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飛鳥の執念⑪ ~悲劇の皇子

孝徳天皇という人物について、以前、さらりとスルーしましたが、
その子である有間皇子は悲劇の皇子として有名です。

645年、女帝・皇極天皇は息子である中大兄皇子に皇位を譲ろうとしましたが、
中大兄皇子は辞退して、皇極天皇の弟・軽皇子を推薦しました。
これが孝徳天皇で、大胆な政治改革を断行した天皇だったと言われています。
その孝徳天皇の息子が有間皇子、次期天皇を担う存在でした。
おそらく有間皇子本人も、天皇に即位する意思を持っていたと思いますが、
父である孝徳天皇と、影の権力者だった中大兄皇子の関係が悪化したことで、
有間皇子の状況は危ういものになってしまいます。

653年、孝徳天皇と対立した中大兄皇子は、
孝徳天皇の治める難波宮を捨て、かつて都だった飛鳥へ帰ってしまいました。
しかも、母(先帝・皇極天皇)や妹(間人皇女)を連れて。
この、先帝・皇極天皇というのは、孝徳天皇にとっては実の姉ですし、
間人皇女というのは、孝徳天皇にとっての妻でした。
つまり、孝徳天皇にしてみれば、姉ばかりか妻までも、
自分を捨てて中大兄皇子について行ってしまったという屈辱。
翌654年、妻にも見放されて独りぼっちの孝徳天皇は無念の死を遂げます。
間人皇女は実兄である中大兄皇子と近親相姦の関係にあったと言われていますので、
孝徳天皇、浮かばれません。

さらに翌年の655年、中大兄皇子の母である皇極天皇が斉明天皇として再登板します。
斉明天皇は、当然、次の天皇は自らの息子である中大兄皇子だと考えますが、
そのライバルになるのが、先帝・孝徳天皇の息子である有間皇子なのでした。

当時は、皇子たちはお互いにライバル同士で、
邪魔な皇子たちは謀略によって次々と消される運命にありました。
孝徳天皇死後、後ろ盾を失った有間皇子は身の危険を感じたのでしょう、
中大兄皇子にあらぬ嫌疑をかけられぬよう、狂人を装いました。
なにしろ中大兄皇子は乙巳の変を首謀した男、油断は禁物です。
以前、昼間から酒を飲んでゴロゴロしていて粛清を免れた白壁王の話を書きましたが、
この、無能な振りをして相手の警戒心を解くという手法、
その時代にはスタンダードだったのかもしれません。

さて、その白壁王は、無能を装って、のちに光仁天皇として即位しますが、
こちらの、狂人を装った有間皇子はどうなったのでしょうか。

それは、658年のことでした。
ある日、斉明天皇は中大兄皇子らと温泉へと出かけ、都を留守にしたわけです。
留守役には、蘇我馬子の孫で、蘇我赤兄という人物が任されていましたが、
その蘇我赤兄、天皇不在中に有間皇子へ急接近します。
蘇我赤兄は、有間皇子を前に斉明天皇や中大兄皇子を批判し、
「実は自分はあなたの味方である」と告げました。
これに有間皇子は大いに喜んでしまい、意気投合。
狂人キャラをすっかり忘れ、
斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を口走ったわけです。

お気づきでしょうが、これはワナ。
蘇我赤兄は中大兄皇子が放った刺客で、これは中大兄皇子の仕込みでした。
そうとは知らず、有間皇子は蘇我赤兄を盟友と信じ込み、
「中大兄皇子、やっつけるぞー! オー!」なんつって、
そそのかされるままに挙兵の構想を練り、皇位簒奪の準備を進めたのでしたが、
突如、蘇我赤兄が、湯治先の中大兄皇子に、
「天皇不在の都で有間皇子が謀反の企みをしております!」と密告したため、
皇位簒奪計画が露見してしまうのです。
なんか、こう、2時間ドラマ的というか、
美人局に引っかかったような感じですね。

父の孝徳天皇が崩御して以来、
ライバル・中大兄皇子が失脚の機会を虎視眈々と狙っているなか、
悔しい気持ちなどもあったでしょうが、迂闊に他人を信用することもできず、
自分を胸の内をひた隠しにしてきたというのに、
有間皇子、ここにきて油断してしまったということでしょう。
それほど、彼にとって蘇我赤兄が心を許せる盟友に見えたということでしょう。
やっと理解者が現れたと思った次の瞬間に裏切られた気持ちは、
察するに余りあります。

