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『ペスト』

去年から、カミュの小説『ペスト』がバカ売れだそうです。
正直、なんでこれがバカ売れするのかと思うような作品ですが、
題材が現在のコロナ禍に似ている感じがするうえ、
そもそも外出自粛で外に遊びに行けずに読書需要が高まったこともあり、
この異質な小説がバカ売れなんだそうです。

カミュは、ノーベル文学賞も受賞している著名な作家ということもあり、
有名な『ペスト』はすでに読了していたので、
これを機に戯曲『戒厳令』のほうを読んでみました。

舞台はスペイン南西部の、大西洋に面した街・カディス。
午前4時前、街の上空に彗星が現れます。
人々は恐れおののいて「この世の終わりだ!」と叫び、
「戦争の前触れだろう」とか、「この街は呪われている!」とか、
右往左往して取り乱します。
夜が明けると、街はいつも通りの朝を迎えますが、
群衆のなかで1人の男がドサリと倒れます。
医師が駆けつけて調べたところ、ペストで死んだことが分かり、
そのことがたちまち街中に広まって、街はパニックになります。
司祭は「教会で祈ろうではないか」と呼びかけ、
占星術師は「飢饉とペストの相が出ている」と言います。
何やら、風を感じたと言う魔法使いの女は、
「ペストは風を嫌う。風が吹いているから、万事解決する」と断言しますが、
そう言ううちにみるみる風は止み、2人の男がドサリと倒れます。
こうして、ペストはあっという間に街を飲み込んでいくわけです。
街を統治している総督府は、一切の集会を禁止し、人々から娯楽を奪います。
他に打つ手のない総督府は、「風さえ吹けばペストは収束する」などと、
根拠のない楽観論を流して市民を落ち着かせようとします。

……どう思います?
カミュは60年ほど前に若くして亡くなっているのですが、
コロナ禍で苦しむ2021年の日本の姿が見えていたのか、
物語と現実の相似性に慄然とせざるを得ません。

物語は続きます。
ペストが猛威を振るうなか、
“ペスト”と名乗る男と、その秘書の女が総督府にやってきて、
総督の地位を自分に譲れと迫ります。
総督が拒否すると、秘書の女は手帳に書かれたリストに線を引きます。
すると、そこにいた兵隊の1人がドサリと倒れ、死にます。
つまり、この手帳は、線を引かれた人間が死ぬ、「デスノート」。
ビビった総督は命乞いしつつ、地位を譲るわけです。
仕方ありませんね。

総督となったペストは、曖昧で分かりにくい趣旨説明をしたうえで、
5つの命令を出します。
それは、感染者の出た家には☆印をつけるとか、
感染者が発生した場合はただちに通報し、救護は当局が行うとか、
午後9時には消灯して、出歩いてはならぬとか、
通行証を持たぬ者は施設利用ができないとか、そういう。

これは小説なのですが、現実にあるかもしれないと感じてしまう、
いや、そればかりか、いまの日本では、抵抗することなく受け入れ、
従わない者に対して攻撃的になっている現状はないでしょうか。
前述の曖昧で分かりにくい趣旨説明だって、
ペストは、「少しずつ曖昧さに慣れさせる。
分からなければ分からないほど、みんな言うことを聞くものだ」と言います。
つまり、よく分からないけれどそれっぽい話で、人は丸め込まれるということ。

いま、多様性を重視するなどといってSDGsが流行っており、
「大切なのは個であり、多様性だ」と訴えている人も多いですが、
いざ危機に瀕した時、その視座を崩さずにいられるか、
大きな傘の下で護られたいと思ったりはしないものか、
なかなか厳しいところです。

いま、私は非常に懸念していることがあります。
私たちは、長引くコロナ禍と経済の停滞によって、
心のなかに、全体主義的な政策も致し方なしという、
諦めにも似た気持ちが棲み始めていないか
ということです。
日本は、個を抑制して全体の利益に資するという発想になりやすく、
巧妙に全体主義に忍び寄られると、
それと気づかずに自己を抑えることがあるかもしれません。

いま、私たち個人にできることは、感染対策を怠らぬことと、
自分自身と社会が社会主義に傾斜していないかを意識することです。
具体的に言えば、「正義」に酔っていないか、
足並みを乱す者に粛清を与えたい気持ちになっていないか、ということです。

[SE;KICHI]
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『料理歳時記』

『料理歳時記』という本を知っていますか。

『料理歳時記』

これは2000年代に入ったからの文庫版ですが、
初版は1973年と言いますから、もう40年以上も前の本になります。
著者の辰巳浜子さんは、明治生まれの主婦。
もうずいぶん前に他界され、料理研究家としては草分けのような方だと思うのですが、
本人は料理研究家と呼ばれることを嫌って、自らを主婦であると自称していました。

