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鉄の失敗談④

北陸から新潟に向かおうとする時、
北陸各駅から北陸新幹線で上越妙高駅まで行き、
そこから『特急しらゆき』というのに乗り換えるのが一般的です。
北陸新幹線も特急しらゆきも、そう混む列車ではなく、
自由席でも座れないということはないため、
JRとしても往復の自由席をパッケージにした、
『新潟自由席往復きっぷ』という割引切符まで用意しています。
まぁ、とにかく、北陸から新潟は上越妙高乗り換えと覚えといてください。

ある時、新潟に向かおうとした私。
誰もがそうするように、新幹線のなかでは書類に目を通したり、
メールを書いたりして過ごします。
その日の私もそうしていたわけですが、
時期的に少し無理が続いていたせいか、ついつい、途中でうとうとしてしまいました。

ハッと目覚めた時、列車はどこかの駅に入線しており、発車ベルが鳴っている状態。
「どこっ?」と跳ね起き、ホームの駅名標を確認したところ、「上越妙高」。
ヤバイ、降りる駅じゃん! と、飛び上がって、
荷物をひっ掴んで乗降口に走ったものの、
無情にも新幹線の扉は目の前でプシューと閉まり、やがて走り出したのでした。

寝過ごしてしまったたものは仕方ないので、
席に戻ってスマホを繰り、リカバリーの方法を検索します。
調べの結果、次の飯山で降りて上越妙高に戻ったところで、
特急の接続が悪いため、新潟へ着くのは夜になってしまう見通し。
もちろん仕事で行くわけなので、夜になってしまうのでは意味がありません。
悩んだ挙句、結果的に新潟に早く着く方法ということで、
次の飯山では降りず、そのまま7つ先の高崎まで乗って、
高崎から上越新幹線で新潟に向かうことにしました。

高崎到着。
ここまでのところを精算しようと、自動改札の脇の窓口に向かいましたが、
高崎の駅員さんは、北陸と新潟を結ぶ割引切符なんて知りません。
15分ほど、どこかに電話を掛けたり、いろいろ調べてもらって、
なんとかその時点での精算額が判明したようです。
待っている間、私の目には気になる張り紙が。
「こちらの窓口では現金のみお取り扱いいただけます。」

えっ、いまどき?
……ということもないのですが、
以前にも告白したことがあるとおり
私は、現金を持ち歩くということを、あまりしませんし、
銀行のキャッシュカードも持ち歩かない主義です。

今回だって、乗り過ごすつもりで準備をしていたわけではないので、
たしなみとしてクレジットカードは持っていますが、
現金など持っていませんし、キャッシュカードもありません。

高崎までの精算額を確定させた駅員さんの機先を制して私は言います。
「現金はないのですが。」と。
すると、駅員さんは「えっ!」という顔をして、しばし固まったあと、
近くのATMを指さし、下ろしてくるように言います。
しかし、私は現金もキャッシュカードも持っていません。
「払え」→「ない」→「下ろしてこい」→「下ろせない」→「じゃあ精算できない」という、
堂々巡りの押し問答が10分ほど繰り返されたところで、
ついに駅員さんが折れまして、
「乗車証明書を発行するから、着駅で精算してください」と。
つまり、「新潟まで行って、新潟で精算しなさい」ということで、
高崎駅としては新潟駅に取り扱いをなすりつけた形です。

乗車駅証明書

私は少しだけ憤りました。
この、政府によってキャッシュレス決済が推奨され、
国民にもずいぶん浸透してきたと思われる令和の日本で、
現金でないと決済できないなんてことがあっていいのだろうか、と。
しかも、ここは天下のJRであって、世が世なら国鉄の窓口です。
現金しか使えないなら、もう少し申し訳なさそうにしてもよさそうなものですが、
「そこで下ろしてこい」とは不親切ではないか、なんて、
自分が悪いのも棚に上げ、「どうしろというのですか!」と、
声を荒げることすらありませんでしたが、密かにムッとします。

ともあれ、晴れて仮釈放となったので、上越新幹線で新潟に向かいます。
その道すがら、またスマホを繰り、
JRに後日現金を届ける“支払猶予”という制度があることを突き止めた私。
新潟で、なんとかクレジットカード払いを認めてもらえるよう頼むか、
それがダメなら支払猶予をお願いしようと作戦を練ったわけです。

