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飛鳥の執念⑯ ~大津と大伯(前編)

リクエストがありましたので大津と大伯について書いてみたいと思います。

大津皇子は、大海人皇子(のちの天武天皇)を父とし、
大田皇女を母として663年に誕生しました。
この大田皇女は天智天皇の娘で、鵜野皇女(のちの持統天皇)の実の姉にあたります。
つまり、大津は、天武天皇の子でありながら、天智天皇の孫でもあったわけで、
血筋の良さは天武帝の皇子達の中でもかなり上位でした。
なおかつ、当時の文書に、
容姿端麗、筋骨隆々、学問優秀、性格寛大と伝わっていますし、
和歌についてはかなりハイセンスだったので、
大津はかなりイケてる青年だったのでしょう。

しかし、母・大田は大津が4歳の時に亡くなってしまいます。
幼い彼と、2歳年上の姉・大伯皇女を引き取って育てた継母が、
母の妹である鵜野皇女(のちの持統天皇)です。
この鵜野は、母・大田とは父も母も同一でしたが、
同じ大海人皇子に嫁いでいたというところが大津にとって悲劇の始まり。

鵜野には、すでに、大津より1年年上の息子・草壁皇子がおり、
草壁は母・鵜野から溺愛されていました。
大津と草壁は、両者は、天武帝の子で天智帝の孫というスペックはまるで互角でしたが、
鵜野は、実子である草壁だけを可愛がり、
姉の子である大津には冷たくあたる、
小公女セーラのような環境でした。


天武帝崩御直後の混乱期、大津は亡くなります。
鵜野が、皇太子である我が子・草壁の地位を大津に脅かされることを怖れ、
大津に無実の罪を被せ死を命じたという定説です。

生前の天武帝の願いはただ一つでした。
自身の次の治世について、
長子・草壁が天皇に即位し、彼を頂点として、高市や大津らの諸皇子が補佐するという、
いわば中央集権体制の構築でした。
それがため、わざわざ吉野の地で『吉野盟約』を交わしたのです。
そして、これは私の予想なのですが、
高市や大津は、そのことはそれほどイヤではなく、
それが自らの役目だと腑に落としていたと思うのです。

大津が21歳になった時、天武帝は大津に国政への参画を許可します。
先述の通り、草壁を頂点とし、大津らがそれを補佐する体制こそ、
天武帝が望んだ形でしたから、むしろ草壁のために、
才気煥発な大津を育てようという意図での参画許可だったことでしょう。
この時点で草壁に嫡男が生まれていて、
嫡系相承が確定していたこともあったでしょうが、
天武帝には、大津が草壁を脅かすのではないかという発想は薄かったようです。

しかし、皮肉なことに夫の判断による大津参政が、
鵜野皇后の不安を掻き立てることになったのは間違いないでしょう。

686年9月、父・天武帝が崩御。
そのわずか3週間後、大津の謀反が発覚します。
即座に逮捕された大津は、鵜野から「死」を命じられます。 
享年24歳。

大津が死を命じられた時、涙を流して詠んだというのが、
「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
です。
磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限り、
私は雲の彼方に去っていくのだろうか…という、
悲哀に満ちた歌です。
涙を流したのは、志なかばにこの世を去らねばならないという無念さゆえでしょうが、
甘ったれな私は、その志とは、謀反に失敗したことではなく、
父・天武帝の遺志に応えることができなかったことだったのではないかと、
彼の人生を不憫に感じるのです。

大津皇子。
言ってみれば、
鵜野皇女の「オンナの嫉妬」に狂わされた人生でした。

次回は姉の大伯皇女のほうを見てみましょう。

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飛鳥の執念⑮ ~淳仁天皇のとばっちり

それは6年前、
久々に耳にした“淡路廃帝”の名に興奮したという話を書きました。
その話をもっとというリクエストがありましたので、6年越しに書いてみます。

のちに淳仁天皇となる大炊王は、
天武天皇の皇子・舎人親王の七男という、天武天皇の孫にあたる人物で、
なかなかの血筋のはずですが、いかんせん7番目、
生まれるのが遅すぎたうえ、父の舎人親王も早くに亡くなってしまったため、
充分な後押しを得ることができませんでした。

