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熱闘、甲子園!

枕草子に「有馬温泉」「玉造温泉」と並んで登場するのが「渋温泉」です。
猿が入浴することで有名ですね。
先日、渋温泉は春蘭の宿 さかえやさんにお邪魔しました。
こちらは豪華な高級旅館というわけではありませんが、
私は充分に満足するサービスを受けることができました。

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旅館業界には、『旅館甲子園』というのがあります。
自館の魅力や取り組み、仕事への思いを従業員がプレゼンテーションする大会です。
私は、その映像を見て、その旅館に泊まってみたいと思い、訪れたわけです。

私たちが来館した際、客室まで案内してくれた仲居さん。
着物につけた名札によれば梅沢有里さんという若くてかわいらしいお嬢さんで、
ご挨拶などもしっかりされていて、すこぶる好印象でした。
しかし、旅館甲子園の映像に登場する彼女は、
大勢の前で声を張り上げ、「私は不登校で、自傷行為を繰り返していましたが、
さかえやの就労体験のおかげで立ち直ることができました!」と言い、
「今度は私がみんなを支えます」と誓っていました。
いまでは、お客様のために太鼓のパフォーマンスを発案し、
傷を気にせず二の腕丸出しで太鼓をたたいている元気娘になりました。

また、渋温泉は外湯めぐりが有名なのですが、
私たちが外湯から戻った際、サッと新しい浴衣を用意してくれた番頭さん。
名札によれば堀内勇斗さんという爽やかな青年で、
実に細やかなところに気遣いをしていただけて、これまた好印象。
しかし、旅館甲子園の映像でのプレゼンによれば、
彼は漢字が読めず、食事の献立すら読めないため、
小学5年生の漢字ドリルで勉強しているんだとのこと。
そんな彼でも、番頭として館内を整備したいと、
コツコツ積み立てて、駐車場の舗装などを実現したんだそうです。

それから、私たちの夕食の給仕を担当してくれた菅原麻弥さん。
秋田出身で、大学からこちらに来たという彼女も、
よく話し、よく笑う、実に感じの良い方で、つい日本酒を追加注文してしまいました。
彼女も、映像によれば、さきほどの堀内さんなどの頑張りを見て、
接客部門の自分にも何かできないだろうかと考えた末、
オリジナルのプリンなどのメニュー開発に取り組み、
それが館内で思うように売れないと分かると、
近隣のコンビニに交渉して置かせてもらうなど、
目を見張る行動力を見せています。

ちょっとワケアリふうの社員さんが多いことにお気づきになったかもしれません。
そうなのです。
この旅館は、素泊まりでも一泊ひとり 10,000円くらいするのですが、
その分、付加価値を高めるということに注力しておいでです。
付加価値とは何でしょうか。
さかえやさんが考える付加価値は“人”なんだそうです。
コンサルタント出身の湯本社長は、旅館で働く「人」にスポットを当て、
スタッフ教育や目標共有のみならず、
不登校や引きこもり等の学生を受け入れるフリースクールを開校したり、
犯罪を犯した人の矯正に取り組んだりという地域貢献にも力を入れておられ、
これら、さまざまな取り組みが評価され、旅館甲子園では2連覇を達成されています。

湯本社長は、豪華な調度品とか、そんなものよりも、
社員を見てほしいと、しきりにおっしゃいます。

私は最初、そういうプロフィールだけを聞いて、
湯本社長という人物は、さそや強い信念を持って、
強いリーダーシップで社員を牽引していらっしゃる経営者なのかと思っていたのですが、
膝詰めで話をお聞きすると、ここまで決して順風満帆だったわけではなく、
事業承継がうまくできずにリーダーを退職に追い込み、
そのことによって労働裁判が巻き起こったり、
それを知った他のリーダーたちが一斉に退社したり、
社内のクーデターで突然団体交渉が始まったりと苦難が続き、
そんななか、唯一の頼りと思って意気投合していた料理長も通勤中に急死するなど、
様々な苦難が映画のように襲いかかってきていたそうです。

