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変態ちゃん

弊社の Okei さんにとっては、名前だけは聞いたことがあるレベルらしいのですが、
いま、「マリーゴールド」とか「ハルノヒ」とかを歌っている、
あいみょんという 24歳のアーティストが大人気ですよね。

私は、特にあいみょんのファンというわけではないけれど、
彼女の楽曲では「○○ちゃん」という曲が一番好きです。

彼女のメジャーデビューは2016年だそうですが、
その前の2015年に、『tamago』というアルバムをインディーズで発表していて、
「○○ちゃん」というのは、そこに収録されている楽曲です。


https://www.youtube.com/watch?v=OXYxa7UM4_g

歌詞は、
 お酒は大好きで悪酔いも少々 好きでもない男と寝たこともある  とか、
 早くに覚えすぎたタバコも 何度もやめようとは思ってる  とか、
 口癖はいいことないかな 幸せのレベルはもう下げた  とか、
 得意なことも趣味もない おまけに勉強もできないけど  なんて、
総じて、なんというか、そこらによくいる女の子を表現している感じです。
だいたい「○○ちゃん」というタイトル自体、
○○にどんな人名を入れてもそれなりに成立するような、
ごくごく普通の女の子の歌です。

ところで、この曲で、私が衝撃を受けたのはサビの歌詞で、
私のどこがダメですか?と繰り返されるところ。
つまり、この曲は、どこにでもいるようなごくごく普通の女の子が、
「私のどこがダメですか?」と訴えかけるという構図。

いやいや、ダメじゃないですよ!

実は、若手の多く、特に就職などの社会生活に支援が必要な若者たちと話すと、
この、「ボクのどこがダメなんでしょうか」というフレーズはよく出てきます。
そういうとき、私は、「そんな質問するところがダメだね」とか答えたりしますが、
焼け石に水、そういう人が多すぎて、ラチがあきません。

私は、これが、引きこもり(もしかしたら自殺者も)を生む要因だと思うのです。
彼らは言います。
「ボク、特に何にもできないんで」とか、
「ワタシ、なんかトロいらしくて」とか、
「オレ、どの仕事も長く続かなくて」とか。
そして、彼らは「一生懸命やってるんですけどね」とため息をつき、
「ボクのどこがダメなんですかね」と下を向くのです。

結局、、彼らはただ社会に順応できていないだけなのですが、
彼らは度重なる不適合の場面で傷ついて、自己肯定感を下げています。
場合によっては、なんらかの診断を受けているケースもあります。
そうすると、「ワタシ、発達障害って言われてて……」というのも加わります。

ところで、障害とは何なのでしょうか。
世の中には、雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めるという仕事があります。

バラバラの部品をひとつひとつ揃えてキレイに積み重ねて
数も整えて箱に詰める

そんなの、誰にでもできる仕事だと思うでしょう。
でも、少なくとも私は、そういう、コツコツ同じことを繰り返す仕事は苦手です。
先日、視察させていただいた作業場では、
働いているほとんどの方が何らかの障害をお持ちの方だと聞きましたが、
実に淡々と、作業に従事しておいででした。
淡々と手を動かして部品を揃える彼らと、そういうのが苦手な私。
果たして障害があるのはどっちなんでしょうか。
そう思うと、障害って、案外、単なる得意不得意なのかもしれないし、
個性に過ぎないのかもしれないと思うのです。

そして、私は思うのです。
これからは「変態」の時代だと。
自分がいかに周囲と違って特定の分野に偏った知識を持っているか、
自分がいかに手先が器用で特殊な技術を持っているか、など、
人間はロボットではないので、
いかに突出した個性を備えているかで勝負するしかないと思うんです。
雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めることができる……とか。

そうなってくると、周囲から浮くほどの個性を持っていても、
それは誇るべき武器になると思うんです。
実際、彼らは趣味の話だと、私が置いていかれるほど饒舌に語るのです。
つまり、彼らは、「何もできない」わけではなく、
それは、本人の幻想に過ぎぬのです。

私は、引きこもりや自殺を撲滅する運動家の人ではないので、
そこに特化してなんらかの考えを持っているわけではありませんが、
「私のどこがダメですか」などという、
そもそも「自分はダメである」ということを前提とした、
否定的な自己認識を持つ若者の蔓延は、
社会として健全ではないと思うのです。