当時の孝謙天皇は、内親王(女性皇族のこと)で立太子し、
父の聖武天皇から譲位された女性で、
即位後、新田部親王の子の道祖王という人を皇太子に指名します。
この人事は、聖武の遺詔によって指定されたものだったのですが、
道祖王は立太子してわずか1年後、皇太子を廃されてしまいました。
孝謙天皇が重臣を招集し、
皇太子である道祖王の言動があまりにひどく、
いかに父帝・聖武の遺詔といえど、廃立も致し方ないのではないかと諮問したところ、
右大臣・藤原豊成以下すべての重臣が廃立やむなしで一致し、
つまり、合議によって廃立が決まったというわけです。

聖武の遺詔がどのようなものであったかについては、実は記録はないのですが、
道祖王の言動についてはきちんと記録が残っていて、
たとえば、聖武が亡くなってまだ服喪期間だというのに密かに侍童と姦通したり、
機密のことを漏らしてしまって、注意されても改めないとか、
そのように書いてあります。
それどころか、夜、宮殿を抜け出して遊びまわり、
「私はバカだから皇太子など務まらん」と放言していたといいます。

まぁ、それが事実なら、皇太子としてはあるまじき行動ですが、
結局、この後の「誰を皇太子に立てるか」という廟議で、
参列者がそれぞれ候補者を推薦することにしたのですが、
大納言・藤原仲麻呂の、「臣を知るは君、子を知るは父、故に御意のままに」、
つまり、“陛下一任”という発言によって、
孝謙天皇は舎人親王の子・大炊王を皇太子に選んだのでした。
国会でもいますよね、動議を出すときに「議長---!」とか言う係。
仲麻呂はその役目だったのでしょうか。

ときに大炊王は24歳、ようやく表舞台に躍り出た形です。
いまいち伝わってないかもしれませんが、
この、廃立も擁立も廟議の合意を得て決まったという意味で、
すこぶるエポックな出来事でした。
つまり、大炊王本人もびっくりの大出世で、
神社にお祀りして『出世の神様』なんて売り出してもいいくらいです。

ところで、皇太子となった大炊王は、
仲麻呂の夭折した息子の嫁・粟田諸姉と結婚させられ、
仲麻呂の私邸に住むなど、
仲麻呂ファミリーとして仲麻呂から大いに援助を受けています。
つまり、大炊王の立太子は孝謙天皇と仲麻呂により、
あらかじめ打ち合わせた策謀とみてよく、
もっと言えば道祖王の廃太子は、大炊王の立太子ありきだった可能性も高そうです。

となると、仲麻呂による政権掌握の企てってことでしょうかねぇ。

実は、この当時、政治の実権は孝謙天皇ではなく、
その母親である光明皇太后のもとにありました。
光明皇太后というのは、藤原不比等という臣下の娘でありながら、
聖武天皇の皇后にまで上り詰めた人物
です。
言わば、持統天皇などを超える、当時のハイパー出世ウーマンです。
(持統天皇から見た光明皇太后は、ひ孫の妻にあたります)
仲麻呂は、この光明皇太后の信任を得て、
紫微中台(しびちゅうだい)の長官となりました。
紫微中台というのは、光明が皇后となったときに設置された家政機関で、
皇太后の家政機関という体裁をとっていたものの、
実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関でした。

光明皇太后の支配する世界で、孝謙天皇は、天皇としては中途半端でした。
そこで仲麻呂は自身の権力を盤石にするため、光明皇太后に取り成しを願い出て、
光明皇太后はそれを受け、娘である孝謙天皇から皇位を簒奪し、
仲麻呂……が皇位を継ぐわけには血筋的に無理なので、
彼のおもちゃになっている大炊王が淳仁天皇として即位したのでした。

こうして即位した淳仁天皇ですが、
光明皇太后の崩御後、孝謙上皇と仲麻呂の関係が悪化し、
仲麻呂が恵美押勝の乱を起こし、これに巻き込まれます。
淳仁天皇は既に上皇側に拘束されていたのか、
仲麻呂を見限っていたのか、乱には加担しなかったのですが、
いずれにせよ乱が失敗に終わったため仲麻呂は誅殺され、
淳仁天皇は最大の後見人を失いました。