そんな湯本社長が、どん底で気づいたのが、
自分は従業員を見ていなかったのではないかという反省。
売り上げばかりを気にして、
従業員に寄り添った経営をしていなかったのではないかと気づいた湯本社長は、
部下を成功させることが上司の役目だと悟り、
全員で、お客様に喜んでもらえる旅館づくりに力を入れました。
いまは、どんな人でもみんなで一緒に働ける職場を作りたいという、
その思いだけで経営しておられます。

「ウチだって人は大事にしているよ」という会社は、数多くあるでしょう。
しかし、さかえやさんでは、お客様にご満足いただけているかどうかはもちろん、
どうやったらお客様に喜んでもらえる旅館づくりができるか、
社員の呼びかけで自発的に学習会が始まり、
経営者のビジョンや経営方針を全社員で共有する風土が生まれ、
現在では全社員が決算書を作れるようになっているんだそうです。
全社員が決算書を作れるようになっている会社が、日本にどれだけあるでしょうか。

企業の存続と発展には、
経営者と社員が心をひとつにすることが不可欠だと言います。
そのために、経営者は勘に頼った経営から脱却し、
日頃から真摯に学び、人格の陶冶に努めなくてはいけないと湯本社長は言います。
私は、ここに、その真髄を見た気がします。

さて、ところで、途中で少し触れましたオリジナルプリン。
味噌が隠し味になっていて、すごくおいしいです。

オリジナルプリン

1個 300円ですが、ついつい大量に買ってしまった私、
気づけばさかえやさんの目論見にまんまとやられている、
そんな感じです。

[SE;KICHI]
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キース・リチャーズ似の彼女

聖書というのは、読むごとに意外な発見があるもので、
もう20年以上前ですが、思い立って少し真剣に読んでみたところ、
いくつかのフレーズに心が奪われたものです。

そのひとつが「あなたの敵を愛せよ」という言葉。
“言葉”と表現してみたものの、
聖書という書物の特性上、これは実質、イエスからの命令です。
それから20年以上を経た私にとっては、敵を愛するなど難しいことでもないのですが、
当時、若かった私にとって、
確かに敵を愛することができれば、それに越したことはないとは思うものの、
かといって、そう簡単に敵を好きになれるものでもないだろうと、
未熟な私にはキレイごとのように感じられて、悶々と悩んだものです。

しかし、聖書は命令ではあるのですが、
よくよく読んでみると、
敵である相手を心から好きになれなどと命じてはいないことに気づきます。
つまり、たとえ心のなかは憎悪で煮えたぎっていようが、
行動において、相手が好人物である場合と同じようにふるまえと、
聖書はそのように命じているのです。
すなわち、内心と行動が違っていても、聖書はそれを許容するということですね。

もちろん、行為が智慧の具現である以上、聖書のその教えは方便だと思うのですが、
しかし、仮に内心は別であったとしても、行動を統御して習慣化することができれば、
習慣化の力が内心を超えることはあり得るように思います。
要するに、そのように振る舞っていれば、そのうち心もそうなるということです。

いずれにせよ、人間は、心のなかには嫌悪や憎しみを抱きながらも、
表情や行動には出さず、表面上の微笑や穏やかさを保っていれば、
いちおう、最低限のところで許されはすると聖書は説いているわけですが、
このところの社会は、思ったことは口にしてしまう社会で、
そういう表面上の“たしなみ”みたいなことを大事にしない感じがします。

たとえば、雑な言い方をすれば、
大人になるために、嘘くらいつけなければ穏やかには生きられないのかもしれませんが、
しかし、その嘘は、その場しのぎのデタラメではなく、
危機回避などのための深い配慮の結果である必要があるでしょう。
いわゆる“優しい嘘”ってやつですが、
そういう意味のある、おそらく聖書的に許される嘘のつき方というのは、
学校で教えてもらえるようなものではないでしょう。
つまり、一人ひとり、哲学がいるのです。

