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仕事って難しい

私の近頃の悩みですが、「話を聞く力」が足りないと感じています。
今の仕事をしている中で話を聞く力が足りないというのは、
業務に結構な影響が出ます。
実際に会ってお話しをするばかりでなく、
電話のやりとりだけのお客様もいらっしゃいます。
聞く力、そして相手にわかりやすく伝えることは大事だと感じています。

私は仕事をするうえで、
口頭でのやりとりは好きではありません。
以前に口頭でのやりとりでお客様とトラブルになったからです。
その当時はお客様、そして同僚にもご迷惑をお掛けしました。
口頭でのやりとりは証拠に残るものがなく(録音していれば別ですが・・・)
後で何かがあっても結論に至るまでが非常に長いです。
そして、口頭のみのやりとりは忘れてしまう部分も出てきます。

営業なのに口頭でのやりとりが好きじゃないと言ったら、
批判的な意見もあるかと思います。
しかし、私は基本的にメールやFAXでのやりとりが多いです。
お会いして打ち合わせができないときは、資料を作りメールで連絡します。
実際に口頭で説明するより冷静になれるので、
自分の伝えたいことを明確に表現できていると思います。
基本的にメールを好みますが、謝罪をしなければいけない場合や、
急ぎの用件などは電話を使います。

このように自分の仕事のやり方を変えたら、
以前より上手くできるようになったと感じました。
それならよかったじゃん、と思う方もいらっしゃると思います。
しかし、私の聞く力、理解する力が不足していたため、
またも上手くいかない仕事が出てきました。

お客様と実際にお打ち合わせし、案件の確認をしたうえで「はい」と納得しました。
後日に改めてそのお客様へご連絡。
お客様からは、「話が違うよ」というご指摘がありました。
この部分は口頭でのやりとりでしたので、私の聞く力が不足していました。
さらに致命的だったのが、今回の案件の中でとても重要な部分でした・・・

学校のテスト等であれば、いくつか間違いがあっても70点位は取れたりもします。
しかし、仕事ではそうはいきません。
今回の私の仕事で、仮に私が正解である回答を9割出していたとします。
しかし、重要な部分が間違っていたため、点数で言えば0点となってしまいます・・・。
お客様に製品を買っていただいてからアフターもありますが、
納入の段階では中途半端な評価はなく、0か100かしかないと私は思っています。

仕事をするうえで自分のやりやすいようにする、ということは非常に効果的です。
先程書いたように私もやり方を変えました。
しかし、自分のやりやすいようにばかりはできないのです。
年齢も違ったり、性格も違えば仕事のやり方は異なります。
自分は変えられても他の人を変えることはできません。
あるお客様が、「私はメールは嫌い」と言っていました。
私がメールがいいと思っていてもそのお客様にはメールができないです。
自分のやり方を強要することになります。
当然のことではありますが・・・。

でも、皆さんの中でも、
「なんであの人は、こうなんだろう」みたいに思ったことってありませんか?
そう思っても自分とは違う考えを持っている人なので、
根本的な解決にはならないかもしれません。
このようなことを書くと、
指導や教育をされている方から批判されそうではありますが・・・。

生きていくうえ、仕事をするうえで人間関係はつきものです。
あの人が~とか他人のせいにしても辛くなっていくだけかもしれません。
他人は変えられないので、
自分の考え方を変える必要があります。

今回の私の仕事の失敗、
以前の私であれば、「そんなこと聞いてないのに」と思っているかもしれません。
しかし、聞く力が不足していたのが事実なのです。

ここまで書いてやはり思いますが、私は口頭でのやりとりが好きではありません。
それでも、様々な方と付き合っていく中で、
自分の口で伝える力と、
耳で聞く力を磨かなければいけないのです。

0点を100点に持っていくように悩んでいる最中なので、
このような内容になりました。
最後までありがとうございました。

[SYUN]
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まんぷく

憲兵に何度も逮捕され、一時はどうなることかと思いましたが、
いやぁ、やっと形になってきましたね、即席ラーメン。
ちょっと、感動しながら見守っている、そんな感じです。
NHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』の話です。
今さらドラマの説明は不要かもしれませんが、
チキンラーメンを発明し日清食品を創業した安藤百福さんをモデルとした、
インスタントラーメンの発明を成し遂げる夫婦の物語です。

私はこのドラマ、なかなか示唆に富んだ話だなと思うのです。

だいたい、これまで、朝の連続テレビ小説といえば、
現実感がないほどに元気いっぱいな女の子が主人公で、
紆余曲折ありながら、長じてはキャリアウーマンとなり、
持ち前の明るさとバイタリティで人生を切り拓いていくという話が多いものでした。
今回の『まんぷく』の主人公である福子も元気いっぱいですが、
従来と違うのは、夫を補佐する妻という役割で、これまであまりなかったタイプです。
では、この福子という人物は、昔ながらの内助の功型の主婦なのかといえば、
私には、そのように描かれているようには見えず、
それよりも、補佐役としての能力が非常に高い人のように思うのです。

発明家である夫・萬平の仕事は、当然、一朝一夕では成果を生まず、
萬平は、たびたびネガティブな思考に取り憑かれたりするのですが、
夫の才能を信じる福子は、彼が見たことがない発明をするのを、
「ワクワクする」と応援し、彼が余計なことに気を取られないよう、
家事から金策までを一手に引き受け、夫を支えるだけでなく、
「萬平さんなら絶対にできます」とか「私は信じてますよ」とか、
そんな夫に頻繁に声を掛け、夫を鼓舞し続けます。
挙句の果てには、遠い目をして、
「萬平さんの作ったラーメンでみんなが笑顔になっているのが見えます」などと、
ポジティブな予言者のようなことを言って夫を励まし続けます。

