学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇

『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』
大先哲ソクラテスの言葉です。

「ソクラテスの弁明」
http://chibacarp.blog.fc2.com/blog-entry-450.html

「知を疎かにする者は場当たり的に道を歩き、
知を学ぶ者は一歩一歩確かな道を歩くだろう。」
なるほど、その通りだなと思います。

最近、色々なところで学ぶ機会が増えています。
例えばユーキャンのような資格を取る為の通信講座。
一昔前は有名おバカアイドルが猛勉強に挑戦の末、
資格を取ったことがすごいことだと大々的に宣伝するCMが流れていました。
応募して始めた人も多いのではないのでしょうか?

通信講座イメージ
https://www.sikaku-net.biz/sharosi-u-can-tusin

また芸能人が難関大学へ合格するため、
勉強して受験するという企画がテレビで流れていたりなど、
年齢は関係なく、
その気になればいつでも始められるんだという風潮が出てきた感じもしています。
書店へ行っても、学校で学んだ強化以外の分野を含めた学習本が、
所狭しとズラリと並び、人々の関心が大きいことを物語っています。
さらに資格や試験の為の勉強のみならず、
哲学や自己啓蒙に関わることまでへ広がり、
昭和の時代にあったような、
義務教育が終わったら後は社会に出てバンバン稼ぎ、
学ぶことは社会で学び、やがて定年を迎え、
余生を過ごすといった典型的な生き方のようなことは、
最近は薄らいできているように感じます。
(昭和の時代を生きた訳ではありませんが…すみません。)

集団就職 https://tetuzou-kisi.com/?p=853

話は変わりますが、かく言う私も、
最近四年制総合大学の通信教育課程へ入学致しました。
仕事や他の活動も行いながらの“三立”四立”の状態でかなり厳しいですが、
今からでも遅くない!進む!と自分で決めましたので、
卒業まで走りぬいて参る決意です。

選んだ学科は好きな歴史学などを学べる分野でしたが、
ある時、弊社の SE;KICHI さんとそのことについて車中で話す機会がありました。
「どうして勉強するのか?」という問いに対し、
私は仕事に直接関係もないし、今は自分の人生に厚みを持たせるためであり、
いわば自己満足なんだと伝えました。
すると SE;KICHI さんは、
「大学は義務教育と違って好きなことを好きなだけ学ぶところ。
そしてその学んだことをどんな形であれ、
誰かの為に使っていくべきだよ。
とのアドバイスに、私はハッとしました。

そして大学の入学式で読んだ創立者の一言にも、
「学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない。
人びとの幸福に寄与するためであり、
むしろ、大学で学ぶのは、
大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためである。」

との言葉があったことも思い出しました。

通教を始めた動機としては、
かつて諦めた学ぶ機会をもう一度得たいというのと、
自分の好きなことをやりたいという、
自分ベースでしか考えていなかったのですから、
その厚みというかもう一歩深く踏み込んだその崇高な目的感に、
自分の浅はかさを痛感、反省しました。
(決して卑屈になっているわけではありません。感銘を受けました。そうだなと。)

このことから、決して自己満足で留まるのではなく、
学んだことがそのまま活かせればそれはそれでなお良いかもしれませんが、
そうではなくても、周囲の人々に自分のできる範囲で貢献していくための光となり、
力になろうと改めて思いました。

弊社でも自己啓発セミナーをはじめ、仕事に直接関係がなくても、
人間的成長を高めるための学ぶ機会が多くあります。
これはとても大事なことだと感じています。
学ぶことは、絶えず成長していこうと前に進むことでもあります。
自分のみがずる賢く利益を貪る輩もいますが、
そうではなく、
周りの人や社会に尽くしていく自分に成長するため、
今日も学び、前進する一日でありたい。

そう決意しております。

[K.K]
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無になる時間

ハガニアシャトルバスが終了したこと、
これは、私にとっては、なかなかに残念なニュースでした。
2年に一度ほどの頻度でグアムに行っているのですが、
青い海には目もくれず、
聖母マリア大聖堂(通称ハガニア大聖堂)に行くことが主目的だった私、
昨秋、タモンからハガニアへの直通バスが廃止されてしまい、
乗り継ぎなどが必要となって、ものすごく不便になってしまいました。

まぁ、それは仕方ないのですが、その大聖堂に何をしに行っているのかというと、
それは、ズバリ、癒し。
瞑想的なことが大好きな私、
そのハガニア大聖堂で呆けたように座っているのが大のお気に入りです。