近頃は、テレビも新聞も週刊誌も、とてもうるさく感じます。

私は理系出身ですが、
年次が低いうちは、繰り返し『レポートの書き方』を習います。
そこでは、たとえば花が咲き誇っていたとして、
それを「美しい花」と表現することはいけないことだと教わりました。
美しいかどうかは見る者の主観であって、
それを他者に強いることはいけないことだというわけです。
様々な角度から描写を尽くし、
それを聞いた者に「たぶん、その花は美しいのだろう」と感じさせることが正しい描写で、
つまり、答えを書いてはならぬというわけです。

そこへ行くと、このところの押しつけがましい報道はどうしたことでしょうか。
パンダはかわいいとか、不倫はいけないとか、
説明に出てこない理事長はいけ好かんとか、
だいたい何であんなカタギではない雰囲気を醸し出しているのかとか、
テレビの中で結論を決め、それを押し付けられている感じが不快ですね。

私がたまに行く画材屋の店主は、
もうそろそろ80歳になろうかという常に穏やかなお婆ちゃんなのですが、
その彼女が、たびたび、
年を取ると耳が遠くなって、
つまらないことが聞こえないから幸せよ
と言います。
八千草薫のような上品そうなお婆ちゃんが言うのならともかく、
彼女はキース・リチャーズ似の、穏やかだけどロックな雰囲気な人で、
その彼女が、さもおかしそうに「年を取るって、幸せ」と話すのです。

そういう穏やかな矜持というのは、どうしたのでしょうか。
人間は、心もようを表情や行動には出さず、表面上でも穏やかさを保っていれば、
いちおう、最低限のところで許されはすると聖書に説かれているわけです。
キース・リチャーズでもそれができるというのです。
見た目が似ているだけですが。
いろいろ思うことがあっても、
それらを包み込んで、穏やかに「幸せ」と笑えるのが日本人だったはず。
みんな、どうしちゃったというのでしょうか。
日本、どうしちゃったというのでしょうか。

キース・リチャーズhttps://www.barks.jp/news/?id=1000084040

[SE;KICHI]

みなさん、どっちがいいですか。

今年は、累計180万部を突破した池井戸潤の小説を原作にした、
『空飛ぶタイヤ』という映画が公開されました。
ある日突然起きたトレーラーの脱輪事故。
整備不良を疑われた運送会社社長・赤松は、車両の欠陥に気づき、
製造元である大手自動車会社のホープ自動車に再調査を要求……と、
まぁ、映画のあらすじは別にいいのですが、
その主題歌が、サザンオールスターズの『闘う戦士たちへ愛を込めて』。

私は、なんというか、その歌詞に慄然としました。
自分のために人を蹴落として 成り上がる事が人生さ
それを許さず抗う相手には 殺られる前に殺るのが仁義だろう?
」ですって。

……この映画のテーマは、大企業のリコール隠しと、
それを四面楚歌になりながらも糾弾しようとする赤松社長の奮闘です。
マスコミを使おうとしても上層部からの圧力で潰され、
大企業の息がかかった銀行からは借入金の早期償還を迫られ、
先行きの不透明感から従業員の一部が辞めていくなか、
それでも孤軍奮闘する社長の姿を見て心を動かされる人が出てきて・・・という、
巨悪に立ち向かう弱者という構図の映画で、
最後には大企業のリコール隠しが公になるのですが、
このストーリー展開に、この主題歌はよく合っていると、
なかなかの高評価だそうです。

また、PVもえげつないんですよ。
最後まで見ていただければ分かりますが、
道に倒れた人を踏み越えて 見据えたゴールへとひた走る」って、
歌詞のとおりの競争が展開されています。


https://www.youtube.com/watch?v=uSFdckpwXQc

……う~ん、まぁ、人生にそういう面があることは理解していますし、
日本自体が、“喰うか喰われるか”みたいな国になって久しいのも事実ですし、
反語的というかアンチテーゼとしてつくられた作品であることも分かっていますが、
私は、ちょっと承服できませんね。

それにつけても思い出されるのは、
以前にも軽く触れたことのあるドラマ『ありがとう』です。
主役の水前寺清子の、
上目遣いで相手役の石坂浩二を見つめる表情がチャーミングでしたが、
民放史上最高の視聴率56.3%を記録したドラマだそうなので、
当時の国民の半分ちょっとが、水前寺清子を見て萌えていた計算になります。
その主題歌が、ド直球に、水前寺清子の『ありがとうの歌』。