補佐役というのは、
まずはリーダーの信奉者でなくてはいけません。

その点、この福子は、妻としてではなく、補佐役として優れていると思います。

特に感心するのは、その励ましも単調なものではなく、
必要に応じて叱咤するところです。
研究過程で、ボソボソだった生地をなんとか麺の形にしたものの、
勢い込んで試食してみたところ、コシがなくて食べれたものではなかったため、
落ち込んだ萬平が酒に溺れるシーンがあったのですが、
そんな彼に福子は「麺になっただけでも一歩前に進みましたね」、
「ダメやて分かったんやから。それはええことやありませんか。ネッ」と、
ちょっとドスの利いた声で、夫の再起を促します。

私は、このシーンに、ちょっと感動すらしました。

昨今、“褒めて育てる”というバカな教育論が跋扈していますが、
その結果、人間としてデフォルトが劣化したことは明らかです。
ちょっと妙な運転のクルマを見かけたら幅寄せしてみたり、
魚をゴミ箱に放り込んだ動画をSNSにアップしたりと、
バカな教育論は、自分が満足なら何をしても良い、
何よりも自分の感情の動きが大事だ!という、
自己本位なバカを量産することになったわけです。

私は常々、“褒めて育てる”を「バカな教育論」と思っていますが、
そうすると、「では、あなたは、“叱って育てればいい”と思っているんですか」と、
薄っすら批判を含んだ質問をされることがあります。

カウンセリングの専門用語で『承認』と言いますが、
人は「気に掛けてもらっている」という安心感によって、
モチベーションが湧き、発言や行動ができると言われています。
しかし、この『承認』という和訳された単語が、
「褒めること」と混同されやすくなっているのではないかと思うのです。

もちろん、相手が幼児のうちなど、「すごいね」と褒めることも『承認』ですが、
褒美を多用すると、くれる人がいないとアクションを起こさなくなったり、
その褒美が駆け引きの材料となってエスカレートしたり、
褒美ばかりに目が向いて、事物に対する関心が失われたりする弊害があります。
また、褒めることでもっと成果をあげてもらおうとする意図もある場合には、
相手の反発心を生む可能性だってあります。

人は、「誰かが見てくれている」という感覚だけで、
くじけずに行動することができるそうです。

これは、もはやセオリーであると言われています。

だとすれば、正しい『承認』は、ただ「そうだね」と、
善悪を判断せずに、起きたことを確認することでしょう。
ここに、個人が抱いた恣意的な善悪を持ち込むから、
腹が立ったり、許せない気持ちが起きたりするのでしょう。
これが、社会を殺伐とさせる秘訣のようにも思います。

福子のように、ほんの少しでも進歩していることに気付き、
それを「よかったね」「ダメだったね」などではなく、
「進歩がしたね」と事実を指摘するだけというやり方は、
本当に、私はちょっと感動しました。
実は、これはいつもその人のことを見ていないとできないことです。

信奉者であるだけでなく、補佐役というのは、
リーダーに対する参謀役でなくてはいけません。

福子は、ここでも妻としてではなく、参謀として優れていると思います。

フィクションというか、架空の人物の話ですが、とても勉強になります。
あと、半年見続けているうちに錯乱したのか、
なんだか安藤サクラさんがいい女なんじゃないかと思い始めていて、
そういう自分に驚いたりもしています。

『まんぷく』
https://www.nhk.or.jp/mampuku/

[AKA]

え? 手作り? ほおお。

バレンタインデーのチョコレートにしてもなんにしても、
手作りのものには価値があるといいます。

さて、5, 6年前にもご紹介したことですが、
私が神社仏閣の御朱印を集めるようになってから、かれこれ30年くらいになります。
当然、自宅には収納に困るほどの、大量の御朱印帖があります。

御朱印帖(御朱印をいただく帳面のほう)というのは、
寺社の納経(御朱印)窓口で頂くのがスタンダードです。
最近は、寺社オリジナルのカラフルな御朱印帖も増え、
かわいらしさから御朱印を集め出した「御朱印ガール」も増えていると聞きます。
以前は、御朱印帖といえば、紫や紺など年配の方を意識したデザインが主流で、
買えるのも仏具屋や大きめの画材屋さんなど、
武骨で、ちょっと間口の狭いイメージでしたから、
広く認知されてきたことは嬉しい限りです。

と、そんな先日、自宅に届く生協の注文カタログにこんなページが。

オリジナル朱印帖

はぁぁぁぁ! こういうものを手作りするキットが発売されましたか!
自宅に数十冊の御朱印帖がある私ですが、自作なんて考えたこともなかったです。
考えてみたら、蛇腹の和紙に表紙をつけただけなので、
自分でも簡単に作れそうなものですが、自作なんて思いつきもしませんでした。

手作りキットを生協で売っていることに驚くと同時に、
……高っ!
まぁ、西陣の緞子らしいですから、どうしても高くなるんでしょうけど、
だいたい御朱印帖というのは、寺社オリジナルでも相場は1500円ほど、
表紙を金襴の緞子にしたとしても、せいぜい2000円くらいのものなので、
2500円というのは、なかなか強気の価格設定です。
まぁ、私は、御朱印帳の肝は表紙ではなく、中の和紙だと思っているので、
西陣の緞子に魅入られたりはしません。
和紙が薄いと、御朱印の墨痕が裏移りするのです。上の写真だと、もし和紙が薄ければ、左の三千院の御朱印は大丈夫だとしても、右の高台寺の御朱印は、たとえば「佛心」の“にんべん”部分などが裏ににじんでいるかもしれません。厚手の和紙の御朱印帳を選びたいものです。

というわけで、高すぎて手が出ないうえ、なんだか不遜な感じもすることもあって、
この、手作り御朱印帳キットは買いませんでしたが、
そんな時に突如として思い出したのが、
30年以上前、私が生まれて初めて自分で買った本、『奈良の寺寺』

