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Шапоклякを笑えるか。

Шапоклякと書くと誰のことだかいまいち分かりませんが、
日本語で“シャパクリャク”と言えば、皆さんご存知ですね、
『チェブラーシカ(Чебурашка)』に出てくるキャラクターです。

シャパクリャクは主人公のチェブラーシカに意地悪ばかりするおばあさんです。

いいことしちゃダ~メ、まったくのム~ダ と、
そんなことを堂々と歌って大丈夫かと思うような歌を歌いながら登場します。
とはいえ、そこまで邪悪なキャラクターではなく、
昔の青島幸男の『いじわるばあさん』のような、
いたずらが大好きの、単なる人騒がせなおばあさんで、
平たく言えばコメディパートを担うキャラクターです。

視聴者は小悪党のシャパクリャクを見て笑うわけですが、
さて、彼女を笑う資格が自分にあるのかと考えたとき、
私は、一抹の居心地の悪さを覚えます。

戦前の日本は、“向こう三軒両隣”と言われるように、
みんなが助け合って、お互い様だねなどと言いながら生きてきたわけですが、
戦後、おそらく戦勝国の介入によって宗教心や道徳心が剥奪され、
代わりに「自分の身は自分で守る」という価値観を押し付けられてしまったため、
ある時期以降、両親から「お人好しは損をする」と戒められた人が増えました。
そのせいか、自分や自分の家族と社会との間に線を引いて、
一定の警戒心というか距離感をとって生活する人が増えたと言われます。

私は不満です。
「お人好しは損をする」なんて、聖書にも仏典にも書かれていないのに。

イエスは『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』と言い、(マタイ22)
使徒パウロも『あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい』と言います。(ローマ12)
つまり、聖書では、相手がいい人であるとか悪い人であるとか関係なく、
自分から周囲に愛を与えよということです。
仏教だって、忘己利他といって、
自分のことはいいから他人の利益のために生きなさいと説いており、
キリスト教と仏教は共通して、他者への愛を推奨しています。

この教えは、
相手がいい人であるとか悪い人であるとか関係なく、というところがポイントで、
その判断を人間が行うことを戒めている面があります。
つまり、相手がいい人であるか悪い人であるか、
考えるな、レッテルを貼るな、ということです。

そして、やってみたら分かるのですが、
相手がいい人であるか悪い人であるか考えないようにすると、
基本的にはみんないい人のように思えてくるものです。
いいですか、繰り返しますが、
レッテルを貼らなければ、たいていの人はいい人なのです。

私は、この、周囲に対する信頼感というのが意外と大事だと思っているのです。
かつての“向こう三軒両隣”なんて、相互に信頼感がなければ成立しません。
しかし、その信頼感があったからこそ日本は強かったわけです。
その信頼感は、相手に関係なく各自が「隗より始めよ」的な気概を持っていたから、
つまり、武士道というか、騎士道というか、陋規というか、
独立不羈の精神を持っていたからこそ、ユニットとしても強かったのだと思うのです。

それなのに、いま、「お人好しは損をする」などといって、
いま自分ができることを回避する人の多いこと
町内の環境整備しかり、学校のPTAしかり、身近でできるボランティアしかり。
最近では「コーヒー1杯分の募金で○人分のワクチンになる」という、
途上国支援の募金の依頼もよく目にしますが、みなさん、参加していますか。
自分ができることなんていくらでもあるのに、
損得で考えて参画を回避するエゴイスティックな自分ではありませんか。

いや、私とて、“お人好し”を手放しで良いとは思っていません。
ただ気弱なだけの「弱き善人」ではダメだと、森信三先生もおっしゃっておられます。
優しさだけが愛ではなく、相手のために厳しく叱責せねばならない愛もあるでしょう。
しかし、いま私が言っているのはそういうことではありません。

果たして、自分以外は敵なのかということです。
・・・キレイごとかもしれません。
でも、私には、損得を優先して身を守りながら生きるということは、
周囲を疑いながら生きているように見え、貧しいことのように思えます。
それに、損得を重視するのだとすれば、
「人を殺してはいけません」、「人のものを盗ってはいけません」という話も、
なぜそれがいけないのか、説明できなくなってしまいます。
自分さえよければいいと本気で思うなら、
銃の乱射などのニュースを見ても驚きはしませんよね。