有間皇子は即座に捕らえられ、中大兄皇子のいる温泉地へと連行されます。
温泉地に連行される途中、松の木が目に入った有間皇子は、
有名な辞世の一句を詠みました。

磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見ん

「浜にある松の枝を結んで願を掛けつつ、
もし私に幸運があるなら、またこの枝を見たいものだ」という、
どうせダメだろうけどという、諦念を感じさせる切ない歌です。

いや、しかし、有間皇子は、3日後に再びその松の枝を見ることができました。
が、それは処刑地に護送されるためにそこを通ったから。
温泉地で中大兄皇子に執拗に尋問された有間皇子は、
その日、絞首刑に処せられました。
有間皇子が蘇我赤兄と出会ってからわずか1週間後のことでした。
いまなら、大きな箱に隠れてレバノンに出国とか、
逃げる方法もあるのかもしれませんが、
当時は目をつけられたら、終わり。
享年19。
有間皇子、やはり悲劇の皇子ですね。

このとき、中大兄皇子はすでに32歳でしたから、
別に殺さなくても、そこまでの脅威ではなかったと私は思うのですが、
そう考える私は甘すぎるのでしょうか。
なお、斉明天皇の次に天智天皇として即位した中大兄皇子でしたが、
その崩御後にも、実弟の大海人皇子と実子の大友皇子との間で、
古代日本最大の内乱と言われる『壬申の乱』が勃発しますから、
歴史は繰り返すということでしょう。

なお、どうでもよいことですが、弊社の Okei さん(文学部卒)に、
「中大兄皇子って知ってる?」って聞いてみたところ、
「中臣鎌足と闘った人?」って言っていました。
そんなもんです。

[SE;KICHI]
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飛鳥の執念➉ ~天皇の名前

ちょっと変化球で行きますが、
奈良時代後期の貴族に淡海三船という人がいました。
この人物は、奈良時代以前の歴史散歩好きにとっては欠かせない人物です。

乙巳の変(大化の改新)で有名な中大兄皇子が天智天皇として即位するのは、
近親相姦とかなんだかんだあって、先代の斉明天皇が崩御してから6年半後、
正式に即位した時には既に42歳でした。
42歳って、いまでは働き盛りの年代ですが、
当時は寿命が短く、実際、天智天皇も46歳で崩御しますので、
42歳と言えば、もはや晩年と言っても差し支えないほどの年齢です。

さて、42歳で即位した天智天皇は、
弟の大海人皇子を皇太弟に指名しました。

ところで、この大海人皇子という人は、天智天皇の弟でありながら、
皇后となった鸕野讚良皇女や、その姉の大田皇女のほかに、
兄・天智天皇の娘(つまり自分の姪っ子)を4人も妻にしたうえ、
さらに、それとは別に6人、合計10人の妃を持ちました。
その一人が、私が峰不二子似説を提唱している額田王です。

この額田王は、最初、大海人皇子の妃で、十市皇女という娘を生んでいますが、
のちに、大海人皇子は兄の天智天皇に額田王を奪われてしまっています。
そして、大海人皇子と額田王の娘である十市皇女は、
天智天皇の息子である大友皇子の妻となり、葛野王という子を産んでいます。

さて、弟の大海人皇子を皇太弟に指名した天智天皇、
これは、簡単に言えば「次は彼です」という内外に向けた宣言なのですが、
その2年半ほど後、天智天皇は大友皇子を、史上初の太政大臣に指名しました。
突然作られた太政大臣というのは皇太弟より上の立場で、
これは、「次は彼です」といったん指名していた弟の大海人皇子を飛び越え、
その上に自分の息子を据えた形です。
つまり、天智天皇は、いったんは弟を後継指名したものの、
そのうち、わが子・大友皇子を後継者にしたいと思い始めてしまったということでしょう。

この時代、権力者にとって目障りな人物は容赦なく粛清されますから、
大海人皇子は震え上がったはずです。
その結果、大海人皇子は皇太弟を辞退し、出家して山奥に隠れてしまい、
代わりに大友皇子が皇太子になりました。
まぁ、たぶん、天智天皇の思う壺でしょう。

天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ですが)後継として朝廷を主宰します。
その半年後、山奥の大海人皇子は挙兵を決意して山奥から脱出、
武力で大友皇子を自殺に追い込んで、自ら即位し、天武天皇となりました。(壬申の乱)
大友皇子の妻であり、天武天皇の娘である十市皇女の悲壮感
計り知れませんね。