新潟到着。
すべてを精算しようと、自動改札の脇の窓口に向かいました。
新潟の駅員さんは、もちろん北陸と新潟を結ぶ割引切符はご存じでしたが、
高崎経由で使用されるとは想定されていなかったようで、
私が経路を説明すると、でっぷりとした初老の駅員さんが、
「へっ?」みたいな顔をして、奥の事務所に引っ込みます。
10分ほどして戻ってきた駅員さんは、
「この切符は、この区間は含まれているんです……
しかし、あなたは高崎に向かわれたから、その分の特急券が……」とか、
噛んで含めるように経路を確認して、
「これは結構お金かかるよ」とか言いながら、差額を算出してくれます。

お気づきかもしれませんが、私は金額なんてどうでもいいのです。
ミスをして寝過ごしたのは私なので、発生してしまった差額運賃はお支払いします。
それより私にとって一大事なのは、手持ちの現金がないうえに、
引き出すためのキャッシュカードも持っていないこと。
つまり、現金決済のみと指定されたら、
私は支払うことができず、改札から出られません。

私は言い放ちます。
「乗り過ごすつもりはなかったので、現金はないのです。」と。
駅員さんは、「えっ! ……現金がない?」と絶句します。
ここでは「そこのATMで下ろしてこい」などと不親切なことは言われませんでしたが、
案の定、狼狽した様子の駅員さん、すぐに事務所の奥に引っ込みます。
すぐに引っ込まれてしまったので、何の交渉にも入れませんでしたが、
私としては、クレジットカードだけはあったので、
なんとかクレジットカード払いを認めてもらえないか、
もしそれがダメなら支払猶予、しかもここは自宅から離れた新潟なので、
自宅近くの駅にお納めすることで許してもらうか、
もしくは書留等で送金するという方法で改札を出してもらえないか、
とにかく、駅員さんが戻ってきたらその手の交渉をしてみようと、
その場で再び10分待ちました。

改札横の窓口は無人となり、
そこにあんまり長く放置されるもんだから、人目に触れること甚だしく、
そのまま逃げようかと思ったほどですが、社会人としてそこはグッと我慢して待ちます。
人々の好奇の目にさらされながら合計20分ほど待ったころ、
駅員さんが再び登場。
「……今回は大目に見ましょう。」

……❕❔

「次からは寝過ごさないようにということです。」
と、なんと、突如、無罪放免となったのでした。

富山⇔新潟の『新潟自由席往復きっぷ』は、14,000円ほどの往復切符です。
今回の乗り越しでは、本来、1万円ほどの差額が出ているはずであり、
価格のバランスからしても、JRがそれを許すとは少しも思っていなかった私、
この結論は本当に予想外で、びっくりし、
よくよく、その駅員さんにお礼を言って窓口を去ったのでした。

とはいえ、当初の到着時刻よりも2時間近く遅れて駅の外に出た私。
しかも、このようなことがあっても、現金も持っておいたほうがいいだろうかとか、
何かのためにキャッシュカードも持っておこうとか、
自らをそういう方向に改めようとは少しも思いませんでしたので、
教訓があるとすれば、やはり「寝過ごさないように注意しよう」しかありません。
それか、ひと駅前の糸魚川駅までは起きていた覚えがあるので、
「あとひと駅のところで眠りに入らないようにしよう」でしょうか。

というわけで、キャッシュレス全盛のいまどき、現金のみなんてどうかしてるわ!と、
いったんは国鉄体質に憤った私でしたが、
最終的に、優しくしてくださった駅員さんに感謝している私、
現金なものです。

[SE;KICHI]
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魅惑の・・・(10)

あらら、2020年は書いていませんでしたね。

「お釈迦さま」って、よく聞きますよね。
パンチパーマの仏像を見たらお釈迦さまだと思う人も多いのでしょうか、
仏さまの代名詞のような扱いになっているのが「お釈迦さま」です。