私は、人生は解釈だと思っています。
どんな出来事が起こったかで人生の幸不幸が決まるわけではなく、
その出来事をどう解釈するかで、人生はまったく違うものになると思っています。
誰かに何かをして差し上げたとして、
「あぁ、お人好しだなぁ、損したなぁ」と思うのか、
「あぁ、喜んでもらってよかったなぁ、得したなぁ」と思うのか、
それは本人の解釈の問題ですが、
人生の態度として大きな差がつくのではないかと、信じてやみません。

Шапокляк
https://ja.gluons.link/subjects/relations/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%AF

[SE;KICHI]
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先日、自宅の真裏で火事がありました。
放火です。 20時頃でした。
外がサイレンの音で騒々しくなってきて、
どうせスピード違反車を追っているんだろうと思っていましたが、
どんどん近づいてくるのです。
そしてその音が止まった時、妙に焦げ臭い・・・。

その時私は二階の部屋に居て窓を開放していたので、
異臭が漂ってきたことへ気づくのにそう時間はかかりませんでした。
え!?っと思って外を眺めたら、
隣家の大木の下にある草木がボーボーと燃えているのです。
付近には灯油用ポリタンクを携え、立ち尽くす隣人。
うわっ!と思ったその刹那、
「何やってるんだ!危ないからどいてっ!」と颯爽と消防士が飛び込み、
ものすごい水圧ですぐに消火をしました。
その後、ミスト状の水に変え、重ねて消火をしているうちに、
今度は警察官達がぞろぞろと。
「お前がやったのか!?」と、隣人に問い詰め、
そのまま連行していきました。
現場は、緊迫した状況の中で、
後から次々と駆け付けた消防士達で溢れかえり、
マスコミ関係者、近所の野次馬なども出てきて大騒ぎになりました。

放火現場

その一端を見ていた私は不安になり、
付近へ外出中であった両親へ直ぐ電話をして呼び戻し、状況を説明。
口うるさい父は、自宅に被害が無いか確認、母は動揺を隠せず狼狽しておりました。
近くに住み友人達からもひっきりなしに連絡が来て、安否の確認がありました。
自身と自宅の安全は確保できたと、まず安堵はでき、一旦落ち着くことはできましたが、
この後どうなるのかが、全く想像つきませんでした。

ほどなく、警察官の1人が自宅に訪ねてきました。
事情聴取とのことで、「発生当時を知る方はおられますか?」と、私に質問が。
こんな状況です。
警察官と話すのが嫌とか言っていられません。
緊張しておりましたが、自分の知る限りの情報を伝えました。
すると警察官から
「犯人は、お宅のお祖母ちゃんに言われたから、やったと言っている。」と。
両親はどうやら心当たりがあり、事の展開を理解したようです。
家の裏にある隣人宅の古いもみじの木が巨大化し、自宅に迫っている。
その落ち葉が風によって飛び、雨樋に詰まって腐らせるから、
早く撤去するように言いつけてきたと、祖母から聞いたと話しました。
(実際は詰まったりなどしていませんが。)

再度警察官に促され、母は青ざめた表情で祖母を呼びに行きました。
間もなく祖母が出てきて警察官から状況の説明と質問を受けると、
赫々たる物言いで話し始めました。
祖母曰く、
「今までも何度か行ったが会えず、昨日やっと会えた。
うちがとても迷惑しているから、早く撤去するように!と、
今まで我慢していた思いをぶつけるように言ってやった。」と。

それを聞いた瞬間、私は強烈な違和感と不快感を覚えました。
「え、はあ!?」とした表情で、開いた口が塞がらない両親を横目に、
祖母は質問内容とずれた自宅の保身と利益が大事と言わんばかりの、
自己最優先した持論を展開。
家の為にやってやったんだと得意げな顔で喋り続けました。
そして「隣人は前から変で、頭が狂っているからやったんだ!」と侮辱する始末・・・。
実は祖母は少し認知症が入っており、感情の起伏があったり、
訪ねた時間を問われても実際の時間とのずれがある証言をしたりと、
会話も成り立ってはいませんでした。
それゆえ個人的感情ばかり入った情報とみて、これ以上は無意味と判断してか、
警察官は足早に帰っていきました。

終わった後、両親は憔悴したのか、早めに休みましたが、
私はこの出来事についてずっと考えていてなかなか寝れませんでした。
そして思いました。
“この事件は、犯人は隣人だが、そうする助長をしたのはうちの祖母ではないのか?”
また、”うちの祖母が、その隣人の人生を狂わせてしまったのではないか?”と。