そして、乱の翌月、孝謙上皇の軍によって包囲された淳仁天皇は、
上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、
淡路国に流されていったわけです。
翌年、廃帝は淡路で亡くなるのですが、
公式には病死と伝えられているものの、葬礼が行われたことを示す記録もないので、
おそらくは暗殺されたと推定されるのでした。

なんでしょうかね。
一寸先は闇というか、誰と仲良くしておくべきなのか、考えさせられます。

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飛鳥の執念⑭ ~『高市』といえば

今年、話題をさらった女性といえば、
眞子内親王殿下か高市早苗さんといったところでしょうか。
特に高市さん、
私が初めて認識したのは柿澤弘治の腰巾着みたいなことをしていた頃で、
あれから25年ちょっと、政権与党の総裁の座をうかがうようになるなんて、
あの頃、誰が予想できたでしょうか。

さて。
とにかく、令和のニッポンで、
『高市』といえば『早苗』ということになったわけですが、
歴史上で『高市』といえば、知名度で、まだまだ 高市皇子 の圧勝でしょう。
なにしろ、「吉野の盟約」の「六皇子」のうちの1人ですからね、
みなさんも、名前を聞いたことくらいはあるでしょう。

高市皇子は「たけちのみこ」と読み、
天武天皇の長男なんですが、
母の家格が低かったので皇統を継がなかった人物です。
奈良県高市郡の出身なので高市皇子と呼ばれているようですが、
高市早苗さんも奈良県橿原市出身だそうなので、
同じ出自なのかもしれませんね。

教科書にも出てくる「壬申の乱」が勃発したとき、
彼は、大津京にいたのですが、
吉野に隠れていた父に呼応して行動を起こしました。
父と合流した彼は、美濃の不破というところで全軍を任されて活躍し、
その結果は、みなさんご存じのとおりで、
大友皇子が打ち破られ、天武の勝利で欄は完結します。
つまり、高市皇子は、天武政権の立役者ともいえる人物です。
そういうところも、
今回、河野包囲網の一翼を担った高市早苗さんと似ているかもしれません。

ところで、『吉野の盟約』というのは、
679年の5月6日に、天武天皇、皇后(のちの持統天皇)と、
草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子の6皇子が、
表向き、「この先、何があっても互いに助け合おうね」と約束し合った会です。
自分の死後、壬申の乱みたいな兄弟の争いが起きないようにと、
天武天皇が釘を刺したものであるというのが定説ですが、
表向き…というのは、この時代は序列というのが非常に大切であったため、
それを知らしめるための会であったと言われています。
つまり、招集時の草壁、大津、高市、川島、忍壁、志貴の序列に意味があり、
暗に、「筆頭位は草壁、次席は大津」と誇示しているのだということです。

事実、草壁は天武と皇后の子であり、大津は天武と皇后の姉の子(皇后の甥)です。
一方、高市以下、あとの4人は、天武の息子ではあるけれど、母親の出が悪く、
まぁ、なんというか、軽んじられている感じです。
私は思うのです。
高市皇子、どういう気持ちなのかしら、と。

この6皇子のなかでは一番年長だった高市皇子。
それでも序列は3位で、自分の使命は弟の補佐。

何度か触れたことがありますが、
このあと、天武が亡くなり、
その直後、序列2位の大津が、謀反の罪で死刑になり、
続いて序列1位の草壁も病没してしまいます。
序列3位の高市の立場なら、ふつう、どう思います?
おっ! 目の前が開けた!って思いません?

ところが、持統天皇として跡を継いだのは、それまで皇后だった鸕野讚良皇女でした。
正直、え~、マジかぁとなりそうなところで、
歴史上、人物によっては大暴れして処刑されたりする場面ですが、
ここをグッと我慢した高市、太政大臣の地位を獲得します。
これは、天皇・皇太子を除く皇族・臣下のうちの最高位です。

不思議じゃありません?