この「お釈迦さま」、正式には釈迦如来と呼びますが、
仏像のなかで、唯一、
実在した人物を表現しているのが、この釈迦如来です。

“如来”というのは「悟った人」というような意味で、役職名みたいなものですが、
“釈迦”のほうは、釈の字も迦の字も特に深い意味はなく、
シャカ族という、現在のインドとネパールの国境近くに住んでいた部族の名前を、
漢訳といって、わざわざ漢字で表現しただけのものです。
つまり、釈迦如来って、「シャカ族の悟った人」という意味になります。
そのネーミングだと該当者が何人いても大丈夫な感じもしますが、
具体的には、紀元前5世紀前後に実在していたシャカ族の皇子で、
ゴータマ・シッダールタ( गौतम सिद्धार्थ )という個人を指しています。

皇子なので、おそらく左うちわでの生活が保障されていたと思うのですが、
彼はなぜか求道家であり、王宮での酒池肉林に虚しさを感じて、
皇位も妻子も捨てて出奔したのでした。
そして、いろいろな仙人の弟子になったり、苦行林(という場所)で肉体行に励んだりして、
7年ほどの歳月をかけて修行して悟りを開いたのが、仏教の始まりで、
釈迦如来というのは、つまり、創始者を神格化したものというわけです。

その後、本人没後に、
「悟った人(“如来”)がひとりだけとか、おかしくね?」ということになり、
薬師如来やら阿弥陀如来やらの同僚が生み出され、
「あと、もう少しで悟れそうな後輩とかもいたほうがそれっぽくね?」から、
「じゃあさ、その後輩、変身が得意な設定とか、どうよ?」とか、
「どうせなら、もっとスケール大きい、宇宙神とか出そうぜ!」なんて、
脚本をいじってるうちに登場人物が増えたというのが、いまの仏教の世界観です。

よく、キン肉マンとか、魁!!男塾とか、もしかしたらドラゴンボールなども、
仏教の世界観に似ていると言われることがあります。
まぁ、たくさんの個性的なキャラクターが登場し、
それぞれの個性を生かして敵(仏教だと迷いとか執着)と対峙するという構造は、
たしかに似ている面もあるとは感じますが、
それよりも、おそらく、世界観を広げようとしたときに、
必要に応じてキャラクターを追加しつつ全体を統合しようとした手法が、
なんとなく仏教とそれらとの共通点なのかなという気がします。

さて、釈迦如来は、なにしろ実在の人物がモチーフですから、
キャラクター設定が多彩というか、緻密で、
生まれたての姿や苦行中のガリガリに痩せた姿から、
菩提樹の下で瞑想している姿や亡くなる直前で横になっている姿まで、
それはそれは、人生のさまざまなシーンを切り取られています。
それぞれのモチーフで仏像が作られるので、
如来の仏像としてはパターンの多い種といえると思います。

また、世界観拡大のなかで釈迦如来には弟子が登場しており、
左右に文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊で作られることもあります。
それもまた、ヘルクラウダー + ベビークラウド みたいな感じで、
ドラゴンクエストを彷彿とさせます。
しかも、ビジュアル的にも、
文殊菩薩は獅子に乗っており、普賢菩薩はゾウに乗っているなど、
そのダイナミックな造像も魅力のひとつになっています。

最後に、オススメをご紹介しておきますね。

8年前にもチラッと紹介させていただいた、白鳳仏の蟹満寺(京都)
体内に布で作った内臓が収められ、生身仏として祀られてきた清涼寺(京都)
平安期の国宝・釈迦如来像を2体も有する室生寺(奈良)

それから、生まれたばかりの姿を表現している誕生仏を擁する東大寺(奈良)
厳しい修行でガリガリになった姿を表現した苦行像を祀っている建長寺(神奈川)
それから、亡くなる直前の寝そべった姿を表現した涅槃像を安置する法隆寺(奈良)

また、椅子に腰を下ろした白鳳期の像が特徴的な深大寺(東京)も有名ですし、
ちょっと前に紹介した飛鳥寺(奈良)の飛鳥大仏も釈迦如来ですね。

一生に一度くらいは
見ておいて損はないと思いますよ。


[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑬ ~長屋王の不幸

教科書にも出てくるので、いちおうはみんなが習った「長屋王の変」
ざっくり言えば、現在の首相ほどの権限を持っていた長屋王が、
官房長官ほどの立場だった藤原不比等の息子4兄弟から冤罪をかけられ、
自宅を包囲されて自害……という事件です。