しかし、こうなってしまうと、自殺した大友皇子を父に持つ葛野王の立場が、
俄然、不安定なものになっていきます。
天武天皇の死後、その皇后の鸕野讚良皇女は持統天皇として即位し、
わが子・草壁皇子の継がせるために執念を燃やします
が、
葛野王は、その彼女にひれ伏し、草壁皇子後継のために尽力しました。
まぁ、そうしなければ生き残るすべはなかったでしょうから、
保身のために魂を売ったとも言えますが、
ある意味では“うまく立ち回った”というわけです。

その葛野王の子が池辺王という人物で、さらにその子が、冒頭の淡海三船です。
縷々書き連ねてきたのは、
彼が天智系の正統であるということを伝えたいがためですが、
天智系は壬申の乱で非主流派に追いやられており、
この人物は大友皇子の曽孫でありながら、若いころから出家していました。
しかし、30歳ころに勅命により還俗させられて御船王に戻ったのち、
淡海の氏姓を賜って臣籍に降下し、淡海三船と名乗っているわけです。
それはともかく、彼の最大の功績は、
初代神武天皇から第44代元正天皇までの、
ほぼ全部の天皇の漢風諡号を決めたこと
です。

実は天皇の呼び名というのは、在位中から本人が名乗っているわけではなく、
退位後、第三者が決め、そう呼ばれるものなので、
たとえば桓武天皇の“桓武”という称号は崩御後に贈られた名前なので、
生前、「桓武さ~ん」と話しかけても、
「は~い、桓武で~す」ということにはならないのです。
つまり、どの天皇も、基本的に在位中はその名前では呼ばれていないのですが、
この天皇の名前について、初代から第44代までの分を決めたのが淡海三船で、
そういうわけで、彼は歴史散歩好きにとっては欠かせない人物です。

というより、この記事に出てきた斉明天皇も天智天皇も天武天皇も持統天皇も、
全部、彼のネーミングなんだということです。
臣籍降下ということで、皇族としては主流ではなかったのかもしれませんが、
“名付け親”として、現在に至るまで名が遺っているというのは、
それはそれで、大を成した人生だったのだなぁと感心します。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑨ ~蘇我倉山田石川麻呂の重要性

「乙巳の変」って知ってますか。
当社の a. さんは「全然わかんないです」と言い、
Okei さんに至っては「さっぱり」という返事でした。
学校では教えていないことなので、無理もないかもしれません。
もしかしたら読めもしないかもしれませんね。

ところが、社内に乙巳の変について語る者がいたのです。
いつもウルトラマンについて語っている K.K さんです。
この K.K さんという人は、
もともと学校のお勉強ができるタイプではないのですが、
一方で、関心領域についての知識は尋常ではなく、
かなり細かいことまで調べて記憶しているようで、
果たして、本当におつむが弱いのか、それとも単なるキャラ設定なのか、
意外と後者なのではないかと思ったりもする私です。

乙巳の変というのは、
学校で習った「大化の改新」のきっかけになった事件の一つです。
中大兄皇子と中臣鎌足が、宮中で蘇我入鹿を暗殺し、
蘇我氏を滅ぼしたという飛鳥時代の政変で、
うるさい蘇我氏を葬り去ることで、大化の改新と呼ばれる改革が可能になりました。

私が乙巳の変と聞いて、若干の興奮を覚えるのは、
たぶん、蘇我倉山田石川麻呂という人物に興味を持ったからです。
名前長っ!
その蘇我倉山田石川麻呂は蘇我入鹿のいとこだったのですが、
中大兄皇子と中臣鎌足が、横暴な蘇我入鹿を誅殺することを画策したとき、
蘇我一族であったにもかかわらず、仲間に引き入れられます。
このとき、石川麻呂は、娘である遠智娘と姪娘の姉妹を、
妃として中大兄皇子に送り込んでいます。
ちなみに、遠智娘の娘が、私が何度も何度も書いている鸕野讃良皇女(持統天皇)で、
その妹の姪娘の娘が、その鸕野讃良皇女の息子・草壁皇子の妻、阿閇皇女(元明天皇)
この2人は嫁姑の関係でありながら、父親が同じであり、母方の祖父も一緒という、
2代遡れば完全に同一遺伝子の2人なのですが、
その祖父・石川麻呂という人は、そういう血縁的な意味合いでも、
また、乙巳の変の成否を握る人物としても、
その後の天武系王朝を築くにあたって、非常に重要な人物なのです。