私とハガニア大聖堂との出会いは15年ほど前。
鉄道マニアに乗り鉄とか撮り鉄とかいろいろあるように、
実は、教会マニアにもいろいろあって、
そのひとつに聖遺物好きというジャンルがあります。
聖遺物というのは、イエスが磔にされた十字架とか、手足に打ちつけられた釘とか、
死を確認するために脇腹を刺した槍とか、イエスの遺体を包んだとされる布とか、
イエスや聖人たちの遺骸そのものや、殉教に関わる遺品群のことで、
たとえば、有名どころでは「最後の晩餐」で使用された聖杯など、
これはスペインのバレンシア大聖堂に安置されているのですが、
そのようなものが世界各国に遺されています。
日本は、鎖国していましたから、聖遺物が伝わることはありませんでしたが、
それはグアムも同じで、グアムの教会で拝観できる聖遺物はないものの、
あるとき、たまたま訪れたハガニア大聖堂では聖遺物に関するセミナーをやっており、
もちろん英語だったので私には難しかったのですが、
そこに参加して以来、聖遺物について、少しだけ興味を持っている私。
そういえば、5年ほど前に少しだけ書いた即身仏も、
まぁ、聖遺物といえばそうでしょう。
日本史で有名なザビエルの遺体もボム・ジーザス教会に祀られて、
たまに公開されていますしね。(爪だけなら日本に分祀されています)

まぁ、つまらぬ話をしましたが、
とにかく、そういう経緯で、ハガニア大聖堂を気に入ってしまい、
別にセミナーも何もやっていないときでも、
そこに座って半日くらい過ごすのが好きな私。

ここまでは前置き。
しかし、グアムは3時間ちょっとで行けるのが魅力ではあるのですが、
やはり国内よりも渡航に費用が掛かるので、そう頻繁には行けません。
そこで、私は、国内の代わりの教会でボーっとしたりするわけですが、
最近、さらにそれに代わるスポットを見つけました。
それが宮脇俊三的世界。
言わずと知れた、鉄道廃線跡を旅する大家です。

いや、私は、本気の廃線はダメです、怖いので。
私が特にちょうどいいと感じているのが、ココ。
ローカルな話で恐縮ですが、富山地方鉄道の大川寺駅。
もともとは遊園地が近くにあったそうで、それなりの規模の駅だったようですが、
遊園地閉園後、20年ほどかけて順調に朽ちていっている感じ。
近くには地名のもととなった大川寺というお寺があるくらいで、
いま、あんまりこの駅を利用する方はいなそうです。

大川寺駅

もともと、それなりに整備された駅だったためか、
往時と、現在の朽ちつつある情景とのギャップに萌えるというか、
一層強調された虚無感のようなものを感じます。

そこに身を委ねてみると、どうでしょう。
木々のそよぐ音のみが聞こえる静かな場所で、身も心もホウっと力を抜く時、
ゆっくりとゆっくりと、空間に溶けていくような感覚になります。
自分が空間に溶けだしていくのですから、
これが仏教用語でいうところの、“宇宙即我”の境地なのでしょうか、
日々に頭脳を支配している悩みや心配事も溶けてなくなり、
おおらかで活力あふれる感じになります。

しかし、駅舎は朽ちつつあっても、鉄路として生きていれば電車は来ます。
木の張り出した枝をかいくぐり、止まっていたかのような時間を引き裂いて、
電車はゆるやかに入線します。

普通 岩峅寺行き

写真は元東急8590系ですが、
空間に溶け出ていた私の自我は、慌てて私の肉体に戻るのでした。

学術的に、人生には瞑想が必要だと言われています。
人間は、制御しないとネガティブなことを考えやすいようで、
なんとなく頭脳を支配している悩みや心配事は、自らの自由度を奪い、
くだらない、義務感の毎日へと、人生の質を落としてしまいます。
位相を正してポジティブに生きるためには、どうしても瞑想が必要ですと、
そういうことのようですが、私は、それはその通りだと思います。
おしなべて、人生で大をなす方には定期的な瞑想の習慣があるようです。

もちろん、瞑想というのは何もせずに静かな場所で考えることであり、
酒を飲みながらぼんやり考えるとか、パソコンの前でいろいろ調べながら考えるとか、
そういうことを指してはいませんので、
そういう意味で、瞑想とは本来、教会や寺でやるべきなのでしょうが、
私は、スマホを置いて外界と断絶した環境さえ作れれば、
宮脇俊三的な、退廃的な環境に身を置いてみるのもいいのではなかと感じます。
汚いベンチを拭いて、そこに腰を下ろして目を閉じた時、
その効果は、確かに教会に似たものを感じます。
(正確には、仏教的には瞑想よりも経行に近い感じかもしれませんが。)