『奈良の寺寺』

タイトルのとおり、奈良の古刹を紹介している紀行文みたいな本で、
なんだか、読み込みすぎてシミまでついていて恥ずかしい限りなのですが、
なぜ、この本を思い出したかというと、和綴じだったから。

作ってみましょう。

材料はこれだけです。
和紙と、表紙に使う化粧紙、今回は浅縹色(水色)にしました。
あとは角を保護する角裂(かどぎれ)に使う薄い画用紙、こちらは菖蒲色(紫)。

和綴じ-材料一式

まず和紙を、艶面を外にして半分に折り、
全部折ったら、それを重ねて、
ズレないように折った側をクリップで留めます。

和綴じ-① 和綴じ-②

次に、綴じ糸を通す穴を開けていきます。
いきなり針で糸を通そうとすると、紙に力がかかるので、
あらかじめ印をつけ、千枚通しで穴を開けておくわけです。
両端から1.5cmのところに印をつけ、さらに、その2点間を3等分して印をつけます。
今回は、2点間が15.3cmだったので、5.1cm間隔で印をつけました。
こうしてできた5点に、千枚通しを垂直に立て、紙をめくりながら穴を開けます。
この段階では、穴は大きくしておいたほうがあとでラクです。

和綴じ-③ 和綴じ-④

次に、綴じた後に冊子の端がほつれたりめくれたりしないように、
小さな紙片(角裂 かどぎれ)でまとめます。
こういう感じの小さな紙片を作り、裏面から背表紙を経て表面に糊で貼り、
上は潰して、うさぎの垂れ耳みたいな感じに折ります。
(そのため、この部分を「耳」と呼んだりします。)
反対側の角も同様に処理します。

和綴じ-⑤ 和綴じ-⑥
和綴じ-⑦ 和綴じ-⑧
和綴じ-⑨ 和綴じ-⑩

次に表紙を作って、いよいよ綴じます。
今回は、和紙と同じサイズの化粧紙を切り出して表紙にします。
表と裏をこの化粧紙で挟み、和紙に開けた穴に合わせて軽く穴を開けておきます。

和綴じ-⑪ 和綴じ-⑫

綴りは上から2番目の穴の背後からスタートです。
2番目の穴の表に出てきた針を1番目の穴の表側に通し、
裏から出して横を回して表へ、また裏から出して上を回して表へ。
それから1番目の裏から2番目の裏に入れ、
2番目の表から3番目の表に進め、3番目の裏から横を回して表へ。
……あとは省略しますが、4番目の角を回して、最後は2番目の裏で終わりです。
コツは、糸を多めに繰り出しておくことです。

和綴じ-⑬ 和綴じ-⑭
和綴じ-⑮ 和綴じ-⑯

最後に、そこで玉結びにして、
表紙にタイトルを書く「題箋」という和紙を貼り付けて完成です。

和綴じ-⑰ 和綴じ-完成

どうでしょうか。
このブログ用に、手順を写真で記録しながらの作業でしたが、
30分もかからずに完成させることができました。
雰囲気を出すためにわざわざ畳の上で作ったので、少し腰が痛くなりましたが。
もう少し穴位置などを正確にできれば、『奈良の寺寺』みたいなのを作るのも、
おそらく、そう難しくはなさそうです。
原価は、そうですね、和紙を10枚使ったとして、せいぜい300円くらいでしょうか。
……安っ!
まぁ、もちろん表紙は西陣の緞子とかではありませんので、単純な比較はできませんが。
友人に、ピザ窯やら燻製の装置やら、アウトドアの用品を自作する人がいて、
私は「おうおう、面倒なことをよくするなぁ」と思っていましたが、
和綴じの帳面、この手間と材料費だったら、自作もアリなような気がしますよね。

[SE;KICHI]

商業捕鯨再開

皆さん、クジラをどのくらいの頻度で食べますか。
私は年に2、3回粕汁で食べるくらいです。
学校給食でクジラの竜田揚げを食べていた~の時代からは少し後なので、
給食での思い出は無いのですが、
実家では夏になると夏野菜を入れたクジラ汁や、
缶詰の大和煮なんかは食べていた記憶があります。
粕汁は家人の実家の味で、
私は結婚するまでその食べ方を知りませんでした。

リクエストがあるので見よう見まねで作っていますが、最初は半信半疑でした。
食べてみたらクジラの粕汁美味い!と、新たな発見でした。
周りの人に話すと、えっ粕汁?と驚かれるので、やはり地域性があるようで、
それならと粕汁で食べてみてと勧めています。
そんな話をしたからか、
友人が高知の方から頂いたというクジラのお刺身(冷凍)を持参してくれ、
ご相伴にあずかりました。
初めて食べる味でした。
まだまだ知らない鯨料理はたくさんあるのでしょうね。

地域によって鯨の流通や消費は異なるとは思いますが、
現在日本人でどの位の人が鯨を食べたことがないのでしょうかね。
30代前半のSYUN君は食べたことはあると思うけど、
何時どこでの記憶はないそうです。
またとある日、たまたま隣に座った方が、
鯨を食べていた年代かな~と思われたので、話を向けてみると、
食べたくなったら料理店へ予約し入荷の連絡を待ってから足を運んでいると、
おっしゃっていました。
今は特別な食べ物ですよね。

お手頃な価格で市場に出回ったら皆さん食べますか?
私は買って食べてみると思いますが、
それにはまず、食べ方や料理方法を調べるところから始めないといけません。
毎回皮クジラの粕汁だけではねぇ。
野菜でもそうですが、馴染みがない食材を目にしてもすぐには買えません。
簡単な食べ方など一緒に表示してあれば手を伸ばし易くなるのになぁ、と
常々思います。
どんな食材も調理法を宣伝した方が消費に繋がると思います。