聞いたところによれば、その隣人は知的障がいをお持ちの方で、
ご両親には先立たれ、一人暮らしだったそうです。
定職にも就けず、いろいろとご苦労も多かったのではないかとお察します。
終わってからはどうとでも言えますが、
もっと相手を労り、手紙を書くとか対話をするなど、
他にもやり方があっただろうにと思うと、残念でなりません。
そう考えたとき、その隣人はある意味被害者なんだと思います。

やったことは紛れもない事実であり、
この国は法治国家ですから、健常者障がい者共に平等に裁かれるべきであり、
結果として現行犯逮捕をされました。
しかしそれは表面的なもので、
自分の都合ばかり押し通し、
根底に相手のことを思いやる心が無かった祖母の言動が、
今回の悲しい事件に繋がったのではないかと思うと、
この祖母の言動こそが、
私は本当に裁かれなければいけない”悪”である
と、
断じたいと思います。

それは祖母だけではなく、私たち一人一人の心の中にあるものでもあります。
よく「自分のことばかり言うな。」とも言いますが、
本当にその通りですね。
場合によっては、こんな事態になってしまうのだと思うと、
改めて自らの振る舞い、考えを見直さねばいけないですね。

騒ぎの後、心配して訪ねてくれた町内会長は、
隣人の残された親族と協議して、問題のもみじの木を伐採するそうです。
他の家の方もそのような木と、火を付けかねない人間がいたら、
それは誰であろうと嫌がるのは当然かもしれません。
しかし、この教訓を活かすならば、
自分の都合ばかりを押し付けるのではなく、
相手に寄り添って解決していかないことには、
本当の問題は解決しないでしょう。

この問題の本質は人間の心の中にあると思いますので。

不快に思われた方や、重たく感じられる方もおられると思いますが、
この体験から何か教訓が得られるのでは?と、じっくり考えさせて頂きました。

[K.K]

……カミングアウト😓

夏なので、肉を焼いたり歌を歌ったりする機会が増えます。
このところ、カラオケでは米津玄師さんの「Lemon」を歌うことの多い私。
が、“♪それだけが確か”から7拍あける大サビの入りが難しいですね、あの曲は。

さて、そんな私なのですが、最近、やけに怒られるのです。

社内で仕事の打ち合わせをするときなど、
たとえば、私が「○○はどうなってますか」という質問をした場面。
相手は「その件については、以前、△△ということで、◻︎◻︎をお勧めしたのですが、
お客様が、もう少し仕様を検討したいということで、先月……」と、
私に分かりやすいようにと、過去の経緯に遡って返答してくれます。
実は、私は、これが、あんまり理解できないのです。
いや、頑張ってついていこうとはするのですが、
「……以前、△△ということで……」という、話し出しところに気を奪われてしまうと、
その後の核心めいた部分まで集中力が続かなくて、
どうやらポカーンとした顔をしてしまったり、窓の外を眺めてしまったりして、
「もう、聞く気ないなら、話しません」と、相手を怒らせてしまうのです。

もちろん、少しも悪気はないのです。
しかし、「○○はどうなってますか」という私の質問に対して、
私が「○○はこうなってます」という一問一答的な回答を想定しているためか、
過去の経緯などを含めた長い回答になると、
途端に「え、なんで、この人はこんなに長く話すんだろう」と考えてしまって、
内容に関する理解が難しくなるのです。
はぁ・・・・・・このことで何度 Okei さんに怒られたことか。
最近では「聞く準備ができてから話しかけてください!」と、
それはそれはつれないものです。
いや、聞く準備はできてるんですけどね。途中で解除されちゃうだけの話なんですけど。

しかし、私には、このようなことが幼い頃からあり、
私は、自分の理解が及ぶ内容については熱心に話を聞ける一方、
理解が難しい内容については誰の話も聞けないというタイプのようで、
学校の先生や親を悩ませてきました。
以前、話したとおり、私のIQは高いのかもしれませんが、
実際の対人関係で相手の話を理解できずにポカンとするということでは、
IQなんか高くても、結局、頭は悪いのではないかと、
長年、悶々としてきたわけです。

そうやって、長く、自分の理解力に疑問を持ってきた私でしたが、
少し前、ちょっと知り合いの専門家に診てもらったところ、
注意力が散漫なわけでも、ましてや頭が悪いわけでもなくて、
「そういうタイプの脳だ」ということなのだそうです。
聞けば、脳にもいろいろタイプがあるらしくて、
たまたま、私はそういう、
ちょっと、それっぽい分類名称もある特徴的なタイプだと、
まぁ、そういう説明でした。

