飛鳥の執念⑧ ~生娘の覚悟

天武天皇の息子である草壁皇子は早くに亡くなりました。
当時、そのような立場の者が死ぬということは、
遺された息子や娘が後ろ盾を失うということを意味しており、
草壁皇子が早く亡くなったということは、
その遺児・軽皇子が出世競争から脱落したとみるのが普通です。
ところが、ここで登場するのが草壁皇子の母・鸕野讚良。
天武天皇の妻であった彼女は、夫を深く愛していたようで、
天武系の皇統を絶やすまいと執念を燃やし、
自ら持統天皇となって即位して中継ぎとなってまで、
わが孫である軽皇子へと皇位をつなぎました。
ここまでは5年前の「飛鳥の執念①」で書きました。

こうして14歳で即位したのが文武天皇、つまり鸕野讚良の孫の軽皇子ですが、
この文武天皇も、24歳になった時に死んでしまいます。
遺児である首皇子はまだ6歳。
例によって出世競争から脱落するところを救ったのが、死んだ文武天皇の母。
続日本紀によれば、文武天皇は亡くなる半年前、
重体となっている病床に母の阿閇皇女を呼び、皇位の継承を託したとのこと。
彼女が元明天皇として即位する際に発した詔が続日本紀に遺されていて、
それは、先代文武の即位は天智天皇が定めた不改常典に従ったと明言するものでした。
つまり、天武-草壁-文武という嫡系での継承を正当なものであるとし、
すなわち自分の後は首皇子に引き継ぐと宣言した詔でした。
この部分は、ザックリとですが、4年前の「飛鳥の執念③」に書きました。

さて、この元明天皇は、平城遷都など、教科書に載るような偉業を成し遂げましたが、
いかんせん、即位時にすでに47歳と、当時としてはかなり高齢でしたので、
その治世は老いとの戦いで長くは続かず、
かといって譲位したい首皇子はまだ若く、という状況で、
もうひとり、中継ぎが登場します。
氷高皇女です。

氷高皇女は元明天皇の娘で、亡き文武天皇の姉です。
彼女は、高齢となった母・元明天皇から、
甥っ子(弟の子)・首皇子へとバトンをつなぐというミッションを任され、
35歳の時、第44代・元正天皇として即位しました。

奈良時代の天皇系図
https://sites.google.com/site/poppopoppopoppo777/nai-liang-shi-dai

私がこの人物に注目しているのは、
5人目の女帝でありながら、それまでの女帝が皇后や皇太子の未亡人だったのに対し、
結婚歴のない初めての女帝となったところです。
当時、女性の貞操は現代ほど乱れてはいませんでしたから、
元正天皇は、35歳とはいえ、有史初の処女女帝であったと言われています。

これって、どんな感じなんでしょう。

女帝ともなれば気軽に声を掛けてくる男性は皆無でしょうし、
性を謳歌するなどというと下品な感じもしますが、
夫すらいない“籠の鳥”の人生は寂しかったのではないでしょうか。

ところで、元正天皇には、吉備内親王という妹がいました。
この吉備内親王は、若いうちに長屋王という人物に嫁いでおり、
元正天皇が即位する頃には3人の皇子を産んでいました。
元正天皇は、この吉備内親王ファミリーと仲が良く、
妹の夫である長屋王のことを厚く信頼していたようで、
元正天皇の即位と前後して、長屋王は飛躍的に昇進していきます。

私は思うのです。
氷高皇女(元正天皇)、若いうちに長屋王と結婚すればよかったのに。
別に長屋王でなくても、若いうちに天智天皇や天武天皇の子孫の誰かと結婚していれば、
女帝にならずに済んだはずなのに。
というのも、氷高皇女が長屋王と結婚していたら、
先代の元正天皇が崩御する際、女帝が続くことを避けるために、
おそらく皇統は長屋王に移ったはずです。
長屋王は、実は高市皇子の息子で、天武天皇の孫にあたるので、
いちおう、その資格はあるでしょう。
その後は、氷高皇女が長屋王の妻として子を産めば、
その子へと、淡々と皇統は天武系で受け継がれていったはずなのに。