私にはそれほど身近な食べ物ではなくなっている鯨ですが、
今年の6月30日で国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、
約30年ぶりに7月から日本近海で商業捕鯨が再開される、と、
昨年12月に発表されました。
脱退に伴い、IWC加盟が条件となる南極海で調査捕鯨ができなくなるので、
今後、南極海産の鯨は市場から消えるようです。
そんな中で先日、和歌山県 太地町や宮城県 石巻市などの捕鯨業者でつくる、
日本小型捕鯨協会では、
今年7月1日から一週間商業捕鯨を再開するとの発表もありました。
捕鯨を取り巻く現状は厳しいと思いますが、
その生業の先には営みがあり暮らしがあるのは事実です。
捕鯨反対側からの目、賛成側からの目。
どちら側の目線かによって見え方や考え方は違いますよね。
対象は違いますが、「あらしの夜に」の物語のような展開は難しいです。

商業捕鯨が再開されたら、特別な食べ物ではなくなるのか、
特別なままなのか。
学校給食で復活とか、社員食堂でメニューに加えてもらうとか、
身近に食べる機会を増やしていかなければ特別なままだと思います。
いずれにせよ余さず消費することが大切ですね。
廃棄するほうが多ければ再開する必要はないと思います。
これは鯨に限ったことではないですけどね。

[fu~ma]

流通の秘訣

弊社は、2000円札の流通に意欲的な団体です。
もはや、世間では、その存在さえ忘れられ、
「今も使えるんですか?」と、まるで板垣退助や伊藤博文のお札の扱いですが、
弊社では、常に数十枚のストックを持ち、流通に努めています。

その理由は、何度もお伝えしてきましたとおり
印刷されているのが、沖縄の守礼門だから、です。
弊社には大の沖縄好きである KAZSOU さんや、
親戚が恩納村に住んでいるという K.K. さんなど、
沖縄に特別な思いを持つ方が何人かいますが、
いま、沖縄は、隣国の軍事拡大に脅かされている状態です。
もともと、沖縄にはセンシティブな問題があって、
選挙の結果によって大きく左右に振れやすい土地柄で、
知事が代わっただけで方針がガラッと変わる恐ろしさがあるわけですが、
紙幣は、行政が変わっても不変のもの。
2000円札は、紙幣に沖縄の風景をデザインすることで、
また、そのデザイン決定を沖縄ではなく日本政府主導で行うことで、
沖縄は日本に所属するのだという主張を内外に示しているというわけです。

とかく、2000円札には使いにくいイメージがあって、
積極的に使おうとすると、拒否感もあり、悔しい思いもするのですが、
2000円札を嫌う人は、沖縄が隣国に盗られても平気なのでしょうか。

2000円札

さて、先日、たまたま日銀の方と酒席をご一緒する機会があって、
その席で、弊社の2000円札流通の取り組みを披露させていただいたところ、
それはそれは感謝されまして、涙を流しながら手を取ってくださいました。
実のところ、なかなか普及しないうえ、冷ややかな視線まで感じる現状に、
あきらめムードというか、ちょっとへこたれていたところだったのですが、
日銀マンの涙に、ますます普及に努めねばと決意を新たにした所存です。

ところで、やってみると分かるのですが、
この、2000円札の普及促進は、意外と難しいプロジェクトなのです。

たとえば、手元に2000円札があったとして、
仮に、コンビニでの支払いにそれを使ったとしましょう。
レジに2000円札用の収納場所などないでしょうから、
邪険にされつつ、小銭入れの下などの妙ちきりんな場所にしまわれ、
きっと、お釣りとしては使われません。
おそらくはそのまま銀行に戻っていくことになるのでしょう。
私たちの目的は「世の中に広く流通させること」なわけですから、
すぐにまた銀行に帰ってしまうような使い方では意味がないのです。
つまり、仮にコンビニで2000円札を大量に使用したとしても、
使った分をそのままごっそり銀行に届けられてしまっては、
「世の中に広く流通させる」という目的は達することができないのです。
従って、次の人が釣銭などに使えるような形で使わないといけません。

前述の日銀マンは、ささやかな取り組みとして、
電車の切符を2000円札で購入しているそうです。
わざわざ2000円札を使うことによって、券売機の中に2000円札を仕込むことができ、
高額紙幣で切符を買った人の手元に、
お釣りとして2000円札が出てくるようになるという寸法です。
ただし、彼曰く、オムロン製の券売機は2000円札を受け付けはするものの、
貯め込むだけでお釣りとして出さない構造になっているので流通にならないそう。
入手した紙幣をそのままお釣りとして使う仕様になっている、
高見沢サイバネティックス製の券売機を使ってくださいとのこと。
もちろん、彼もSuicaやPASMOくらい持っていないわけではありませんが、
地道にせっせとそうしているというのですから、筋金入りというか、変態です。

ところで、どうしてこうも2000円札が流通しないのでしょうか。
私はときどきイタリアとかバチカンとか、あのへんに出かけるのですが、
いちおう、紙幣は€5・€10・€20・€50・€100・€200・€500 の7種類ですよね。
いちおう、というのは、€200 や €500 のような高額紙幣もあるけれど、
偽札予防という観点から、だいたいのお店で利用を断られてしまうので、
実質的に使える紙幣は、せいぜい €5・€10・€20・€50 です。
つまり、ざっくり日本円でいうと、500円~5000円しか使えないってことです。

このとき、紙幣の中では €20 が一番使い勝手がいいのは間違いないでしょう。
ヨーロッパの紙幣は、額が大きくなるほど寸法も大きくなるので、
€500 なんて、昔の航空券くらいの大きさで、実にうっとうしい。
その点、€20 は幅13cmほどで、財布に入れて持ち歩くのに大きすぎませんし、
現金でちょっとしたものを買う際にもお店側にも嫌がらませんから。
最初に訪れたときは勝手が分からず、€100 ばかり持っていて、ほとんど使えず、本当に困りました。