内心どう思っていたかは分かりませんが、
母の出自が悪いなどという、自分ではどうにもできない点をずっと耐え、
おそらくは野心を見せることもなく、
愚直に淡々と仕事をしていると引き上げられるということでしょうか。
どうにもならぬことを分かっていながら、
突如いきり立って鎮圧されて立場を失う者なんて、
古今東西、わんさかいますからね。

ところで、もう一点。
高市皇子といえば十市皇女ですよね。
この十市皇女、父親は天武天皇なので、高市皇子とは異母兄弟です。
母親は以前お話したことのある額田王
そして、なんと、壬申の乱で高市皇子らに倒された大友皇子の正妃です。
つまり、十市皇女にとって高市皇子は、兄であり、夫の仇。
なんとなく、複雑な恩讐のありそうな感じです。
ところが、この十市皇女、
高市皇子どころか、父・天武帝よりも先に亡くなってしまいます。
病気ということなので、それは仕方ないのですが、
その時に、その死を悼んで高市皇子が詠んだ挽歌が疑惑の歌です。

三諸の 神の神杉 夢にのみ 見えけんながらも いねぬ夜ぞ多き

三輪山の 山辺まそ木綿 短か木綿 かくのみ故に 長くと思ひき

山振の 立ちよそひたる 山清水 酌みにゆかめど 道の知らなく


上から、「夢に出るけど悲しさに寝られない夜が多いよ」とか、
「寿命がこんなに短いとは。もっと長いと思っていたよ」とか、
「復活させるための湧水を汲みに行きたいのに、道が分からないよ」という歌で、
いずれも、兄が妹を偲ぶ歌としてはちょっと女々しいので、
ちょっと特別な関係だったんじゃないの……と思われる原因の挽歌です。

ちなみに、この、妹にウエットな歌を詠む高市皇子にも妻がおり、
それは、御名部皇女といって、父は天智天皇、母は姪娘ですから、
大友皇子とは異母兄弟にあたり、
それどころか、父・天武の皇后だった鸕野讚良皇女の叔母であり、
阿閇皇女(のちの元明天皇)とは姉妹の関係


もう、ワケが分からんですが、
令和3年、『高市』と聞いて高市皇子を思い出した方も多かろうと思い、
書いてみました。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑬ ~長屋王の不幸

教科書にも出てくるので、いちおうはみんなが習った「長屋王の変」
ざっくり言えば、現在の首相ほどの権限を持っていた長屋王が、
官房長官ほどの立場だった藤原不比等の息子4兄弟から冤罪をかけられ、
自宅を包囲されて自害……という事件です。

まぁ、当時、よくある話と言ってしまえばそのとおりなのですが、
このクーデターで長屋王とともに亡くなったのが、
妻の吉備内親王と、膳夫王や桑田王など、4人の息子たちでした。
この、妻の吉備内親王という人物は尋常でない血統の人で、
元明女帝の愛娘の一人で、父方の祖父母は天武天皇・持統天皇夫妻であり、
母・元明と祖母・持統の父親は同じく天智天皇なので、
天武・持統の孫でありながら、天智の孫にもあたるという、
もう、ゴリゴリの天皇家の娘っ子だったわけです。

時を戻そう (笑)

以前紹介した、持統天皇が執念で孫につなげた皇統でしたが、
彼女の崩御後、孫の文武天皇が、まだ25歳だというのに病死してしまったため、
皇統はたった5年でピンチに陥ったのでした。
それも、まぁ、よくある話ではあるわけですが、
娘の宮子を文武に送り込んでいた重臣・藤原不比等にとっては大誤算ですよね。
亡き文武と宮子の間には首皇子というのが生まれてはいたものの、
まだ7歳なので、さすがに譲位を断行するわけにはいきません。
そこで、中継ぎが必要となるわけですが、
不比等としては、確実に孫である首皇子に皇位が継承されるために、
何が何でも皇位を文武の家族から動かすわけにはいきません。
たとえば、亡き文武の妹である吉備内親王が即位することになったりすれば、
その夫である長屋王が皇統を牛耳ることになるに違いないし、
皇統は、そのまま長屋王の子・膳夫王に継承されてしまうので、
首皇子に皇位が継承されなくなってしまいます。
それは、藤原一族としてはどうしても避けねばならない事態であり、
まずは、間違っても、吉備内親王系に皇位が流れるのを阻止しなくてはなりません。

そこで編み出されたのが、首皇子の祖母で文武の母である阿閇皇女への譲位でした。
阿閇皇女は吉備内親王の母でもありましたが、
不比等としては、一世代遡ることで、
とりあえず吉備内親王から皇位を遠ざけることに成功した形です。
いや、何が言いたいのかというと、
中継ぎとして阿閇皇女を即位させて元明天皇とする案は、
おそらく藤原不比等の策略だったと思われるということです。