じゃ~ん ちゃらちゃちゃちゃちゃんちゃ ちゃちゃんちゃー♪ という前奏は、
もし、スーパーイントロクイズをやれば、
当時ならほとんどの日本人が正解できたことでしょう。


https://www.youtube.com/watch?v=MXdAksOgyRM

お聞きになって思い出した方も多いかもしれませんが、
歌詞は、実は、そんな難しい構成になっていません。
いつも心に青空を いつも優しい微笑を
さわやかに みつめあい さわやかに 信じあう
」と。
そんな難しいことは歌っていませんが、実に清々しいですね。

このドラマは、婦人警官やら看護婦やら、舞台や配役を変えながら足掛け5年続き、
特に、視聴率56.3%を記録したのは看護婦編で、
国民は、こぞって石坂浩二と水前寺清子の恋愛の進まなさ加減にやきもきしていました。
私としては、水前寺清子演じる古山新(こやまあらた)に対して、
恋敵として登場する同僚看護師・水戸さん役の上村香子とか、
同じく同僚看護師で、病院御用達のラーメン屋の娘・もも役の沢田雅美とか、
あと、おしゃべりで、食べてばっかりいる外科医・宮川先生役の佐良直美とか、
登場人物のみんながみんな、泣いたり拗ねたり怒ったりしているんですが、
おぼこくてチャーミングだなぁと思います。

歌は、「今日も明日も ありがとう」と歌い上げて終わります。
はっきり言って、ドラマのストーリー展開に、この主題歌はぜんぜん合致していないのですが、
なにしろ、4年以上も同じ主題歌を聞いていれば、聞き慣れてくるもので、
だんだん、“今日も明日も ありがとう”に洗脳されてくるというか、
まぁ、そういうもんかなという気持ちになってきます。

しかし、『ありがとうの歌』から、そろそろ50年。
いまのスタンダードが『闘う戦士たちへ愛を込めて』だとすれば、
この50年で、「いつも心に青空を いつも優しい微笑を」から、
「自分のために人を蹴落として成り上がる」へと、スタンダードが変わったということ。
ちょっと、同じ文明とは思えない、隔世の感がありますよね。

みなさん、どっちがいいですか。

[SE;KICHI]

遠離一切顛倒夢想

林修先生が、「無常」の対義語は「常住」だと言っていました。
これは法華経や涅槃経に出てくる言葉で、完全な仏教用語です。
どこかの試験問題らしいのですが、すごい問題ですね。

常住というのは、永遠不変なこと、変化しないで常に存在することです。
仏教的価値観に照らせば、実際には、そのようなものは、世に存在しません。

仏教には、『四顛倒』という迷いの世界があります。

曰く、人間の外見に価値を見出していないか、
自分の外見を磨くことに熱中していないか。(→「浄」)
曰く、五感による感覚作用を重視していないか、
見ることや聞くこと、味わうことを重要視していないか。(→「楽」)
曰く、心の動きは変化しないものだと思っていないか、
愛する2人の関係など、人間関係が永遠だなどと誤解していないか。(→「常」)
曰く、自分の存在や財産は永遠だなどと思っていないか、
両親や自分の肉体でさえ変転しないと思っていないか。(→「我」)

つまり、これらは、この世で自分に起こってくる感覚を重要視する立場で、
仏教ではそれを野蛮な錯覚であると戒めており、
こういう倒錯した考え方に人間の苦しみが発生すると説いています。

最近は、犬猫のような生き方が流行っているのか、
「喜怒哀楽があってこその人間だ」とばかりに、
感情をストレートに吐露することを善きことともてはやす風潮があるようです。
人間関係でも相手の対応が満足なものでなければ「ムカつくっ」と口に出します。
これは仏教でいうところの、野蛮な錯覚です。
人間的というより、動物的な感覚ですね。

