FC2ブログ

故障者たち

いやあ、流行ってるんですかね、「あおり運転」
というか、「あおり運転」とか呼ばれてはいますが、
急いでいるドライバーが、前方の遅い車を後ろからあおったという話ではなく、
何に怒ったのか、進路妨害して車を停めさせ、ドライバーの顔を殴ったということで、
これは別にあおっているわけではなく、ただの暴行ですよね。

このニュースを見て、私だって、その犯人をけしからんとは思うのですが、
一方で強く感じるのが、「恥ずかしい」という感覚です。
大人というのは、世の中の子供たちの規範となるべき存在であるはずなのに、
一部の大人とはいえ、このようなろくでもない姿を子供に見せてしまい、
同じ大人の一人として、子供たちに対して恥ずかしいと、そういう感じ。
偉そうに「仲良く助け合いましょう」と子供に呼び掛けておきながら、
面識もないドライバーを殴るなんて、子供に向ける顔がないでしょう、大人たち。

それにしても、何にそんなに腹が立つというのでしょうか。
私は、「他人に対して腹を立てない」という戒を立てているので、
100%とは言えないまでも、他人の言動に感情が乱されることは多くありません。
それは立派な人格だとか、そういうことではなくて、
単に「人はそれぞれだ」と達観しているにすぎないのですが、
そういう私の感覚からすると、
仮にろくでもない運転をするドライバーが近くにいたとしても、
そんなに、殴りつけなくてはならぬほど腹が立つことはないと思うのですが。

ちょっと、最近、自分の感情に忠実な、すぐ怒る人、多い気がします。
どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
なんというか、日本人は温厚で助け合う民族だったと思うのですが、
そういう日本人感覚が故障しちゃってる人、増えてるんでしょうか。

さて、故障しちゃっている人といえば、知人から聞いた話。
あるところに、90歳台の老婆と60歳代の義理の娘が住んでいたそうです。
“義理の娘”というのは、つまり、そのお婆ちゃんの息子の嫁ということなのですが、
その息子はとうに亡くなっているため、姑と嫁の2人暮らしということです。
それも、まぁ、ちょっと変わった家族構成だなとは思うのですが、
仲良くやれているのであれば別に問題ないと思いきや、
その嫁は、姑のことを徹底的に無視するんだそうです。

無視と書きましたが、姑と嫁という微妙な関係性なので、
互いに干渉しないという紳士協定みたいなものならよいと思うのです。
そうではなく、悪意ある無視。
嫁は姑の食事を用意せず、自分だけはムシャムシャ食べる。
姑は運転ができないので、自分で食事を調達することもできず、
腹をすかせた状態でひっそりと暮らしているとのこと。
冷蔵庫を開ければ何か出てくるかもしれないけれど、
食べられそうなものは、
ご丁寧にも、背の低い姑では届かないような高い場所にしまわれている、と。

これは、「あおり運転」と一緒で、
無視とかじゃなくて、存在を認知したうえでの意地悪です。
姻族である嫁と姑は、それをつないでいた夫と死別した時点で、
同居を解消しても構わないと私は思うのですが、
まぁ、経済的な事情などで同居せざるを得ない場合は、
一緒に住むからには、感情は別として、
それなりのオペレーションというか、ルーティンはあると思うのです。
本当は顔も見たくないと思っていても、最低限の挨拶はするし、
食事は用意するでしょうし、洗濯や掃除も然りです。
なんというか、本当はイヤでイヤで仕方ないと思っていたとしても、
そして、そのことが相手に薄々でも伝わっていたとしても、
感情を抑えて何事もないかのように振る舞うのが大人というもので、
正面切ってそれを確認させないようにするのが不文律でしょう。

どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
だいたい、90歳台の老婆に一貫して意地悪をするとか、
それなりに主体的な悪意を持っていないとできませんよね。
お婆ちゃん、逆縁に見舞われたうえにこの仕打ち、
長生きなんてするもんじゃないと思っていることでしょう。