この診断を聞いた私は、ショック……を受けることはありませんでした。
なあんだ、そういうことかぁ、
そういうことなら、早く教えてくれたら良かったのに、
そしたら、もっと早く自分の扱い方が分かったのに。

と思いました。
だって、長年、自分は理解力が低い、頭が悪いと思ってきましたが、
そうではなくて、単なる、私の脳の特徴だと分かったので、
気が楽になったというのが正直なところです。

これは、左利きなんだよねとか、毛深いんだよねとかのような感じで、
個性だという考え方なので、治療が始まったりはしません。
まぁ、最近では薄毛は病気だといいますが。
とにかく、できることは、
左利きの人が左利き用のハサミを買うように、
自分の特性を知ったうえで、それに沿った生き方をするだけ。

私は、このことは、意外に大事なことのような気がしています。
そろそろクライマックスを迎える朝の連ドラ『半分、青い。』は、
ヒロインに身体的な障害がある史上初の朝ドラとして話題になりました。
主人公の鈴愛は、小学3年生の時の病気で、突如、左耳の聴力を失いましたが、
この『半分、青い。』というタイトルは、主人公の鈴愛が自身の耳の聞こえ方を、
雨天時に傘をさしても、左側に降る雨の音は聞こえなくて、
まるで右側だけ雨が降ってるみたい、
・・・つまり、左側だけ青空みたい、と表現した言葉です。
子供とはいえ、ポジティブなものです。
母親の晴さんは、
代わってやりたい、ピカピカで産んだのに。
ピカピカの鈴愛やったのに。あの子に申し訳ない。」と泣くのですが、
当人とは、存外そういうものかもしれません。

病気しかり、障害しかり、置かれた境遇を悔やんでも憎んでも、
実際のところ、何の解決にもならないでしょう。
私は、受け入れてそれと一緒に生きるべきだと思います。
なぜなら、弊社の Okei さんの慧眼が冴えわたっている通り、
私も、何事も起こることには意味があり、起こるべくして起こっていると思うから。
だから、降りかかってくる境遇は、認めるべきであって、
避ける姿勢は、人生に正面から向き合っていないと、私は思います。

私は、学生さんの就職支援の活動もしているのですが、
大学などの就職担当の方とお話ししていると、
発達障害や、その疑いのある学生さんの話題になっていくことが、意外とあります。
もちろん、就職担当の方は、わが子のように学生の就職を支援しており、
発達障害の学生に対しても好意的で親身なのですが、
問題は、そのことを認めようとしない親御さんや本人なのだそうです。
つまり、「人並みであること」に執着するあまり、
本人に適切なサポートが与えられないケースが多くあり、
そのことが、本人の将来を奪っていると。

そういう話を聞くと、私は残念に思います。
私だって、発達障害と同じに扱ってよいかは分かりませんが、
長い話は聞けないものの、その文章からキーワードを探すことはできるのです。
一般よりも少しだけ特徴的な脳だっただけで、
社会に適合できないとみなされるのは、ちょっと遺憾だなと思います。

もちろん、“変わり者”だから許されるだなんて思ってはいませんし、
これからも、私の態度にイラつく Okei さんに平謝りの毎日が続くわけですし、
他団体で私のアシスタントを務めてくださっている方からは、
「せめて聞いている“フリ”だけでもしてください」と叱られ続きですが、
しかし、もしも、私と同じ感じで悶々としている人がいらっしゃるようでしたら、
診察でも受けて、開き直ってしまわれるのも一手かもしれないと思い、
恥ずかしながら筆をとった次第です。

冒頭に触れた米津玄師さんだって、
実は、高機能自閉症なんだそうです。
だけど、最近のヒット曲連発はご存知の通り。
つくづく、一般的であることだけが高価値ではないのだと思います。
それまで、別にそれほど米津玄師さんのファンでもなかったのに、
そのことを聞いて急に親近感が湧いた、現金な私です。
少し古いですが、「アイネクライネ」もいいですね。

[SE;KICHI]

学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇。

『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』
大先哲ソクラテスの言葉です。

「ソクラテスの弁明」
http://chibacarp.blog.fc2.com/blog-entry-450.html

「知を疎かにする者は場当たり的に道を歩き、
知を学ぶ者は一歩一歩確かな道を歩くだろう。」
なるほど、その通りだなと思います。

最近、色々なところで学ぶ機会が増えています。
例えばユーキャンのような資格を取る為の通信講座。
一昔前は有名おバカアイドルが猛勉強に挑戦の末、
資格を取ったことがすごいことだと大々的に宣伝するCMが流れていました。
応募して始めた人も多いのではないのでしょうか?