古来、日本人は、他人のことをとやかくは言わないものでした。
いろんな人がいるよねという寛容さがありました。

私は、たまに靖国神社へ参拝に出かけます。
遊就館で、有名無名の英霊の事績に触れ、
この国の今日が多くの方のおかげで成り立っていることを考えるとき、
自然と敬虔なというか、謙虚な気持ちが湧き上がってきます。
戦後の焼け野原や食糧不足を乗り越えて復興したこと。
男女問わず広く高等教育を受けられるようになったこと。
商業も発展して、世の中には仕事があり、経済が成長してきたこと。
国民皆保険で医療制度も充実してきたこと。
こういうことの礎になった方がいたからこそ、今日の日本があるわけで、
やや国粋的に聞こえるかもしれませんが、感謝の気持ちが強くなります。

いま、日本は、自分と違う価値観の人が現れると「ムカつくっ」と感情を露わにし、
攻撃し始めるという、なんか動物みたいな感じの国になってしまっています。
だいたい、怒りの気持ちというものは、
日常の些細な誰かからの言動などに起因するものですが、
それを力いっぱい外に放出することは、
仏教でいうところの、肉体・感覚・喜怒哀楽に振り回されている状態でしょう。

心とは無常なものです。
つまり、自分自身にのみ適用される、極めて自己本位なものです。
そういう自己本位な肉体や感覚に起因する心の動きを一旦押しとどめ、
湧いてきた喜怒哀楽をサラリと抑えるのが成熟した日本人のように思います。

自分の感情が何よりも正しく、
普遍的なものであるとは思わないことです。


そういうことって、練習しないとできるようにはなりません。
最近では(といってももう40年くらいは経っていますが)
アンガーマネジメントという、
アンガー(イライラ・怒り)をマネジメントするための心理教育が流行っていますが、
そういうものが流行るのも、
そうやって意図的にマネジメントしなければ、心は野生化してしまうということですよね。

このブログでは、過去に、坐禅を勧めたりヨガを勧めたり
怒り多い人に向けて数息観を勧めたりしてきました。

“坐禅”と聞くと、
「無念無想になることだ」という先入観を持っている人が多いようで、
「坐禅をしてもどうしても無念無想になれません」というような人もいます。
どうしても雑念が起きてしまうというわけですが、
無念無想というのは「何の念も想もないこと」ではありません。

念が起きるのは生きている証拠。
それはそれでいいのです。
雑念が起こるからといって、その「念」を払おうとすれば、
その「払おう」というのがまた一つの「念」となり、念がやむことはありません。
つまり、「念」などいくら起こっても構うことなく、
一切取り合わず相手にしないのが、正しい無念無想です。
それなら誰にだってできるでしょう。

起こってくる感情を忠実に表現しないことです。
それは感情に支配されている状態です。


仏教には、『四念処』といって、
「身念処・・・身体は不浄であると観察する。」
「受念処・・・感受するもの(五感)は苦を生むと観察する。」
「心念処・・・心(喜怒哀楽)は無常であると観察する。」
「法念処・・・法(自分の存在)は実体がないと観察する。」
という、迷いの世界からの脱出法も説かれています。
感情に支配されず、冷静に実態を観察することが大事なのです。

結局、肉体や感覚、喜怒哀楽に振り回されるなということです。

[SE;KICHI]

Шапоклякを笑えるか。

Шапоклякと書くと誰のことだかいまいち分かりませんが、
日本語で“シャパクリャク”と言えば、皆さんご存知ですね、
『チェブラーシカ(Чебурашка)』に出てくるキャラクターです。

シャパクリャクは主人公のチェブラーシカに意地悪ばかりするおばあさんです。

いいことしちゃダ~メ、まったくのム~ダ と、
そんなことを堂々と歌って大丈夫かと思うような歌を歌いながら登場します。
とはいえ、そこまで邪悪なキャラクターではなく、
昔の青島幸男の『いじわるばあさん』のような、
いたずらが大好きの、単なる人騒がせなおばあさんで、
平たく言えばコメディパートを担うキャラクターです。