[SE;KICHI]

ありありと未来を思い描くこと

弊社の社長は、ダンディ坂野と同い年の51歳。
その彼の夢は、地域貢献としてスポーツ施設を作ることだそうです。
聞けば、サッカーや野球のようなメジャーなスポーツのための施設は多いものの、
特に田舎では、マイナーなスポーツのための練習施設等が不足しているため、
いつか、自分が、普段お世話になっている地域への報恩として、
スポーツ施設を作りたいと、まぁ、ざっくり言えばそういうことのようです。

コレ、素敵じゃないですか?
私自身は、スポーツ全般に少しの興味もないので、
その施設の必要性から採算性まで、ちょっとよく分からないのですが、
彼が、いつか地元にスポーツ施設を作れるような人物になりたいと、
その志を持っているところが素敵だと思うのです。

このブログではつい最近も、ジョセフ・マーフィーについて触れましたが、
マーフィー曰く、人間、思い描けもしないような未来は引き寄せられないと言います。
ということは、思い描くことのできる未来は引き寄せることができるということ。
つまり、地域貢献としてスポーツ施設を作ることを思い描いていれば、
それが叶う日は、やってくるということです。

ただし、「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルも言っていますが、
願いを叶えるためにはそれなりのコツもいるようです。
そのコツとは、思い描くのはありありと鮮明な未来でなくてはならないということです。
そりゃ、視界が曇っていては見通せなくなりますからね。
つまり、ありありと思い描ける未来は引き寄せることができると、
そういうことで、
弊社社長も、できるだけありありとその体育館の竣工を思い描いたほうが、
その夢は叶いやすいということです。

イメージングの力は偉大です。

私は、このことを堅く信じています。
つまり、自分の未来は常に明るいと、
こんなに頑張っている自分を神様が見捨てるはずがないと、
私は、このことを信じていますし、成功のイメージをありありと描いています。
そして、それを信じていれば、そういう未来が引き寄せられてくると思っていますし、
そうでない人物とは、人生、雲泥の差がつくに違いないとも、信じています。

そう思っていたとして、実際に何が起こるかは、私には分かりません。
しかし、そう思っていたほうが幸せじゃないかと思うのです。
どう思いながら生きていくかは、自分で完全に選べるんです。
つまり、自分の未来は常に暗い、
こんなに頑張っている自分を神様はお見捨てになるのだと、
そう思いながら生きることは、一体、誰を幸せにするでしょうか。
否定的な解釈をするクセのある人は、必ず否定的な人生を引き寄せています。
そういう、否定的なくだらない人生を生きている人、
みなさんの周りにもたくさんいるでしょう。

私たちは、年齢とともに要らぬ知恵がついて、
いろいろなことについて、現時点から考えて現実味があるのかないのか、
小賢しい“判定”をしてしまいます。
そして、「なかなか厳しそうだ」と“判定”したことについては、
悲観的に捉え、チャレンジをやめてしまいがちです。
つまり、「この状況から考えて・・・」という、現実的な“あきらめ”です。

これは、大人になることの弊害と言えます。
現在位置から行ける場所を考えたら、そこそこの場所にしか行けません。
最終目的地を決めたうえで、
イメージングを駆使して、そこに到達した自分をありありと思い浮かべ、
それから、そこに至るために、いま、自分はどのような一歩を出すべきか、
そういう考え方をしたいものです。

「忙しい」とは“心を亡くす”ことだと言われますが、
私たちは、日々の生活に追われ、未来をありありと思い描くことを忘れがちです。
このことが、人生をつまらなくする秘訣であると、私は思います。

ついでに言っておくと、もう一つの夢を叶えるコツは、
自分のイメージングを人に話すことだそうです。
冒頭の弊社の社長の夢は、私が勝手にこのブログで披瀝したもので、
もしかしたら、本人的には「そんなの人に話すのは恥ずかしい」かもしれませんが、
自分のイメージングは、他人に公表することで「公約」のようになり、
自己暗示にもなるし、協力者を集めることにもなるし、
なにしろ、人に話すことは、現実化への第一歩だそうです。