また別の家では、入り婿で、いわゆる「マスオさん」になっている婿が、
妻やその両親と同居しながら徹底して没交渉を決め込み、
食べるものも行動も別にして、
何事も自分と自分の子供たちだけで楽しんでいると話も聞きました。
これは、いわゆる「マスオさん」の例で言うと、
マスオさんが磯野家に住みながら、波平やフネどころか妻のサザエさんすら無視して、
我が子タラちゃんとだけコミュニケーションをとっているってことです。

これだって、日本人的な感覚では、
いくら義父母が忌々しく、そこにべったりな妻のことすら気に食わなかったとしても、
一緒に住むからには、やはり感情は別として、
それなりにコミュニケーションを取るのが普通でしょう。
知人で、20歳で結婚して7年間同居した28歳の女性がいますが、
その是非はともかく、同居期間中は感情を抑えて、
家族としてのコミュニケーションは取っていたと言います。
どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
そんなことなので、義父母のほうから「あいつはどういうつもりなのか」などと、
公然と言及される始末なのですが、さもありなんというところです。

共通しているのは、自分の感情が絶対だと思っているところ。
そして、それに基づいて行動を選択して何が悪いと思っているところ。
追い越されて腹が立ったから、進路妨害して殴ってよい。
姑が気に食わないので、意地悪してよい。
義父母や妻が嫌いだから、自分だけで楽しんでよい。
……だって、相手が悪いんだから、自分の行動は正しいという、
我こそが正義なりという行動基準です。
本当に、どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。

古来、日本の先人たちは、自分の感情を押し通すことは厳に慎み、
周囲と険悪にならないように、それぞれが税金のように薄く気を遣い合って、
思いやりと辞譲の心で穏やかな社会を築いてきたと聞いています。
自己主張が強くないことは、欧米人に対して劣っているように言われますが、
いやいや、周囲の人間関係を焼け野原にしないための智慧だったのでしょう。

ベトナム人の知人は、日本に来る前、
日本のことを学ぶ授業で、日本は寛容な国だと教わってきたそうですが、
それを聞いた私、「ごめん、そういう日本、もうないかも」と、
なぜか日本を代表して、申し訳なく思ったのでした。

どうしたんでしょうか、故障しちゃったんでしょうか。
だとしたら、早く故障を直し、寛容な社会を作りたいものです。

[SE;KICHI]

変態ちゃん

弊社の Okei さんにとっては、名前だけは聞いたことがあるレベルらしいのですが、
いま、「マリーゴールド」とか「ハルノヒ」とかを歌っている、
あいみょんという 24歳のアーティストが大人気ですよね。

私は、特にあいみょんのファンというわけではないけれど、
彼女の楽曲では「○○ちゃん」という曲が一番好きです。

彼女のメジャーデビューは2016年だそうですが、
その前の2015年に、『tamago』というアルバムをインディーズで発表していて、
「○○ちゃん」というのは、そこに収録されている楽曲です。


https://www.youtube.com/watch?v=OXYxa7UM4_g

歌詞は、
 お酒は大好きで悪酔いも少々 好きでもない男と寝たこともある  とか、
 早くに覚えすぎたタバコも 何度もやめようとは思ってる  とか、
 口癖はいいことないかな 幸せのレベルはもう下げた  とか、
 得意なことも趣味もない おまけに勉強もできないけど  なんて、
総じて、なんというか、そこらによくいる女の子を表現している感じです。
だいたい「○○ちゃん」というタイトル自体、
○○にどんな人名を入れてもそれなりに成立するような、
ごくごく普通の女の子の歌です。

ところで、この曲で、私が衝撃を受けたのはサビの歌詞で、
私のどこがダメですか?と繰り返されるところ。
つまり、この曲は、どこにでもいるようなごくごく普通の女の子が、
「私のどこがダメですか?」と訴えかけるという構図。

いやいや、ダメじゃないですよ!

