飛鳥の執念⑮ ~淳仁天皇のとばっちり
それは6年前、
久々に耳にした“淡路廃帝”の名に興奮したという話を書きました。
その話をもっとというリクエストがありましたので、6年越しに書いてみます。
のちに淳仁天皇となる大炊王は、
天武天皇の皇子・舎人親王の七男という、天武天皇の孫にあたる人物で、
なかなかの血筋のはずですが、いかんせん7番目、
生まれるのが遅すぎたうえ、父の舎人親王も早くに亡くなってしまったため、
充分な後押しを得ることができませんでした。
当時の孝謙天皇は、内親王(女性皇族のこと)で立太子し、
父の聖武天皇から譲位された女性で、
即位後、新田部親王の子の道祖王という人を皇太子に指名します。
この人事は、聖武の遺詔によって指定されたものだったのですが、
道祖王は立太子してわずか1年後、皇太子を廃されてしまいました。
孝謙天皇が重臣を招集し、
皇太子である道祖王の言動があまりにひどく、
いかに父帝・聖武の遺詔といえど、廃立も致し方ないのではないかと諮問したところ、
右大臣・藤原豊成以下すべての重臣が廃立やむなしで一致し、
つまり、合議によって廃立が決まったというわけです。
聖武の遺詔がどのようなものであったかについては、実は記録はないのですが、
道祖王の言動についてはきちんと記録が残っていて、
たとえば、聖武が亡くなってまだ服喪期間だというのに密かに侍童と姦通したり、
機密のことを漏らしてしまって、注意されても改めないとか、
そのように書いてあります。
それどころか、夜、宮殿を抜け出して遊びまわり、
「私はバカだから皇太子など務まらん」と放言していたといいます。
まぁ、それが事実なら、皇太子としてはあるまじき行動ですが、
結局、この後の「誰を皇太子に立てるか」という廟議で、
参列者がそれぞれ候補者を推薦することにしたのですが、
大納言・藤原仲麻呂の、「臣を知るは君、子を知るは父、故に御意のままに」、
つまり、“陛下一任”という発言によって、
孝謙天皇は舎人親王の子・大炊王を皇太子に選んだのでした。
国会でもいますよね、動議を出すときに「議長---!」とか言う係。
仲麻呂はその役目だったのでしょうか。
ときに大炊王は24歳、ようやく表舞台に躍り出た形です。
いまいち伝わってないかもしれませんが、
この、廃立も擁立も廟議の合意を得て決まったという意味で、
すこぶるエポックな出来事でした。
つまり、大炊王本人もびっくりの大出世で、
神社にお祀りして『出世の神様』なんて売り出してもいいくらいです。
ところで、皇太子となった大炊王は、
仲麻呂の夭折した息子の嫁・粟田諸姉と結婚させられ、
仲麻呂の私邸に住むなど、
仲麻呂ファミリーとして仲麻呂から大いに援助を受けています。
つまり、大炊王の立太子は孝謙天皇と仲麻呂により、
あらかじめ打ち合わせた策謀とみてよく、
もっと言えば道祖王の廃太子は、大炊王の立太子ありきだった可能性も高そうです。
となると、仲麻呂による政権掌握の企てってことでしょうかねぇ。
実は、この当時、政治の実権は孝謙天皇ではなく、
その母親である光明皇太后のもとにありました。
光明皇太后というのは、藤原不比等という臣下の娘でありながら、
聖武天皇の皇后にまで上り詰めた人物です。
言わば、持統天皇などを超える、当時のハイパー出世ウーマンです。
(持統天皇から見た光明皇太后は、ひ孫の妻にあたります)
仲麻呂は、この光明皇太后の信任を得て、
紫微中台(しびちゅうだい)の長官となりました。
紫微中台というのは、光明が皇后となったときに設置された家政機関で、
皇太后の家政機関という体裁をとっていたものの、
実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関でした。
光明皇太后の支配する世界で、孝謙天皇は、天皇としては中途半端でした。
そこで仲麻呂は自身の権力を盤石にするため、光明皇太后に取り成しを願い出て、
光明皇太后はそれを受け、娘である孝謙天皇から皇位を簒奪し、
仲麻呂……が皇位を継ぐわけには血筋的に無理なので、
彼のおもちゃになっている大炊王が淳仁天皇として即位したのでした。
こうして即位した淳仁天皇ですが、
光明皇太后の崩御後、孝謙上皇と仲麻呂の関係が悪化し、
仲麻呂が恵美押勝の乱を起こし、これに巻き込まれます。
淳仁天皇は既に上皇側に拘束されていたのか、
仲麻呂を見限っていたのか、乱には加担しなかったのですが、
いずれにせよ乱が失敗に終わったため仲麻呂は誅殺され、
淳仁天皇は最大の後見人を失いました。
そして、乱の翌月、孝謙上皇の軍によって包囲された淳仁天皇は、
上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、
淡路国に流されていったわけです。
翌年、廃帝は淡路で亡くなるのですが、
公式には病死と伝えられているものの、葬礼が行われたことを示す記録もないので、
おそらくは暗殺されたと推定されるのでした。
なんでしょうかね。
一寸先は闇というか、誰と仲良くしておくべきなのか、考えさせられます。
[SE;KICHI]