当時、女帝は、あくまで男性の天皇のピンチヒッターとの考えが強くありました。
未亡人ばかりが女帝になってきたのがその証拠です。
そうであるなら、おばあさんの持統天皇も、お母さんの元明天皇も、
氷高皇女に「若いうちに結婚するべきよ」って、
すすめてあげるべきだったと思うのです。
どうして35歳になるまで放っておいたのでしょうか。
おそらく、最初から有事の際の中継ぎ要因として隔離されていたのだろうというのが通説になっています。
実際、そうなんだろうと思いますが、だとしたら、それはそれで、悲しい人生です。


即位から10年後、元正天皇は青年に成長した首皇子に皇位を譲ります。
当初のミッションを達成し、ついに“籠の鳥”から脱出できたわけですが、
元正天皇はすでに45歳になっていました。
しかも、この元正天皇、退位後25年くらい生き、
聖武天皇として即位した首皇子を、上皇として補佐します。
特に晩年は、病気がちで政務が行えず、
仏教信仰に傾きがちだった聖武天皇に代わり、
橘諸兄や藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと言われています。

よくノブレス・オブリージュなどと言いますが、
この人の人生は、
弟からその息子へと皇位をつなぐためだけに存在しました。
その人生がどのような感情を伴うものか、私には想像もつきませんが、
今年、歌舞伎の市川宗家に起きた悲しい出来事を見ていると、
つなぐための人生というのは、あるものなのだなと思います。

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飛鳥の執念⑦ ~峰富士子みたいな女

今回の『飛鳥の執念』で取り上げるのは、
いつもとちょっと毛色を変えて、額田王とか、どうでしょうか。
額田王は百人一首にも登場するので、みなさんもご存知でしょう。

以前にも紹介している、のちに持統天皇となる鸕野皇女ですが、
その夫・大海人皇子(のちの天武天皇)の元カノが額田王です。
元カノと書きましたが、十市皇女という娘が生まれていますので、
実際には元妻というのが正確でしょうか。
ちなみに、大海人皇子の兄である中大兄皇子(のちの天智天皇)は、
額田王の姉・鏡王女と夫婦関係にあり、
当時は、兄は姉と、弟は妹と、という感じで丸く収まっていたようです。

ところが、日本が白村江の戦いに敗れ、
九州の護りを固めるために都が九州へ移った際、
同行した額田王はしっかり姉さんから中大兄皇子を奪ってしまいます。
自分にも大海人皇子がいたはずなのに・・・鏡王女も気の毒なことです。
この時の額田王が詠んだ歌が、
『君待つと わが恋をれば わが屋戸のすだれ動かし 秋の風吹く』
現代風に読み下すと、
あなたを待ってるときにすだれが動いたから、
あっ!来た、と思ってはしゃいだら風だったじゃん、という歌で、
まぁ、もう、は・や・く・き・て♡ って感じでしょうか。
なんだかエロいですよねぇ。
ちなみに、略奪された側の姉・鏡王女は、同時期に、
『風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何かなげかむ』
と詠んでいて、これは、
ぬか喜びさせる風に文句言ってるみたいだけど、
私には風すら来なくて、こんなに泣いてるんですけど・・・・・・という、
負け犬全開の歌です。注1
額田王、悪い女です。

額田王にはこういう魔性の女っぽいところがあって、
その後、中大兄皇子が天智天皇として即位したのち、
近江で行われた天智天皇主催の狩りの席、
額田王は久しぶりに顔を合わせた大海人皇子といい雰囲気になり、
皆の前で堂々と歌を詠んじゃいました。
『茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』
夕暮れの野原で、私に手を振らないでよね。
番人にふたりのことが知られちゃうじゃない、という、
不倫を彷彿とさせる歌です。
これに対し、元夫の大海人皇子は、
『紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも』
と、つまり“人妻だと分かってても、こんなに好きなんだ”と詠んでおり、
知られちゃうかどうか以前に、未練たらたらです。

忘れてはいけませんが、この狩りは天智天皇主催ですので、
それだけが理由ではないでしょうが、この時期から、
大海人皇子と兄・天智天皇の仲は急速に悪化します。
そもそも、天智天皇が即位する際、弟の大海人皇子を皇太子に立てたものの、
天智天皇は内心、自分の息子の大友皇子にあとを譲りたくなったようで、
このころには大海人皇子を邪険にするようになっていたからです。