実は、若手の多く、特に就職などの社会生活に支援が必要な若者たちと話すと、
この、「ボクのどこがダメなんでしょうか」というフレーズはよく出てきます。
そういうとき、私は、「そんな質問するところがダメだね」とか答えたりしますが、
焼け石に水、そういう人が多すぎて、ラチがあきません。

私は、これが、引きこもり(もしかしたら自殺者も)を生む要因だと思うのです。
彼らは言います。
「ボク、特に何にもできないんで」とか、
「ワタシ、なんかトロいらしくて」とか、
「オレ、どの仕事も長く続かなくて」とか。
そして、彼らは「一生懸命やってるんですけどね」とため息をつき、
「ボクのどこがダメなんですかね」と下を向くのです。

結局、、彼らはただ社会に順応できていないだけなのですが、
彼らは度重なる不適合の場面で傷ついて、自己肯定感を下げています。
場合によっては、なんらかの診断を受けているケースもあります。
そうすると、「ワタシ、発達障害って言われてて……」というのも加わります。

ところで、障害とは何なのでしょうか。
世の中には、雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めるという仕事があります。

バラバラの部品をひとつひとつ揃えてキレイに積み重ねて
数も整えて箱に詰める

そんなの、誰にでもできる仕事だと思うでしょう。
でも、少なくとも私は、そういう、コツコツ同じことを繰り返す仕事は苦手です。
先日、視察させていただいた作業場では、
働いているほとんどの方が何らかの障害をお持ちの方だと聞きましたが、
実に淡々と、作業に従事しておいででした。
淡々と手を動かして部品を揃える彼らと、そういうのが苦手な私。
果たして障害があるのはどっちなんでしょうか。
そう思うと、障害って、案外、単なる得意不得意なのかもしれないし、
個性に過ぎないのかもしれないと思うのです。

そして、私は思うのです。
これからは「変態」の時代だと。
自分がいかに周囲と違って特定の分野に偏った知識を持っているか、
自分がいかに手先が器用で特殊な技術を持っているか、など、
人間はロボットではないので、
いかに突出した個性を備えているかで勝負するしかないと思うんです。
雑多に運ばれてきた金属部品を、向きを揃えて重ね、
決められた数ずつ束にして箱に詰めることができる……とか。

そうなってくると、周囲から浮くほどの個性を持っていても、
それは誇るべき武器になると思うんです。
実際、彼らは趣味の話だと、私が置いていかれるほど饒舌に語るのです。
つまり、彼らは、「何もできない」わけではなく、
それは、本人の幻想に過ぎぬのです。

私は、引きこもりや自殺を撲滅する運動家の人ではないので、
そこに特化してなんらかの考えを持っているわけではありませんが、
「私のどこがダメですか」などという、
そもそも「自分はダメである」ということを前提とした、
否定的な自己認識を持つ若者の蔓延は、
社会として健全ではないと思うのです。

自分も個性的な「変態」だと認識して、
それのどこがダメかではなく、
それを使って社会に参画するんだという、
たくましさを持って欲しいと思います。


あなたのどこも、ダメじゃないですよ。

[SE;KICHI]

優しさというか……。

どうも、私はデリカシーに欠けるタイプらしく、しばしば怒られます。
本人がコンプレックスだと思っている外見上の特徴とか、
場合によっては、本人が隠したいと思っている過去の出来事とか、
そういうものについて言及しがちだからでしょう。

何故、言及するのでしょうか。
それは、事実として厳然とあるからです。
たとえば、目が一重だとか、鼻が大きいとか、あごが長いとか、
外見上の特徴をコンプレックスと感じる方は多いようですが、
そんなものは個性に過ぎず、コンプレックスと感じる必要もないと思うので、
私は気を遣わずに言及します。
すると、
「いや、コンプレックスと感じる必要もないって、それはアナタの考えで、
本人は触れてほしくないって思ってるんだから、わざわざ言わなくてもいいでしょう、
もっと気を遣ってあげてよ」と、
配慮のなさを指摘されます。