視聴者は小悪党のシャパクリャクを見て笑うわけですが、
さて、彼女を笑う資格が自分にあるのかと考えたとき、
私は、一抹の居心地の悪さを覚えます。

戦前の日本は、“向こう三軒両隣”と言われるように、
みんなが助け合って、お互い様だねなどと言いながら生きてきたわけですが、
戦後、おそらく戦勝国の介入によって宗教心や道徳心が剥奪され、
代わりに「自分の身は自分で守る」という価値観を押し付けられてしまったため、
ある時期以降、両親から「お人好しは損をする」と戒められた人が増えました。
そのせいか、自分や自分の家族と社会との間に線を引いて、
一定の警戒心というか距離感をとって生活する人が増えたと言われます。

私は不満です。
「お人好しは損をする」なんて、聖書にも仏典にも書かれていないのに。

イエスは『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』と言い、(マタイ22)
使徒パウロも『あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい』と言います。(ローマ12)
つまり、聖書では、相手がいい人であるとか悪い人であるとか関係なく、
自分から周囲に愛を与えよということです。
仏教だって、忘己利他といって、
自分のことはいいから他人の利益のために生きなさいと説いており、
キリスト教と仏教は共通して、他者への愛を推奨しています。

この教えは、
相手がいい人であるとか悪い人であるとか関係なく、というところがポイントで、
その判断を人間が行うことを戒めている面があります。
つまり、相手がいい人であるか悪い人であるか、
考えるな、レッテルを貼るな、ということです。

そして、やってみたら分かるのですが、
相手がいい人であるか悪い人であるか考えないようにすると、
基本的にはみんないい人のように思えてくるものです。
いいですか、繰り返しますが、
レッテルを貼らなければ、たいていの人はいい人なのです。

私は、この、周囲に対する信頼感というのが意外と大事だと思っているのです。
かつての“向こう三軒両隣”なんて、相互に信頼感がなければ成立しません。
しかし、その信頼感があったからこそ日本は強かったわけです。
その信頼感は、相手に関係なく各自が「隗より始めよ」的な気概を持っていたから、
つまり、武士道というか、騎士道というか、陋規というか、
独立不羈の精神を持っていたからこそ、ユニットとしても強かったのだと思うのです。

それなのに、いま、「お人好しは損をする」などといって、
いま自分ができることを回避する人の多いこと
町内の環境整備しかり、学校のPTAしかり、身近でできるボランティアしかり。
最近では「コーヒー1杯分の募金で○人分のワクチンになる」という、
途上国支援の募金の依頼もよく目にしますが、みなさん、参加していますか。
自分ができることなんていくらでもあるのに、
損得で考えて参画を回避するエゴイスティックな自分ではありませんか。

いや、私とて、“お人好し”を手放しで良いとは思っていません。
ただ気弱なだけの「弱き善人」ではダメだと、森信三先生もおっしゃっておられます。
優しさだけが愛ではなく、相手のために厳しく叱責せねばならない愛もあるでしょう。
しかし、いま私が言っているのはそういうことではありません。

果たして、自分以外は敵なのかということです。
・・・キレイごとかもしれません。
でも、私には、損得を優先して身を守りながら生きるということは、
周囲を疑いながら生きているように見え、貧しいことのように思えます。
それに、損得を重視するのだとすれば、
「人を殺してはいけません」、「人のものを盗ってはいけません」という話も、
なぜそれがいけないのか、説明できなくなってしまいます。
自分さえよければいいと本気で思うなら、
銃の乱射などのニュースを見ても驚きはしませんよね。

私は、人生は解釈だと思っています。
どんな出来事が起こったかで人生の幸不幸が決まるわけではなく、
その出来事をどう解釈するかで、人生はまったく違うものになると思っています。
誰かに何かをして差し上げたとして、
「あぁ、お人好しだなぁ、損したなぁ」と思うのか、
「あぁ、喜んでもらってよかったなぁ、得したなぁ」と思うのか、
それは本人の解釈の問題ですが、
人生の態度として大きな差がつくのではないかと、信じてやみません。

Шапокляк
https://ja.gluons.link/subjects/relations/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%AF

[SE;KICHI]
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