まもなく、天智天皇は崩御し、大友皇子が弘文天皇として即位する注2のですが、
その半年後に大海人皇子は吉野で兵を挙げ、皇位奪還を目指します。
これを額田王はどのように見ていたのか、
ロマンチストの私としては大いに関心があります。
というのも、戦っている大海人皇子が元夫なのは前述のとおりですが、
戦っているもう一人の大友皇子は十市皇女を正妃に迎えており、
額田王にとっては娘婿にあたります。
つまり、額田王にとっては元夫 vs 娘婿
十市皇女にとっては父 vs 夫という構図です。

壬申の乱と呼ばれるこの皇位争いは、わずか1ヶ月で終結します。
弘文天皇は自害し、勝った 大海人皇子が天武天皇として即位しました。
額田王たちも保護されましたが、十市皇女はしばらくして病没注3し、
やがて、天武天皇も崩御、
本妻である鸕野皇女が持統天皇となって君臨し、時代が移るのです。
浮名を流したあの頃の親しい人たちを次々に見送る額田王は、
晩年、どのような心境だったのでしょうか。

注1 ) このあと、鏡王女は中大兄皇子にあっさり捨てられ、大化の改新の盟友・藤原鎌足に払い下げられます。せめてもの救いは、その再婚の相性は抜群だったらしく、夫婦仲が良かったことでしょうか。
注2 ) 弘文天皇は、明治になってから諡号を贈られ天皇として認められた人物で、実際に即位したかどうかは微妙。
注3 ) 十市皇女は大友皇子との間に一男をもうけており、この男児が、長じて葛野王として持統天皇政権で重きをなす人物です。彼は私が密かに注目している人物です。

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飛鳥の執念⑥ ~10/14と言えば・・・

こんなの書く気はなかったのですが、
先々週の金曜日、10月14日の会社帰りにのんびり銭湯に寄った際、
サウナで2人組の老人が話しているのを小耳に挟んでしまいました。
老人A「おい、今日は何の日か知ってるか?」
老人B「今日は……14日か。10月14日言うたら……“淡路廃帝”の日よ。」
老人A「何よそれ? 10月14日は鉄道の日で……」
老人B「いやいや、鉄道でなくて。10月14日言うたら“淡路廃帝”よ。」
……なんと、偉そうに話し始めたのは老人Aでしたが、
急に“淡路廃帝”を思い出した老人Bに、老人Aが発言を封じられる展開。
……それにしても、珍しい話を始めましたね、老人B。
そして、私はと言えば、
久々に耳にした“淡路廃帝”の名に興奮し、
ついつい、ずっと聞き入ってしまい、脱水でヘロヘロです。

10月14日は、“淡路廃帝”こと淳仁天皇が淡路島へ流された日だそうです。
老人Bが思い出したのは、たぶんこのことです。

のちに淳仁天皇となる大炊王は、
天武天皇の皇子・舎人親王の七男なので、天武天皇の孫です。
なかなかの血筋ですが、いかんせん七男、
生まれるのが遅すぎて、父の舎人親王にすぐに死なれてしまたったため、
充分な後押しを得ることができませんでした。
大炊王に光が当たったのは、24歳のとき、
権力者・藤原仲麻呂の意向で当時の皇太子が追放され、
代わりに大炊王が皇太子に抜擢されたのです。

皇太子となった大炊王は、
仲麻呂の息子の未亡人と結婚したうえ、仲麻呂の私邸に住むなど、
仲麻呂ファミリーとして、仲麻呂から大いに援助を受けています。
血筋は良いとはいえ、幼い頃から暮らしに苦労してきた大炊王にとって、
支援者としての仲麻呂の出現は嬉しかったに違いありません。

しかし、歴史の場面では、異常に親切な人物には気をつけねばなりません。
案の定、仲麻呂はすこぶる野心のある男で、
大炊王が淳仁天皇として即位してからというもの、
当然のように政治への介入を強めてきました。
一方で、淳仁天皇に位を譲った孝謙上皇も権力を持ち続けていたため、
淳仁天皇は仲麻呂とも上皇とも対立するという、三つ巴の抗争に突入します。
ポイントは「淳仁天皇 vs 孝謙上皇&仲麻呂」ではなく、
「淳仁天皇 vs 孝謙上皇 vs 仲麻呂」という状態だったことです。
つまり、それぞれに、自分の味方はいないという状態。