しかし、私は思うのです。
触れてほしくないところには触れないというのは、
それは本当に優しいことなのか、と。

2018年に全国で起きた交通事故による死者数は3,532人だったそうです。
一方で、自殺による死者数は20,840人に上るんだそうで、ほぼ6倍です。
それだけでも充分にセンセーショナルなニュースなんですが、
先日の厚生労働省の発表によれば、
戦後初めて日本人の10~14歳の死因として自殺が1位になったそうです。
中学生くらいの子供が、自分の意志でどんどん死を選んでいるということです。

私は悲しくてたまりません。
ちょっと、おかしいと思いませんか。
戦災も飢餓もない平和な日本なのに、
なぜ、こんなにどんどん死んでしまうんでしょうか。

私たちは、死を選ぶ2万の人々を、むざむざ見送るしかないのでしょうか。
なんとか助けてあげたいと思うのは、余計なことでしょうか。
でも、自分の家族がそうなる可能性だってないとは言えないわけですから、
余計なことでもないでしょう。

なぜ、こんなにどんどん死んでしまうんでしょうか。
それは、孤独感でしょう。
「どうせボクの悩みなんて誰もわかってくれないんだ」という孤独感です。

そこで、「そんなことで悩まなくて大丈夫だよ」とか、
「オレも昔経験あるわ。でもなんとかなるぜ」とか言ってあげれれば、
あるいは、死を選ぶ人は減るかもしれません。

しかし、その前提として、悩みを聞いてあげなくてはいけません。
もし、相手が自分の悩みを話すことに躊躇していたとしても、
悩んで思い詰めている相手を救うため、悩みは聞き出してあげなくてはいけません。
だいたい、悩みを“話す”ことは、悩みを“放す”ことになるといいます。
命がかかっているわけですから、
「言いたくないなら、言わなくていいよ」などと言っている場合ではないのです。

だいたい、悩みの渦中にある人というのは、視野が狭くなっています。
聞き出してみると、意外とチンケな悩みだったりするのですが、
本人は「もうダメだ」と思い詰めていますから、
ちょっと慰めたり励ましたくらいでは、悩みから脱出できないものです。
では、どうするのか。
ときには、「ふざけんな、しっかりしろ!」と叱責することもあっていいと思うのです。
私は、これこそが愛だと思うのです。

たとえば、同僚など、自分に縁のあった方が、何やら悩んでいる様子の場面、
どうしたのか聞いても、「放っておいてください」の一点張りだったとします。
そうかそうか、本人の望みなら仕方ないよねと放っておいたとして、
そのうち悩みに悩んだ本人が思い詰めて自殺なんかしたらどうするのですか。
「おや、望みどおり死ねてよかったね」と思いますか。
私だったら、
どうしてあの時、肩をつかみ、頬を張り倒してでも止められなかったのかとか、
自責の念にとらわれることと思います。

愛していたら、ほっとけないはずです。

誰にも触れられたくない過去とか、出生の秘密とか、肉体の欠損とか、
そういうものもあるかもしれません。
私にも、何もないわけではありません。
もし、それを自分で光明転換でき、前向きに生きていけるのであれば、
それは、わざわざ人に言うようなことではありませんし、別にそれでいいのです。
しかし、誰にも触れられたくない過去とか、そういうもので悩み、
それを自力でポジティブに捉えられなくなっているのであれば、
誰かがそれに気づいて、そこに手を突っ込んで腕をつかみ、
そこから引きずり出してあげなければ、
その人は助からないのです。

相手はどんどん悩みを深めているかもしれませんから、
「言いたくないなら、言わなくていいよ」などと言っている場合ではないのです。

これは、ちょうど、アレに似ています。
大震災などの救助活動。
家屋が倒壊して足などが挟まっている人を発見したとき、
その人が「私にかまわないで、行ってください」と言ったとして、
「あ、そうですか」と立ち去ったりはしないでしょう。
「そんなこと言わないで、いま助けます」と、
自分に何ができるかは別にして、なんとかしようとするでしょう。
それが、家族や友人知人であればなおさらです。
それが人間というものです。