自分も個性的な「変態」だと認識して、
それのどこがダメかではなく、
それを使って社会に参画するんだという、
たくましさを持って欲しいと思います。


あなたのどこも、ダメじゃないですよ。

[SE;KICHI]
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優しさというか……。

どうも、私はデリカシーに欠けるタイプらしく、しばしば怒られます。
本人がコンプレックスだと思っている外見上の特徴とか、
場合によっては、本人が隠したいと思っている過去の出来事とか、
そういうものについて言及しがちだからでしょう。

何故、言及するのでしょうか。
それは、事実として厳然とあるからです。
たとえば、目が一重だとか、鼻が大きいとか、あごが長いとか、
外見上の特徴をコンプレックスと感じる方は多いようですが、
そんなものは個性に過ぎず、コンプレックスと感じる必要もないと思うので、
私は気を遣わずに言及します。
すると、
「いや、コンプレックスと感じる必要もないって、それはアナタの考えで、
本人は触れてほしくないって思ってるんだから、わざわざ言わなくてもいいでしょう、
もっと気を遣ってあげてよ」と、
配慮のなさを指摘されます。

しかし、私は思うのです。
触れてほしくないところには触れないというのは、
それは本当に優しいことなのか、と。

2018年に全国で起きた交通事故による死者数は3,532人だったそうです。
一方で、自殺による死者数は20,840人に上るんだそうで、ほぼ6倍です。
それだけでも充分にセンセーショナルなニュースなんですが、
先日の厚生労働省の発表によれば、
戦後初めて日本人の10~14歳の死因として自殺が1位になったそうです。
中学生くらいの子供が、自分の意志でどんどん死を選んでいるということです。

私は悲しくてたまりません。
ちょっと、おかしいと思いませんか。
戦災も飢餓もない平和な日本なのに、
なぜ、こんなにどんどん死んでしまうんでしょうか。

私たちは、死を選ぶ2万の人々を、むざむざ見送るしかないのでしょうか。
なんとか助けてあげたいと思うのは、余計なことでしょうか。
でも、自分の家族がそうなる可能性だってないとは言えないわけですから、
余計なことでもないでしょう。

なぜ、こんなにどんどん死んでしまうんでしょうか。
それは、孤独感でしょう。
「どうせボクの悩みなんて誰もわかってくれないんだ」という孤独感です。

そこで、「そんなことで悩まなくて大丈夫だよ」とか、
「オレも昔経験あるわ。でもなんとかなるぜ」とか言ってあげれれば、
あるいは、死を選ぶ人は減るかもしれません。

しかし、その前提として、悩みを聞いてあげなくてはいけません。
もし、相手が自分の悩みを話すことに躊躇していたとしても、
悩んで思い詰めている相手を救うため、悩みは聞き出してあげなくてはいけません。
だいたい、悩みを“話す”ことは、悩みを“放す”ことになるといいます。
命がかかっているわけですから、
「言いたくないなら、言わなくていいよ」などと言っている場合ではないのです。

だいたい、悩みの渦中にある人というのは、視野が狭くなっています。
聞き出してみると、意外とチンケな悩みだったりするのですが、
本人は「もうダメだ」と思い詰めていますから、
ちょっと慰めたり励ましたくらいでは、悩みから脱出できないものです。
では、どうするのか。
ときには、「ふざけんな、しっかりしろ!」と叱責することもあっていいと思うのです。
私は、これこそが愛だと思うのです。

たとえば、同僚など、自分に縁のあった方が、何やら悩んでいる様子の場面、
どうしたのか聞いても、「放っておいてください」の一点張りだったとします。
そうかそうか、本人の望みなら仕方ないよねと放っておいたとして、
そのうち悩みに悩んだ本人が思い詰めて自殺なんかしたらどうするのですか。
「おや、望みどおり死ねてよかったね」と思いますか。
私だったら、
どうしてあの時、肩をつかみ、頬を張り倒してでも止められなかったのかとか、
自責の念にとらわれることと思います。