しかし、どういうわけか仲麻呂は、
かつて援助してきた淳仁天皇を、最終的には味方になると思っていたようで、
状況を「淳仁天皇&仲麻呂 vs 孝謙上皇」であると読み違えてしまいます。
そして、淳仁天皇を味方だと信じた仲麻呂は、
孝謙上皇に対してクーデターを企てて兵を挙げました。
これが、いわゆる恵美押勝の乱ですが、淳仁天皇は味方ではないので、
あっさり朝廷に鎮圧され、仲麻呂は一族皆殺しになりました。

仲麻呂の死は、淳仁天皇にとっては「敵が一人減った!」てなもんですが、
前述の通り、淳仁天皇はかつて仲麻呂と大の仲良しだったこともあり、
孝謙上皇から「どうせ、アンタもアイツの仲間なんでしょ?」と疑われ、
淡路島に流刑となってしまったのです。
あっさり淡路島に流刑と書きましたが、
現役の天皇が流罪になるという、これはかなり衝撃的な事件です。

しかし、平城京からだと、淡路島は微妙に近い距離なので、
流刑後も、彼を慕って顔を出す貴族はいた模様です。
どうやら、力が弱くても一旦は天皇になった人なので、
なかなかの人望はあったのだと思われます。
その、淳仁天皇の意外な人望を察知した孝謙上皇、
「アイツを生かしておくと、また力を持つかもしれない」と警戒します。
その結果なのかなんなのか、流刑の翌年、当時まだ32歳の淳仁天皇は死去。
いちおう病死ということになっていますが、そんなわけないですよね。

んふふふ、なんか2サスっぽくな~い?
もしかしたら、私がこの時代を好むのは、2サスっぽいからかも。

淳仁天皇は、孝謙上皇(淳仁天皇追放後、再登板して称徳天皇)の意向により、
長い間、歴代天皇として認められませんでした。
そこで、便宜上の呼び名が“淡路廃帝”。
歴代に加えられ、淳仁天皇と呼ばれるようになったのは、何と明治3年。
名誉回復に1000年以上かかってしまいました。
ずっと“廃帝”と呼ばれ続けてきた淳仁天皇、さぞやつらかったことでしょう。
ちなみに、明治3年に歴代天皇に加えられたのは淳仁天皇のほかに2人で、そのうち1人が、3年ほど前に『飛鳥の執念②』で紹介した大津皇子(弘文天皇)です。

ところで、当時は、祟りを恐れ、謝罪し、祈り、鎮魂しまくるというのが、
お定まりのパターン。
自分で相手を追い落とし、誅殺したくせに。
再登板して称徳天皇の次が、『飛鳥の執念④』で取り上げた光仁天皇ですが、
即位後、わりとすぐに、60人の僧を淡路島に派遣して鎮魂したと言います。
後からビビるならケンカすんなよって話ですが。

まぁ、そういうわけで、老人Bにとってどういう位置づけなのかは知りませんが、
10月14日と言えば鉄道の日などではなく、“淡路廃帝”の日だとのこと。
私も、ようやく名誉回復できた淳仁天皇のために、ちゃんと覚えておくことにしましょう。

それはそうと、私はこの時代が好きなのですが、
同僚の Okei さんなんか、少しも興味がないと言いますので、
もしかしたら、自分はちょっと特殊なのかなと思ったりもしていましたが、
富山の田舎のサウナで、こんなことを熱く語る老人に出会ったことにより、
この時代が好きでも変わり者とは言えまい、
そうだ、私は変わり者などではないのだと、再び自信をつけた私なのでした。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑤ ~妹萌え

この『飛鳥の執念』というのは、ものすごくスパンの長いシリーズですので、
もう忘れている方も多いかと思いますが、
初回、鸕野讚良(持統天皇)から始まって、
前回は4代あとの白壁王(光仁天皇)まで来ました。
次は平安京を開いた桓武天皇ですから、もはや飛鳥とは言えません。