なにしろ主婦ですので、
いまどきの料理研究家のようにバンバン料理本を出すことはなく、
生涯で出版した著書は5冊だけ。
それも、写真付きのカラーのレシピ本ではありません。
この『料理歳時記』も文字だけが書かれている本で、
いまでいうところの食をテーマにしたエッセイですが、
日々のエピソードの中にレシピが文章で紹介されています。

ご主人は大成建設の役員さんで、
ときに、急に部下を連れて帰宅することがあったようです。
こんなとき、サザエさんなら怒ったり文句を言ったりしそうなものですが、
著者は、夫が連れてきた部下に酒や肴を出したりすることに対して、
義務とは感じず、楽しむという感覚を持っていた人だったようで、
たとえば、出した肴で酒が進んでいるのを陰から見て喜んだりしています。

私が気に入っている“鮭”の項を紹介しましょう。
私の生家は鮭にやかましい家でした。
父が新潟県北蒲原郡の出身なので、
子供の頃食べつけた鮭は今から思うと素晴らしく美味しいものでした。
(中略)
季節になると、幅の広い分厚い鮭の胴の部分だけを丸のままに、
酒粕に漬け込んだものが送られてきました。
七、八センチ幅のぶつ切りにします。
火をたっぷり真赤におこして薄く灰をかけ、
そして少し遠く離して上から日本紙をかぶせてこんがりと焼きあげたものです。

……どうでしょうか。
いまの私たちにとって普通の調理法ではないと思いますが、
きっと七輪のようなところで火にあぶって焼いているのでしょう、
光景としては思い浮かぶ感じがしますよね。

焼きたてのほやほやの真中に箸を入れると、
牡丹の花びらのような淡桃色の身がポックリポックリと一枚一枚はがれて、
焼きたての鮭の香りとほのかな酒粕の香りがただよって、
思わずつばを飲みこんだものです。

……お腹、減ってきませんか。
焼き鮭、食べたくなりませんでしたか

この“鮭”の項は、このあと、頭の軟骨は氷頭なますに、
中骨と尻尾は三平汁や昆布巻にと、調理法が紹介されています。
私は、20年ほど前ですが、
この本で氷頭なますを知り、書かれたように作ってみた記憶があります。
まず頭を真二つに切り、
軟骨の部分だけを切り取ってごくごく薄く切り、水でよく洗います。
最初はにごった脂ぎった水になりますが、
三、四度も水を取り替えますととてもきれいになります。
(中略)
水をきって、一度酢洗いして、新しく酢に漬け直します。
その時、針生姜とゆずまたはレモンの表皮を薄切りにして、
いっしょに漬け込みます。

……なんとなく、イラストもないこの文章だけで作るのは大変そうに感じますが、
実際には、そう難しいことは書いていないし、
なにより情景が思い浮かぶので、これで作れたのは古い思い出です。

氷頭を取ったあとの頭のあらは塩出しして粕汁、のっぺい汁、
大根との炊き合わせに使ったり、昆布巻の芯に使うと非常に美味しく、
骨までもやわらかく食べられます。

……あぁ、昆布巻の芯…おいしそうですねぇ。

40年以上たっていても季節感は変わらないので、
旬の食べ物がおいしいということが伝わってきて、古くありませんよね。
エッセイというのは誰でも書けるように錯覚しがちですが、
私は、この辰巳浜子という主婦が書いたエッセイ、巧いと思います。

[SE;KICHI]

『プラテーロとわたし』

頭が悪いのか何なのか、いや、頭が悪いことに疑いはないのですが、
どういうわけか、手元に3冊も『プラテーロとわたし』という、
スペインの詩人 J.R.ヒメネスの詩集があります。
しかも、手前の、同じ表紙の2冊は、伊藤さんというご夫妻が訳した、
中身はまるで同じの2冊です。
どうして買ったのでしょうか、バカですねぇ。