しかし、阿閇皇女も波乱の人生です。
夫の草壁皇子の亡きあと、姉でありながら姑でもある持統女帝と助け合い、
何とか3人の子供たちを成長させ、
軽皇子が文武天皇として即位し、吉備内親王も長屋王との間に孫を生んで、
おそらくホッとしていたころだったはずです。
息子が急死して傷心だったと思うのですが、
阿閇皇女はどういうつもりで即位を承諾したのでしょうか。

ともあれ、とりあえず、皇位は文武の母に戻されたわけですが、
この、異例な形での即位は、
長屋王に皇位継承の可能性を認識させたに違いありません。
もともと、長屋王自身は、天武の孫ではあるとはいえ、高市皇子系統であり、
直接の皇位継承権はないような人物でした。
言うなれば、野心を抱いたところでどうにもならないような立場だったわけですが、
いま、突如として妻の母が天皇となったわけで、
仮に、現天皇が妻を後継者に指名してくれれば、
我が家に皇位が転がり込んでくるというもの。
長屋王、浮足立ったに違いありません。
実際、不比等は保険をかけて、別の娘である長娥子を長屋王にめとらせ、
どっちに転んでも大丈夫なようにしています。

しかし、私は思うのです。
首皇子にまで皇統をつなぐ執念を持っていたのは不比等だけで、
阿閇皇女には、そのような執念はなかったのではないか、と。
わが息子・文武の子であるとはいえ、不比等の娘(宮子)から生まれ、
不比等の正妻(橘三千代)が養母となり、
そして不比等の娘(安宿媛)が妻となる予定の首皇子。
そのような者を身内だとは思えなかったでしょうし、
これ以上、不比等一族の力が強くなることは危険なことです。

そこで、阿閇皇女は何年かかけて布石を打ちました。
首皇子を皇太子にすると同時に、氷高皇女を高位に昇格させたのです。
不比等は首皇子の立太子に夢中で気づかなかったようです。
そうしておいて、譲位断行。
もちろん、皇太子である首皇子ではなく、氷高皇女に。
元正天皇の誕生です。
さらに阿閇皇女は畳みかけます。
もう一人の娘である吉備内親王を高位に引き上げ、
彼女が産んだ孫たちを“皇孫”扱いにしたのでした。

結局、不比等の負けです。
吉備内親王一家への対抗策として、皇位継承者を誕生させようと、
送り込んだ安宿媛を急かして、せっせと子作りをさせますが、
なかなか妊娠しないうえに、たまに産んでは女の子だったり、
せっかく男の子を産んでも早く亡くなってしまったり。
失意のなか、不比等はこの世を去るわけですが、
その後継者である四兄弟が、
破れかぶれで長屋王一家を陥れるのが「長屋王の変」です。

つまり。
「長屋王の変」と呼ばれてはいますが、
別に、特に長屋王は何もしておらず、ただ、お仕事頑張って出世しただけ。
彼が不幸だったのは、妻がやんごとなき家柄の生まれであり、
藤原家から勝手に張り合われていたこと。
そんなことで、一家皆殺しの目に遭わされ、恐ろしい限りです。
ちなみに、長屋王一家を陥れた藤原四兄弟は、
「長屋王の変」から8年後くらいに、全員一斉に病死します。
祟りなのでしょうか、恐ろしい限りです。

[SE;KICHI]

飛鳥の執念⑫ ~祟りじゃ!

この春は、コロナウイルスが燎原の火の如く広がりました。

医療関係の方々のご尽力により、何とかこの程度で持ちこたえていますが、
これが、医療技術が未熟な奈良時代などであったならどうでしょうか。
ワクチンがないために治療法がないという意味では、
奈良時代も現代も一緒なのですが、
現代は対症療法ができるので、重症化を防げているのですよね。
あらためて、医療の進歩に感謝です。

さて、奈良時代といえば、
天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こりました。
このときの天皇は奈良の大仏で有名な聖武天皇ですが、
この人が心配症というか、超ビビリで、やたらと遷都しまくります。
それは、何かあれば「祟りに違いない」と考える思考回路のためで、
だいたい、そういう人は心当たりがあるものです。