愛していたら、ほっとけないはずです。

誰にも触れられたくない過去とか、出生の秘密とか、肉体の欠損とか、
そういうものもあるかもしれません。
私にも、何もないわけではありません。
もし、それを自分で光明転換でき、前向きに生きていけるのであれば、
それは、わざわざ人に言うようなことではありませんし、別にそれでいいのです。
しかし、誰にも触れられたくない過去とか、そういうもので悩み、
それを自力でポジティブに捉えられなくなっているのであれば、
誰かがそれに気づいて、そこに手を突っ込んで腕をつかみ、
そこから引きずり出してあげなければ、
その人は助からないのです。

相手はどんどん悩みを深めているかもしれませんから、
「言いたくないなら、言わなくていいよ」などと言っている場合ではないのです。

これは、ちょうど、アレに似ています。
大震災などの救助活動。
家屋が倒壊して足などが挟まっている人を発見したとき、
その人が「私にかまわないで、行ってください」と言ったとして、
「あ、そうですか」と立ち去ったりはしないでしょう。
「そんなこと言わないで、いま助けます」と、
自分に何ができるかは別にして、なんとかしようとするでしょう。
それが、家族や友人知人であればなおさらです。
それが人間というものです。

“人生、山あり谷あり”などと言いますが、本当にそうです。
「生まれてこの方、順風満帆だ」という人はいないでしょう。
誰の人生にも、苦しいことや辛いことなんて、いくらでも起きるんです。
もっと言えば、過去に誰かから言われた言葉とか、子供のころの苦い体験とか、
そういうのを原因としたトラウマや恐怖心のようなものも、
誰の心の中にも沈殿しているものでしょう。
しかし、それが自分の考え方のクセの原因になっているのですから、
それに触れないというのは、臭いものにフタをしているだけで、
誰のためにもならないでしょう。

どうも最近、「○○ハラスメント」とか言って、
本人の気に障ることには立ち入らない風潮が強いですが、
私たちは、そういうことを超えて、
挫折や理不尽によって意欲を失いつつある人たちに関心を持ち、
一人でも二人でも、死なせないように、
関わっていくべきなのではないでしょうか。

[SE;KICHI]

かっこいい生き方

昨年の9月に女優の樹木希林さんがお亡くなりになりました。
私はそれほどファンではなかったし、
出ておられる映画などは特に見ていませんでしたが、
郷ひろみさんとのデュエットや、某メーカーのプリンターのCMでの姿に、
変わった人だなあとの思いは抱いていました。

彼女に少し興味を持ち始めたのは、
ガンだと公表されたあたりだったかなと記憶しています。
芸能界の方にせよ、一般の方にせよ、多くの方がそうであろうと思いますが、
通常は重い話題であるにも関わらず、
樹木さんはとてもさっぱりとされていました。

なぜこの人はこんなにもあっけらかんと、
自分の置かれた状況を受け入れているのだろう、楽しそうにも見える、
きっとこの人は死ぬのが本当に怖くないのだろうと思ったとき、
この力の抜けた姿勢がうらやましく感じました。

誰に媚びることもなく、自分の思うように発言し、そして誰も傷つけない。
それでもまだファンになったわけではなく、
まだお元気で活躍されているなあと、テレビなどを通して知り、
そのうちに段々と、気になる存在になってきました。

ここ数年あたりでしょうか。
老いを受け入れることや、
物に執着しないほうがいいなどという彼女の意見が、メディアから聞こえてきました。
言うのは容易いけれど、なかなか実践できないことをさらりとやっておられます。
人前に出る仕事の人は一般の人よりも、より難しいでしょう。
それを他人に見せつけるでもなく、押し付けるでもなく、
自分がそれを良いとして自然とやっている。
失礼かもしれませんが、”芸能人らしい”振る舞いをされていない樹木さんが、
すごく身近に感じられ、あくまでも自然体でいる姿がかっこいいと思っていました。

樹木さんの告別式での内田也哉子さんのあいさつが話題になったのは、
記憶に新しいところです。
あまりに素敵な文面すぎて、(頭が良くないので)
自分の中に入るまで何度か読み返しが必要でしたが、
その中に、也哉子さんが紹介してくれた、
心にとどめておきたい樹木さんの言葉がありました。