久々に耳にした“淡路廃帝”の名に興奮したという話を書きました。
その話をもっとというリクエストがありましたので、6年越しに書いてみます。
のちに淳仁天皇となる大炊王は、
天武天皇の皇子・舎人親王の七男という、天武天皇の孫にあたる人物で、
なかなかの血筋のはずですが、いかんせん7番目、
生まれるのが遅すぎたうえ、父の舎人親王も早くに亡くなってしまったため、
充分な後押しを得ることができませんでした。
当時の孝謙天皇は、内親王(女性皇族のこと)で立太子し、
父の聖武天皇から譲位された女性で、
即位後、新田部親王の子の道祖王という人を皇太子に指名します。
この人事は、聖武の遺詔によって指定されたものだったのですが、
道祖王は立太子してわずか1年後、皇太子を廃されてしまいました。
孝謙天皇が重臣を招集し、
皇太子である道祖王の言動があまりにひどく、
いかに父帝・聖武の遺詔といえど、廃立も致し方ないのではないかと諮問したところ、
右大臣・藤原豊成以下すべての重臣が廃立やむなしで一致し、
つまり、合議によって廃立が決まったというわけです。
聖武の遺詔がどのようなものであったかについては、実は記録はないのですが、
道祖王の言動についてはきちんと記録が残っていて、
たとえば、聖武が亡くなってまだ服喪期間だというのに密かに侍童と姦通したり、
機密のことを漏らしてしまって、注意されても改めないとか、
そのように書いてあります。
それどころか、夜、宮殿を抜け出して遊びまわり、
「私はバカだから皇太子など務まらん」と放言していたといいます。
まぁ、それが事実なら、皇太子としてはあるまじき行動ですが、
結局、この後の「誰を皇太子に立てるか」という廟議で、
参列者がそれぞれ候補者を推薦することにしたのですが、
大納言・藤原仲麻呂の、「臣を知るは君、子を知るは父、故に御意のままに」、
つまり、“陛下一任”という発言によって、
孝謙天皇は舎人親王の子・大炊王を皇太子に選んだのでした。
国会でもいますよね、動議を出すときに「議長---!」とか言う係。
仲麻呂はその役目だったのでしょうか。
ときに大炊王は24歳、ようやく表舞台に躍り出た形です。
いまいち伝わってないかもしれませんが、
この、廃立も擁立も廟議の合意を得て決まったという意味で、
すこぶるエポックな出来事でした。
つまり、大炊王本人もびっくりの大出世で、
神社にお祀りして『出世の神様』なんて売り出してもいいくらいです。
ところで、皇太子となった大炊王は、
仲麻呂の夭折した息子の嫁・粟田諸姉と結婚させられ、
仲麻呂の私邸に住むなど、
仲麻呂ファミリーとして仲麻呂から大いに援助を受けています。
つまり、大炊王の立太子は孝謙天皇と仲麻呂により、
あらかじめ打ち合わせた策謀とみてよく、
もっと言えば道祖王の廃太子は、大炊王の立太子ありきだった可能性も高そうです。
となると、仲麻呂による政権掌握の企てってことでしょうかねぇ。
実は、この当時、政治の実権は孝謙天皇ではなく、
その母親である光明皇太后のもとにありました。
光明皇太后というのは、藤原不比等という臣下の娘でありながら、
聖武天皇の皇后にまで上り詰めた人物です。
言わば、持統天皇などを超える、当時のハイパー出世ウーマンです。
(持統天皇から見た光明皇太后は、ひ孫の妻にあたります)
仲麻呂は、この光明皇太后の信任を得て、
紫微中台(しびちゅうだい)の長官となりました。
紫微中台というのは、光明が皇后となったときに設置された家政機関で、
皇太后の家政機関という体裁をとっていたものの、
実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関でした。
光明皇太后の支配する世界で、孝謙天皇は、天皇としては中途半端でした。
そこで仲麻呂は自身の権力を盤石にするため、光明皇太后に取り成しを願い出て、
光明皇太后はそれを受け、娘である孝謙天皇から皇位を簒奪し、
仲麻呂……が皇位を継ぐわけには血筋的に無理なので、
彼のおもちゃになっている大炊王が淳仁天皇として即位したのでした。
こうして即位した淳仁天皇ですが、
光明皇太后の崩御後、孝謙上皇と仲麻呂の関係が悪化し、
仲麻呂が恵美押勝の乱を起こし、これに巻き込まれます。
淳仁天皇は既に上皇側に拘束されていたのか、
仲麻呂を見限っていたのか、乱には加担しなかったのですが、
いずれにせよ乱が失敗に終わったため仲麻呂は誅殺され、
淳仁天皇は最大の後見人を失いました。
そして、乱の翌月、孝謙上皇の軍によって包囲された淳仁天皇は、
上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、
淡路国に流されていったわけです。
翌年、廃帝は淡路で亡くなるのですが、
公式には病死と伝えられているものの、葬礼が行われたことを示す記録もないので、
おそらくは暗殺されたと推定されるのでした。
なんでしょうかね。
一寸先は闇というか、誰と仲良くしておくべきなのか、考えさせられます。
[SE;KICHI]
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