中小企業は社長次第だとよく言われますが、
確かに、社員側からすると、社長に賭けているようなところがあって、
社長と夢のビジョンを共有したいというか、
社長の夢を叶えてあげたいという人材の集まり方になります。
つまり、社長があきらめたら終わりなのです。
私は、弊社社長が、自身の夢をありありと思い描けている間は、
そのような未来を引き寄せることができると信じています。

みなさんは、どうでしょうか。

[AKA]

一流

最近とても心が温まった話があります。

先日、以前勤務していた土木工事会社に勤める高校の先輩から、
一本の電話がありました。
なんでも、社長が勤務中に脳出血で倒れてしまったとのこと。
驚く私に先輩は状況を説明してくれました。
現場で手足が痺れて立てなくなり、すぐ病院で手術になり、
一命は取り留めたものの、半身と呂律の痺れが残り、リハビリに励むしかないとか。
まだ51歳の方ですが、年齢なんて関係ないというか、恐ろしいものです。

高校時代、ラグビー部のマネージャーをしていた同級生の父でもある社長は、
自身も同校ラグビー部出身ということもあり、
以前より息子のように可愛がって頂き、
その縁で卒業後しばらく面倒を見て頂いた経緯があるので、
今回の件は私にとっても只事ではありませんでした。

集中治療室から出れても、
本人が人と会うと気を使ってかなり疲れてしまうらしく、
面会は避けてほしいと奥さん。
仕事も多くの現場を抱えていて、
ただでさえ少人数の会社なのに、
より大変なことになっていると従業員の皆さん。

何か力になれないかと考えましたが、
平日は本職があるのでやれることは少なく、
せいぜい皆様のお話を聞くことしかできないままの自分。
ほとんど何もできないと考えると、力不足を痛感しました。

前置きが長くなりましたが、そんな中、
私、SNSのツイッターをやっているのですが、
知り合いかも?というフォロワー予測欄に、
口髭が特徴の、元ラグビー日本代表・林敏之氏をたまたま見つけました。

林氏は、ラグビーの世界では有名で、
現役の頃も世界選抜に選ばれるほど、世界でも名の通った方でした。
数々のタイトルを所属した各チームで獲得、
第1回大会のラグビーワールドカップの日本代表主将も務めた経歴の持ち主ですので、
私はもとより、社長の世代も含めた大スターです。

林敏之さん
https://www.jiji.com/sp/d4?p=jws825-hayashiimg020&d=d4_uu

いわゆるフォローと呼ぶ友達申請をしましたが、
なんとその林氏からもフォローしてもらい驚き!
有名な方はなかなか一般の人にフォローしないことが多いので、
それだけでも興奮するのに、ましてやあの林氏ですから…!

ここまでは完全ミーハーの私。
嬉しさのあまり直接メッセージを送り、感謝の思いを伝えました。
それだけでも良いと思いましたが、
さらにそれに対して、よろしく!と返事までもらいました。

その時、興奮していた私は妙に冷静に閃きました。
あ、いま病気と闘っている社長に何かできるのでは?と。
少し欲張り過ぎかなと、少しだけ逡巡しましたが、
せっかく繋がれたのだからと、そのままメッセージ内で林氏へ、
自分もかつてラグビー経験者でした。
いま、その先輩であり、前の職場でお世話になった社長が大病をし、
苦しみながら病気と闘っています。
元気を出していただきたいので、どうかエールを送って頂けませんか?

と送りました。

するとすかさず林氏のからこのようなお言葉が。
特に送れるエールも無いのですが、楽しく苦しく美しく、で楽苦美です。
苦しさ楽しさを乗り越えて美しいトライや美しい友情が生まれたように、
人生も楽しさ苦しさを味わい尽くしてこそ、美しくなるのだと思います。
美しい人生をとお伝え下さい。


私は改めて驚き、そしてとても心が温まるように感じました。

まず、どこの馬の骨か分からないこんな自分や、
その先にいる会ったこともない社長に対して、
このような素敵な内容文を送ってくれたことに。

そしてまるで、目の前にいる1人を全力で励ますかのような振る舞いといいますか、
距離や立場を超えて、直接関わりない人をも、
瞬時にここまで励ませるんだと思うと、その心に感動しました。

ああ、やはり一流の人は違うな、
これがそうなんだな
と思いました。

すぐに社長の奥さんにやり取りのことを伝えました。
社長は大変喜んでくれたそうで、前を向いてリハビリに奮起していると聞きました。
エール文を送って頂いた林氏には本当に感謝です。
ありがとうございました。

できることは少ないことかもしれませんが、
人生の苦境に立っている人がいたら、それをどんな人だろうと全力で励ます、
その一流の心を、私も学び、実践していきたいものです。