まぁ、当時、よくある話と言ってしまえばそのとおりなのですが、
このクーデターで長屋王とともに亡くなったのが、
妻の吉備内親王と、膳夫王や桑田王など、4人の息子たちでした。
この、妻の吉備内親王という人物は尋常でない血統の人で、
元明女帝の愛娘の一人で、父方の祖父母は天武天皇・持統天皇夫妻であり、
母・元明と祖母・持統の父親は同じく天智天皇なので、
天武・持統の孫でありながら、天智の孫にもあたるという、
もう、ゴリゴリの天皇家の娘っ子だったわけです。

時を戻そう (笑)

以前紹介した、持統天皇が執念で孫につなげた皇統でしたが、
彼女の崩御後、孫の文武天皇が、まだ25歳だというのに病死してしまったため、
皇統はたった5年でピンチに陥ったのでした。
それも、まぁ、よくある話ではあるわけですが、
娘の宮子を文武に送り込んでいた重臣・藤原不比等にとっては大誤算ですよね。
亡き文武と宮子の間には首皇子というのが生まれてはいたものの、
まだ7歳なので、さすがに譲位を断行するわけにはいきません。
そこで、中継ぎが必要となるわけですが、
不比等としては、確実に孫である首皇子に皇位が継承されるために、
何が何でも皇位を文武の家族から動かすわけにはいきません。
たとえば、亡き文武の妹である吉備内親王が即位することになったりすれば、
その夫である長屋王が皇統を牛耳ることになるに違いないし、
皇統は、そのまま長屋王の子・膳夫王に継承されてしまうので、
首皇子に皇位が継承されなくなってしまいます。
それは、藤原一族としてはどうしても避けねばならない事態であり、
まずは、間違っても、吉備内親王系に皇位が流れるのを阻止しなくてはなりません。

そこで編み出されたのが、首皇子の祖母で文武の母である阿閇皇女への譲位でした。
阿閇皇女は吉備内親王の母でもありましたが、
不比等としては、一世代遡ることで、
とりあえず吉備内親王から皇位を遠ざけることに成功した形です。
いや、何が言いたいのかというと、
中継ぎとして阿閇皇女を即位させて元明天皇とする案は、
おそらく藤原不比等の策略だったと思われるということです。

しかし、阿閇皇女も波乱の人生です。
夫の草壁皇子の亡きあと、姉でありながら姑でもある持統女帝と助け合い、
何とか3人の子供たちを成長させ、
軽皇子が文武天皇として即位し、吉備内親王も長屋王との間に孫を生んで、
おそらくホッとしていたころだったはずです。
息子が急死して傷心だったと思うのですが、
阿閇皇女はどういうつもりで即位を承諾したのでしょうか。

ともあれ、とりあえず、皇位は文武の母に戻されたわけですが、
この、異例な形での即位は、
長屋王に皇位継承の可能性を認識させたに違いありません。
もともと、長屋王自身は、天武の孫ではあるとはいえ、高市皇子系統であり、
直接の皇位継承権はないような人物でした。
言うなれば、野心を抱いたところでどうにもならないような立場だったわけですが、
いま、突如として妻の母が天皇となったわけで、
仮に、現天皇が妻を後継者に指名してくれれば、
我が家に皇位が転がり込んでくるというもの。
長屋王、浮足立ったに違いありません。
実際、不比等は保険をかけて、別の娘である長娥子を長屋王にめとらせ、
どっちに転んでも大丈夫なようにしています。

しかし、私は思うのです。
首皇子にまで皇統をつなぐ執念を持っていたのは不比等だけで、
阿閇皇女には、そのような執念はなかったのではないか、と。
わが息子・文武の子であるとはいえ、不比等の娘(宮子)から生まれ、
不比等の正妻(橘三千代)が養母となり、
そして不比等の娘(安宿媛)が妻となる予定の首皇子。
そのような者を身内だとは思えなかったでしょうし、
これ以上、不比等一族の力が強くなることは危険なことです。