『おごらず、人と比べず、
面白がって、平気に生きればいい』


この言葉の中で特に大事なのは「面白がること」だと思います。
いろいろ起こることを「楽しむ」のではなく「面白がる」。
これは自分なりに納得のいく解釈をしていくことかなと思います(もちろん前向きに)

起こり得ることにはすべて意味があると私は思っているので、
仮につらいことがあった場合も、
時間がかかっても受け入れることはできるはずです。
ただそれを、面白がり、平気に生きるとなると、なかなか難しいことのように感じます。
そこをあえて「俯瞰的に見る」ことで、見えていない色々なことが見え、
平気に生きていけるのでしょう。

多くの人が、樹木さんの言葉に勇気をもらったり、
生き方のヒントをもらったりしているようです。
樹木さんのように、それを難なくこなせるようになれば、
きっと、自分だけにとらわれず、
もっと人の為にさらりと楽しく自由に生きて行けるような気がします。

なんて格好つけて言ってはみたものの、やっぱり白髪もほうれい線も気になるわ~。

まだまだだなと、思い知らされます。

[Okei]

羅怙羅さん

宇治の手前に黄檗というところがあります。
そこにあるのが黄檗山萬福寺、黄檗宗の本山です。
黄檗宗は、隠元という中国僧によって伝えられた宗派で、
読経は、たとえばオーソドックスな般若心経ひとつとっても、
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空 …」を、
クァンツサイプサ ヘンシンポゼポロミトス チャウケンウインキャイクン …と、
古い中国語の発音で詠まれるなど、
なんというか、異国感が満載なお寺です。
安置されている仏像も、明朝の彫刻家 范道生による造像で、
日本にはないエキゾチックな魅力を放っています。

まぁ、そのように、そもそも、このお寺の仏像は特徴的なのですが、
なかでも、仏像マニアにとって、このお寺を有名にしているのが、
十六羅漢像です。

羅漢というのは、仏教における最高の悟りを得た聖者のことです。
この萬福寺の場合、御本尊は釈迦如来ですが、
その周囲を囲むように、16体の羅漢像が配置されています。
このお寺は、仏像などの写真撮影が許可されている珍しいお寺なので、写真でご紹介しましょう。

大雄寶殿 本尊 十六羅漢像

羅漢というのは悟っちゃった存在ですから、
細かいことを思い悩んだりはしません。
そういうわけで、羅漢像は無邪気で、ヘラヘラ笑った像が多いです。

羅漢①羅漢②羅漢③

そんな、無邪気なオヤジのような像の中にあって、
ひときわ異彩を放っているのが、畢利颺瞿洲第十一羅怙羅尊者です。
コレです。

畢利颺瞿洲第十一羅怙羅尊者

手ブラ……でしょうか……
もう少し近寄ってみましょう。

羅怙羅 アップ 羅怙羅 接写

!!!
胸の裂け目から仏様が覗いてます!
なかなかシュールなビジュアルですね。

実はコレ、以前にご紹介した『衣裏繋珠のたとえ』を表しています。
それは、どんな人間も、尊い仏性を持っているというたとえで、
ここでいう仏性というのは、仏様のような穏やかな心という意味です。
結局、自他ともに、どんな人間でも、
仏様のような穏やかな心を持っていると言いたいわけです。
実に深遠な仏性の教えなのですが、
その、仏様のような穏やかな心を表現しようとして、
つまり、“心の中の仏”を表現しようとして、
勢いあまって、胸の裂け目から覗く仏の顔を彫っちゃったというわけです。
なんというか、斬新なセンスですが、
体内に仏が住んでいるということを表現したかったということはよく伝わります。

実は、この羅怙羅尊者という人物はお釈迦さまが出家前にもうけた実の子です。
この名は、
サンスクリット語の、「障害 / 悪魔」を意味する「ラーフ」を語源としていて、
つまり、妻の懐妊を知った当時16歳のお釈迦さまは、
誕生を喜ぶどころか「障害である」と捉え、この名を与えたということです。
人生について深く考えていたお釈迦さまにとり、子は出家の障害だったのでしょう。
しかし、羅怙羅尊者は、父からそのように思われていることや、
周囲から仏陀の子として特別視されていることを深く意識し、
決して驕ることなく、人一倍の精進を重ねたと伝えられています。
その結果、自己の仏性を体現する存在となったというわけです。