[K.K]

ザラキに匹敵する呪文

“もがる”というと、『殯』を思い浮かべますよね、普通の方は。
現代では皇室や、北の偉い方ぐらいでしか見かけなくなりましたが、
ご存じのとおり、葬儀の前に遺体を長期安置する儀礼のことです。
現代の通夜は、この『殯』の儀式の名残だと言われていますね。

と、『殯』の説明をしてみましたが、
私が言っている“もがる”は、その話ではありません。
古語というか、最近では、あまり使われなくなりましたが、
強情を張る、逆らうというような意味の、“もがる”。

私は、自他を問わず、ある場面に出くわしたとき、
この“もがる”という単語を連想します。
そのある場面とは、「そうは言ってもさぁ」と、理想を否定する場面。

理想というと大仰に聞こえるかもしれませんが、
「サッカー選手になりたい」とか「お花屋さんになりたい」のような、
子供のころ、自分の将来に関して夢見ていたことから、
「もっとモテたい」や「もっと痩せたい」のような下世話なものまで、
自分が思い描いていることはすべて、ある種の理想であると言えます。

私の手元にある、昭和46年刊行の『マーフィー100の成功法則』という本には、
§1から、よいことを思えばよいことが起こる。
悪いことを考えれば悪いことが起こる。
と書かれています。
つまり、思ったことはその通りになるということです。

だとすれば、「サッカー選手になりたい」も「お花屋さんになりたい」も、
「もっとモテたい」も「もっと痩せたい」も、
思っていれば、それは叶えられるということです。
もちろん、ただボンヤリと思っているだけではダメで、
「どうしても叶えたい!」と強く念じ、そのためにどうすればいいかを考え、
たとえばリフティングの練習をするとか、花卉の専門学校に通うとか、
理想を叶えるための行動を起こすことが要求されるでしょう。
それは、多少の努力感を伴うことだと思いますが、
少なくとも、何も考えずに漫然としているよりは、実現に近づくはず。

よいことを思えばよいことが起こるということなら、
よいことを思っていたほうが自分のためでしょう。
要は、思っていれば、それは叶えられる、
じゃぁ、よいことを思っておけ
ということです。

これに対して、「そうは言ってもさぁ」という、
理想を否定する言葉はどうでしょうか。
「そうは言ってもさぁ」という言葉は、通常、
「現実は厳しいよね」という、否定的意味合いの文章の接頭辞として、
わりと軽く使われている感じがするのですが、
結局のところ、理想を妄想にすぎぬと切って捨てているわけです。
思っていれば、それは叶えられるという原則に従うならば、
理想を切って捨てるという願いが、
力強く叶えられることでしょう。


「そうは言ってもさぁ」という言葉で理想を打ち砕いているということは、
言い換えれば、自分の将来を粉砕しているわけで、
結果的に人生が台無しになるという意味で、
「そうは言ってもさぁ」という言葉は、
ザラキなどに匹敵する、それはそれは恐ろしい呪文です。
本人はお茶を濁しているだけの軽い感じの言葉だったとしても、
実は、強い破壊力で理想を打ち砕く働きをする、恐ろしい呪文なのです。

私は、言葉とはとても大切なものだと思っています。
ジョセフ・マーフィーの著作の和訳では、観念的に感じるかもしれませんが、
実際、「思っていれば叶えられる」というのは真実であろうと思います。
それは、“言葉には言魂が宿る”のような情緒っぽい話ではなく、
かつて「正語」という記事で語ったことがあるように、
言葉として自分や周囲の耳に聞かせることによって、
刷り込みというか、暗示のようなことにかかりやすくなると思うからです。
簡単に言えば、ロクでもないことばかり言っているヤツの周りには、
ロクでもないヤツらばかりが集まってくるという話です。

子供のころの叱られたトラウマとか、若いころの苦い失敗経験とか、
理想を否定したくなるような、「そうは言ってもさぁ」なんて、
誰にでも、それこそ掃いて捨てるほどあるでしょう。
しかし、そんな意味のない経験を思い出したところで、
理想が傷つくだけで、人生に少しのメリットもありません。
したがって、賢い人は過去には囚われないものです。
要は、理想を否定したくなるようなトラウマや経験は、
人生を暗くする分、思い出すだけ損というもの。

明るい未来をひっくり返さないために、
自分が思い出す記憶はコントロールして、
使う言葉にも気をつけたいものです。


[SE;KICHI]]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
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■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
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FAX:(076)451-0543

■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

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