そこで、阿閇皇女は何年かかけて布石を打ちました。
首皇子を皇太子にすると同時に、氷高皇女を高位に昇格させたのです。
不比等は首皇子の立太子に夢中で気づかなかったようです。
そうしておいて、譲位断行。
もちろん、皇太子である首皇子ではなく、氷高皇女に。
元正天皇の誕生です。
さらに阿閇皇女は畳みかけます。
もう一人の娘である吉備内親王を高位に引き上げ、
彼女が産んだ孫たちを“皇孫”扱いにしたのでした。

結局、不比等の負けです。
吉備内親王一家への対抗策として、皇位継承者を誕生させようと、
送り込んだ安宿媛を急かして、せっせと子作りをさせますが、
なかなか妊娠しないうえに、たまに産んでは女の子だったり、
せっかく男の子を産んでも早く亡くなってしまったり。
失意のなか、不比等はこの世を去るわけですが、
その後継者である四兄弟が、
破れかぶれで長屋王一家を陥れるのが「長屋王の変」です。

つまり。
「長屋王の変」と呼ばれてはいますが、
別に、特に長屋王は何もしておらず、ただ、お仕事頑張って出世しただけ。
彼が不幸だったのは、妻がやんごとなき家柄の生まれであり、
藤原家から勝手に張り合われていたこと。
そんなことで、一家皆殺しの目に遭わされ、恐ろしい限りです。
ちなみに、長屋王一家を陥れた藤原四兄弟は、
「長屋王の変」から8年後くらいに、全員一斉に病死します。
祟りなのでしょうか、恐ろしい限りです。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑫ ~祟りじゃ!

この春は、コロナウイルスが燎原の火の如く広がりました。

医療関係の方々のご尽力により、何とかこの程度で持ちこたえていますが、
これが、医療技術が未熟な奈良時代などであったならどうでしょうか。
ワクチンがないために治療法がないという意味では、
奈良時代も現代も一緒なのですが、
現代は対症療法ができるので、重症化を防げているのですよね。
あらためて、医療の進歩に感謝です。

さて、奈良時代といえば、
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こりました。
このときの天皇は奈良の大仏で有名な聖武天皇ですが、
この人が心配症というか、超ビビリで、やたらと遷都しまくります。
それは、何かあれば「祟りに違いない」と考える思考回路のためで、
だいたい、そういう人は心当たりがあるものです。

聖武天皇の妃というか皇后は光明子(光明皇后)という人で、
その父は藤原不比等といって、
乙巳の変で中大兄皇子に加担した中臣鎌足の息子です。
つまり、光明子は中臣鎌足の孫にあたるわけですが、
中臣鎌足も高位とはいえ所詮は政治家に過ぎないので、
もともと光明子は皇后になれるような身分ではなかったと思われます。
なにしろ、当時の皇后というのは、現在と違って、
夫である天皇が万が一崩御した場合、
中継ぎとして次の天皇として即位する可能性があるため、
皇族しか皇后にはなれないのが慣習でしたから。
しかも、光明子の母親は県犬養三千代といって、
阿閉皇女(聖武天皇の祖母・元明天皇)に仕えていた単なる女官であったので、
身分的に、皇后への道のりはかなり遠いものだったと思われます。

当然、光明子が皇后になることに反対する勢力がいるわけで、
その中心が長屋王という、聖武天皇の治世の初期に政権を握っていた人でした。
この人は中大兄皇子(天智天皇)の息子である高市皇子の息子ですから、
つまり、天智天皇の孫なのですが、
神亀6年(729年)、当時よくあった、他人の讒言により自害に追い込まれるという、
いわゆる「長屋王の変」が起きました。
これは、その時点ですでに没していた藤原不比等の、
「娘・光明子を聖武に嫁がせたい」という悲願を叶えるため、
4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂 = つまり光明子の兄たち)が、
それに反対する長屋王を排除するために仕組んだとみられています。

さて、そうやって反対勢力を抹殺し、
光明子は非皇族として初めて皇后となったわけですが、
天平9年の天然痘の大流行では、
なんと、長屋王を追い詰めた藤原四兄弟が全員病死します。
これは、いまでいうと、大臣がバタバタ亡くなって内閣が機能しなくなる状態で、
これが祟りなのかどうか、そのへんはちょっと私には分かりませんが、
当時、生き残った政府高官は恐れおののいたのでした。
急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王という人を呼び寄せて、
知太政官事という臨時首相みたいな役目で登板させることで、
なんとか、辛うじて政府の体裁を整えたのでした。