ところが、この石川麻呂、キーマンのわりにメンタルはそう強くなかった模様で、
乙巳の変では、入鹿の暗殺の合図出し(天皇への奏上文を読み上げ)の役目だったのに、
合図を出しても、刺客が怖気づいてなかなか暗殺を実行しなかったため、
石川麻呂、大いに動揺して、文を読み上げながらガタガタ震え、
大汗をかいていたと言われています。
しかも、それを不審に思った入鹿に「何故震えているのか」と指摘される始末で、
つくづく、蘇我倉山田石川麻呂、ドッキリの仕掛人とか、
そういうことに向いていない人物だったようです。
こんな人、こういう大事なクーデターに、
私だったら誘わないかもしれません。

ちなみに、蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変での功績からか、
その後、右大臣に出世していますが、
4年後には、中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀により、粛清されています。

はい、そこで前述の娘・遠智娘です。
遠智娘は中大兄皇子の妻ですから、
彼女にとって、父・石川麻呂は夫に殺されたようなものです。
遠智娘は泣き叫び、食事も喉を通らなくなったそうで、
なんと、そのまま死んでしまいました。

さらに、中大兄皇子と遠智娘の間に生まれていた鵜野讃良皇女は、
当時まだ5歳。
物心つくかつかぬかという年頃の鵜野讃良皇女にとっては、
父が母を殺したようなものです。
それをどんな気持ちで受け止めていたのでしょうか。
そして、彼女にとって、幼少期のこの経験が、
天武王朝に固執する権力主義的なマインドのベースになったのかもしれません。

ところで、この K.K さん、乙巳の変に関心を持ったきっかけが、この絵だそうです。

乙巳の変
https://ameblo.jp/k1rms/entry-11472672939.html

この絵は、奈良の神社に伝わっている『多武峰縁起絵巻』といって、
江戸時代の絵師・住吉如慶とその子・具慶が合作で描いたものですが、
中央の人物(蘇我入鹿)が、首から血を噴き出しながら突っ伏し、
その上方に、切り離された頭部がぴょーんと宙を舞うという、
構図としてはマンガのようですが、実にシュールな絵ですね。
実に禍々しいです。

私は、この時代をこよなく愛する者で、
私にとって「○○の変」といえば、“本能寺”を抑えて余裕で“乙巳”を挙げますが、
そんな私でも、この絵はそう興味をそそる絵ではないので、
人の関心というのは千差万別なんだなぁと、改めて感心します。

この K.K さんはこの春、
歴史学を学ぶために大学の通信課程に入学するんだそうです。
もちろん、「乙巳の変」ばかりを学ぶというわけでもないでしょうが、
好きな領域について学んで深めようとするところはうらやましいし、
新たなチャレンジは、尊敬に値します。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑧ ~生娘の覚悟

天武天皇の息子である草壁皇子は早くに亡くなりました。
当時、そのような立場の者が死ぬということは、
遺された息子や娘が後ろ盾を失うということを意味しており、
草壁皇子が早く亡くなったということは、
その遺児・軽皇子が出世競争から脱落したとみるのが普通です。
ところが、ここで登場するのが草壁皇子の母・鸕野讚良。
天武天皇の妻であった彼女は、夫を深く愛していたようで、
天武系の皇統を絶やすまいと執念を燃やし、
自ら持統天皇となって即位して中継ぎとなってまで、
わが孫である軽皇子へと皇位をつなぎました。
ここまでは5年前の「飛鳥の執念①」で書きました。

こうして14歳で即位したのが文武天皇、つまり鸕野讚良の孫の軽皇子ですが、
この文武天皇も、24歳になった時に死んでしまいます。
遺児である首皇子はまだ6歳。
例によって出世競争から脱落するところを救ったのが、死んだ文武天皇の母。
続日本紀によれば、文武天皇は亡くなる半年前、
重体となっている病床に母の阿閇皇女を呼び、皇位の継承を託したとのこと。
彼女が元明天皇として即位する際に発した詔が続日本紀に遺されていて、
それは、先代文武の即位は天智天皇が定めた不改常典に従ったと明言するものでした。
つまり、天武-草壁-文武という嫡系での継承を正当なものであるとし、
すなわち自分の後は首皇子に引き継ぐと宣言した詔でした。
この部分は、ザックリとですが、4年前の「飛鳥の執念③」に書きました。