“人生、山あり谷あり”などと言いますが、本当にそうです。
「生まれてこの方、順風満帆だ」という人はいないでしょう。
誰の人生にも、苦しいことや辛いことなんて、いくらでも起きるんです。
もっと言えば、過去に誰かから言われた言葉とか、子供のころの苦い体験とか、
そういうのを原因としたトラウマや恐怖心のようなものも、
誰の心の中にも沈殿しているものでしょう。
しかし、それが自分の考え方のクセの原因になっているのですから、
それに触れないというのは、臭いものにフタをしているだけで、
誰のためにもならないでしょう。

どうも最近、「○○ハラスメント」とか言って、
本人の気に障ることには立ち入らない風潮が強いですが、
私たちは、そういうことを超えて、
挫折や理不尽によって意欲を失いつつある人たちに関心を持ち、
一人でも二人でも、死なせないように、
関わっていくべきなのではないでしょうか。

[SE;KICHI]

かっこいい生き方

昨年の9月に女優の樹木希林さんがお亡くなりになりました。
私はそれほどファンではなかったし、
出ておられる映画などは特に見ていませんでしたが、
郷ひろみさんとのデュエットや、某メーカーのプリンターのCMでの姿に、
変わった人だなあとの思いは抱いていました。

彼女に少し興味を持ち始めたのは、
ガンだと公表されたあたりだったかなと記憶しています。
芸能界の方にせよ、一般の方にせよ、多くの方がそうであろうと思いますが、
通常は重い話題であるにも関わらず、
樹木さんはとてもさっぱりとされていました。

なぜこの人はこんなにもあっけらかんと、
自分の置かれた状況を受け入れているのだろう、楽しそうにも見える、
きっとこの人は死ぬのが本当に怖くないのだろうと思ったとき、
この力の抜けた姿勢がうらやましく感じました。

誰に媚びることもなく、自分の思うように発言し、そして誰も傷つけない。
それでもまだファンになったわけではなく、
まだお元気で活躍されているなあと、テレビなどを通して知り、
そのうちに段々と、気になる存在になってきました。

ここ数年あたりでしょうか。
老いを受け入れることや、
物に執着しないほうがいいなどという彼女の意見が、メディアから聞こえてきました。
言うのは容易いけれど、なかなか実践できないことをさらりとやっておられます。
人前に出る仕事の人は一般の人よりも、より難しいでしょう。
それを他人に見せつけるでもなく、押し付けるでもなく、
自分がそれを良いとして自然とやっている。
失礼かもしれませんが、”芸能人らしい”振る舞いをされていない樹木さんが、
すごく身近に感じられ、あくまでも自然体でいる姿がかっこいいと思っていました。

樹木さんの告別式での内田也哉子さんのあいさつが話題になったのは、
記憶に新しいところです。
あまりに素敵な文面すぎて、(頭が良くないので)
自分の中に入るまで何度か読み返しが必要でしたが、
その中に、也哉子さんが紹介してくれた、
心にとどめておきたい樹木さんの言葉がありました。

『おごらず、人と比べず、
面白がって、平気に生きればいい』


この言葉の中で特に大事なのは「面白がること」だと思います。
いろいろ起こることを「楽しむ」のではなく「面白がる」。
これは自分なりに納得のいく解釈をしていくことかなと思います(もちろん前向きに)

起こり得ることにはすべて意味があると私は思っているので、
仮につらいことがあった場合も、
時間がかかっても受け入れることはできるはずです。
ただそれを、面白がり、平気に生きるとなると、なかなか難しいことのように感じます。
そこをあえて「俯瞰的に見る」ことで、見えていない色々なことが見え、
平気に生きていけるのでしょう。

多くの人が、樹木さんの言葉に勇気をもらったり、
生き方のヒントをもらったりしているようです。
樹木さんのように、それを難なくこなせるようになれば、
きっと、自分だけにとらわれず、
もっと人の為にさらりと楽しく自由に生きて行けるような気がします。

なんて格好つけて言ってはみたものの、やっぱり白髪もほうれい線も気になるわ~。

まだまだだなと、思い知らされます。

[Okei]