それにしても、体内に仏が住んでいるというイメージは、
よく考えてみれば、とても合理的だと思うのです。
だって、自分に自信が持てずに苦しんでいる方に対しては、
あなたの中にも尊い価値があるのだからねというエールになるし、
一方で、他人に対する責めの気持ちが止められない人には、
相手の中にだって尊い価値があるのだよという戒めになるわけです。

さて、冒頭にも述べましたが、仏像マニアにとって、
この萬福寺を有名にしているのが十六羅漢像です。
なかでもこの羅怙羅尊者は不動のセンターです。
それはいいのですが、
顔出しパネルまで作っちゃうのは、ちょっとどうなんでしょうか 笑

顔出しパネル

[SE;KICHI]

にくきもの

枕草子の第28段は有名な「にくきもの」という段で、
そこには、「にくきもの(=憎たらしいもの)」がいろいろ挙げてありますが、
物うらやみし、身の上嘆き、人の上言い、
つゆ塵のこともゆかしがり聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じそしり、
また、わづかに聞き得たる事をば、われもとより知りたる事のやうに、
こと人にも語りしらぶるもいとにくし。

と書かれています。
これはつまり、他人を羨んで自分の身の上を嘆き、
人の噂話をし、根掘り葉掘り聞きたがって、教えてもらえなければ逆恨みまでする。
また、ちょっと耳にしたことを、知ったふうに他人に話して聞かせる。
こういうのは、たいそう憎たらしいものだ
……ということですね。
枕草子といえば平安時代中期の成立ですが、
作者の清少納言の視点には感心させられます。
だって、この「にくきもの」に挙げられているようなバカ者、現代にもいますもんね。

さて、先日、知人が家族旅行で台湾に行ったそうです。
それも秘密裏に。
なぜ秘密裏なのかというと、嫉妬を受けるかもしれぬからとのこと。

う~ん。
秘密で行くなんて水臭いなぁと思う反面、
嫉妬を気にして発言に気をつけねばならない社会って、どうなんでしょうか。

私は、幼いころに聖書の『第一コリント13章』に触れ、
そこで説かれている「寛容で親切であれ。人をねたむな。自慢せず、高慢になるな。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思うな」という教えを、わりと大切にして育ってきました。
そして、それは、濃淡はあっても、みんなそう思ってるだろうと思っているため、
実は、嫉妬という感覚がよく理解できません。
私自身も含め、人間、嫉妬はないとは言いませんが、
そもそもポジティブな感情ではないので、各自が自制するものであって、
不用意に嫉妬を撒き散らすことはないだろうと思っているのです。
だから私も、誰かに嫉妬することは少ないし、
逆に、自分が嫉妬されることもないだろうと思っています。

私が長く教わり、肝に銘じてきたのは、
もし、誰かの行為(旅行など)に対して、自分が「いいなぁ」と感じたとしても、
その人は、何かズルをして労なくして実りを手に入れたわけではなく、
相応の努力(旅行であればせっせと資金を積み立てたとか、
仕事を融通して休める日を捻出したとか)を重ね、
その結果を手に入れたのだということです。
だいたい、経済状況から名誉や健康に至るまで、
すべての結果は、当人の努力によって成り立っているのであって、
努力して手に入れたものへの嫉妬はお門違いというもので、
むしろ、その努力に対して「よかったね」と『祝福』を与えるべきでしょう。

また、嫉妬というか、羨ましいという感覚は、それが自分の理想像でもあるということですよね。
先を越されて悔しいとか、そういう感情でしょう。
そうであれば、自分も、その理想に向かって努力精進しよう!と決意するべきであって、
妬んだり、嫌味を言ったりすることは、自己の理想像の否定することになります。
それって、自分にとっても損なことであると言われています。

ちょっと理屈っぽくなってしまいましたが、
だいたい、嫉妬って、なんのためにするんでしょうか。
嫉妬している本人は、嫉妬している状態が楽しいんでしょうか。
嫌味を言っている人は、誰のためにそれを言っているんでしょうか。
誰もハッピーにならないなら嫉妬なんてやめたらいいし、
誰も喜ばないなら嫌味なんて言わなかったらいいんです。