さて、この元明天皇は、平城遷都など、教科書に載るような偉業を成し遂げましたが、
いかんせん、即位時にすでに47歳と、当時としてはかなり高齢でしたので、
その治世は老いとの戦いで長くは続かず、
かといって譲位したい首皇子はまだ若く、という状況で、
もうひとり、中継ぎが登場します。
氷高皇女です。

氷高皇女は元明天皇の娘で、亡き文武天皇の姉です。
彼女は、高齢となった母・元明天皇から、
甥っ子(弟の子)・首皇子へとバトンをつなぐというミッションを任され、
35歳の時、第44代・元正天皇として即位しました。

奈良時代の天皇系図
https://sites.google.com/site/poppopoppopoppo777/nai-liang-shi-dai

私がこの人物に注目しているのは、
5人目の女帝でありながら、それまでの女帝が皇后や皇太子の未亡人だったのに対し、
結婚歴のない初めての女帝となったところです。
当時、女性の貞操は現代ほど乱れてはいませんでしたから、
元正天皇は、35歳とはいえ、有史初の処女女帝であったと言われています。

これって、どんな感じなんでしょう。

女帝ともなれば気軽に声を掛けてくる男性は皆無でしょうし、
性を謳歌するなどというと下品な感じもしますが、
夫すらいない“籠の鳥”の人生は寂しかったのではないでしょうか。

ところで、元正天皇には、吉備内親王という妹がいました。
この吉備内親王は、若いうちに長屋王という人物に嫁いでおり、
元正天皇が即位する頃には3人の皇子を産んでいました。
元正天皇は、この吉備内親王ファミリーと仲が良く、
妹の夫である長屋王のことを厚く信頼していたようで、
元正天皇の即位と前後して、長屋王は飛躍的に昇進していきます。

私は思うのです。
氷高皇女(元正天皇)、若いうちに長屋王と結婚すればよかったのに。
別に長屋王でなくても、若いうちに天智天皇や天武天皇の子孫の誰かと結婚していれば、
女帝にならずに済んだはずなのに。
というのも、氷高皇女が長屋王と結婚していたら、
先代の元正天皇が崩御する際、女帝が続くことを避けるために、
おそらく皇統は長屋王に移ったはずです。
長屋王は、実は高市皇子の息子で、天武天皇の孫にあたるので、
いちおう、その資格はあるでしょう。
その後は、氷高皇女が長屋王の妻として子を産めば、
その子へと、淡々と皇統は天武系で受け継がれていったはずなのに。

当時、女帝は、あくまで男性の天皇のピンチヒッターとの考えが強くありました。
未亡人ばかりが女帝になってきたのがその証拠です。
そうであるなら、おばあさんの持統天皇も、お母さんの元明天皇も、
氷高皇女に「若いうちに結婚するべきよ」って、
すすめてあげるべきだったと思うのです。
どうして35歳になるまで放っておいたのでしょうか。
おそらく、最初から有事の際の中継ぎ要因として隔離されていたのだろうというのが通説になっています。
実際、そうなんだろうと思いますが、だとしたら、それはそれで、悲しい人生です。


即位から10年後、元正天皇は青年に成長した首皇子に皇位を譲ります。
当初のミッションを達成し、ついに“籠の鳥”から脱出できたわけですが、
元正天皇はすでに45歳になっていました。
しかも、この元正天皇、退位後25年くらい生き、
聖武天皇として即位した首皇子を、上皇として補佐します。
特に晩年は、病気がちで政務が行えず、
仏教信仰に傾きがちだった聖武天皇に代わり、
橘諸兄や藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと言われています。

よくノブレス・オブリージュなどと言いますが、
この人の人生は、
弟からその息子へと皇位をつなぐためだけに存在しました。
その人生がどのような感情を伴うものか、私には想像もつきませんが、
今年、歌舞伎の市川宗家に起きた悲しい出来事を見ていると、
つなぐための人生というのは、あるものなのだなと思います。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑦ ~峰富士子みたいな女