羅怙羅さん

宇治の手前に黄檗というところがあります。
そこにあるのが黄檗山萬福寺、黄檗宗の本山です。
黄檗宗は、隠元という中国僧によって伝えられた宗派で、
読経は、たとえばオーソドックスな般若心経ひとつとっても、
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空 …」を、
クァンツサイプサ ヘンシンポゼポロミトス チャウケンウインキャイクン …と、
古い中国語の発音で詠まれるなど、
なんというか、異国感が満載なお寺です。
安置されている仏像も、明朝の彫刻家 范道生による造像で、
日本にはないエキゾチックな魅力を放っています。

まぁ、そのように、そもそも、このお寺の仏像は特徴的なのですが、
なかでも、仏像マニアにとって、このお寺を有名にしているのが、
十六羅漢像です。

羅漢というのは、仏教における最高の悟りを得た聖者のことです。
この萬福寺の場合、御本尊は釈迦如来ですが、
その周囲を囲むように、16体の羅漢像が配置されています。
このお寺は、仏像などの写真撮影が許可されている珍しいお寺なので、写真でご紹介しましょう。

大雄寶殿 本尊 十六羅漢像

羅漢というのは悟っちゃった存在ですから、
細かいことを思い悩んだりはしません。
そういうわけで、羅漢像は無邪気で、ヘラヘラ笑った像が多いです。

羅漢①羅漢②羅漢③

そんな、無邪気なオヤジのような像の中にあって、
ひときわ異彩を放っているのが、畢利颺瞿洲第十一羅怙羅尊者です。
コレです。

畢利颺瞿洲第十一羅怙羅尊者

手ブラ……でしょうか……
もう少し近寄ってみましょう。

羅怙羅 アップ 羅怙羅 接写

!!!
胸の裂け目から仏様が覗いてます!
なかなかシュールなビジュアルですね。

実はコレ、以前にご紹介した『衣裏繋珠のたとえ』を表しています。
それは、どんな人間も、尊い仏性を持っているというたとえで、
ここでいう仏性というのは、仏様のような穏やかな心という意味です。
結局、自他ともに、どんな人間でも、
仏様のような穏やかな心を持っていると言いたいわけです。
実に深遠な仏性の教えなのですが、
その、仏様のような穏やかな心を表現しようとして、
つまり、“心の中の仏”を表現しようとして、
勢いあまって、胸の裂け目から覗く仏の顔を彫っちゃったというわけです。
なんというか、斬新なセンスですが、
体内に仏が住んでいるということを表現したかったということはよく伝わります。

実は、この羅怙羅尊者という人物はお釈迦さまが出家前にもうけた実の子です。
この名は、
サンスクリット語の、「障害 / 悪魔」を意味する「ラーフ」を語源としていて、
つまり、妻の懐妊を知った当時16歳のお釈迦さまは、
誕生を喜ぶどころか「障害である」と捉え、この名を与えたということです。
人生について深く考えていたお釈迦さまにとり、子は出家の障害だったのでしょう。
しかし、羅怙羅尊者は、父からそのように思われていることや、
周囲から仏陀の子として特別視されていることを深く意識し、
決して驕ることなく、人一倍の精進を重ねたと伝えられています。
その結果、自己の仏性を体現する存在となったというわけです。

それにしても、体内に仏が住んでいるというイメージは、
よく考えてみれば、とても合理的だと思うのです。
だって、自分に自信が持てずに苦しんでいる方に対しては、
あなたの中にも尊い価値があるのだからねというエールになるし、
一方で、他人に対する責めの気持ちが止められない人には、
相手の中にだって尊い価値があるのだよという戒めになるわけです。

さて、冒頭にも述べましたが、仏像マニアにとって、
この萬福寺を有名にしているのが十六羅漢像です。
なかでもこの羅怙羅尊者は不動のセンターです。
それはいいのですが、
顔出しパネルまで作っちゃうのは、ちょっとどうなんでしょうか 笑

顔出しパネル

[SE;KICHI]
プロフィール

kkseishin

Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
富山県富山市飯野16番地の5
TEL:(076)451-0541
FAX:(076)451-0543

■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



URL:http://www.kk-seishin.com/

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR