ席の人たちは三脚を三本足で立てることを制限されており、
立てるにしても一本足で、
そして高さは頭の高さまででお願いしますと言われていました。
それなのに・・・。

車いすの方も、付き添いの方も、当然その席におられていいと思います。
でも、付き添いって一人でいいのでは・・・?と、
心の狭い私は思わずにはいられませんでした。
私だったら、と考えたとき、付き添いは最少人数にして、
残りの家族は一般席で観覧すると思います。
その時はたまたま一組だったからよかったものの、
他にも多くの車いすの方がおられたら、
(まあ、その時は一般席に座るつもりだったのかもしれませんが)
はっきり言って迷惑ですよね。

狭いなか、せっかく撮っているビデオにも、
前に座っている保護者の方の揺れ動く頭部でわが子が撮れず、
でもおそらく、そんな自分の頭部も後方の方のビデオに写り込んでいるだろうから、
致し方ないなと自分を納得させているのに、
一人車いすの方がいるからといって、
そのご家族一同がそのゆったりとしたスペースで観覧されると、
疑問を感じずには、
そして怒りを感じずにはいられませんでした。
いやあ、ほんと小さいなあ、私。


これは今回のことに限らず、冒頭に述べた身障者用駐車場でも然りです。
このシステムは不便な人の為に、便利なように、が目的で設けられたはずですが、
よく私が目にするのは、身障者マークが貼付されていない車が停車されている場合や、
もしくは車体に身障者マークが貼付されているけれど、
中から出てくるのは車いすの方でもないし、ごく普通に歩いておられる方の場合です。
おそらく車いすの方を乗せることもあるのでしょうけれど、
シールが貼付されていれば、
身障者の人が乗っていない場合も利用していいんでしょうか。
平気で車を停め、降りてこられるその姿に、正直、怒りを覚えています。

何のための誰のためのスペースですか。

優しい世の中にするには、色々な人の協力が必要になると思います。
心の狭いちっぽけな私が言うのもどうかと思いますが、
ぜひ、何のために、誰のために考えられたシステムかを理解し、
自分だけが良ければいいという考えの方が、
少しでも少なくなればいいな
と願います。

[Okei]

レジリエンスの不足

レジリエンス【resilience】は大事だと言われます。

日本語では「再起力」などと言われていますが、
逆境に直面しようとも、諦めずに打開策を考え、現状を打破する力のことです。

“VUCAワールド”と呼ばれる、未来の予測が難しい現代においては、
状況を正しく認識し、迷わずに即応できる能力は不可欠であり、
仮に現状が逆境であるならば、考えを巡らしてそこから脱出する必要があるわけで、
これからの時代はレジリエンスが重要になってくるという話です。
私も、心底それはそのとおりだと思っていて、
たとえば同僚など、周囲にもレジリエンスは大事だと説いていたものですが、
机上の話と実践は違うのだと痛感する出来事がありました。

先日の平成の武者修行

大汝山
https://www.facebook.com/hokuriku.sidoujyuku/?hc_ref=ART9jN8de5HPpeYAwdiw5va150YHJstAdlARpyb7nH9m3aoRYV1v3N-1t5QL35HgyMk&pnref=story

当初は私も子供たちと一緒に山を縦走するつもりでいたのですが、
企画の途中段階で、山にキャンプ道具などを運ぶスタッフが足りないということで、
途中からそちらを担当することになったものの、
呼吸器に持病のある私はそれすらも医師から禁止されてしまい、
つまり、ドクターストップで山には登れませんでした。
ただ、前途ある子供たちに登山を体験させてやりたいという気持ち自体はあったので、
いろいろ考えた結果、食事や寝具の手配から講話まで、
地上のコーディネートを一手に担当することにしました。
実際に山に登る部隊の人たちはそっちに専念してください、と、
後方支援に徹する気持ちです。

今回の立山登山の旅では、
悪天候のために予定変更を余儀なくされる場面がかなりありました。
当然、実際に山に登る部隊のスタッフたちは、
状況を見ながら臨機応変の判断をしているはずです。
一方、地上担当としては、その判断について連絡を受け、
どこかに連絡をしたり、何かを手配しなおしたりというのが任務になるのですが、
受け身な“職場”ではありながら、実はこれが意外と忙しいのです。
しかも、なにぶん山ですので、電波状態も悪いため、
山上の判断がタイムリーに地上に伝わってこず、
たとえば、スタンバイして待ってるのに数時間待たされたり、
逆になんの準備もしていないのに突然何かを要求されたりと、
下界では想像がつかない山上の判断により、
下界の行動が刻一刻と変動する状態。


冷静に考えてみれば、
そもそも大切な子供を預かっているイベントなので、
山上での判断は高度であり、おそらく大変なプレッシャーであったと思います。
それは、山を知らない私にできることでは到底ありません。
それに引き換え、こちらの用件はといえば、
せいぜい「今晩、何食べたい?」レベルの、緊急性の低い話です。
冷静に考えればそうなのですが、
その渦中、振り回されていると感じた私は密かに苛立ち、
「もうヤダ!」と帰宅してしまおうかと、何度か思ったものです。

いや、子供たちのためという大義を思い出し、
かろうじて職場放棄は思いとどまりましたが、
これはとっても自分勝手な感覚です。

敗因は私の無知です。
そもそも、山というのは予想外のことが起こるもので、
山好きの人にしてみれば、
“そういうところも含めての山の魅力よ”などという感覚になるのでしょうが、
私自身は公家のようなタイプで、
たとえば「キャンプの醍醐味は不自由を楽しむことさ」みたいな話は、
実はほとんど理解できません。
山についても同様で、これまで山には少しも興味を持たずに生きてきましたので、
イレギュラーなことが起こるのが普通だという「山あるある」が、
少しも共感できていませんでした。

しかし、そのような私の経緯は、この際関係ありませんよね。
レジリエンスには、信念に基づき、
あるものでなんとかするという即興力が求められます。

最初、私は、自分に山に関する知識がないことを理由に、
いちいち座長の意見や指示を仰ごうとしていましたが、座長は山の上。
電波が悪い上に、高度な判断の連続で地上の手配関係までは頭が回らない状態。
そのような、誰も指示をくれない状況のなかで、
たまに「ポイズンリムーバー、買っといて」とか、短い指図が来るのです。
何だよ、ポイズンリムーバーって、聞いたことないよと舌打ちしつつ、
もはや、知識はないとしてもそんなことは言っていられないと腹をくくりました。
乾坤一擲、自分でやるしかないと。
結果、なんとか、ない知識を総動員して、駆けずり回って必要なものを買い揃え、
下山した子供たちに温かい食事や有益なワークを提供することができましたが、
それで正解なのか、最後まで肝を冷やしました。

結局、山に登っている者は下界のことなど考える余裕はなく、
また一方で、下界の者は山での状況が分かるはずもない。
つまりは、どうせ互いに分からないのだから、
無理して連絡を取り合って共有しようなどとは思わず、
自分の与えられた職掌で全力を尽くせばよいということです。
私に山の知識が不足しているとして、
そこから切り抜ける力がレジリエンスだったというわけです。
そこを悟るのに丸1日くらいかかってしまいました。

いやぁ、常々、レジリエンスは大事だと喧伝しており、
自分自身についてはそれなりにできているようなつもりでいましたが、
もう全然、自分にはそれが備わっていなかったことがよく分かりました。

その状況に置かれないと分からないことはあるといいますが、
まだまだですね。

[AKA]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
TEL:(076)451-0541
FAX:(076)451-0543

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〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

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