ちなみに、じゃ、大きな金額の買い物はどうするのさと思われたかもしれませんが、
そういう買い物は、電子マネーで銀行口座から引き落とすのが一般的です。

何が言いたいかというと、
ヨーロッパは電子決済が進んでいて、
紙の紙幣が一般的ではなくなってきているという話です。
日本も、このところ、PayPay など、電子決済の流れが拡大しつつありますが、
近い将来、必ず、
「少額の現金支払い」と「高額の電子決済」の形式になっていくと思われます。
そうなると、上記の €20 紙幣のように、
中額紙幣である2000札は使い勝手が抜群なはず。
というより、外国人観光客が増えているいま、
中額紙幣がなくて不便な思いをしている外国人も多いに違いない。

ちなみに、弊社の K.K さんは、昨年、沖縄に行ったそうですが、
その沖縄県では2000円札は普通に流通しています。
ローソンで現金を下ろすと2000円札が出てきますし、
そのへんの店で支払いをするとお釣りに2000円札が入っているくらいに普通です。

というわけで、電子決済化が進むと10000円札に取って代わるかもしれない、
次世代の主流紙幣・2000円札。
弊社は、涙を流す日銀マンに免じて、今後も流通に努めて参りますが、
いや、普通に、
もっと見直されるべきではないでしょうか、2000円札。

[SE;KICHI]

キケンなクシャミ③

前回は腰や左足の痛みを止めるのにブロック注射をした話までしましたが、
その後、1週間安静にして様子を見ました。
しかし左側のお尻から前太もも、スネにかけての痺れや痙攣はあまり変わらず、
病院の診察の日が来ました。

主治医にブロック注射のおかげで痛みはかなり軽減されているものの、
症状は改善されていないことを告げ、
今後このまま痛みを押さえて様子を見るのか、
あきらめて手術をするのか話し合いました。

私は1週間経っても症状が全く変わらなかったことから、
このまま時間が経過してもそれほど改善しないのではないかと感じていました。
そこで手術をした場合、痺れが治るものかと聞いてみましたが、
またもや人によるとのこと。
痛みは取れても痺れは残るかもしれないと。

そうは言っても神経に触っているところを取り除けばスッキリするだろうと思い、
手術することにしました。
内視鏡手術なので傷口が2cmほどで、時間も麻酔を合わせて1時間半ぐらいで済み、
入院も順調なら術後4日間で退院できると言われました。
2日後か3日後に1人ぐらいなら手術入れれるけどどうしますかと聞かれ、
ビビリの私は心の準備期間を少しでも欲しいというのと、
ちょっとでも先延ばしにしたいという往生際の悪さから3日後にしました。
そして手術の前日に入院し、緊張と慣れない環境で寝られません。

いよいよ手術当日、ストレッチャーに乗せらせて手術室に入ります。
そこで別のストレッチャーに乗せられるのですが、
ヒーターが入っていて温かいのです。
温かいんですねと付添いの看護師に話しかけると、
あなたのために温めておきましたよと笑いながら言われました。
まあ、私は緊張で笑えませんでしたが。

その後のことは麻酔のため覚えていないのですが、
手術後大きいな声で呼ばれて目が覚めました。
無事に終わったことを聞いてホッとしました。

病室に戻ると、麻酔の副作用で強烈な吐き気とだるさが襲って来て、
吐き気止めの点滴を打ち、数時間後にようやく落ち着きました。
すると今度は尿意が襲って来ました。
尿道に管を通すのが嫌で拒否した私は、シビンでしなければなりません。
寝たままだと力が入らないのでシビンはちょっと無理そうだなと思っているところに、
丁度主治医が様子を見に来て、
私が見ているから自分で立ってトイレに行ってすればいいと言われました。
個室だったのでトイレは近いのですが、
手術後いきなりすぐに自力でトイレに行くとは思っていなかったのでかなり驚きました。
実際何とかできましたが、少し動くだけで傷口が痛くて苦労しました。

肝心の手術後の体の症状は、その時点で腰の痛みはないのですが、
残念ながら左足の膝からスネにかけての 痺れは取れていませんでした。
スッキリ治ると思っていたのですが、
やるだけやったのだから時間の経過を待つしかしょうがないなと、
特に落ち込む事もありませんでした。
とにかく終わってホッとしました。
その3日後に傷口の抜糸をし、4日目に退院しました。
予定通りです。

入院中は夜も病室の戸を開けっ放しで出入りが激しく、
他の病室から夜中じゅう叫んだり奇声を発する声が聞こえ、
ナースコールをしょっちゅう鳴らす人や、
向かいのベッドの人は心臓が苦しいと言って緊急事態になったりと、
全くといっていいほど寝れませんでした。
毎日夜になると動物園にいるような気分になり、さながらナイトズーです。
食事も、特に何も制限されていなかったのですが、
学校給食の方がまだ美味いと思えるものしか出ませんでした。
もう入院はこりごりです。
あらためて健康の大切さを感じました。

実は話はこれで終わりません。
また今度。

[M M]

衣裏繋珠のたとえ

ある貧乏な人が、親友の家を訪ねてお酒を飲んだところ、大いに盛り上がり、
2人して酒に酔って眠ってしまったそうです。
ところが、翌朝、
その親友は早朝から仕事で遠方に行かなくなければならなかったので、
寝ている友人を起こすのも忍びないと、彼を置いてそのままそっと出かけるのですが、
この親友はちょっと裕福な人だったので、貧乏な彼を憐れみ、
寝ている彼の足しになればと、
彼の着物の裏に、それはそれは莫大な価値のある宝石を縫い付けて、
そのうえでそっと出かけて行ったわけです。
目が覚めた彼は、親友がいなくなっているのでその家を去りましたが、
友人が縫い付けてくれた宝石には気がつかず、
あいかわらずの貧乏暮らしで、衣食にも事欠くありさまで、
そのうちに浮浪者にまで落ちぶれてしまいました。
浮浪者となった彼は、ずいぶんたってから、
最初の親友と道でばったり会ったのですが、
その親友は、浮浪者となった彼の姿を見て憐れみます。
「キミが楽に暮らせるように、宝石を縫い付けておいてあげたのに・・・」と。