しかし、そでれも恐怖心はぬぐえなかったのか、
聖武天皇は突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を決行し、
なんと、そのまま平城京に戻らずに、
恭仁京(京都府の旧加茂町あたり)へ遷都を行いました。
しかし、その2年後、恭仁京がまだ造成中であるにもかかわらず、
聖武天皇は近江紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に移り、
さらにその2年後には、難波京(大阪市)へ遷都を決行した挙句、
1年後には元の平城京に戻るという、
ひいき目にみても、どうかしているんじゃないかというくらい、
遷都、つまり引っ越しを繰り返しています。
目まぐるしく行われた遷都は、
移転した先々で火災や大地震などの社会不安に遭遇したためと言われています。

ちなみに、聖武天皇の母親は藤原宮子といって、藤原不比等の娘です。
つまり、聖武天皇は、母親と妻が、藤原不比等の娘で、姉妹にあたるわけですが、
母である藤原宮子は首皇子(のちの聖武天皇)しか子を産みませんでしたので、
聖武天皇は「ひとりっ子」でした。
その後、母の妹・光明子を皇后としてめとった聖武天皇でしたが、
光明子も、男子は1人しか産まなかったうえ、
その男児は1歳になる前に死んでしまいます。
光明子は、ほかに女子を産んでいて、それが孝謙天皇として即位はするものの、
結婚しなかったので、女系天皇としての血脈はつながらず、
結局、藤原不比等が執念を燃やした系譜は、
かなりあっさりと断絶してしまったのでした。
切ない話です。

さて。
この春は、コロナウイルスが燎原の火の如く広がりました。
社会現象として、今年は特筆すべき1年になったことでしょう。
これは、私には、聖武天皇の御代とそっくりに見えます。
もし、現代が聖武天皇の御代であれば、
この未曽有のコロナ禍で、遷都は間違いないでしょうし、
改元されたうえ、日々の加持祈祷に余念がないことでしょう。

そういうのが正しいことかどうかは私には判断できませんが、
少なくとも、いまよりは神仏に対して謙虚であったかもしれぬと感じます。
何が正しいのかいまいち分からない VUCA の時代、
エビデンスも大切ですが、状況から学ぶ謙虚さも大事かもしれません。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑪ ~悲劇の皇子

孝徳天皇という人物について、以前、さらりとスルーしましたが、
その子である有間皇子は悲劇の皇子として有名です。

645年、女帝・皇極天皇は息子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとしましたが、
中大兄皇子は辞退して、皇極天皇の弟・軽皇子を推薦しました。
これが孝徳天皇で、大胆な政治改革を断行した天皇だったと言われています。
その孝徳天皇の息子が有間皇子、次期天皇を担う存在でした。
おそらく有間皇子本人も、天皇に即位する意思を持っていたと思いますが、
父である孝徳天皇と、影の権力者だった中大兄皇子の関係が悪化したことで、
有間皇子の状況は危ういものになってしまいます。

653年、孝徳天皇と対立した中大兄皇子は、
孝徳天皇の治める難波宮を捨て、かつて都だった飛鳥へ帰ってしまいました。
しかも、母(先帝・皇極天皇)や妹(間人皇女)を連れて。
この、先帝・皇極天皇というのは、孝徳天皇にとっては実の姉ですし、
間人皇女というのは、孝徳天皇にとっての妻でした。
つまり、孝徳天皇にしてみれば、姉ばかりか妻までも、
自分を捨てて中大兄皇子について行ってしまったという屈辱。
翌654年、妻にも見放されて独りぼっちの孝徳天皇は無念の死を遂げます。
間人皇女は実兄である中大兄皇子と近親相姦の関係にあったと言われていますので、
孝徳天皇、浮かばれません。

さらに翌年の655年、中大兄皇子の母である皇極天皇が斉明天皇として再登板します。
斉明天皇は、当然、次の天皇は自らの息子である中大兄皇子だと考えますが、
そのライバルになるのが、先帝・孝徳天皇の息子である有間皇子なのでした。