シリーズ名に忠実に、話を飛鳥に戻しましょう。

ところで、初回の記事で、
鸕野讚良が、天智天皇の娘でありながら、その弟の天武天皇に嫁いだとか、
しかもその際には実の姉である大田皇女と2人一緒にだったとか、
天武天皇との間の息子・草壁皇子の妻に、自らの妹・阿閇皇女を迎えたとか、
なんというか、現代ではありえない、とろみのついた婚姻関係に、
いささか驚かれた方も多かったようで、
何人かの方からもっと詳しく教えろと言われたものです。

しかし、姉とともに叔父に嫁ぐとか、自分の妹を息子にくっつけるとか、
一見、なんでもアリに見えますが、タブーはあったようです。

645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)は中臣鎌足らと謀って、
母・皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するというクーデターを起こします。
義務教育を受けた方ならご存知の、乙巳の変(大化の改新)です。

この皇極天皇と蘇我入鹿は仲良しだったので、
ショックを受けた天皇は退位を決断します。
天皇は息子である中大兄皇子に譲ろうとしましたが、
中大兄は辞退して、皇極天皇の弟・軽皇子を推薦しました。【回避①】

これを受け、皇極天皇は皇位を軽皇子(孝徳天皇)に譲ります。

この孝徳天皇は中大兄皇子にとっては母の弟、つまり叔父にあたりますが、
その皇后(正妻)の間人皇女は中大兄皇子の妹ですので、
中大兄皇子にとって孝徳天皇は義理の弟でもあります。

即位後、孝徳天皇は飛鳥から大阪・難波宮に遷都します。
中大兄皇子は孝徳天皇の下で皇太子となり、
いわば名実ともに次期天皇の立場に立つのですが、
この2人の中はすこぶる悪かったため、
ある時、怒った中大兄皇子は難波宮から飛鳥に帰ってしまいます。
中大兄皇子には多数の臣下が同行し、天皇にダメージを与えましたが、
なんと中大兄の母・皇極天皇と妹・間人皇女も中大兄皇子側についており、
つまり、孝徳天皇にしてみれば、姉ばかりか妻までも、
自分を捨てて中大兄皇子について行ってしまうという屈辱。
ショックを受けた天皇は体調を崩し、そのまま病死してしまいます。

そこで、順当なら皇太子である中大兄皇子が即位するはずですが、
彼はまたしても辞退し、皇位を再び母・皇極天皇に戻します。【回避②】
退位した天皇が再び即位するなんて、異例中の異例です。

再度即位し、皇極改め斉明天皇となった母でしたが、
高齢だったため、実際の政治は皇太子である中大兄皇子が摂りました。
そんなことなら自分が即位すればいいじゃんと思いますが、
7年後に母・斉明天皇が崩御した後も、
“代理”みたいな立場を維持し、中大兄皇子は即位しません。【回避③】
天皇が空位になるなんて、それこそ異例中の異例です。

結局、中大兄皇子が天智天皇として即位するのは、
母・斉明天皇が崩御してから6年半後、645年の最初の辞退から23年後でした。

どうしてそこまで中大兄皇子は辞退するのでしょうか。

一説には、
中大兄皇子が妹・間人皇女と姦通していたから
だと言われています。
この時代、姉とともに叔父に嫁ぐとか、妹を息子にくっつけるとか、
そういうのはOKだけれど、
さすがに、夫のいる実の妹、しかも皇后とどうにかなっちゃうのはちょっと……
国民が許さないだろうと、
そういう配慮で即位を遅らせていたのではないかと、そういう説です。
その証拠に、中大兄皇子は間人皇女の死後に即位しています。

まぁ、要するに、この時代、近親相姦はわりと普通なのですが、
なんでもアリではないということをお伝えしたかったのでした。

何とも言えない気分ですよね。
私はこの時代が好きで、
この時代を背景にした大河ドラマとか、作ってくれないだろうかと思っていて、
脳内では、主役の鸕野皇女に菅野美穂あたりを配役するなど、
プロデューサー気分で製作しているほどですが……
この近親相姦を知ってしまうと、
その時代には普通のことだったとしても……
ドラマ化は無理かなぁと……菅野美穂、出てくれないだろうなぁ……
中大兄皇子、佐藤浩市とかどうかと思うんだけど……
ただれてるしなぁ……無理だろうなぁ……

[SE;KICHI]