これは、『衣裏繋珠のたとえ』といい、
いわゆる“法華七諭”という7つのたとえ話のひとつ、
法華経五百弟子受記品に説かれているお話です。

この話は何を示唆しているのでしょうか。
登場人物は2人、
莫大な価値のある宝石を与えてくれる親友の男と、
莫大な価値のある宝石を与えられながらそれに気づかぬ貧しい男です。
実際は、莫大な価値のある宝石を気前よく与えてくれる人物など、そうはいません。
そうです、こういう話の時にありがちな設定ですが、この人物は仏さまです。
だとすれば、仏さまから莫大な価値のある宝石を与えられるのは誰でしょうか。
そうですね、これは私たち、一般の衆生ということになります。

つまり、私たちの人生はこの貧乏な男のようなものだということです。
仏さまから莫大な価値のある宝石を与えられているのに、
それには気づかないで、毎日の生活にきゅうきゅうとしていると。

では、莫大な価値のある宝石って、どんなのでしょうか。
“高価な”とかではないところがポイントです。
人間に与えられた莫大な価値、これを仏性といいます。
仏性というのは仏さまの性質ということです。
分かりやすく言うと、“仏さまのような清らかな心”という感じでしょうか。
いずれにせよ、人間には仏さまの性質が与えられているということです。
なるほど、これは、プライスレスで、莫大な価値ですね。

ということはですね、ざっくり言えば、
いまこの文章を書いている私にも、仏の性質が備わっているということになります。
人生、自分の思い通りになることばかりではなく、理不尽なことも起こります。
そういう、挫折のさなかにある時、
自分にも仏の性質が備わっているのだと知ることは、
悩める人々にものすごく自信を与えるものでしょう。
特に今の時代、「生きている価値がない」とか「生きていてもしょうがない」とか、
投げやりになってしまった人が、
さまざまな事件を引き起こしているケースが多いように思います。
「生きている価値がない」などということはなく、
自分の中に尊い価値があることに、
まずは気づかなくてはいけません。

しかし、一方で、
ここ数年は「世界に一つだけの花」という誤った曲が流行ったせいか、
たとえば運転マナーを注意されたらキレて反撃されるとか、
唯我独尊的に仕上がった人が傍若無人にふるまうケースが増えています。
自分を“もともと特別な Only One”と思い、他者を排撃するようになったのです。
自分が、“もともと特別な Only One”であるなら、
他人は他人で、それぞれ“もともと特別な Only One”であると、なぜ思えぬのか。
自分がそうであるように、相手にも尊い価値があることに、
これはこれで、一人ひとりが気づくことが大切なのではないでしょうか。

これはとても重要な思想だと思います。
仏教では、
どんな人間にも、この仏性という、尊い宝石があると教えています。
つまり、私たちには、生まれつき、
物事を正しく見る賢さや、正しい道を歩む素直さが与えられていて、
他者に対する慈しみの心が与えられているというわけです。
そういう意味で、平等。
このことを強く認識することで、
このところ跋扈している、とにかく自信がないという若者の救済にもなるし、
一方で、自分さえよければよいという自分至上主義からの脱却にもなるしと、
いわゆる中道を行く考え方になります。

それにしても、
私たちは、仏性という“仏さまのような清らかな心”が与えられているのに、
毎日の生活に追われ、なかなかそのことに気づかないでいます。
なぜ気づかないかと言えば、
この話に出てくる貧乏な彼が酒を飲んで眠り込んでしまったように、
私たちは、心が眠り込んでいる状態なのだということです。
それで、私たちは、自分の仏性に気づかないままに、
人間関係で思い通りにならない自分に腹を立てたり、相手を憎んだりします。
衣服やクルマ、地位に名声やお金など、欲望にも際限がありませんが、
それも、何でも手に入るわけではないので、悩み苦しんだりします。

こういうのは、この話に出てくる貧乏な彼が、
毎日の暮らしに苦しんでいるのと、本質的には同じ状態です。
貧乏な彼の着物には、
一生安泰で暮らせるだけの宝が縫い込まれていたのに、
本人は全くそのことの気づかず、苦しみの毎日を送っていました。
私たちも、着物というか、心の奥のほうに仏性が縫い込まれていて、
それを意識していれば、怒りなどの粗野な心は消えるはずなのに、
そのことに気づいていないのではないかという感じがします。

私たちは、どうしましょうか。

[SE;KICHI]

おせっかいな私

富山といえば、冬は雪が積もっている印象の方も多いはず。
ですが、今シーズンはほぼ、雪が積もりません。
通勤時はおかげさまで快適に運転できるものの、
私の記憶の中では40年生きて来てこんなことなかったので、
なんだか怖くもあります。

さて、雪が降らずに寂しい思いをしている我が家の子供たち。
スキー場には多少なりとも雪が積もっているので、先日初滑りに行ってきました。
やはり雪は少なめなので、ところどころに泥が見えていましたが、
お天気も良かったこともあり、多くのスキー客が来場されていました。

我が家は1シーズンにせいぜい1~2回しか行けませんが、
必ず1回はスキーに行き、子供たちは主人の指導のもと、
抜群に上手なわけではありませんが、一応一人で滑れるようになっています。
それでも転ぶとなかなか起き上がれないこともあり、子供たちの後には、
主人か私のどちらかが最終滑走者として後から滑ります。
放置するわけにいかないですからね。