当時は、皇子たちはお互いにライバル同士で、
邪魔な皇子たちは謀略によって次々と消される運命にありました。
孝徳天皇死後、後ろ盾を失った有間皇子は身の危険を感じたのでしょう、
中大兄皇子にあらぬ嫌疑をかけられぬよう、狂人を装いました。
なにしろ中大兄皇子は乙巳の変を首謀した男、油断は禁物です。
以前、昼間から酒を飲んでゴロゴロしていて粛清を免れた白壁王の話を書きましたが、
この、無能な振りをして相手の警戒心を解くという手法、
その時代にはスタンダードだったのかもしれません。

さて、その白壁王は、無能を装って、のちに光仁天皇として即位しますが、
こちらの、狂人を装った有間皇子はどうなったのでしょうか。

それは、658年のことでした。
ある日、斉明天皇は中大兄皇子らと温泉へと出かけ、都を留守にしたわけです。
留守役には、蘇我馬子の孫で、蘇我赤兄という人物が任されていましたが、
その蘇我赤兄、天皇不在中に有間皇子へ急接近します。
蘇我赤兄は、有間皇子を前に斉明天皇や中大兄皇子を批判し、
「実は自分はあなたの味方である」と告げました。
これに有間皇子は大いに喜んでしまい、意気投合。
狂人キャラをすっかり忘れ、
斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を口走ったわけです。

お気づきでしょうが、これはワナ。
蘇我赤兄は中大兄皇子が放った刺客で、これは中大兄皇子の仕込みでした。
そうとは知らず、有間皇子は蘇我赤兄を盟友と信じ込み、
「中大兄皇子、やっつけるぞー! オー!」なんつって、
そそのかされるままに挙兵の構想を練り、皇位簒奪の準備を進めたのでしたが、
突如、蘇我赤兄が、湯治先の中大兄皇子に、
「天皇不在の都で有間皇子が謀反の企みをしております!」と密告したため、
皇位簒奪計画が露見してしまうのです。
なんか、こう、2時間ドラマ的というか、
美人局に引っかかったような感じですね。

父の孝徳天皇が崩御して以来、
ライバル・中大兄皇子が失脚の機会を虎視眈々と狙っているなか、
悔しい気持ちなどもあったでしょうが、迂闊に他人を信用することもできず、
自分を胸の内をひた隠しにしてきたというのに、
有間皇子、ここにきて油断してしまったということでしょう。
それほど、彼にとって蘇我赤兄が心を許せる盟友に見えたということでしょう。
やっと理解者が現れたと思った次の瞬間に裏切られた気持ちは、
察するに余りあります。

有間皇子は即座に捕らえられ、中大兄皇子のいる温泉地へと連行されます。
温泉地に連行される途中、松の木が目に入った有間皇子は、
有名な辞世の一句を詠みました。

磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見ん

「浜にある松の枝を結んで願を掛けつつ、
もし私に幸運があるなら、またこの枝を見たいものだ」という、
どうせダメだろうけどという、諦念を感じさせる切ない歌です。

いや、しかし、有間皇子は、3日後に再びその松の枝を見ることができました。
が、それは処刑地に護送されるためにそこを通ったから。
温泉地で中大兄皇子に執拗に尋問された有間皇子は、
その日、絞首刑に処せられました。
有間皇子が蘇我赤兄と出会ってからわずか1週間後のことでした。
いまなら、大きな箱に隠れてレバノンに出国とか、
逃げる方法もあるのかもしれませんが、
当時は目をつけられたら、終わり。
享年19。
有間皇子、やはり悲劇の皇子ですね。

このとき、中大兄皇子はすでに32歳でしたから、
別に殺さなくても、そこまでの脅威ではなかったと私は思うのですが、
そう考える私は甘すぎるのでしょうか。
なお、斉明天皇の次に天智天皇として即位した中大兄皇子でしたが、
その崩御後にも、実弟の大海人皇子と実子の大友皇子との間で、
古代日本最大の内乱と言われる『壬申の乱』が勃発しますから、
歴史は繰り返すということでしょう。

なお、どうでもよいことですが、弊社の Okei さん(文学部卒)に、
「中大兄皇子って知ってる?」って聞いてみたところ、
「中臣鎌足と闘った人?」って言っていました。
そんなもんです。

[SE;KICHI]
プロフィール

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Author:kkseishin
株式会社セイシン
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