『プラテーロとわたし』

J.R.ヒメネスというと、ノーベル文学賞も受賞しているので、
ことによると、知らぬ方のほうが少ないかもしれません。

この、『プラテーロとわたし』という詩集は、
ヒメネスが30歳ごろに住んだ、モゲ-ルという故郷の町での日常を描いたもので、
138編の詩が収録されています。
タイトルにある「プラテーロ」というのは、ロバです。
小さくてふんわりとした銀色のロバなのだそうです。
「プラテーロ、この小川はすっかり干上がってしまい、
今では、そこを通ってカバーリョスの農園に行けるのだが、
その昔の姿は、色あせた私の古い記憶の中にも残っているんだよ」
(『小川』)とか、
「私にとって、秋のはじまりはね、プラテーロ、
日暮れとともに、さむざむとわびしくなる裏庭や中庭や畑の人気もないところで、
ながくよくとおる声でほえている、
くさりにつながれた一匹の犬のように思われるんだよ」
(『つながれた犬』)のように、
“私(=ヒメネス)”がプラテーロに語りかけるという体裁で、この作品は進みますが、
印象的なのは、その、プラテーロに対する語りの優しさです。
この時期のヒメネス、
病気療養のために故郷に滞在していたというのもあるでしょうが、
その間、常にそばにいるプラテーロへの視線が柔らかく、温かいのです。
とてもほっこりした気持ちになります。

また、この詩集の秀逸だと思う点は、情景の描写だと思います。

「通りでは、ためらいがちな夕方の太陽が、真っ白い低い軒にさしこみ、
うすももいろのリボンとなって消えて行った。
やがて私たちは、リヤーノスの街道がすっかり見渡せる、
オルノスの柵のところに着いた。
出車は、もう坂を上がってきていた。
濃いむらさき色の雲が、ロシーオスの農園を通り過ぎると、
みどり色のブドウ畑に、やわらかなこぬか雨が降り注がれた」
(『ロシーオの祭り』)なんて、
リヤーノスとかオルノスとか、固有名詞はさっぱり分からないのに、
なんだか情緒的な街並みが目に浮かぶ気がします。
「空の方まで赤く照らし出された祭りの町から、
なつかしい素朴なワルツの調べが、やわらかい風にのって流れてくる。
教会の塔は、スミレ色や青や黄色にゆらめく光を背にして扉を閉め、
青白くかたくなに沈黙している。
そして、村はずれにたち並ぶ暗い酒倉のはるかかなたでは、
黄色く眠たげな月が、ひとりぼっちで川の上に落ちかかっている。」
(『夜想曲』)など、
私の行ったことのないアンダルシアの光景が目に浮かんで、
もしかしたら、風や音などの、自然の小さな音まで感じられるような気すらします。

私がこの本を初めて読んだのは小学校4年生くらいだったと思います。
当時通っていた小学校には、全校児童が一緒に給食を食べるためのランチルームがあり、
そこが都合よく畳敷きになっていたため、
図書館から持ち出したこの本を、ゴロゴロしながら読んだ記憶があります。
しかし、小学校4年生で散文詩なんて読んで面白いはずもなく、
せっかく読み始めたのに、正直がっかりしたものですが、
年齢を重ね、30歳を過ぎてから再読した私は、その美しさにいたく感動し、
そして、ラストの深さに息を飲みました。

その、問題のラスト。
病気でしょうか、老衰でしょうか、プラテーロはついに死んでしまいます。
ショックを受けたヒメネスは、
彼の死をもって、この詩集を書くのをやめてしまうのですが、
1年後、なぜか詩を書き足します。
その内容というのが、
「プラテーロが死んだあと、あんまり悲しみに暮れているヒメネスを慰めるため、
友人がボール紙でプラテーロに似せた張りぼてを作ってくれました」という話。
第一印象は「しょうもない話だな」と思った私です。
しかし、よくよく読んでみると、
ヒメネスがその張りぼてを書斎に飾っていたところ、
なんと、そのうち、記憶の中のプラテーロよりも、
ボール紙のほうが、プラテーロらしく見えてきた……と書かれています。

一読、私は、“そんなことってあるかしら”と思いましたが、
しかし、なんだか切ないけれど、これは、たぶん事実です。
いや、正確に言うならば、
小学4年生で読んだ時の印象はそんなことってあるかしらでしたが、
人生でいろいろ体験した後、再読したときの印象は、
まぁ、そういうこともあるかもなというものでした。

愛するロバとの愛別離苦のみならず、
人生で、悲しいこと、寂しいこと、泣きたくなるようなことは、いくらでも起きます。
そのときは、この世の終わりのように嘆き悲しみますが、
あんなに悲しかったのに、あんなに泣いたのに、
それをいつまでも記憶できないのが普通です。
しかし、この記憶の頼りなさが、
切なくもあるけれど、人間の記憶の良いところだと思うのです。
記憶がいつまでも残っていると苦しいと言われます。
忘れる能力は、人間が延々と苦しまずに済むよう、
神様から愛ゆえに人間に与えられた性質なのだろうという哲学者もいます。

そう思うと、この作品は人間の深淵を描いていると言えなくもありません。

[SE;KICHI]