そうすることが家族連れで来た際の大人の責任と考えていたのですが、
そう考えている人は少ないのかもしれないと感じる出来事に遭遇しました。

その時は私が後からついて行った時でした。
主人と子供たちが滑っていくのを確認しつつ、
前方のゲレンデを見ながら滑っていると、私の目線の少し先に、
ゲレンデの端に設置してあるネットのところに挟まっている男の子を見かけました。
小学校低学年くらいでしょうか。
ちょっと気になったのでしばらく様子を見ていましたが、
何とか抜け出そうともがいているようでした。
助けに行く大人もいないようです。
そろりそろりと近づくと、
「誰か・・・助けて・・・」とか細い声で助けを求めてきました。
もちろん、助けに行ったわけですが、
助けつつ、親はどうしたという疑問でいっぱいでした。
そして、無事救出を終えると、
その少年は何も言わずにそのまま滑り去っていきました。
『え、ありがとうの一言もなし!?』

別にありがとうと言ってほしくて助けたわけではないですが、
お礼の一つも言えないのって駄目じゃない?と、
おばさんは思ってしまいました。
そして、親も近くにいないということへの苛立ちがふつふつと沸いてきました。

その時はお礼も言えない少年と、子供を放置している親に苛立っていましたが、
冷静になって考えると、
子供は恥ずかしさとか、急いで滑らなくてはいけないとかの焦りがあって、
お礼を言う余裕がなかったのかもしれないし、
親は親で自立心を養うためだったのかもしれないですね。
(困ったときは誰かに助けを求めて自分で何とかしなさい、という教育)
余計なことをしてしまったかしら・・・?とかは、その時は思えませんでしたが、
子供がもう少し大きくなるまでは私はそばで見守りたいと思いました。

実は、その少年を助けた後、
今度は木に挟まって動けなくなっている成人男性に遭遇しました。
お連れの彼女が下の方まで滑って行っていたので、
おせっかいとは思いつつ素通りすることができずに声を掛けました。
でもその男性は自力で脱出されました。
それこそ、彼女も見ている前で余計なことをしたなあと、
ちょっとへこみましたが、
きっとこれからも声をかけるんです、私。

はあ~、なんておせっかいな私。

[Okei]

おきくさんを偲んで

9月に、長崎の浦上村のキリシタン一家が、一家離散で迫害を受けたうえ、
身重の妻・おきくが難産の末に命を落としたというエピソード
を書いたところ、
この話は富山の人でも知らない方が多かったらしく、
もっと詳しく書けと、いろいろとお問い合せをいただきました。

このきくという女性は、富山藩に預けられた浦上キリシタンたちのなかで、
一種のアイコンになっている存在です。

明治2年12月5日、肥前浦上村(現長崎市浦上地区)、
「浦上四番崩れ」と呼ばれる、
日本宗教史上でも特筆されるべき“隠れキリシタン弾圧”が始まりました。
詮議は村民すべてに行われ、詮議中に棄教を表明した者を除く3416名が、
続々と捕縛されて流罪に処されたといいます。

重次郎一家(重次郎 35歳、妻・きく 33歳、長女・さき 15歳、次女・とめ 4歳)は、
同年12月8日、長崎大波止桟橋を出港し、
大阪からは徒歩で、厳冬の北陸路に難渋しながら、
明治3年2月21日、富山藩に到着し、
大熊村の「経力の湯」と大久保村の「合田の湯」に入りました。

温泉と言っても、湯治ではないので、楽しくはありません。
信徒たちは、長崎を出る際に既に殉教を覚悟していたので、
曳き立てられた時点で、どこかに連行されて殺されるものだと思っていたようです。
従って、温泉に家族と一緒に収容されていても、
死刑執行を待つような身で、祈るしかない状態だっただろうと思います。
よくパニックにならなかったなと思いますが、それが信仰の力なのでしょう。

温泉に収容していたキリシタンたちが、一向に説得に応じないので、
焦った富山藩は明治3年4月28日、意図的に家族を離れ離れにし、
15歳以上のキリシタンに鉄の喉輪を嵌めて浄土真宗29寺院に配属しました。
5月1日、きくと、4歳の次女トメが、
西光寺という寺(富山市婦中町長沢)に預けられました。

西光寺

これより前の4月10日に、15歳だった長女のサキは一人で他の寺に送られ、
5月28日には夫の重次郎が楽入寺という別の寺へ移送されました。
もはやこの時点で臨月のきくでしたが、家族バラバラになったわけです。

きくは5月末が出産予定でしたが、
それを過ぎてもまだ出産しないのを耳にした重次郎は、
妻を案じ、介抱のために西光寺を訪れたい旨を申し出ましたが、
そんなことが許されるはずがありません。
私は、こんな卑劣なことを考えた役人に対して、
腹が立つという言葉では足りない思いがするのですが、
役人は重次郎に、改心して真宗門徒になれば、首輪を外してやろう、
家族の面会を許し、仕事も与え、帰郷にも配慮すると囁きました。
重次郎は、浦上では指導的というか、中心的な信者だったようですが、
この……家族の面会を許し……にグラっときたのでしょう、
6月の初めに改宗の届けを提出し、きくが伏せる西光寺に赴きました。

信仰を捨てることと引き換えに妻を見舞うことができた重次郎でしたが、
きくは間もなく産気づき、難産の末、母子共に死亡しました。
西光寺で死亡したきくは、村の火葬場で焼かれ、その片隅に埋葬されました。

その後、きくを哀れに思った地元民によって、山中に供養のための地蔵尊が建てられました。
行ってみましょう。

きくの塚 入口 きくの塚 アプローチ

蚊の猛攻に遭いながら数百メートルも登ると、
天頂部に十字架のついた祠が見えてきます。
火葬場に埋葬されているので、ここは「墓」ではありませんが、
小高くなっているところを見ると、遺灰か何か埋めたんでしょうか。