今回の『飛鳥の執念』で取り上げるのは、
いつもとちょっと毛色を変えて、額田王とか、どうでしょうか。
額田王は百人一首にも登場するので、みなさんもご存知でしょう。

以前にも紹介している、のちに持統天皇となる鸕野皇女ですが、
その夫・大海人皇子(のちの天武天皇)の元カノが額田王です。
元カノと書きましたが、十市皇女という娘が生まれていますので、
実際には元妻というのが正確でしょうか。
ちなみに、大海人皇子の兄である中大兄皇子(のちの天智天皇)は、
額田王の姉・鏡王女と夫婦関係にあり、
当時は、兄は姉と、弟は妹と、という感じで丸く収まっていたようです。

ところが、日本が白村江の戦いに敗れ、
九州の護りを固めるために都が九州へ移った際、
同行した額田王はしっかり姉さんから中大兄皇子を奪ってしまいます。
自分にも大海人皇子がいたはずなのに・・・鏡王女も気の毒なことです。
この時の額田王が詠んだ歌が、
『君待つと わが恋をれば わが屋戸のすだれ動かし 秋の風吹く』
現代風に読み下すと、
あなたを待ってるときにすだれが動いたから、
あっ!来た、と思ってはしゃいだら風だったじゃん、という歌で、
まぁ、もう、は・や・く・き・て♡ って感じでしょうか。
なんだかエロいですよねぇ。
ちなみに、略奪された側の姉・鏡王女は、同時期に、
『風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何かなげかむ』
と詠んでいて、これは、
ぬか喜びさせる風に文句言ってるみたいだけど、
私には風すら来なくて、こんなに泣いてるんですけど・・・・・・という、
負け犬全開の歌です。注1
額田王、悪い女です。

額田王にはこういう魔性の女っぽいところがあって、
その後、中大兄皇子が天智天皇として即位したのち、
近江で行われた天智天皇主催の狩りの席、
額田王は久しぶりに顔を合わせた大海人皇子といい雰囲気になり、
皆の前で堂々と歌を詠んじゃいました。
『茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』
夕暮れの野原で、私に手を振らないでよね。
番人にふたりのことが知られちゃうじゃない、という、
不倫を彷彿とさせる歌です。
これに対し、元夫の大海人皇子は、
『紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも』
と、つまり“人妻だと分かってても、こんなに好きなんだ”と詠んでおり、
知られちゃうかどうか以前に、未練たらたらです。

忘れてはいけませんが、この狩りは天智天皇主催ですので、
それだけが理由ではないでしょうが、この時期から、
大海人皇子と兄・天智天皇の仲は急速に悪化します。
そもそも、天智天皇が即位する際、弟の大海人皇子を皇太子に立てたものの、
天智天皇は内心、自分の息子の大友皇子にあとを譲りたくなったようで、
このころには大海人皇子を邪険にするようになっていたからです。

まもなく、天智天皇は崩御し、大友皇子が弘文天皇として即位する注2のですが、
その半年後に大海人皇子は吉野で兵を挙げ、皇位奪還を目指します。
これを額田王はどのように見ていたのか、
ロマンチストの私としては大いに関心があります。
というのも、戦っている大海人皇子が元夫なのは前述のとおりですが、
戦っているもう一人の大友皇子は十市皇女を正妃に迎えており、
額田王にとっては娘婿にあたります。
つまり、額田王にとっては元夫 vs 娘婿
十市皇女にとっては父 vs 夫という構図です。

壬申の乱と呼ばれるこの皇位争いは、わずか1ヶ月で終結します。
弘文天皇は自害し、勝った 大海人皇子が天武天皇として即位しました。
額田王たちも保護されましたが、十市皇女はしばらくして病没注3し、
やがて、天武天皇も崩御、
本妻である鸕野皇女が持統天皇となって君臨し、時代が移るのです。
浮名を流したあの頃の親しい人たちを次々に見送る額田王は、
晩年、どのような心境だったのでしょうか。

注1 ) このあと、鏡王女は中大兄皇子にあっさり捨てられ、大化の改新の盟友・藤原鎌足に払い下げられます。せめてもの救いは、その再婚の相性は抜群だったらしく、夫婦仲が良かったことでしょうか。
注2 ) 弘文天皇は、明治になってから諡号を贈られ天皇として認められた人物で、実際に即位したかどうかは微妙。
注3 ) 十市皇女は大友皇子との間に一男をもうけており、この男児が、長じて葛野王として持統天皇政権で重きをなす人物です。彼は私が密かに注目している人物です。

[SE;KICHI]
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Author:kkseishin
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