破天荒

就活をする学生の企業に望むことは時代とともに変化をしているようですね。
テレビやラジオで、
数年前は「やりたい事ができる」や「将来性がある」など、
挑戦をする内容が上位にきていた時期もあったのですが、
今年は安定項目がトップになったようです。
もちろん安定項目は常に上位に項目としては上がっているのだと思いますが、
順位が入れ替わったと聞きました。

私の息子はまだ就活する年齢ではないのですが、
やっぱり「安定した所に」とは思います。
口を出し「違うところにしろ」などと言おうとは思わないですが、
やりたい事が見つかり、その上で安定していたらいいなと父親としては思います。

さて今回はメガネチェーン店を買収し再生・改革をしていく、
「破天荒フェニックス」を読んでの感想になります。
倒産しそうなと言うか、ほぼ倒産する会社を買い、改革をしていくのですが、
業界に超強力なNo1がいないと考え、No1を目指せると考えるところは、
買収とか考えたこともない私からすると、
目の付け所が違うのだなと感心するところでした。

新社長として会社に乗り込み、行動し、様々な問題を解決し、
財務担当の方の才覚や努力もあり、
資金繰りをギリギリの所で回避していくのですが、どうもスッキリしない。
やっと軌道に乗り、資金繰りも少しは改善してきたのだろうと思えるその時に、
新店舗や新たな業界への買収などを挑戦していきます。
財務担当者へ感情移入しているのかもしれませんが、
なぜ今?もっと基礎を固めてからでいいのでは?
と思ってしまうタイミングです。

直向きに発展しようとしているところは、話としては理解できるのですが、
資金的な協力者が現れないと倒産してしまうのではと、
理解できません。
時には身の丈に合わないことも必要かもしれませんが、
売上げを伸ばし、やる気で頑張っている社員がいるのに、
倒産したら何にもならないと思ってしまいます。
実在する立派な会社だと思いますが、
改革期に社員として勤めたいとは思えないです。
私自身が企業に求めることのトップが安定だとは思っていませんが、
家族を養う身としては危うくて不安になります。

ただ読むのが非常に遅い私が、
500Pほどある本を飽きることなく読めたのは面白かったからだと思います。
人により感じ方は様々だと思いますが、
同僚がどう思うか聞きたくなる本でした。

『破天荒フェニックス』
https://books.rakuten.co.jp/rb/15562501/

[WAKA]

『七つの習慣』 後編 ~道のりは長いようです。

私にはかなりの文字・ページ数で、読むのに時間がかかってしまいました。
そうすると、また最初のほうを見たりして、
また時間がかかってしまいました(汗)

第4の習慣のところで信頼の上でWin-Winの人間関係を築いていく。
信頼しあっていれば心を開けるとあり、
自分では心を開き話しているつもりでいたので、
単純に納得して読み進めていると、
第5の習慣のところで「共感による傾聴」があり、
私は話を聞いているふりをして、
自分の思い・意図を押し付けているのではないかと感じました。
聞きながら次に言おうとすることを考えているし、
ネガティブな発言にはすぐに反応して遮っていたようにも思います。

話を聞くのではなくコントロールしようとしていたのだと、
気付かされました。
これでは本心から語ることはできないでしょうし、
言い含めようとしていると感じ、
上面の話だけになってしまうかもしれませんね。

「まず理解に徹する」そこが私には足りていなかったと。
ショックでした。


第6の習慣では「シナジーを創り出す」ことについてでした。
私はその前の習慣ができていないのでしょうから、
道のりは長いと感じましたが、
私はみんなで一緒に少しでも高い目標に対し、
協力しあいワッとなるようなものを勝手に理想としているのだと思います。

上手く表現ができませんが、
前職の製造業やスポーツでも感じた、壁を乗り越える感じですかね。
そうすることで会社の目標に対してもですが、
各個人のやる気とか達成感とか色々な変化があり、
充実した感じになるのではと勝手に考えていたのですね。

今は営業職であり、各々がお客様担当を持っています。
わからないことがあれば協力しあいますが、
一緒に行動するわけではありませんから、
一体感というのは表現的には少し違うかもしれません。

でも、先にも書いたように、
向かう先が同じであればそれで全体的に良い方に向かうものだと。
やる気スイッチ的なものも押してないのに思っていました。

そこを改めながら良い方向に話ができるようになり、
組織の刃も研げるようになれればと思います。

道のりは長いようですね。

[WAKA]
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kkseishin

Author:kkseishin
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■富山本社/〒930-0821
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■新潟営業所/
〒950-1142
新潟県新潟市江南区楚川甲619番地6号
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