きくの塚 きくの塚 近影

祠が開いているというのもシュールなもんです。私が開けたわけではありません。
覗いてみると、2体の像。
右に地元の人が建てたという地蔵尊、左にカトリック教会によるマリア像。

きくの塚 内部

怖いですねぇ。
ちょっと画像が暗いですが、これに照明を当てる勇気のない私、勘弁してください。

この2体の像、賛否あると思いますが、私は強い違和感を感じます。
だって、きくはキリシタンで、地蔵なんて信仰していなかったわけですから、
供養するならマリア像だけで充分なんです。
浄土真宗に帰依する地元民の気持ちも分からなくはないけれど、
「関係ないのを勝手に混ぜんなよ」という気持ちになります。

さて、キリスト教を捨て、晴れてキクに会えたものの、
一週間ほどで妻子を亡くすこととなった重次郎。
気の毒でなりません。
妻を亡くしてしまってはキリスト教を捨てた意味もないので、
まもなく彼は、改心戻しをしたいとの願書を出し、キリスト教徒に復帰しました。
それから3年後の明治6年、政府はキリスト教禁制をやめたので、
重次郎らキリスト教徒は釈放され、長崎に戻って行きました……。
……新しい奥さんとその間に生まれた子供と一緒に!
どうも、重次郎は、きくが亡くなった後、
合寺令で1箇所に押し込められているときにヌイという女性と恋に落ちたようで、
あっという間に再婚し、ツネという娘が生まれたようです。

え~・・・
いや、私も、そう模範的な生き方をしているわけではありませんが……。
長崎から遠く離れた富山の山中に置き去られたおきく。
かわいそうでなりません、よね。

[SE;KICHI]

こだま

昔話ですが、幼い頃、私の祖父が一枚の写真を見せてくれました。

モノクロ写真で、そこには当時の熱海駅ホームで、
0系東海道新幹線「こだま」と一緒に映る祖父がいました。
私は前にもお話した通り鉄道が大好きで、
なかんずく国鉄カラーの在来線L特急が好きでしたので、
「こだま」と聞くと、
有名な0系より、それ以前に走っていた国内初の特急電車151系の、
ボンネット車両を思い出して興奮するド変態な少年でありました。
なので見た瞬間少しだけ残念に思ったのを覚えています・・・
(決して新幹線も嫌いでは無いのです。ただ懐古趣味と言いますか、古いのが好きです。)

新旧こだま
https://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/20256548.html

話が大きくずれましたが、何を言いたいのかと言いますと、
祖父が写真が撮られた頃の話をしてくれたことです。

その写真が撮られたのは1964年(昭和39年)12月とのこと。
今まさに大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でも注目されている、
最初の東京オリンピックが開催された年ですね。
新幹線開業は10月1日(在来線9月30日廃止)で、
オリンピックが10月10日開催でしたから、なんとタイムリーなことでしょうか。

当時すでに伯父や母が生まれて2歳になる頃ですので、
新婚旅行ではなく会社の旅行か何かであったと思います。
祖父は、熱気があふれる東京オリンピックと、
高度経済成長期を身近で感じて生きてきた世代の1人でありますが、
この時代、日本は活気に満ち溢れていた時代と言っていました。

オリンピックそのものは、正直東京ではなく富山に住んでいたこともあり、
テレビで見る東洋の魔女とか、ウルトラCとか、
そういったところからしか見えないところもあったそうですので、
あまり息吹は感じなかったそうですが、
景気も良く社会全体の生活文化が、
みるみる向上していくことを実感できた
のだと。
またそれが仕事を頑張るための原動力となり、
貧しかったけど楽しかったとも語っていました。
そして何より今ほど物は豊かではないけども、
それ以上に心が豊かな時代であったと。

今でこそ凄惨な事件が起きたり、親戚付き合いがなくなったり、
自分さえ良ければいいから他人は関係ないとか、
それこそ人と人の繋がりが薄い時代になったと言われていたりしますが、
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でないですが、
助け合って、また気兼ねなく相談できる生きやすい時代であったのだそうです。
そう祖父は懐かしそうに目を細めながら、
自分なりのオリンピックの話を語ってくれたと記憶しています。

私の両親も子供の頃をこの時代で過ごしてきましたので、
あの頃はよかったとか昔話することもあり、
ともすれば今の時代を嘆いているようにも聞こえますが、
今の時代、皆が忘れてしまった大事なことを、
見直すヒントがあるのかもしれないと、祖父の話を思い出して感じました。

来年2020年には2回目の東京オリンピックが再び日本で開催されます。
(私は以前書きましたようにラグビー経験者ですので、どちらかと言えば今年日本で9月に開幕するラグビーワールドカップ2019年大会の方が関心ありますが。)

もちろんスポーツを通しての平和の祭典として、
大いにアツく燃えあがることは間違いないでしょうし、
選手たちもアツい戦いを見せてくれるでしょう。
でもどうせなら、ただお祭り騒ぎのイベントにするのではなく、
前回のことも振り返る機会も多いでしょう、その時代あった良いものを学び、
今の現代社会に反映させていく、良い機会にしていくべきだとも思います。

ちなみにですが、ここ数年祖父は老人ホームの施設に入っていて、
そこでテレビをたまにしか見ることはできないのですが、
再び開催が決まったあの時、
まさか自分が生きている間にもう一度オリンピックを見ることができるかもしれないと、
感激して涙ぐんでいました。
もう90歳近くですがまだ死ねないとも・・・(笑)

祖父だけではないでしょうが、
(「いだてん」の副題を借りて)みんなそれぞれのオリンピック噺があるのだと思いました。

・・・タイトルあまり関係ありませんでしたね。(笑)

[K.K]
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Author:kkseishin
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〒950-1142
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TEL:(025)283-5311
FAX:(025)283-7469



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