通信講座イメージ
https://www.sikaku-net.biz/sharosi-u-can-tusin

また芸能人が難関大学へ合格するため、
勉強して受験するという企画がテレビで流れていたりなど、
年齢は関係なく、
その気になればいつでも始められるんだという風潮が出てきた感じもしています。
書店へ行っても、学校で学んだ強化以外の分野を含めた学習本が、
所狭しとズラリと並び、人々の関心が大きいことを物語っています。
さらに資格や試験の為の勉強のみならず、
哲学や自己啓蒙に関わることまでへ広がり、
昭和の時代にあったような、
義務教育が終わったら後は社会に出てバンバン稼ぎ、
学ぶことは社会で学び、やがて定年を迎え、
余生を過ごすといった典型的な生き方のようなことは、
最近は薄らいできているように感じます。
(昭和の時代を生きた訳ではありませんが…すみません。)

集団就職 https://tetuzou-kisi.com/?p=853

話は変わりますが、かく言う私も、
最近四年制総合大学の通信教育課程へ入学致しました。
仕事や他の活動も行いながらの“三立”四立”の状態でかなり厳しいですが、
今からでも遅くない!進む!と自分で決めましたので、
卒業まで走りぬいて参る決意です。

選んだ学科は好きな歴史学などを学べる分野でしたが、
ある時、弊社の SE;KICHI さんとそのことについて車中で話す機会がありました。
「どうして勉強するのか?」という問いに対し、
私は仕事に直接関係もないし、今は自分の人生に厚みを持たせるためであり、
いわば自己満足なんだと伝えました。
すると SE;KICHI さんは、
「大学は義務教育と違って好きなことを好きなだけ学ぶところ。
そしてその学んだことをどんな形であれ、
誰かの為に使っていくべきだよ。
とのアドバイスに、私はハッとしました。

そして大学の入学式で読んだ創立者の一言にも、
「学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない。
人びとの幸福に寄与するためであり、
むしろ、大学で学ぶのは、
大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためである。」

との言葉があったことも思い出しました。

通教を始めた動機としては、
かつて諦めた学ぶ機会をもう一度得たいというのと、
自分の好きなことをやりたいという、
自分ベースでしか考えていなかったのですから、
その厚みというかもう一歩深く踏み込んだその崇高な目的感に、
自分の浅はかさを痛感、反省しました。
(決して卑屈になっているわけではありません。感銘を受けました。そうだなと。)

このことから、決して自己満足で留まるのではなく、
学んだことがそのまま活かせればそれはそれでなお良いかもしれませんが、
そうではなくても、周囲の人々に自分のできる範囲で貢献していくための光となり、
力になろうと改めて思いました。

弊社でも自己啓発セミナーをはじめ、仕事に直接関係がなくても、
人間的成長を高めるための学ぶ機会が多くあります。
これはとても大事なことだと感じています。
学ぶことは、絶えず成長していこうと前に進むことでもあります。
自分のみがずる賢く利益を貪る輩もいますが、
そうではなく、
周りの人や社会に尽くしていく自分に成長するため、
今日も学び、前進する一日でありたい。

そう決意しております。

[K.K]

無になる時間

ハガニアシャトルバスが終了したこと、
これは、私にとっては、なかなかに残念なニュースでした。
2年に一度ほどの頻度でグアムに行っているのですが、
青い海には目もくれず、
聖母マリア大聖堂(通称ハガニア大聖堂)に行くことが主目的だった私、
昨秋、タモンからハガニアへの直通バスが廃止されてしまい、
乗り継ぎなどが必要となって、ものすごく不便になってしまいました。

まぁ、それは仕方ないのですが、その大聖堂に何をしに行っているのかというと、
それは、ズバリ、癒し。
瞑想的なことが大好きな私、
そのハガニア大聖堂で呆けたように座っているのが大のお気に入りです。