聖武天皇の妃というか皇后は光明子(光明皇后)という人で、
その父は藤原不比等といって、
乙巳の変で中大兄皇子に加担した中臣鎌足の息子です。
つまり、光明子は中臣鎌足の孫にあたるわけですが、
中臣鎌足も高位とはいえ所詮は政治家に過ぎないので、
もともと光明子は皇后になれるような身分ではなかったと思われます。
なにしろ、当時の皇后というのは、現在と違って、
夫である天皇が万が一崩御した場合、
中継ぎとして次の天皇として即位する可能性があるため、
皇族しか皇后にはなれないのが慣習でしたから。
しかも、光明子の母親は県犬養三千代といって、
阿閉皇女(聖武天皇の祖母・元明天皇)に仕えていた単なる女官であったので、
身分的に、皇后への道のりはかなり遠いものだったと思われます。

当然、光明子が皇后になることに反対する勢力がいるわけで、
その中心が長屋王という、聖武天皇の治世の初期に政権を握っていた人でした。
この人は中大兄皇子(天智天皇)の息子である高市皇子の息子ですから、
つまり、天智天皇の孫なのですが、
神亀6年(729年)、当時よくあった、他人の讒言により自害に追い込まれるという、
いわゆる「長屋王の変」が起きました。
これは、その時点ですでに没していた藤原不比等の、
「娘・光明子を聖武に嫁がせたい」という悲願を叶えるため、
4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂 = つまり光明子の兄たち)が、
それに反対する長屋王を排除するために仕組んだとみられています。

さて、そうやって反対勢力を抹殺し、
光明子は非皇族として初めて皇后となったわけですが、
天平9年の天然痘の大流行では、
なんと、長屋王を追い詰めた藤原四兄弟が全員病死します。
これは、いまでいうと、大臣がバタバタ亡くなって内閣が機能しなくなる状態で、
これが祟りなのかどうか、そのへんはちょっと私には分かりませんが、
当時、生き残った政府高官は恐れおののいたのでした。
急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王という人を呼び寄せて、
知太政官事という臨時首相みたいな役目で登板させることで、
なんとか、辛うじて政府の体裁を整えたのでした。

しかし、そでれも恐怖心はぬぐえなかったのか、
聖武天皇は突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を決行し、
なんと、そのまま平城京に戻らずに、
恭仁京(京都府の旧加茂町あたり)へ遷都を行いました。
しかし、その2年後、恭仁京がまだ造成中であるにもかかわらず、
聖武天皇は近江紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に移り、
さらにその2年後には、難波京(大阪市)へ遷都を決行した挙句、
1年後には元の平城京に戻るという、
ひいき目にみても、どうかしているんじゃないかというくらい、
遷都、つまり引っ越しを繰り返しています。
目まぐるしく行われた遷都は、
移転した先々で火災や大地震などの社会不安に遭遇したためと言われています。

ちなみに、聖武天皇の母親は藤原宮子といって、藤原不比等の娘です。
つまり、聖武天皇は、母親と妻が、藤原不比等の娘で、姉妹にあたるわけですが、
母である藤原宮子は首皇子(のちの聖武天皇)しか子を産みませんでしたので、
聖武天皇は「ひとりっ子」でした。
その後、母の妹・光明子を皇后としてめとった聖武天皇でしたが、
光明子も、男子は1人しか産まなかったうえ、
その男児は1歳になる前に死んでしまいます。
光明子は、ほかに女子を産んでいて、それが孝謙天皇として即位はするものの、
結婚しなかったので、女系天皇としての血脈はつながらず、
結局、藤原不比等が執念を燃やした系譜は、
かなりあっさりと断絶してしまったのでした。
切ない話です。

さて。
この春は、コロナウイルスが燎原の火の如く広がりました。
社会現象として、今年は特筆すべき1年になったことでしょう。
これは、私には、聖武天皇の御代とそっくりに見えます。
もし、現代が聖武天皇の御代であれば、
この未曽有のコロナ禍で、遷都は間違いないでしょうし、
改元されたうえ、日々の加持祈祷に余念がないことでしょう。

そういうのが正しいことかどうかは私には判断できませんが、
少なくとも、いまよりは神仏に対して謙虚であったかもしれぬと感じます。
何が正しいのかいまいち分からない VUCA の時代、
エビデンスも大切ですが、状況から学ぶ謙虚さも大事かもしれません。

[SE;KICHI]
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