飛鳥の執念④ ~アホは急に賢くならぬ

少し前の話になりますが、
加来耕三さんという歴史作家の方の講演を聞く機会がありました。

その中で印象に残ったのが、何度も繰り返される、
アホは急に賢くはならないんでございますという言葉。

織田信長しかり、坂本龍馬しかり、諸葛亮孔明しかり、
日本人に人気のある歴史上の人物には、
たいてい、「若いころはアホでどうにもならなかった」という、
破天荒エピソードがついているものですが、
加来耕三さん曰く、「そんなわけないだろう」と。

なるほど、と思うのです。

私自身は、信長の生涯にも龍馬の生涯にもそれほどの関心はないのですが、
最終的に歴史に名を残すような傑物の前半生が暗愚であったはずはないと思うので、
実際のところ、正真正銘のアホだったわけではないだろうと思います。

おそらくは幼少時から、傑物としての片鱗は見せていたはずでしょう。
ただ、大人物であったことをより強調する演出として、
あとから、前半生のダメだったエピソードを付け加えたのかもしれません。
日本人はそういう一発逆転エピソードが好きですからね。

では、信長や龍馬の前半生が美化されたものであったとしましょう。
そうではなく、本当に前半生がダメだった歴史上の人物というのはいないのでしょうか。
・・・いたかもしれませんよね。
しかし、前半生が本当にダメであったなら、歴史に名を残すのは難しいと思うので、
仮に、ある人物の前半生が正真正銘のダメであったとすれば、
そのダメな感じは、“世を忍ぶ仮の姿”的な演技だったのだろうと思うのです。

アホの振りをしていたというのは、あり得る話だなと思うのです。

私は思い出すのは信長でも龍馬でもなく、白壁王です。
以前紹介した持統天皇のひ孫にあたるのが、奈良の大仏で有名な聖武天皇ですが、
その娘に井上内親王というのがおりまして、白壁王はその夫です。
実は井上内親王の異母姉妹が、時の天皇である女帝・孝謙天皇なのですが、
権力争いに巻き込まれるのを嫌った井上内親王は、
わざわざ出世が大変遅く、権力争いに巻き込まれそうにない白壁王と結婚したわけです。

この時期は天皇家周辺に陰謀と暗殺が渦巻いた時代で、
何かと言いがかりをつけられ、多くの有能な親王が粛清されていましたが、
そんななかで、白壁王は、毎日酒を飲んでゴロゴロし、
無能さをさらけ出していたため、粛清の対象にならずに済みます。

その結果、どうなったか。
独身の女帝は後継者を指名せずに亡くなってしまいますが、
相次ぐ粛清のせいで有能な親王たちはこの世にはおらず、
なんと、異母姉妹の井上内親王のつながりから、
白壁王に時期天皇の座が転がり込んできたのです。
光仁天皇としての即位は62歳というので、当時としては超高齢での即位です。

でも、これだと、運の良いアホだったのか、アホの振りをして雌伏していたのか、
本当のところはわかりませんよね。

しかし、私は、
白壁王はアホの振りをして雌伏していたのだと思っています。

なぜなら、この白壁王、光仁天皇としての即位後、
突如として有能なところを発揮し、キナ臭いこともやってのけているからです。

たとえば、皇后になった井上内親王と、後継ぎの皇太子・他戸親王を幽閉し、
若いころからの側妾である高野新笠に生ませた山部親王を新たに皇太子に据えるなど、
単なる“呑んだくれ”とは思えない、意外とゴリゴリしたこともやっています。
この山部親王が、平安京を整備したことで有名な桓武天皇なので、
後継者の能力を見抜く目はあったということでしょう。

要するに、白壁王は、
アホの振りしておとなしくしていたら、
60過ぎて天皇に指名されちゃった
という人です。

何はともあれ、アホは急に賢くはならないという言葉は意外と深く、
学ぶべきことがあると思うのです。

たまに、龍馬の生きざまに心酔している若い方などが、
龍馬にあやかっているつもりか、
ただ感情の赴くままに振る舞っているケースがあります。

やはり、アホな振りをするというのと、
アホだというのは違うでしょう。


何も考えずに龍馬を真似してアホになっちゃうと、
おそらくその先に待っているものは単なるアホなのです。

気をつけないといけません。

[SE;KICHI]
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Author:kkseishin
株式会社セイシン
私たちは工場設備機器を中心に、お客様にご提案・販売をしている総合商社です。

■富山本社/〒930-0821
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