私とハガニア大聖堂との出会いは15年ほど前。
鉄道マニアに乗り鉄とか撮り鉄とかいろいろあるように、
実は、教会マニアにもいろいろあって、
そのひとつに聖遺物好きというジャンルがあります。
聖遺物というのは、イエスが磔にされた十字架とか、手足に打ちつけられた釘とか、
死を確認するために脇腹を刺した槍とか、イエスの遺体を包んだとされる布とか、
イエスや聖人たちの遺骸そのものや、殉教に関わる遺品群のことで、
たとえば、有名どころでは「最後の晩餐」で使用された聖杯など、
これはスペインのバレンシア大聖堂に安置されているのですが、
そのようなものが世界各国に遺されています。
日本は、鎖国していましたから、聖遺物が伝わることはありませんでしたが、
それはグアムも同じで、グアムの教会で拝観できる聖遺物はないものの、
あるとき、たまたま訪れたハガニア大聖堂では聖遺物に関するセミナーをやっており、
もちろん英語だったので私には難しかったのですが、
そこに参加して以来、聖遺物について、少しだけ興味を持っている私。
そういえば、5年ほど前に少しだけ書いた即身仏も、
まぁ、聖遺物といえばそうでしょう。
日本史で有名なザビエルの遺体もボム・ジーザス教会に祀られて、
たまに公開されていますしね。(爪だけなら日本に分祀されています)

まぁ、つまらぬ話をしましたが、
とにかく、そういう経緯で、ハガニア大聖堂を気に入ってしまい、
別にセミナーも何もやっていないときでも、
そこに座って半日くらい過ごすのが好きな私。

ここまでは前置き。
しかし、グアムは3時間ちょっとで行けるのが魅力ではあるのですが、
やはり国内よりも渡航に費用が掛かるので、そう頻繁には行けません。
そこで、私は、国内の代わりの教会でボーっとしたりするわけですが、
最近、さらにそれに代わるスポットを見つけました。
それが宮脇俊三的世界。
言わずと知れた、鉄道廃線跡を旅する大家です。

いや、私は、本気の廃線はダメです、怖いので。
私が特にちょうどいいと感じているのが、ココ。
ローカルな話で恐縮ですが、富山地方鉄道の大川寺駅。
もともとは遊園地が近くにあったそうで、それなりの規模の駅だったようですが、
遊園地閉園後、20年ほどかけて順調に朽ちていっている感じ。
近くには地名のもととなった大川寺というお寺があるくらいで、
いま、あんまりこの駅を利用する方はいなそうです。

大川寺駅

もともと、それなりに整備された駅だったためか、
往時と、現在の朽ちつつある情景とのギャップに萌えるというか、
一層強調された虚無感のようなものを感じます。

そこに身を委ねてみると、どうでしょう。
木々のそよぐ音のみが聞こえる静かな場所で、身も心もホウっと力を抜く時、
ゆっくりとゆっくりと、空間に溶けていくような感覚になります。
自分が空間に溶けだしていくのですから、
これが仏教用語でいうところの、“宇宙即我”の境地なのでしょうか、
日々に頭脳を支配している悩みや心配事も溶けてなくなり、
おおらかで活力あふれる感じになります。

しかし、駅舎は朽ちつつあっても、鉄路として生きていれば電車は来ます。
木の張り出した枝をかいくぐり、止まっていたかのような時間を引き裂いて、
電車はゆるやかに入線します。

普通 岩峅寺行き

写真は元東急8590系ですが、
空間に溶け出ていた私の自我は、慌てて私の肉体に戻るのでした。

学術的に、人生には瞑想が必要だと言われています。
人間は、制御しないとネガティブなことを考えやすいようで、
なんとなく頭脳を支配している悩みや心配事は、自らの自由度を奪い、
くだらない、義務感の毎日へと、人生の質を落としてしまいます。
位相を正してポジティブに生きるためには、どうしても瞑想が必要ですと、
そういうことのようですが、私は、それはその通りだと思います。
おしなべて、人生で大をなす方には定期的な瞑想の習慣があるようです。

もちろん、瞑想というのは何もせずに静かな場所で考えることであり、
酒を飲みながらぼんやり考えるとか、パソコンの前でいろいろ調べながら考えるとか、
そういうことを指してはいませんので、
そういう意味で、瞑想とは本来、教会や寺でやるべきなのでしょうが、
私は、スマホを置いて外界と断絶した環境さえ作れれば、
宮脇俊三的な、退廃的な環境に身を置いてみるのもいいのではなかと感じます。
汚いベンチを拭いて、そこに腰を下ろして目を閉じた時、
その効果は、確かに教会に似たものを感じます。
(正確には、仏教的には瞑想よりも経行に近い感じかもしれませんが。)

[SE;KICHI]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
TEL:(076)451-0541
FAX:(076)451-0543

■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

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