「あらあら、ご家族で海外旅行だなんて、優雅ねぇ」と言うとき、
そのあとに続くのは、「ウチなんて、とてもとても無理ですわ」という言葉。
これは、一見謙遜のようにも聞こえますが、
結局、相手をハッピーにしない言葉だし、
自分には無理だという自己暗示をかける言葉です。
昔から「つぶやく者の恋は成就しない」というでしょう、
意図もないのに「とても無理ですわ」とか言っていると、
本人の望み通り、ハッピーは遠ざかっていくに違いありません。

しかし、私自身はよく理解できていない嫉妬ですが、
体感的に、世の中には嫉妬の気持ちを持っている人が多いことは知っています。
冒頭の家族旅行の彼も、嫉妬を警戒して発言の抑制を強いられているわけですから、
事実、その潜在的な影響はかなり大きいようです。

軽く想像してみましょう。
いま、旅行者が、嫉妬を気にして旅行したことを公言しにくいとします。
それでは、何だったら公言しても大丈夫なのでしょうか。
おそらく、家もクルマも家電も、何か高額の買い物をしたことは秘密でしょう。
相撲や歌舞伎を観に出かけたり、有名な美術展を鑑賞に行ったり、
被災地に寄付したようなことも公言してはいけないことになります。
そうすると、人に公言できるようなことはほとんどなくなり、
昨日、コンビニでパンを買って食べましたくらいの、
意味のない体験談しか言えなくなります。
結果、努力によって手に入れたものについて、話すことができなくなります。

努力によって手に入れたものについて、話すことができない社会とはなんでしょうか。
それは、昔ならソビエト、今なら北のアノ国みたいな感じでしょう。

だいたい、私自身の感覚に従えば、
“スペイン周遊8日間”などであれば、いま調べたら 1人38万円ほどらしいので、
それは、もしかしたら嫉妬を受けるかもしれないとは思うのですが、
台湾なんて、下手な国内旅行よりも安く行けるというのに、
それでも、聞いた側が嫉妬することがあるとすれば、
それは内容と関係なく、もはや、嫉妬すること自体が目的化しているということでしょう。
果たして、それのどこが楽しいのでしょうか。

誰かの話を聞いて羨ましいと思うことは自然ですが、
次のステップとしては「アタシも頑張ろうっと」などと決意するのが上策であり、
本当に、そう決意した人が努力すれば、同じ結果を手に入れることができるわけです。

寝言みたいな話ですが、みんながみんなそのように行動すれば、
社会はもっと良くなり、豊かになると思うのです。
一方で、みんながみんな嫉妬して、努力した人の嫌味を言うようになれば、
成功者になりたいと思う人はいなくなってしまいますし、
成功者になりたいと思う人がいなくなってしまえば、
全員一律、突出するものがいない社会になってしまいます。
一億総中流などと言って、日本人はそういう環境を好みそうですが、
牽引する者が不在の社会は、早晩、停滞します。
つまり、嫉妬は社会を停滞させると思うのです。
そう思えば、嫉妬というのはかなりの害悪ですよね。
その害悪を目的にしている心の動きが自分にあるとすれば、
日本の未来や子供たちの未来を思った時、厳に慎むべきです。

いいですか、日本の未来をダメにするのは嫉妬です。
人の成功話を聞いて、嫉妬の気持ちが沸く人は、
自分が日本の未来をダメにする活動をしていると自覚しましょう。

『ヘブル人への手紙』によれば、
私達が嫉妬心を抱くのは、
神様が下さったものに満足していないときであると言います。
なるほど、自分に与えられたものではなく、他人に与えられたものばかり見て、
「神様はなんだか不公平だなぁ」とか思っていれば、
そりゃ、嫉妬するようになりますよねぇ。

嫉妬の反対は祝福です。
みんなが祝福のマインドで他者を肯定し、
家族で旅行に行った話や念願のクルマを買った話を気兼ねなくできる社会こそ、
日本の繁栄のためには不可欠だと思います。

[SE;KICHI]
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kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
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